イカロスの戸惑い

阿井上夫

イカロスの戸惑い

「だいたい、冬季オリンピックっていうのは西洋中心主義なんだよ」

 と、東北の山奥にある温泉ホテルの安っぽい座椅子に腰をおろし、近くのスーパーで仕入れてきた、これも安物の赤ワインで目を赤くしながら、Sさんは言った。

「だって考えてもみなよ。ウインタースポーツが出来る国なんて限られているじゃないか。しかも設備的な制約もでてくるから、相当の投資が出来なければいけないし。ハングリー精神ではどうしても乗り越えられない壁があるよね。金持ちのための不平等な大会だよ」

「はあ、そうですね」

 と、私は目の前にある気の抜けたビールを見つめながら、間の抜けた相づちを打った。

 魂が抜けていた。前日も飲み会で午前様になり、今朝起きたときには二日酔いに特有の気だるさが、背中の全面に肉襦袢のように貼り付いていた。しかも、東京駅の集合時間が朝の早い時間であったので、本当のところは温泉につかって夕食を食べ終えた時には、根気が尽きかけていたのだ。まぶたが景気の良くない八百屋のシャッターのように重かった。

「だから」

 と、Sさんの話は続く。

「赤道直下の国でも十分に勝負になりそうな競技を、中に含めるべきなんだ」

「例えばどんなやつですか」

「うーん、氷上綱引きはどうだろう」

 そういいながら、手で綱を引くような仕草をした。ちょうど肘のところに隣の人のコップがあり、わずかな隙間で命をながらえている。私はどんよりとした思考の中で、弛緩した危機感を感じていた。

「それでも北欧とかのほうが有利でしょう。毎日氷の上を歩いて慣れているし」

「でも、偶然の要素が少しは入ってくるじゃない。バランスを崩したらいっきに持っていかれるでしょ」

「はあ……その他には?」

「他に? そうねえ……」

 そのまま長考に入ってしまう。どうやら綿密に考えた末の話ではなかったらしい。その証拠にSさんは、今度はこんなことを言い出した。

「じゃあ、冬季オリンピックを赤道直下で開くのはどうだろうか」

「うう……スケートは何とかなりそうですけど、スキーはどうするんでしょうね」

「グラススキーかな」

「砂漠だったら、似たようなもんじゃないですか」

「新雪みたいな感じかもね」

 思考は無軌道に横に逸れてゆく。私が悪いのか、Sさんが悪いのか、二人で話していると真面目な話であっても、どんどん不謹慎な方向に、しかも加速度を増しながら逸れてゆくのだ。午後という呼び名が既に余命幾ばくもない時刻であるにもかかわらず、おかしな議論は続いてゆく。時にいびきの音を交えながら。

「じゃあ、ジャンプ競技で高さを競うのはどうだろうか」

「それだと着地が難しいですよ」

「雪を敷き詰めてだな」

「埋まりますって」

「そうかな」

「そうですよ」

 ちょっとした沈黙。

「じゃあ」と、急に身を乗り出し、手元にあったスジコのプラスチック容器から派手に割り箸を飛ばして、Sさんは言った。

「ジャンプの後にスキーの滑走をする競技があるじゃない」

「はあ」

「あれを逆にするのはどうだろうか」

 私は天井を仰いだ。

 あきれたためではなく、何故かその言葉が心に引っかかったためだった。その時、私の心を去来していたイメージは、全力を振り絞った滑走の後で、眼前に渺茫とした雪の斜面を見せられて、困惑している選手の姿だった。

 口が渇き、足元はふらついている。

 しかし、勝負に勝つためには是が非でも飛ばなくてはならない。

 なぜなら自分を応援する者の声が無常にも響いてくるからだった。

 なぜか、それは、酔っ払いのダイダロスが作った欠陥品の翼を括り付けられて、がけっぷちに追いやられたイカロスの、戸惑いの表情を連想させた。


( 終り )

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

イカロスの戸惑い 阿井上夫 @Aiueo

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ