第二話 午後六時 亜呂蔵親方

 亜呂蔵親方がその日の仕事を終えて、いつもの塒に帰って一息つく。

 しばらくすると、これまたいつもの通り仕事を終えた連中が、三々五々親方の塒に集まってきた。

「親方ぁ、ちょいと聞いて下さいよ。留のやつがまたしくじりやがったんでさあ」

「定兄ぃ、そりゃないよ。ありゃあ伊江賀親分のとこの半端もんが、俺っちの前を無理に通ろうとしたのが悪いんで――」

 定と留の口喧嘩は挨拶のようなもので、四六時中下らないことでああだこうだ言い争っている。

 では、仲が悪いかというとそうでもない。

 留の具合が悪くなって長屋で寝込んだことがあったが、回復するまでの間、定は大層心配して落ち着きがなかった。その日の仕事仲間にしきりに「留は大丈夫ですかねぇ」とやって、終いには

「お前は留の嬶か。そんなに心配だったら枕元で看病でもしてろ」

 と怒鳴られて帰される始末である。

 看病していたらしていたで、いつもの口喧嘩で、今度は留の長屋の連中から追い出しを食らっていた。

 今日は、波止場で荷の上げ下ろしの合力だったはずだ。

 定が留に求めている仕事の質は高過ぎて、「あれじゃあ可哀想だ」という声も仲間うちから出ていたが、亜呂蔵親方はほおっておいた。当の留からは何の不平不満も聞こえてこなかったのである。

「馬鹿野郎、そんなことだから伊江賀の連中になめられんだよ。そんなときにはすかさず」

「すかさず、なんだよ定兄ぃ」

「そうさなあ――」

「兄ぃ、そうさなぁじゃ、やつら逃げちまうよ」

 それを聞いて、周りの連中はとうとう吹き出した。

 最近は、留もなかなか達者になって、言われっぱなしにはなっていない。痛いところをつかれた定が怒鳴る寸前、

「あんたたち、もうその辺にしときなさいよ。みっともないったらありゃしない」

 と、お芳が仲裁に入った。

 定も留も、お芳にはからきし弱い。まだもごもごと言い訳めいたことをつぶやいている定と、しょげかえった留をそのままにして、お芳は親方のところまでやってくると、隣に腰を落ち着けた。

「いつもながらの見事な間じゃねえか。ありがとよ」

 あれ以上口喧嘩が続くと、双方とも引っ込みがつかなくなって大事になることもある。そうすると明日の仕事に差しさわりが出るので、亜呂蔵親方はあそこで話を切ったお芳をほめたのだ。

「いやだねぇ、まるで私が齢三百を超えた古狐みたいじゃないか」

「女に年のことを言うほどやぼじゃねえよ」

「まったく、自分だって相当な狸のくせに」

 と流し目をくれながらお芳は言った。

「しかしまあ、定が言う気持ちも分からあな」

 亜呂蔵は身動ぎして、腰の据わりを落ち着ける。

「近頃の伊江賀のところの嫌がらせときたら、えげつないどころか身の危険を感じることもあるからな。現場で顔を見たときにゃあ、一声かけちゃあいるんだが、野郎、無視しやがる」

「話にもならないねえ」

「そうよ。何が不満でうちの連中にちょっかい出しているのか分からねえことには、解決できねえ。このまんまじゃあ、何かあったら即出入り――ときたもんだ」

 亜呂蔵は最後のところに節をつけて、おどけるように言う。

 お芳には亜呂蔵の苦悩が痛いほど分かった。

 亜呂蔵はいつも明るい。彼がいると、大型船の荷揚げといったとかく修羅場になりやすい大仕事も、不思議と和やかな雰囲気になる。かといって甘ちゃんかというとそうでもない。やるときはきっちりとやる。

 出入りともなればしかたねえなという顔をしながらも、いの一番に飛び込んで行くに違いない。

 お芳は心配でならなかったが、裏の稲荷にお百度参りするほど殊勝な柄でもない(まあ、ここには稲荷すらないが)。男の心意気に寄り添えないほどの野暮でもない。

 どちらかといえば自分も得物を持って先陣を切りかねない性分だったから、亜呂蔵には何も言えなかった。

 いっそのこと、本当に自分も一緒に乗り込みたいぐらいだが、組の帳面付けがしゃしゃりでる幕ではない。こういう時は最初から身軽な職人を選んでいたほうが自分の性には合っていたかもしれないと、お芳は思うのだった。

(まあ、私が心配していることは親方もちゃんと気がついている)

 武ばった男にありがちな他人への無関心さが亜呂蔵にはなかった。

 お芳は彼ほど気働きの細やかな男は見たことがない。だからこそ、もっと他のことも正面から受け止めてほしいと恨み言のひとつも言いたくなる。

「そろそろ医者行きかねえ。なんだか最近は節々が軋みをあげているような気がするんだよ」

「まあ、あんたみたいな無理ばっかりしてると、ガタはくるだろうねえ。あの火事の時なんか定や留のやつ抱えて、全速力で逃げ出してくるんだもの。まあ、あちこちおかしくなってもおかしくないやね」

 差しさわりのない大人の会話を続けながら、お芳は嘆息した。ちゃんとそのことも亜呂蔵は弁えているだろう。それだけ気心の知れた相手だということが逆に恨めしい。

 亜呂蔵はお芳の音のないため息を感じとりながら、なかなか進展しない二人の関係を思いやった。

 その原因は亜呂蔵にある。

 身分違いというのは言い訳に過ぎなかったが、お芳を自分と同じ世界に引きずりこみたくはなかった。

 お芳はもっと違う世界で自分の能力を羽ばたかせることができるほどの才能がある。自分は先代から譲り受けたこの組や人足たちをまとめるだけの器量しかない。今だって口寄屋の帳面付じゃ、掃き溜めの鶴で役不足も甚だしい。

 しかし、そのことを言い含めようとしても、お芳は頑として聞かない。自分が好きでやっているのだからほっといてくれと、物凄い剣幕で怒られるのがいつものことだった。

 無論、お芳の言いたいことは分かっている。

 はて、どうしたものかと仲間の姿を見やったその時、仁吉がいつものようにのっそりと姿を現した。

 いつものように現場から帰ってきたのだろう。

 誰もが仕事終わりの軽い足取りで飛ぶように帰ってゆく中を、いつも仁吉だけがゆっくりと動いていた。彼は亜呂蔵に挨拶をすると、また、ゆっくりとした足取りで自分のねぐらへと帰っていった。

 仁吉を預かることになってしばらくの間、仲間内でもそのゆっくりとした所作が話の種になっていた。

 日頃からの指導宜しく、面と向かって馬鹿にするものこそいなかったものの、

(なんで親方はあんな約立たずのウスノロ野郎を拾ってきたんだよ)

 と誰もが考えているのが分かった。

 そう考えるのも仕方のないことだった。身軽さと威勢のよさが身上の港もんにしてみれば、のろまで口が恐ろしく重い仁吉は鬱陶しくて邪魔な存在だった。

 亜呂蔵にしても、仁吉の過去を聞いていなかったならば、そうそうに首にしていたと思う。浮き世のしがらみから、やむをえず能無しを押し付けられ、割り切れない気分で数ヶ月を過ごした後、港に停泊していた船の頭から声がかかった。

「おう、亜呂蔵の。ありがとよ」

 礼を言われる心当たりがなかった亜呂蔵は何のことかと尋ねてみたところ、

「あんたの指図じゃないのかね。あんたのところの若いやつが船についていたわずかな傷を知らせてくれたんだよ。よくまあ、あんな目立たないところの細かな傷を見つけたもんだ。ほおっておいたらいつかはそこから裂け目が広がって、大変なことになっていたかもしれねえな。邪魔だ、ウスノロ野郎と怒鳴って悪かったよ」

 仁吉のことだった。

 その後も何度か同じことがあり、仲間内でも仁吉に不具合を指摘された者が出てきて、今では何とはなしに赦せる存在として、仁吉は位置付けられている。

 相変わらず動作はのんびりして効率的とは言いがたいものの、組の連中もそれなりの仕事を仁吉にまわしているらしい。仁吉も頼まれた仕事を律儀にこなしている。

 特に定と留は、仁吉をなにかと助けているようで、時折三人がつるんでいるところを見かけることがあった。

 その定と留は、隅のほうで別なことを話している。

「木戸番が厳しいから夜の出入りは難しいでしょうよ」

「いやいや、それは簡単にちょいちょいっと――」

 長屋の入口には木戸があり、不寝番こそいないものの、錠前がかかっている。

 定はその錠前を木戸番に気づかれないように破るという、ばれたら牢屋送りになりかねない悪癖があった。再三注意してはいるものの、本人はまったく改める風もない。

 それに、若いうちは自分もこのぐらいのことはやった口なので、亜呂蔵もあまり強く言えない。

 じゃれあう定と留から長屋の中に視線を移す。誰かが瓦版を置いて行ったらしい。殿様の病気の話が出ていた。

 亜呂蔵は思った。

(俺らみたいに普通に生きていても、なにかと心配事の種がある。殿様ともなれば、心配事の中身も違うだろうが、さぞかし大変なことだろうよ)

 その時点では、まだそれは彼にとって他人事でしかなかった。

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