キラキラ

たまの

青年は少女と出会う

01

 視界の隅で、しっぽが、跳ねた。



江南えなみさん、お疲れさまで~す」

 スポーツジムのロビーで、受付の女性スタッフがいつものように声をかけてくる。ロッカールームを出たばかりの江南修宥しゅうゆうは、声とはあさっての方向を見つめたままロッカーキーだけを手渡した。

「どうですか、足の調子は」

 話しかけてくるスタッフに彼が向き直った時、別のスタッフがの主へと声をかけた。

「あかりちゃん、暗いから気をつけて帰るんだよ」

 江南は再びそちらへ視線を向ける。声をかけられた当人はチラリと振り返り、小さく会釈して走り去る。ピンクのランドセル。跳ねたしっぽーー揺れるポニーテールの後ろ姿は、どうみても。

「あかりちゃんのことですか?」

 江南の反応にスタッフが気づく。

「……あの子、小学生ですよね?」

「ええ、三年生だったかしら。江南さん会ったことなかったんですね」

「はい。......ていうか、こんな時間に」

 江南はチラリとロビーの時計に目を遣る。午後八時半。

「こんな時間に小学生がいるなんて、ちょっとビックリしました」

「ああ、そうですよねぇ」

 何の感慨もない笑顔で相づちを打たれたので、彼もそれ以上のことは口にしなかった。会話はそこで終わるかと思われた。

「江南さん、リハビリ順調そうですね!」

 ひょいと現れた若い女性スタッフが、江南を見るなり好奇心を隠すことなく話しかけてきたので、彼はあまり得意ではない作り笑いで応じた。

「そうですね、わりと」

「早くチームに復帰できるよう、私たちも全力でサポートしますから!」

 ガッツポーズで励まされ、怪我で試合を欠場中のプロサッカー選手は、いよいよ作り笑いを顔面に張り付かせた。


   *


 夏も盛りを過ぎたはずだが、スポーツジムを出るともわっとした空気に全身を包まれる。せっかくジムでシャワーを浴びていても、これでは家に着く頃には汗だくだ。

 江南の自宅は、ジムから徒歩圏内にある。半年前、サッカーJ1リーグの試合に途中出場した彼は、そのさなかに相手チームの選手と接触し、膝の靭帯を損傷した。すぐに手術を受け、今では日常生活には差し支えない程度に回復している。

 チームから一時離脱する際、江南はホームスタジアムのある市からあえて引っ越すことを選んだ。専門医とジムの近所でリハビリに励みたい。そうチームへ説明した通り、自宅と病院とスポーツジムを行き来するだけの毎日を送っていた。



 今の町には、地元クラブと呼べるサッカーチームが存在しない。それだけで、こんなにも目に映る光景が違うものかと思う。駅や商店街のポスター、街灯に吊り下げられた応援旗。それらが無いだけで、彼の心の平穏は守られた。



 もうすぐ午後九時を回ろうとしていた。

 本来よりもゆっくりとした速さで歩きながら、ふと通りにあるコンビニへと目を遣る。灯りの少ない歩道からは、煌々こうこうと光る店内がよく見渡せた。

 それでも、その小さすぎる人影を、うっかり見落とすところだった。

 雑誌コーナーの前で立ち読みをする、ランドセルを背負った小学生が一人。スポーツジムのロビーで見かけた、ポニーテールの少女に間違いなかった。

(おいおい、どうなってんだよ最近の小学生……)

 親はどうなってんだ親は、とつい足を止めてしまった。二十三歳といえば、子どもがいてもおかしくない年齢ではあるが、しかしあんな小学生ということはないか。それはともかく、大人としてあれを見過ごしていいものか。

 しばらくすると、少女は読んでいた雑誌とは別の一冊を手にレジへと向かった。店員もごく普通に対応している。いつもの客といったところなのだろうか。

 ピンポン、という音とともに、少女が自動ドアから出てくる。彼の帰る方向と逆へ去ってしまえば、そのまま見なかったことにできたかもしれない。けれど少女は、真っ直ぐに彼の自宅方向へと駆け出した。

 なんだかなあ、と思いながらランドセルの背中を見て歩く江南と、その距離はぐんぐん離れていく。もしかしたら自分とそう離れていない所に住んでいるのかもしれない。

 すると突然、少女はキョロキョロと左右を見回し、道路脇にある藪の中へと迷わず突き進んでいった。

「……は?」

 今度ばかりはさすがに声に出た。あの先はたしか公園があるはずだが、この時間ではもちろん他の子どもがいるはずもない。というより、夜の公園は暗くて危ない、という常識を知らないのだろうか。

 江南の中でかの少女を不良小学生と認定した上で、彼は逡巡した。果たしてこれは注意をしに行くべきか。

……今後も見る顔、かもしれないしなあ。

 同じスポーツジムに通っていることが災いした、と。少なくともその時はそう思いながら、少女が通った藪を同じようにかきわけながら進んだ。



 藪を越えた先に、砂利を敷き詰めた小さな公園がある。住宅街に囲まれたその狭い敷地には、片手で足りるほどの遊具が点在している。 

 当然といえば当然のことだが、出入り口と呼べる箇所は藪以外に用意されており、その先はここよりもいくらか明るい通りに面している。

(ひょっとして、近道しただけか……)

 やや拍子抜けした江南だったが、それはすぐに勘違いだと気づかされた。

 家を型取った、木製の遊具がある。大人の肩ほどの高さがあり、四方に滑り台とロープ、ネットとはしごが付いていて、遊具の上段は屋根付きの秘密基地のようになっている。その中から、ほのかな明かりがちらついていた。

 光の加減からいって、おそらく携帯電話か携帯ゲームあたりだろう。暗がりの中では意外と目立つ明るさになるものだ。先ほどの少女ではない可能性も考えたが、遊具に映る小さな人影、そしてなによりも見え隠れするの形から、それは彼女に間違いなかった。

 江南は躊躇した。なにしろまったくの赤の他人だ。何と話しかければいいのかもわからない。

 しかし、時計はすでに九時を回っている。さすがに小学生の女の子が出歩く時間帯ではない、だろう、おそらく。最近の子ども事情がどうだか分からないが。

(苦手なんだよなこういうの)

 怖がらせることのないよう、わざわざ街灯の下へと移動して。遠めの距離から、控えめに声をかける。

「あの~~」

 反応がない。聞こえていないのか。

「ちょっと、いいかな」

 心持ち声を大きく。できるだけ優しげな声音で。

 しかし、遊具の中はしんと静まり返っている。ちらついていた携帯の光は、この距離からではまるで確認できない。

(悪ガキ相手に何やってんだか)

 自分の気遣いがばかばかしくなり、呼びかける声もついつい荒っぽくなった。

「あのさあっ」


 ぴょん、としっぽが跳ねた。


 一瞬、本当になにかの動物が通ったのかと思った。揺れるランドセルの音がなければ。

 小さな影が遊具から飛び降り、勢いよく駆けていく。自分とは逆方向に。

「あ、おい!」

 とっさに追いかける。向こうが振り返ったのがわかった。暗すぎて影しか確認できない。小さな体と、ひらりと宙を踊るしっぽ。

 追跡はほんの数メートルで終了した。これがトレーニングだったらダッシュしたうちにも入らない。

 少女が走り去った先、公園の出入り口に掲げられたアルミ製の看板に、イラスト付きでこう大きく記されてあったのだ。


『あやしいひとこえをかけられたら まよわずにげて 大人おとなたすけをもとめましょう』


「いやいや違うし!!」

 思わずツッコミが声に出た。誰もいなくなった公園で、江南はガックリと肩を落とすしかなかった。

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