02


 夢を手放す者の中には、二つのケースがある。

 描いた夢の途方もない大きさに気づき、自らあきらめる者。

 そしていま一つ。手に入った夢が思い描いていたものと異なり、戸惑ううちに前へ進めなくなる者。

 江南修宥えなみしゅうゆうは、紛れもなくその後者であった。



 プロのサッカー選手を目指して、幼少時から名門クラブのユースに所属。全国高校サッカー選手権の常勝校へと推薦で入学し、ポジション争いの厳しいFWフォワードのレギュラー権を、一年生の時点で確かなものにした。

 彼の在学中に全国制覇はかなわなかったものの、所属クラブのプロチームからは誘いが来ていたし、周囲も当然その道へ進むものと考えていた。

 けれど彼は、かねてから憧れていた海外リーグへと挑んだ。



 入団試験をいくつも受け、ようやくドイツ二部リーグの控え選手からスタート。

 当初は言葉の壁があったものの、ようやくチームに馴染んできたところで、スターティングメンバーの待遇を捨てて一部リーグのクラブへと移籍した。そしてまた、控えの日々が続いた。

 上へ行きたかった。とにかく、上へ。

 彼の中で、サッカーが変わっていった。

 純粋な勝負から、監督やコーチ・観客へアピールするものへと。


 最初から日本のリーグを選んでいれば、今のようなことにならなかったのだろうか。そう考えたこともあった。

 今では思う。プロの世界における戦いの厳しさを、未熟な自分が理解しきれていなかったのだ、と。

 海外リーグで成果を残せず二十二歳で帰国した彼を、移籍先のJ1クラブは積極的に起用しようとはしなかった。

 バッシングよりも厳しい「無関心」が、そこにはあった。

 

 そうやって夢が失われていく中で、試合中の事故は起きた。


   *


 例の不良小学生少女に公園で逃げられた次の日、江南はいつものようにスポーツジムを訪れていた。

 言葉を交わしたこともない小学生のことなど、正直なところ気にしていられる状況ではなかった。今は自分のことで手一杯だ。しかし、だからこそ自分の思考から逃れるように、江南の目は少女の姿を探していた。

 昨日のスタッフに訊けば、少女がいつどこに姿を現すのかくらい簡単にわかりそうなものだが、自分がそこまでする意味がわからないし、逆にスタッフから理由を訊かれても厄介なので、やめておくことにした。

 そもそも昨日は、ジムを訪れたのが病院でずいぶん待たされた後のことだったので、普段ジムを利用する時間帯よりもだいぶ遅かったのだ。

 結局、少女を見かけることもなくジムを出たのが午後七時半。帰り道に公園の脇を通り過ぎてから、飯でも食って帰るか、とファミレスへ足を向ける。これでもアスリートなので、一人暮らしながらも食生活には気を使い、普段はほとんどが自炊である。でもまあ、たまには揚げ物なんかも食いたいし。そんなことを思いつつ、ぼんやりと、けれど確実に、少女と公園で遭遇した午後九時を気にしながら、彼はファミレスで時間を潰した。



(不審者と思われたままじゃ、やっぱり問題あるよな)

 午後九時を前に公園へたどり着いた頃には、いよいよ自分への言い訳も尽きかけていた。

 あの少女の行動が気にかかる。――と正直に認めてしまうのは、二十三歳成人男子としての立場が少々邪魔をした。

 とはいえ、街灯もとぼしい公園のベンチにぼーっと座る自分の姿は、むしろ不審者ですと主張しているようなものだ。

(何やってんだかなあ、俺……)

 第一、今日もあの少女が現れるという確証は一切ない。九時を過ぎたら帰ろう、いや昨日は九時十分頃だったか、そんな風に迷っていると、藪の奥からガサガサと音がした。

「あ」

 ポニーテールをしっぽのように揺らして、少女は姿を現すなり声を上げた。江南はといえば、あれこれと考えていた最初の声掛けが頭から吹き飛んで、かといって偶然を装うにはあまりにも不自然なほど視線を合わせてしまったので、情けないことに座った姿勢のまま固まるしかなかった。

「……こんばんは」

 驚いたことに、先に挨拶をしてきたのは少女の方からだった。

「こんばんは」

 大人としてごく自然に挨拶を返したつもりだったが、心の中には謎の感慨が生まれていた。てっきり挨拶なんかしない悪ガキだと思っていた。いやそれ以前に、自分は不審者と勘違いされていたはずだが。

「あーー、ええと……」

「ねえ、あそこのジムに行ってる人?」

 江南の心を見透かしたかのような問いかけに、再び(おお……)という謎の衝撃を受ける。

「うん、行ってるよ」

「昨日もココ来た?」

「うん」

「やっぱり」

 それだけ言うと、少女は江南の前をトコトコと通りすぎ、昨夜と同じ遊具へと向かう。ひとまず、得体の知れない不審者という汚名はすすがれた、……と考えていいだのろうか。

 江南はようやくベンチから腰を上げ、会話を続けられる距離を保つことにした。

「よく俺のこと知ってたね」

「見えるもん。プールから」

 ランドセルを遊具の上に上げながら、少女は振り返らずにそう答えた。挨拶をするだけの礼儀は心得ているが、 人懐こいタイプでは決してないようだ。

 少女の言うとおり、江南が普段利用しているジムのトレーニングマシンは、目の前がガラス張りで階下のプールを見下ろせる形になっている。しかしマシンを使う人間は他にも大勢いるわけで、その全員の顔を覚えているとは考えにくい。なぜ自分を知っていたのだろう?

 第一、自分が利用しているのは昼から夕方の時間帯。小学生がプールを使う時間帯ともかぶるが、ほとんどの子どもは夜になる前に帰っている。その時間からこんな遅くまで、この子はずっとジムにいるということだろうか?

 そしてなにより、何のためにこの公園に立ち寄っているのだろう?

 疑問が次々と頭をよぎったが、江南はまず先に、昨夜の誤解が完全に解けているのかを確かめることにした。

「俺、昨日も声かけたんだけど、行っちゃったよね?」

 少女は相変わらず江南を振り返ることなく、遊具のはしごをよじ登りながら答えた。

「最初わかんなかったから」

 そういえば、走り去る際に一度こちらを振り返ったか。その時にスポーツジムで見かける人間だと気づいたのだろう。(だからといって簡単に心を許していいとは思わないが、今の江南にとってはひとまず好都合だった)

 遊具の上でピンクのランドセルを下ろし、ゴソゴソと中身をあさり始める少女に、江南はいま一歩近付いてみることにした。遊具に体重を預け、質問を重ねる。

「ここで何してるの?」

 愛想が無いなりに問いかけには答えていた少女が、不自然に口をつぐんだ。おや? と江南は引っ掛かりを覚える。

「いつもここにいるの?」

 無言。踏み込みすぎて警戒されたか。

「こんな時間に女の子が一人でいたら、危ないよ」

「大丈夫だもん」

 大人からの警告にはハッキリと反発を示す。こんな年齢で家出少女というわけでもないだろうが、それに近い雰囲気を感じる。

「家の人、心配してるよ」

「大丈夫」

「大丈夫なわけないって」

「大丈夫なの!」

 不快感をあらわに、少女は手にした漫画雑誌で床を叩いた。これ以上反感を買われても注意を聞き入れはしないだろう。江南は話題の方向性を変えることにした。

「じゃあ、名前は?」

 昨日ジムのスタッフが呼んでいたから、知ってはいるのだが。

「名前、教えて」

「…………」

「名前」

「やだ」

「じゃあ勝手に呼ぶぞ」

「いいよ」

「おいしっぽ頭」

「なにそれ?」

「髪型が動物のしっぽみたいだから」

「しっぽじゃない!ポニーテール!」

「なあしっぽ頭」

「知らないそんな人」

 しっぽ頭にそっぽを向かれてしまった。会話にならない。江南は面倒くささを覚える。とはいえ、こんな小学生を置いて自分だけ帰るわけにもいかない。

 子ども用の小さな携帯電話を明かりにして、しっぽ頭は漫画雑誌を読み始めた。しばらくはそれを見守っていたが、このままではにっちもさっちもいかない。

「目ぇ悪くするぞ~」

「ならないもん」

「視力落ちたらスポーツ選手になれないぞ~」

 適当なことを言ってなんとか家に帰そうと思っただけだが、意外なところでしっぽ頭が食いついた。

「そうなの?」

「そりゃそうだよ。スポーツ選手も無理だし、飛行機のパイロットとかも無理だ」

「……パイロットにはなんないけど」

 この子と同じくらいの年頃からサッカー選手を目指し、テレビもゲームも制限していた江南としては(むしろサッカー以外に興味がなかっただけなのだが)、あくまで自分の体験からくる知識で話しているに過ぎなかった。考えてみれば、この子も連日プールに通っているのだから、将来は競泳選手あたりを目指すつもりかもしれない。――ちなみに、競泳選手に視力が必要かどうかなど、江南が知る由もない。

「そうかそうか、将来スポーツ選手になりたいんだな」

「……別に。ねえ、何してる人?」

 完全にヤブヘビだ。

「さあ、何だろうね」

「パイロット?」

「ブー」

「じゃ、スポーツ選手?」

 当然そうくるよな。江南は不覚にも言葉に詰まった。

「あ、当たりでしょ!」

 この少女、なかなか鋭い。ここへきて形勢逆転だ。 

「ねえねえ何のスポーツ?」

「教えません」

「なんでー!? じゃあさ、名前は?」

「そっちから名乗れよ、しっぽ頭」

「え~~!?」

 しっぽ頭がゴネた時、小さな携帯がブルブルと着信を知らせてきた。

「ママだ!!」

 パッと表情を明るくして、しっぽ頭は携帯を手に取った。メールを開いて読む姿は、これまで見たどの瞬間よりも生き生きしているように見えた。

「帰るね!」

 携帯をしまうと、バタバタと漫画雑誌を詰め込んで、ランドセルを背負うのもそこそこに遊具から飛び下りる。しっぽが、跳ねた。

「あ、おい」

 事情の一つさえ訊ねる時間も許さない勢いで、公園の出口へと走っていく。

「おい、しっぽ頭!」

 呼ぶ声に、一度だけ振り返った。

「ばいばい!」

「気をつけて帰れよ!しっぽ!」

 その声が届いたのかどうかもわからないまま、少女は風のようにその場から走り去っていった。

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キラキラ たまの @tamano

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