おぼろげ
一齣 其日
おぼろげ
電車に揺られて、私は行く。
流れるような車窓を眺める。木々を抜けた先に、静かに横たわる海が見えた。さざなみひとつ立っていない。空は曇天だというのに、妙なほど様になっている。
ただただ、静かだ。
ガタゴトと揺れる電車の音が、無性に寂しくなるほど、静かだった。
車窓はまだ流れている。
電車の中は人っ子一人もいない。
それもそのはずだ、私が向かおうとしているのは随分偏狭な病院なのだから。
別に病気で行くわけではない。会いたい人がいるから……いや、会わなければいけないような人がいるから私は行く。
なんでもない、ただの自己満足をしに行くだけとも言えるかもしれない。
耳障りなブレーキ音とともに電車は止まった。開いたドアから、そっと出る。潮の香りがふんわりと鼻を触った。
辺りを見回してみても、人は一人もいないようだ。所謂、無人駅ですというものなのだろう。そして、電車は私をそこに置いていくかのように行ってしまった。後にはただ、線路だけが残っている。
駅からすぐ出たところに、その病院は見えた。切り立った高台に建っていた。元は美しい白をしていた壁は、ここからでもよく汚れているということがわかる。
足をそちらに向け、私は一歩一歩歩き出す。重くも軽くもない、普通の一歩だ。
海辺のせいか松の木ばかり立っている。今にも折れそうだった。
地面を踏みつける音が延々と流れる。空を見ても鳥は一羽もいない。辺りを見回しても虫は一匹もいない。
こんな悲しいところにあの病院は建っているのか。こんなところに建たせて、何か意味でもあるのか。
……ないのだろうな、きっと。
そんなことを考える内に、私はようやく病院の前に立った。
近くで見た病院は、やはり駅から見た時よりも汚れて見えた。清潔感など外見から見ると一切感じられない。
そこは、病院というより牢獄と言った方がいいような気もした。
こんなところに、あの人はいるのだろうか。
どうして、こんなところにあの人はいることになったのだろうか。
私の、母親は。
母親。
私の母親にいい記憶などない。なぜなら彼女は私を育てることはおろか、一切の面倒を放棄しそして捨てた人間なのだから。
簡単に言えば、こうだ。
「私は彼女の視界の外の人間だった」
だから見てもらえなかった。どれだけ見てもらおうと努力しても、山に捨てられるまで見てもらえなかった。
そんな母親に、何故今更会いに行くのか。
どうということはない。ただ色んな束縛から解放されて、こうして旅をしている今だからこそ、自分の母親がどうしているのか気になったのだ。
見てもらえなくても、お腹を痛めて産んでくれた母親には変わりない。だから私はもう一度母親に会ってみたかった。
「そんなことして何になるんだろうね」
私に母親の今を調査してくれた友人は、そう言って笑っていた。
彼の言う通りだ。会って一体何になるのか、私もおよそ見当もつかない。
でも、会いたいんだからしょうがないじゃないか。だから、こうしてここにきたのだ。
私は、扉の取っ手に手をかけた。
扉は軋んだ音を立てて開いた。ひどく重い感覚だ。
そうして開いた中は、やはりどこか薄暗い。入ってみれば、独特の鼻をつく匂いが漂う。
私は受付に直行した。そして一も二もなく、こう言った。
「一津島雅子の面会をお願いします。」
その言葉を聞くと、受付の看護師は妙なほど驚いていた。
「一津島さん、もう余命幾ばくというところなんです」
看護師の話によれば母親は重い病を抱えたまま働いていたせいでここに来る頃にはもうボロボロの体となったという。精神的にも疲労が酷くただ生きている、生き延びているだけと言っても過言ではないらしい。
私はそれを他人事のように聞いていた。
「どうして、彼女はここに来ることに?」
「私にもわかりません。ただ、まわされてきたとしか……」
困ったような笑顔を返す。私はそれ以上問うことはしなかった。
結局母親は私を捨てたあと何をしていたのかはわからずじまいだった。友人が言うには、あまりよくは暮らしてなかったらしい。それでも、自分勝手な生活だったというが。
でも、やはりこう言いたい。あなたは、私を捨てて何をしていたんですかって。せめて、幸せに暮らしていて欲しかった。
そうじゃないと、捨てられた意味がないじゃないか。
廊下の蛍光灯は今にも切れそうだった。二人分の足音だけが、カツンカツンと響き渡る。空に舞う埃が窓から漏れた光で妙に輝いていた。
「着きましたよ」
看護師は止まった。214号室の病室、しっかりと『一津島 雅子』 と書いてあった。
「どうぞ」
「……ありがとう」
お礼だけ言って私はドアを開く。呆気ないほど軽かった。レースのカーテンが陽を遮ってるせいか廊下ほどではないが薄暗い。
見れば、奥のベッドに彼女はいた。
成れの果てが、そこにいた。
本当に成れの果てだ。母親のではない。一人の女性のが、だ。
痩せこけた頬に、深い隈のついた目、ぽっかりと開いた口。光のない瞳が私の姿を捉えていた。
「……お久しぶりです。貴方の息子の、キョウです」
あなたが付けてくれた名前を私は名乗る。
しかし彼女はピンとこないらしい。未だぼうっと私を見ていた。
言葉もない。
表情もない。
何もない。
遂には、瞳を私から外して外を見る。車窓からとは、また別の海が見えた。でも陽の光は射してはこない。
そんなところばかり見ていないで、私を見てくださいよ。
なんて言葉は否が応でも、口には出せなかった。
握った拳が震える。足が揺らぐ。どうにも抑えようがなかった。
貴方に捨てられてから色々あったんです。辛い思いもした。死んでしまうなんて思ったことは何度もある。
それでも精一杯生きて愛する人もできてようやくここまでこれたんだ。
それを一目でいいから貴方に見てもらいたい。
母親として、あなたに見てもらいたいんだ。見てもらうためにここに来たんだ。
でも何一つ言葉にならない。
だから。
私はそっと、貴方を抱きしめた。
ただただ抱きしめた。
貴方にされたい事を、貴方がしてくれなかった事を、貴方にしていた。
でも、やはり言葉は何一つとしてかけることはできなかった。
抱きしめて、抱きしめるだけ抱きしめて、私を産んでくれた母親との面会は終わりを告げた。
感慨も感動も、何一つなかった。
私は砂浜を歩いていた。ザクザクと、たった一人で。さすがにここまで来ると、波立つ音が聞こえてくる。
空を仰げば未だに曇天。結局、私がここを去るまでに太陽は顔を見せてはくれなかった。温かみを、ここにいる間全く感じさせてはくれなかった。
あの母親も、そうだ。何一つ私に向けてはくれなかった。
でも不思議とあの人を恨もうなんて気は無い。
あの人が産んでくれたから私はここに立っているのだし、捨ててくれたから私は大切で愛しい人と出会えたのだ。
それでも感謝するには到底及ばない。苦しみだって、ずっと感じていたのだから。
だからもう、感謝も恨みも何もない。
あの母親が私に抱きしめられても何も感じなかったように、私ももう何も感じない。
何も、ないのだ。
ただ一つあるとするなら、私の名前を聞いても何も感じてはくれなかったことだけ。
貴方が名付けてくれた名前なのに……さ。
砂浜から見た病院は、やはり汚れた風醸し出している。もう二度と、こんなに寂しい風を吹かすところにはこないだろう。
これが、見納めだ。
さようなら、お母さん。
海が大きく鳴いていた。
おぼろげ 一齣 其日 @kizitufood
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