十年前

第四話

 一本の論文が闇に葬り去られた。

 発端は、成績不振による退学処分に怯えていた学生が、何でもいいから目新しいもので指導教授の関心を引こうと考えたことにある。

 その学生は、ライブラリを適当にめくって、ある辺境星系に原生している生物について学術論文がほとんどないことに気づいた。そこで、学術研究用に捕獲されて飼育されていたものの、誰も見向きもしていなかった個体の血液サンプルを入手し、その遺伝子配列および活性酵素の働きを検査した。

 その結果をまとめた修士論文には、執筆者自身が凡庸さゆえに重要性にまったく気が付かないまま記載したデータがあった。そして、その学生にまったく期待していなかった指導教授もそれに着目することはなかった。

 ここでいくつかの不幸な要因が重なる。

 一つ目。

 指導教授は懐古趣味があり、たまに論文を机上のリアルなディスプレイに表示して眺めることがあった。そうでなければ、作成したばかりの論文が学生と指導教授以外の第三者に閲覧されることはなかった。 

 二つ目。

 指導教授は昼食の時間になっていたことをすっかり失念しており、慌てて食堂に向かったためにディスプレイにはデータが表示されたままだった。また、食堂で同僚から呼び止められて、わずかに時間を費やしてしまった。

 三つ目。

 ちょうど昼過ぎに、政府機関に勤務しているOBが研究室を訪問することになっており、そのOBは数分前に研究室に到着した。教授室で待っている間、何気なくディスプレイ上に表示されたデータをそのOBが目にした。教授がまもなく戻ってきたため、それはほんの一瞬のことであった。

 四つ目。

 そのOBは極めて優秀であった。学生は遺伝子の検査を行う際の環境条件を一定にしておらず、さすがに気温や気圧などの基本的な数値は記述していたが、それが変数となっていることに気がついていなかった。OBはそのことに気づいて数値を一瞥し、環境要因がわずかに厳しくなると個々の遺伝子の活性酵素の活動もわずかに活発化していることに着目した。

 それだけのことである。

 しかし、それだけのことで一本の論文と二人の命が闇に葬り去られていた。

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