第十話 午後六時 ハリソン教授
ゼミでの大学院生との議論が終わったハリソン教授は、研究室で寛いでいた。
授業中はマナー表示モードにしているスクリーンを通常表示モードに戻すと、擬似人格応対メッセージが着信していることが分かった。
*
恒星間通信を行う上で、時差の問題は避けて通ることができない。
リアルタイムの双方向通信では、どうしても二者間をメッセージが行き来するタイムラグが生じる。これは光の速さを超えられない以上、いかんともしがたい。虚数空間通信については、メッセージの情報量が小さすぎて、光通信よりもむしろ遅くなるため論外である。メールによる通信でも事情は同じであり、届くまでにかかる時間はどれだけ頑張っても光通信が最速だった。
もちろん、それでは対応できない場合が多々ある。そこで、解決策が求められていた。
時差の問題を解決するためには、どうしたらよいか。
会話する人の距離が離れていなければ良い。これは当然のことであるが、本人が物理的に近くまで行けないから通信を必要とするのであって、本末転倒である。ではどうするか。
本人が駄目なら『代理人』を派遣するしかあるまい。そして、その代理人は出来る限り本人の思考パターンを模倣して、正確に代弁できる者である必要がある。
こうして、擬似人格プログラムを代理人として必要なメッセージをやり取りすることが検討された。
初期の擬似人格プログラムは本人の再現精度が低く、事後に発信者同士が直接会話すると、擬似人格による会話とは結果がずれることが往々にしてあった。妻との離婚条件について通信するはずが、戻った会話記録は、「よりを戻す」という結果になっていることもあった。なお、このケースでは発信者が自身の隠されていた感情に気がつき、実際によりを戻すことになったが、逆の場合もある。
長年の試行錯誤が続き、感情表現に関するパラメータに二者間の心理的距離や情報秘匿強度指数が厳密に適用されるようになると、本人の感情再現性が飛躍的に向上し始めた。さらに、日常会話を下敷きにした学習型擬似人格プログラムが登場すると、生後から記録することで三歳までには本人と殆ど変わらない人格特性を持つ、擬似人格プログラムを生成することができるようになる。
その精度は、擬似人格同士による会話の内容が、裁判の証拠資料として認められるまでになったことからも分かる。
*
さて、ハリソン教授は着信アイコンに視線を向けて、瞬きを二回する。
すると、七年前に大学を卒業して、現在は治安維持軍の物流部門で働いている男の、四角張った顔がスクリーンに表示された。軍の実務部門を志望する者は、昔から何故か分からないが骨太で体毛の多い者が多い。法則性、合理性はないが、経験上無視できない確率で、それが言える。
彼の顎の右側には、朝の髭剃りに失敗したらしい絆創膏が見えた。
「随分と古風な趣味だね」
教授が目ざとく指摘すると、
「ああ、こいつですか」
そう言って彼は恥ずかしそうに絆創膏に触れた。
「嫁さんが、ライブラリーの映像アーカイブから見つけてきた大昔の映画に、髭を剃るシーンがありましてね。それが何だか格好いいので、実際にやってみてくれないか、とせがまれまして。髭を剃る道具やら、絆創膏やらを探すのは大変でした」
「そんなものをいまだに作っている会社があるとはね」
「髭剃りの道具については、愛好者の団体がありまして、そこで細々と流通しているようです。絆創膏については流石に製造されていないので、再現業者に依頼して単品で再現してもらいました」
「そこまで拘る必要があるのかね」
「まあ、なりゆきです」
物流担当者というのは、些細な点にもリアルさを求める癖がある。
とことん頭が現実向きに出来ているに違いない。
「ところで、用件はなにかね」
「おっと、そうでした」
彼は急に居住まいを正した。擬似人格ではあるが、この辺の実直さは実に『軍の担当者』らしい。
「本日の午後十八時、そちらに私の妻からの菓子が届くと思います」
「菓子?」
「そうです、菓子です。妻はフォーチュン・クッキーと呼んでいました」
彼は胸を張る。
「それで、教授にはこちらのほうを」
画面上の彼は一枚の紙をかかげて、そこにかかれた文字を指差した。
そして、それをすぐに伏せる。その間の経過時間は二秒に満たない。
「お分かり頂けましたでしょうか?」
「了解した。まあ、研究室の学生とお茶でも頂くことにしようか」
「楽しいお茶会になると宜しいですね」
「君がそんなことを言うのはおかしいがね」
「あはは、確かにその通りですな。それでは私は公務がありますので」
「また連絡をくれたまえ」
「了解しました」
擬似人格通信に都合も何もあるはずはない。
しかし、いかにも彼らしい切り上げ時の口上である。教授は苦笑しながら表示を最小化した。
と同時に、ドアがノックされる。
「どうぞ」
と一言、ハリソン教授が応答すると、ドアを静かに開けながら秘書のマリア・ササキ嬢が入ってきた。
彼女は手に、民間クーリエのロゴが入った、しかも経由地の着信・発信タグが無数に貼られた箱を持っている。
「あの、教授――」
「ああ、有難う。それではお茶の時間にしようじゃないか」
マリア嬢の当惑した表情を見ながら、ハリソン教授は立ち上がった。
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