第十一話 午後三時 フローラ

 取材前の事前調査で「クラウス王家に三人の後継者がいる」ことは分かっていました。

 上から順に、第一王女がゲルトルート・クラウスさん。

 空港でお会いした検疫官兼出入国管理官(で、首筋フェチかつ予防接種フェチ)のお姉様です。

 次が、第一王子であるアルバート・クラウスさん。

 今回の取材対象です。

 そして、第二王女であるロッテ・クラウスさん。

 彼女は目の前で、エプロンを着て穏やかに笑っています。

 お兄さんと同じく金髪に碧眼ですが、気取ったところがなくとても率直で親しみやすい方でした。

 いきなり私に対して、

「王家なのに、あまりにカジュアルすぎて驚かれたのではありませんか? 兄は特にそうなので、大変申し訳ございませんでした」

 と頭を下げられたので、こちらが恐縮したぐらいです。

「いえいえ、記者としては非常に取材がやりやすくてよかったです」

「そう言って頂けると嬉しいです」

 そう言いながら微笑む彼女に、私はとても好意を持ちました。

 そして、女王様もそうですが、王女様も少しだけ手が荒れています。

 お仕事の日頃の大変さが忍ばれました。

 一般公開されている国家予算の使途明細に「王家を維持するための費用」がまったく計上されていないことは気が付いておりましたが、これでやっと王家の実際の暮らしぶりが分かりました。

 となると、どうして「立憲君主制」をとっているのでしょう。

 この星の「過去の経緯」は事前にリサーチ済みですから、立憲君主制をとるに至った経緯は理解しております。

 しかし、今現在の王家の位置付けが分かりません。

 とても庶民的な王女様と話をしながら、そんなことをぼんやり考えていますと、アルバートが急に思いついたように、

「観光地ではないのですが、是非ご案内したい場所があるんです。首都から少し離れることになるけれど、構わないでしょうか」

 と言い出しました。

「私のほうは全然構いませんが、王子こそ公務は宜しいのですか」

 と尋ねますと、女王様が苦笑しながら答えてくれました。

「この星の王様は通常時の公務が『案内係』ですから、全然気にしなくていいんですよ」

 余計に、王様および王家の位置付けが分からなくなります。


 *


 さて、レストランを出ますと、すぐ目の前にあるステーションに移動します。

 乗り合いポッドはすぐやってきましたが、私たちの他に乗客はおりませんでした。

 ポッドは市街地をノンストップで移動していきます。

 街並みに特色はなく、他の星とそう変わりない風景が続きます。私は平凡な車窓に、すっかり気を抜いておりました。

 ところが、ステーションから出て二十分経過した後、ポッドは急に何もない草原地帯に飛び出しました。

 女王様のレストランは首都の中心部にあり、汎用品のポッドは地上十メートルを時速六十キロ程度で巡航しますから、首都の半径は約二十キロということになります。

 上空から見た時も確かにその程度でしたが、あまりに唐突な変化を目の当たりにして私は驚きました。

「あの、ここからはずっとこんな具合なのでしょうか?」

「そうですよ。ああ、そういえば他の星からいらした方は同じように驚かれますね。この星では人間の居住地域が限定されていて、三か所しかないんです」

「三か所――ですか?」

「そうです。首都、大学地区、そしてこれから訪問する『ひかり園』の三か所です」

「えっと、人口は公表数値で一億人だったと思いますが」

「正確には、本日朝七時の時点で一億三百三人ですね。結構増えたなあ」

 王子は感慨深げにそう語る。

「その一億三百三人の方が、三か所にまとまって住んでいるということですか?」

「はい。首都には九千九百九十九万七千九百三十五人、大学地区に二千三人、残る三百六十五人が『ひかり園』に住んでいます」

「はあ――」

 細かい数字がすらすらと出てくることに感心しました。

 いったいどれだけの量の基本的な数値を、常に頭に叩き込んでいるのでしょうか。

 王子は、日々の苦労をまったく感じさせない楽しそうな顔で、窓の外を流れる風景を眺めています。


 *


 首都からポッドで移動すること、四十分。

 つまり、首都中心部から四十キロ離れたところで、ひたすら続いていた緑色の草原地帯が途切れ、今度も唐突に青い海が視界に飛び込んできました。

 ポッドが移動しているところは海辺の崖の上でしたが、眼下にそこだけ刳り抜いたような美しい半円形の浜辺が見えます。

 そして、進行方向の崖の上、浜を見下ろす高台に白い建物が見えてきました。

 その建物がL&L大学と並んでこの惑星特有の施設である、被虐待HIM養護施設『ひかり園』です。

 最も古いHIM養護施設であり、『AM法』と呼ばれる治療スキームの研究機関として、最近は専門家の中で高い評価を得ています。

 事前の下調べでそこまではチェックしておりましたが、まさか実際に訪問することになろうとは思ってもいませんでした。


 *


「共同通信社の記者さんですか。いやあ、なんだか緊張するなあ」

 私たちを出迎えたトマス園長は、全体的に丸みを帯びた風貌の五十代男性でした。

 頭部は見事に禿げ上がっているのですが、髭と眉毛だけがそれに反してふさふさしています。

 そのアンバランスさが、彼に「ユーモラスで親しみやすい」印象を与えていました。

 私の素性を聞きながら豪快に大きな声で笑う姿が、とても印象的です。

「園長。そんな大きな声を出すと、フローラさんのほうが緊張しますよ」

 一方、エリス副園長は背の高いすらりとした三十代後半の女性でした。

 AM法の研究者とのことでしたが、むしろ豪快すぎる園長を抑えるための猛獣使いのようです。

 奔放な園長の言動をたしなめる副園長――しかし、その際に交わされる会話の端々から、お二人の間にある強い信頼関係を窺い知ることができるのでした。

「ひかり園に入居している子供たちは、現時点でちょうど三百名です。正式な職員が六十名ですから、職員一名に対して子供たちが五名ですね」

 園長は廊下を歩きながら、さっそく施設の概要について説明を始めました。

「他に住み込みのボランティアが五名おり、合計で三百六十五名がここで暮らしております。それに短期滞在の研究者が十二名ほどおります」

 施設の入口からすぐのところは、事務や研究を行うための区域に割り当てられているらしく、廊下の両側に広がる室内には事務員や研究者らしき人の姿が見えます。

「園の収容能力は三百六十名ですから、今は数的には多少の余裕があります。ただ、職員の業務量は人数とはリンクしませんし、むしろ十分なケアを要する子供が増えていますから、今が適正でしょう」


 *


 科学技術には、明るい面と暗い面がついて回る。

 HIMというテクノロジーは「先天的な障害を持つ子供たちの機能を補填すること」を目的として生み出された。

 そして、当初から乱用に対する懸念があったため、国家機関への許可申請を義務として「機能を機械的に補填する」ことが認められた。

 この正式な申請手続きに則って生み出された者を『正規HIM』と呼ぶ。

 ところが、過去の科学技術と同様に、ここに闇が取りついた。

 人身売買によって機能に問題があるかどうかに関わらず子供を手に入れ、機械的機能補填を施すビジネスが生み出されて、劣悪な環境下で子供たちが次々に機械に接続されていった。

 これによって生み出された者を『非正規HIM』と呼ぶ。

 接続時の劣悪な環境に汚染されて死亡する子供は、全体の約五パーセントと言われている。

 無事に機械的機能補填を終えた子供には基本知識のインストールが行われるが、その際の無謀な詰め込みにより精神に変調をきたす子供が、さらに全体の五パーセントと言われている。

 それも無事乗り越えた者がHIMシップとなって、宇宙港での作業を取り仕切る企業に売却されていた。

 非正規HIMは規制対象であるから、見つかれば製造した業者は当然逮捕される。

 しかし、供給元は後を絶たなかった。

 HIMシップにされてしまった子供に罪はないから、正規であろうが非正規であろうが保護された後は関係がなくなる。そして非正規の場合は行先もないから、そのまま継続勤務を希望するものがほとんどである。

 従って、企業の中には非正規と知っていながら「正規という触れ込みに騙された」と偽って、導入時のコストが安い非正規HIMをすすんで求める風潮すらあった。


 *


「おっと、ここから先はちょっとだけ注意して頂けますか」

 途中で、先程まで豪快だった園長の声から豪快さが消え、変わりに年長者としての厚みと懐の深さを感じさせるものに切り替わります。

 私も気がつきました。

 先程までの豪快さは「傷が癒え始めた子供たちに悲惨な過去を思い出させない」ための配慮でしょう。

 そして、これから向かうところは「まだ傷の癒えない子供たちのいるところ」に違いありません。

 それで、私はちょっと身構えてしまいました。

「だからといって、そんなに堅くならなくても大丈夫ですよ」

 その様子を見て、園長は私の緊張を和らげるように言いました。

「虐待を受けたHIMは、外部刺激に対するセンサーが敏感になっていることが多いので、強い刺激となる行為を出来る限り避けてもらえれば、それでいいですから」

 そう言いながら、園長はある部屋のドアを静かに開けます。

 そこは、物が殆ど置かれていない、こじんまりとした部屋でした。

 部屋の真ん中に、抽出された生体部分を収める『殻』に、情報のやりとりと移動に必要なユニットだけを接続したHIMがおり、十代半ばと思われる「少女」の回りをよちよちと歩いていました。

 大きさからして大脳のみを収める最小の『殻』です。

 私は出来る限りゆっくりと腰を下ろし、ユニットの視覚領域と高さを揃えます。

 そして、HIMの子供が私に声をかけようとするまでは、黙って見ていることにしました。


 *


 HIMシップの構造はきわめてシンプルである。

 最少のユニットは、本人の身体を格納している『殻』と呼ばれる容器であり、全身をそのまま収容している場合もあれば、大脳だけを抽出している場合もある。

 その他のユニットは基本的に汎用品であり、故障した場合は修理ではなく交換となる。

 特殊品を付けることは可能だが、故障した時に「交換可能なユニットが存在しない」などの大騒ぎになりかねないため、よほど特殊な用途の船舶でなければやらない。

 また、虚数空間航法ユニットや大気圏突入などの非定常運用ユニットについても、全ての船体に最初から組み込むのはコストがかかる。

 HIMシップは大気圏突入が十分可能な構造になっており、実際に緊急時に行なわれることがある。

 しかし、通常運用で大気圏突入というのは、燃料コストを考えると無意味だ。

 虚数空間門や軌道エレベーターという公共サービスを利用したほうが、はるかに安上がりである。

 また、摩擦を考えなくてもよい宇宙空間で最も燃料を必要とするのは「出航時の加速」だが、これも宇宙港のカタパルトサービスを利用したほうが効率的である。

 軍のように「激しい単独運用が想定されるために全機能を船舶単体に保有し、常時最大推進を前提としている」船舶もあるが、それ以外のHIMシップは通常宇宙空間航行に必要な推進ユニットしか搭載されていないことが多かった。

 推進力も「カタパルトがない時の発進と停止、方向修正や姿勢制御、緊急回避」に限定して使用されるから、燃料はさほど必要はない。

 星系内であれば航路上に補給施設が設置されているから、「念のため多めに積み込む」必要もない。

 そして、長距離移動の場合は、汎用品のメリットを生かしてタンクそのものを入れ替えればよいのだ。

 そうやって必要なユニットが絞られてゆき、次第にHIMシップの小型化が進んで、現在では基本ユニットだけの構成であれば「縦五メートル、横二メートル」もいらなかった。

 ところで、大気圏突入しないHIMシップは通常どこにいるのか。

 宇宙港のある衛星軌道は、微弱といえども重力の影響を受けるから、姿勢制御のためにバーニアを多様することになる。

 かといって軌道から遠く離れた場所は不便だ。

 結果として重力の及ばないギリギリの地点に、各社所有のドックやHIMシップが屯するための休憩施設、修理ドックが設置されることになる。

 また、ある程度の金があれば人型の擬態を手に入れることが出来る。それを無線で制御して惑星に降下したり、脳を擬体に格納して移動することも可能である。

 ただ、恐ろしく高価なので、非正規HIMには全く無縁な話だった。


 *


 足取りの覚束ないHIMは時折倒れそうになるのですが、それを少女が柔らかく受け止めて、また立ち上がらせては、よちよちと歩き回らせています。

「あの子は一週間前に、まったく身動きをしない状態でここに運ばれてきました。まさしく、運ばれるという表現が残酷なまでに当てはまっていました」

 副園長が私の耳元で囁きます。

「それを、アルバート王子とあそこにいるマリオンが、探索行動を見せるところまで支援したのです」

「王子が、ですか?」

「そう、王子が。普通は驚きますよね。一国の王子様が養護施設でボランティアというのは」

 園長もお話に加わります。

「たまに視察に来るぐらいなら、まあ、あるかもしれませんがね。ほぼ毎日顔を出しますし、率先して溜まっている作業やら児童の世話をやっています」

「あ、ということは、ここで研究しているAM法ですが――」

「気がつかれましたか。そう、AM法はアルバートとマリオンが手がけた事例から生み出されたのです」


 *


 HIMシップは高い機動性を誇り、数多くの感覚器によって生身の人間では知ることのできない世界を知ることが出来る。

 しかし、その代償として接続がすべて断たれてしまうと極めて脆い。

 それまでの全能感が、容易く虚無感へと置き換わってしまう。

 その対策として、HIMシップとなる子供たちは正規・非正規を問わず、生後六歳六ヶ月六日を経過したところで、必ずこの全感覚遮断を四分三十三秒間経験することになっている。

 これは、事前に経験することで多少なりとも恐怖を和らげることが目的であり、「自分は万能ではない」という認識と世界に対する畏怖を与えるための通過儀礼である。

 生後六歳六ヶ月六日という年齢に大きな意味はない。多少前後してもまったく問題はない。

 もともとこの年齢が選ばれたのは、初期の技術者の一人が「新しいことをはじめるのに最適な年齢」として、自身の文化圏で古くから伝承されている伝説を引用したためである。

 一方、四分三十三秒には大きな意味がある。この時間は厳密に守られなければならない。

 理論的な裏づけはいまだ見つかってはいないものの、経験的にこれ以上感覚を遮断を続けると、重大な精神的外傷を受けることになるのだ。

 この施設に入居している子供たちの中でも、この全間隔遮断のミスによって精神的外傷を受けた子供が最も多い。そして、次に多いのが『閾値拡張』だ。

 人間の能力の限界を超える方法はいくつかあるが、おのおの限界もある。

 生身のままでも薬物を使えば、常人の能力の二倍程度までは強化可能だ。

 それを超えるためには脆弱な肉体を機械に置き換えることになるが、それで常人の三倍ぐらいの能力を獲得することができる。オリンピックの薬物強化部門および機械化部門のワールドレコードが、それを証明している。(この時代のオリンピックは、企業の新製品発表会にすぎない)

 カタログ上のスペックだけなら、さらに上の能力を実装することは可能である。

 実際、汎用品のユニットも「緊急時の使用」を想定して、機器そのものの安全性が保証できる限界まで機能を発揮できるように設計した上で、リミッターをかけているのだ。マニア品質の非合法部品に至っては安全性度外視である。販売されている非合法部品の中には化け物じみたスペックのやつがゴロゴロしているが、それを実装する者は少ない。

 なぜなら、実装したところで制御できないからだ。

 システムで分散処理と先読み並行処理(可能性がありそうな処理すべてを並行で走らせて、最適なものを選択する処理)のサポートを受けたとしても、最終的な判断は人間の脳で行われる。その処理能力が「常人の能力の四倍を超える」ことは、普通はない。

 この「四倍」という数字は定性的なものなので、厳密に測ればもう少し発揮できるのかもしれないが、十倍ということはありえない。

 また、HIMの大脳に接続されるシステムは、HIMの脳に負担をかけないように処理を上限値以内に最適化するようになっている。そうでなければ、単純作業にシステムの最大能力が発揮されることになるので、むしろ非効率なのだ。

 この「HIMの脳に負担をかけないための上限値」は経験によって随時更新されるため、熟練すればするほど数値が高くなるし、細やかになる。

 ところが、違法機器を使って限界以上の能力を発揮してしまうと、この上限値が脳の許容範囲を大幅に超えてしまった先まで拡張されることになる。これを『閾値拡張』という。

 運動能力でいえば、レース用の車両で農作業に従事するようなものである。

 高すぎる能力で単純作業を行なうことは極めて難しい。カタログ上の能力限界を実際に発揮してしまった者は、日常生活が非日常なまでに困難になるので、たいていが動けなくなって施設に入ることになる。


 *


 園長が語ったのは、私が「ひかり園」を訪れた日から三年ほど前の出来事でした。


 当時まだ十五歳だった王子とマリオンは、養護施設の手伝いを始めたばかりで、園のスタッフから指示を受けながらボランティアを行なっていましたが、丁寧な仕事ぶりから信頼されていました。

 それに、職員よりも年齢がHIMに近いこともあって、児童たちはよく懐いたそうです。

 もともと社交的な性格の子供たちには、アルバートが元気で楽しいお兄さん役で接します。

 控え目でおとなしい子供たちには、マリオンが穏やかで優しいお姉さん役で接します。

 それぞれが分担しながら子供たちの心の支えとなるやり方は、誰が指示や指導したものでもなく、二人の間で自然に出来上がったものでした。


 その頃、園で保護されていた子供たちの中に、ニキーチンというとりわけ扱いの難しい子がいました。


 生まれた直後から放置、罵声、体罰その他という虐待の全パターンを両親から受けた上で、その行為に飽きた両親から五才になる時点で非合法のHIM業者に引き渡されました。

 親の愛情や庇護を知ることなく、虐待の痕跡を消すために大脳のみ抽出されて、ニキーチンは機械的機能補填を受けました。基本的なインストールによって、作業をこなすための技術を詰め込まれましたが、心は空虚なままでした。作業ユニットとして販売されて、劣悪な作業環境の元で研修という名の実労働を粛々とこなし、事業に行き詰った事業主に売却されて持ち主が転々と変わります。

 そして、六歳六ヶ月六日目と推定される日に四分三十三秒の全感覚遮断を経験しましたが、担当者のミスで三秒ほど長い遮断が行われて、彼はこの園にやってくることになったのです。

 彼の境遇からすると仕方のないことですが、最初、彼は周囲の出来事に何の反応も示しませんでした。指示されたことは行います。しかし、指示されなければまったく何もしようとしません。作業はただの「プログラムに従った行動」に過ぎず、彼自身はそこにはいなかったのです。

 自発的な行動を引き出そうと、職員たちが様々な手法を試みますが、うまくいきません。

 生後から培われた環境に対する恐怖。何かをすればするほど激しくなる虐待。そこに全間隔遮断のミスが重なって、彼の自我は完全に引きこもっているものと考えられました。

 職員がどんなに手を尽くしても外界との関係を持とうとしないニキーチンに、万策尽きかけていた時のことです。

 アルバート王子とマリオンが変わった行動を見せました。

 園長に事前に相談して了解を得ると、二人はニキーチンを柔らかい布で包みました。

 それをマリオンが上着の中、ちょうど女性の子宮にあたるところに入れます。

 王子はその仮想子宮を撫でたり、優しく敲いたり、口を寄せて声をかけたりします。

 それを、二人は施設に泊まり込んで、一日中集中して続けたのです。

 マリオンはニキーチンの『殻』をお腹に抱えながら、普段の生活を続けます。

 アルバート王子はそれをサポートしながら、時折優しくお腹を刺激します。

 寝る時には、二人は『殻』を守る様に挟み込んで眠りました。

 それを続けて一週間が経過したところで――


 マリオンはやっとニキーチンを上着から出しました。


 アルバート王子とマリオンが優しく見つめる中、ニキーチンは覚束ない足取りで立ち上がります。

 そうして、二人のほうに向かって歩き始めました。

 自分の前にある世界を確かめるように、覚束ない足取りで一歩ずつ。

 その場に居合わせた園長はこう思ったそうです。

(まるで、生まれたての赤ちゃんが親に向かうような動きだ――)

 王子とマリオンも確信があってやった訳ではなく、二人で話し合っているうちに、

「最初からやり直してみたらどうだろうか」

 ということに自然となり、それを園長に話して許可を得たそうです。

「ただ、そこまで時間をかけて念入りにやるとは思っていなかった」

 と、園長は苦笑していました。

 この時の彼らの行動は副園長により記録されており、それが「AM法」という支援メソッドにまとめられました。このメソッドは、有効であることを認める学者が多い一方で、支援者にかなりの負担がかかるための実践となるとなかなか簡単には普及していないのが現状です。


 さて、改めて誕生したニキーチンは、実際の乳幼児よりも遥かに短い期間で成長していきました。

 過去の過酷な経験から問題行動を起こすことも多々ありましたが、その都度、王子とマリオンがあたかも実際の親のように、宥め、抱き、時には穏やかながら厳格に教え諭し、その成長を支援しました。

 彼は現在十歳。

 HIMは、機械的機能補填と基本のインストールが完了した時点で、成人と同じ程度の作業が可能になりますが、法的には「未成年」として保護されています。

 そして、六歳六か月六日の全間隔遮断以降は、成人として扱われます。

 過去の経緯やその後の出来事から、さまざまな問題をいまだに抱えているものの、彼は一人の労働者として働いているそうです。

 そして、かれにとってはアルバート王子が実の父、マリオンが実の母なのでした。


 *


 マリオンは、黒くて癖のない髪を肩の上で切り揃え、前髪を眉のあたりで切り揃えていました。

 二重瞼の下の瞳は黒。それがとても穏やかに笑っています。

 一切化粧をしていないと思われる肌は透き通る様に白く、唇の健康的な赤さが引き立てられていました。

 王子がゆっくりと部屋を回り込んで、マリオンの隣に移動していきます。

 マリオンは顔をあげて、穏やかな笑顔を浮かべて王子を見つめます。

 HIMは王子のほうによちよちと歩いてゆきます。

「やあ、エマーソン。今日も元気だね」

 そう言いながら殻を抱き上げる王子は、確かに父親のようで――


 私の胸が痛みました。


 これは私の個人的な問題によるものです。

(自分にもそのような穏やかな時間を過ごした経験があるのだろうか)

 と考えてしまったからでした。

 私は虐待された訳ではありません。

 親の愛情を感じたことがない訳でもありません。

 ただ、両親は非常に多忙でしたから、なかなか会うことができませんでした。そしてそれは「仕事上、仕方のないことだ」と、自分も十分に納得していたはずでした。

 それでも、目の前の「被虐待児を仮想の親子関係で支援するメソッド」が、とても羨ましく思えてしまい、そのことに改めて気づいた私はひどく動揺しました。

 恐らく、そのことが伝わったのでしょう。

 副園長が両方の肩に手を添えて、後ろから包み込むように身を寄せて、耳元で囁きました。

「そろそろお茶になさいませんか?」

 私は小さく頷きます。

 動揺していることがHIMの子供に伝わらないように、声は出しませんでした。

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