第三話 午前六時 ハリソン教授

 L&L(ロジック・アンド・ロジスティックス)大学のハリソン・クライスラー教授は、朝六時に起床する。

 顔を洗い、髭を剃り、歯を磨いて着替える。

 ここまでにきっちり一時間。その間に細君のアリスは、コーヒーとトーストとハムエッグを準備する。

 朝のニュースが音声のみ流れる中、やはり一時間かけて食事。コーヒーを二杯飲み、前日に準備しておいたブリーフケースと傘を抱えると、八時ちょうどに家の扉を開ける。

 大学までは徒歩で三十分。

 気象コントロールの恩恵により、都市部の雨は天気予定(予報ではないことに注意)通りに穏やかに降るが、ハリソン教授は天気にかかわらず一定の速度で歩き、八時半ちょうどに研究室に到着して秘書のマリア・ササキ嬢からその日の予定を聞きつつ、講義の準備をする。

 L&L大学は、いまだに大教室で講義を続ける極めて珍しい大学であり、その中でもハリソン教授は開始時間三秒前に現れて終了時間三秒前には必ず講義を終えるという、正確無比な授業で知られていた。

 このようなある意味病的なまでのパンクチュアルさは、教授が教えている学問分野のセントラルドグマに由来する。

「遅れることと届かないことは同価値である」

 星間物流学の基本だ。

 そもそも事務処理の極みである物流を学問分野のひとつとして体系化したのは、ハリソン教授から遡ること十一代前の祖先である。連綿と続く一族の系譜は、男女の別はこの系譜においてはさほど重要ではないものの、最初に生まれた長男が同じく研究者の道を歩みはじめ、さらに長女および次男が生まれたことで、今後とも万全となっていた。

 学生曰く、

「ハリソン教授は自分の生活の上に流れる運命まで、正確に目的地までお届けするのだ」

 当の本人はそれを聞いて言った。

「さすがに私でも運命まではコントロールできない。私は神に望ましい未来像のデリバリーをオーダーをしただけた」

 オーダーを聞いてもらえるとは、彼は神様に愛されているに違いない。


 *


 ハリソン教授ものと呼ばれる定番のジョークがある。

 ある日、ハリソン教授が一分だけ遅刻したために、世界の時計がすべて一分遅らされた。

 ハリソン教授が風邪で寝込んだために、日の出がいつもより遅くなった。

 ハリソン教授の精子は賢い順番に行儀よく整列する。

 ハリソン教授が予想外のことをすると、ハリソン教授がその行動をした世界としなかった世界に分岐する。

 ハリソン教授が遅刻したら休講になるに違いないと思った学生が、大学の前で教授の邪魔をしようとしたところ、黒服の男たちに阻止された。以後、その学生の姿を見た者はいない。

 このようなジョークのネタになるほど、ハリソン教授は神様だけでなく皆からも愛されていた。


 *


 さて、話はここで些か唐突に変わる。

 人類の生きている世界がまだ狭い空間に限定されていた時代においては、大量生産による製造コストの削減と大量輸送による輸送コストの削減は、その市場で価格的優位を獲得するための非常に有効な手段であった。

 ところが、世界が拡大しはじめると、大量生産された汎用品の星間貿易ではその輸送コストを吸収可能なほどのメリットを出すことが難しくなっていった。

 虚数空間航行という近道を使ったとしても、地上から惑星軌道、惑星から別な惑星、そしてまた軌道上から地上ヘと運ぶ課程で、物流コストは確実に増加する。自星系内、理想的には惑星内で需要と供給がバランスしているほうがはるかに安価であることは火を見るより明らかだった。

 従って、星間貿易の対象物は単一星系内では供給困難な特殊品か、あるいは輸送コストを加えてもなお競争力を有する高級品に限って行われることになる。この場合、基本的には大量輸送は必要ない。むしろ小口の、その代わりに可能な限り時間のかからない手段が好まれる。

 そのニーズに合致することで、HIM(ヒューマン・イン・マシン)の普及が図られることになった。

 これより生じた闇の部分については後述する。

 さて、生身の操縦士の場合、船の生命維持設備は結構嵩張る。食う寝る出すの基本設備は当然のこと、無重力環境で筋力を維持するためには運動するためのスペースが必要であり、船内の衛生状態を維持するためには、シャワーユニットも不可欠だ。初期の宇宙船では省略されがちだったが、不衛生な環境で感染症が大流行してからというもの、設置が義務付けられた。

 HIMであれば、このような設備は必要ない。

 栄養液を満たしたタンクと、補助電源や空気循環装置などをひとまとめにしたユニットさえ格納すれば事足りる。大脳のみのミニマムなHIMとなれば、必要な空間は便座以下である。

 粘度の高い液体の中にいることから船の加速圧にも強く、睡眠は必要だが生身の人間に比べて短いとなれば、自然に生身の操縦士は淘汰されていった。


 *


 さて、また話は唐突に変わる。

 虚数空間を利用した恒星間航行が可能となり、人類の生存可能な空間が拡大することで発生した問題のひとつに、情報伝達の手段がそれに追いつかないという点がある。

 情報もそれを伝達するための手段や時間、媒体などの要因が無視できなくなってくると物流の問題となる。ひとつの恒星系内でも光通信によるネット内の情報同期に時差があることで問題が発生することがあったが、それが恒星系同士ともなれば鮮度が失われた食品のようなもので、まったく実用に耐えない。

 補助手段として恒星間航行が可能な船舶による情報のピストン輸送や、ゲートをサーバユニットが往復して、断続的ではあるものの同期を図る手段がとられていた時期もあったが、いずれも「そこまでしてすべての情報を同期する意味があるのか」という根本的な問題から、一般化することはなかった。

 恒星間旅客船などは、寄港先の最新情報を船内のサーバに差分更新することで、観光情報などの劣化を最小限に食い止める努力を自主的に行っているが、そうでなければ基本的に個人が発信する情報は惑星内で流通するに留まる。

 但し、国際情報流通センターが認定したインター・プラネット・インポータント・パーソナリティ(以下、IPIP)の場合は異なり、その発言は全天で共有されていた。


 *


 ここでやっと話はハリソン教授に戻る。

 教授はHIMシップによる小口輸送から、治安維持軍のミニタリーロジスティックスのような大量輸送まで、あらゆる物流の最適化を成し遂げるための理論的基礎研究を行っている。

 もちろん、情報伝達の効率化もその広範な研究分野の一つであり、その発言は広義の物流に携わる者にとっては、神の声にも等しい。そのため、ハリソン教授はIPIPとして登録されている。

 もちろん、そのような背景はハリソン教授の日常とはまったく無関係である。

 その精密時計のような生活は外的な影響を受けることなく、今日も淡々と過ぎて行くのだった。

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