七月二日

第五話 午後六時 フローラ

 IPPでの待機時間が過ぎれば、次は軌道エレベータで惑星の大気圏内まで降下する番です。

 一般的なIPPは、軌道エレベータを軸として水平方向に回転しています。重力はその回転方向に垂直に生じますから、IPP上にいると常に一定方向に惑星が見えていることになり、肉眼で首都の街並みを確認することも可能ですが、遠心力酔いを避けるために処理された映像で見るのが普通です。

 私は、惑星の自転により首都がちょうど昼になる時間に、ホテルの部屋の回線からリアルタイム画像ライブラリに接続しました。例のごとく、頭上からの画面切り替えの後で、私は惑星を見下ろしていました。

 初期のIPPは、軌道上での安定性を考えて赤道付近に位置していることが殆どでしたが、技術の進展につれて首都へのアクセスを優先してその真上か、あるいは多少ずらして衛星軌道に静止させることが多くなりました。今では殆どが人口密集地帯の真上に位置しています。

 この惑星でもそのはずなのですが、IPPから見下ろしてみると人間が居住しているとは思えないぐらい緑にあふれていました。

 街並みは大陸の端、湾を丸く囲んで建設されています。普通ならば周辺にある中小の都市や、間をつなぐ幹線道路まで視界に入りそうなものですが、それがまったく見当たりません。視野のスクロールと拡大で確認しても、街の規模は想像していたものよりも遥かに小さく、惑星の公表人口である一億人が生活する空間としては、あまりにも狭すぎると思われました。

(後で直接、惑星の広報担当者に確認してみよう)

 私は、常時起動している思考記録ログにその疑問を放り込むと、惑星へ降下するために手荷物の整理を始めました。

 IPPは国際条約に基づき惑星上と同じ扱いを受けますが、星間連絡船から降りる際に出入国手続きを行なうのも煩雑ですし、検疫が完了していないと入国が許可されたとは言い難いため、通常は軌道エレベータの搭乗口前に出入国カウンタが設置されています。

 そこに、昨日検疫でお会いしたゲルトルートさんが立っていました。

 私の顔を見るなり目を輝かせます。それがなんだか「獲物を見つけた肉食獣」のそれに似ているような気がしました。

(もちろん、肉食獣に狙われたことがあるわけではありませんが)

「おお、麗しき首筋の方ではございませんか。またお会いできるとは真に光栄です」

「なんだか、喜んでいいのか悪いのか分からない微妙な褒め言葉ですね」

「そりゃあ、狂喜乱舞して頂くレベルですよ。あなたのような見事な曲線のうなじは、未だかつて拝見したことがありませんから」

「はあ」

 間の抜けた合いの手しか出ません。よりにもよってうなじを絶賛されるとは。

「さて、お仕事お仕事。旧式で申し訳ございませんが、そこの地面にかかれた四角い枠内に立っていただけますか」

「はい」

 私は素直に赤い枠の中に立ちました。途端に、

「認識しました。はい、ありがとうございます」

 とゲルトルート。

 このわずかな時間で、私の体に関するあらゆるバイタルサインの計測と、それによる汎用生体認証が完了したのでした。

 汎用生体認証は、指紋や網膜、掌の静脈など、個体のさまざまな個別特性を元に生活全般に亘る『本人認証』を行なうものです。

 これによって、個人は旅券や免許、資格証や許可証など個人に対して付与される資格の類いを携帯する必要がなくなりました。クレジット決済も行うことができるために、現金を持ち歩くこともなくなりました。


 *


 リアルな『貨幣』が用いられなくなってからかなりの年月が経過しました。

 ことの発端は、地球の一般人が火星に居住をすることになった時点です。火星上で適用する通貨をどうするのかを決めることになりましたが、初期の移住者は経済的に問題を抱えている場合が多く、集められるだけの地域通貨を現物で持ち込んでいました。そして、移住が始まったばかりの火星経済に、独自の通貨を生み出して保証するだけの余力がありません。だからといって特定地域のリアルな通貨で代替することは、ナショナリズムの問題もさることながら、通貨の発行や流通の問題がネックとなって、採用することができませんでした。なにしろ、紙幣や硬貨が日常的に流れ込むわけではありませんし、かといって勝手に発行することもできません。

 そこで捻り出された解決策が汎用通貨概念である「クレジット」でした。

 概念であり、当初は各国通貨との為替レートの中だけの存在でしたが、人類の居住空間が拡大するにつれて共通通貨としての性格を帯び始め、最終的にそれ自体が流通することになりました。一応、硬貨や紙幣も作られましたが、惑星内の地域経済に限定して使用されているにすぎません。

 それは、汎用生体認証技術の普及につれて電子決済が浸透したためです。

 汎用生体認証は、「複数恒星系連合(インター=ユニバース・アライアンス)、IUA」あるいは「単一恒星系政府ローカル・ガバメンタル・ユニット、LGU」と個人が結ぶ契約ですが、上位組織である「統合政府ザ・ガバメント」もこの契約を準用しております。個人情報は虚数空間配置型サーバのデータベースに格納され、全天で整備されています。そのため恒星系をまたいだ渡航の場合であっても、認証に不都合が出ることはほとんどありません。

 その点は便利ですが、位置情報や資産情報など、個人のプライバシーについてもすべて一括管理することになります。

 そのことへの同意を前提としない限り契約として成立しませんが、逆に同意しないと社会インフラの殆どが利用できません。社会インフラとして整備された交通機関や施設・装置は、汎用生体認証により所有権や決済を意識する必要なく利用することができます。一般企業もこのスキームでサービスを提供することが一般的(個人認証および信用・保証が確実)になっており、契約なしで生活することは困難です。また、汎用生体認証契約を締結し、個人情報を構成系連合の虚数コンピュータ(サーバ)で一括管理することで、研究開発情報などの知的所有権が恒星系連合(および統合政府)から保証されることになります。個人の情報端末で管理されていた情報は、所有権の証明が困難であり、基本的に保証されません。

 もちろん、特殊な信条に基づいて、汎用生体認証を拒否している人もいます。国家による個人情報の悪用および乱用を危惧する声も根強く残っています。しかし、過去の事例ではテロ計画首謀者が個人情報で捜査・逮捕に至った案件について、国家の個人情報乱用が問われ、莫大な懲罰的損害賠償がテロ首謀者に支払われました。リスクの観点から国家がその愚を冒すことはないと考えられています。

 恒星系連合がシステムを維持している理由は徴税権の問題から、個人の所在・所属・権利関係を明らかにする必要があるためです。本人が了解している場合は、国家が個人情報を利用することが許されています。そして、その人を追尾するのに、虚数コンピュータ(サーバ)の処理が割かれたとしても、処理上はまったく問題になりません。


 *


 軌道エレベータは、カーボンナノチューブ製のワイヤーをドーナツ状に取り囲む形をしています。こちらもポッド用と一般旅客用のエリアに分かれており、一般旅客者の席はワイヤー側を背にして、縦五列になっています。

 先に説明した通りIPPは回転しておりますが、軌道エレベータはワイヤーの安定性とその接点となる動力部の耐久性の観点から、回転させると面倒です。そのため、IPPとの接点はどうしても無重力状態となります。

 私が空間を漂いながらがエレベータに入りますと、入口付近の一番奥にある五番目のシートには星間連絡船から出る時にお会いした眼鏡のおばあさんが座って、本を読んでいました。

 紙の本は、古典を中心とした少数のラインナップではありますが、やはり趣味の品として流通しています。中には、外見は紙の本に見えるけれども、一枚一枚が薄膜ディスプレイになっていて、内容が入れ替えられるという複雑な仕様のものもあります。公共の場であれば一般的なインフラとしてホロ・ディスプレイが設置されておりますから、この手の個人端末を持ち歩く必要はありません。

 こちらの気配に気づいたのか、おばあさんはふと顔をあげると、あいかわらず人の良さそうな表情で会釈をしてくれました。私もにっこりと笑ってご挨拶しますと、その手前の三列目の席に座りました。

 しばらくすると、若い男性がやってきました。

 柔らかそうな長めの黒髪が顔にかかっており、その隙間から黒くて鋭い瞳が覗いていました。鼻筋がすっきりと通り、顎のラインもシャープで全体的に整った容姿ですが、ほとんど表情がありません。細身の割には靭やかな動きでした。全身黒尽くめで余裕のある服装で、そのまま私の前にある入口に一番近い一列目の席に座ります。

 軌道エレベータの着席位置については、後の乗り降りの便宜を考えて、なるべく出入口の近いところが好まれ、また、年齢によってやはり安心感の違いからか高齢者は奥のほうを好むと言われています。さらに、パーソナルスペースへの配慮から、混雑していない限り間は空けて座ることが多いのです。まさにその通りの展開に思わず苦笑してしまいました。

 降下中の注意事項がアナウンスされる中、私は前の男性の後頭部を眺めています。通関のゲルトルートさんの言葉が思い出されて、私はその男性の、細いけれども強靭そうなうなじのあたりを見つめてしまいました。しみ一つない白くてすべすべとした、とても美しいうなじでした。こちらのほうが彼女の趣味にはあいそうだと考えていると、降下の時間となり、頭部保護のためのシールドがせり上がってきます。男性の後頭部はその向こうに隠れてしまいました。

 IPPから切り離される軽い振動に、自由落下のふんわりと体が浮き上がります。続いて、シートベルトのアジャスタが機能して座席に押し付けられます。

 三人を乗せたエレベータは、滑らかに地表面に向けて降下を開始しました。

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