「えう」
阿井上夫
「えう」
雪がちらほら舞う、寒い日のことでした。台所からママが洗い物をする、かちゃかちゃというリズムが聞こえています。
2ヶ月前に生まれたばかりのトコちゃんは、ベッドの上で天井の木目をじっと見つめていました。すると、その中のひとつがぷっくりと浮き上がって、生き物になって飛び出しました。次から次へと浮き上がって、最後には生き物たちが長い行列となってトコちゃんの目の前に並びます。
生き物の色と形はさまざま。青いボール形で、真ん中に大きな目が1つあるもの。透明な細長い円柱で、2つの小さな目がしきりにぱちくりしているもの。雨粒のような流線型で、3つの目が右から左にぐるぐるまわり、色も次から次へと変わってゆくもの。とげが一面にはえていて、落ち着きなく飛び跳ねている目のない真っ黒なもの。
トコちゃんは大きな目を丸くして、端から端まで列をながめました。するとその中に、柔らかそうな白い毛で覆われた、丸くてトコちゃんのこぶしぐらいの大きさの生き物がいることに気がつきました。毛の中にあるつぶらな2つの目がトコちゃんを見つめています。トコちゃんはその生き物がとても気に入って、頭の中に浮かんだ名前を呼びました。
「えう」
すると他の生き物は突風に吹かれて一瞬のうちに天井の片隅に飲み込まれてしまい、トコちゃんの目の前には「えう」だけがぷかぷかと浮かんでいるのでした。
その日の夜。
「はじめてトコちゃんがしゃべったの」
「そう」
*
「えう」はいつもトコちゃんと一緒。目の前でぷかぷか浮いていることもあれば、床の上でぽんぽん弾んでいることもあります。ただ、ママがやってくると必ずママの顔の前にぷかぷかと浮いて、伸びたり縮んだり弾んだりするのでした。ママは「えう」がいることを知りませんが、トコちゃんは楽しくてしかたがありません。伸びたら「えーうー」、縮んだら「えぅ」、弾んだら「えうえう」と動きに合わせて声を出してみます。するとママはにっこり嬉しそうに笑うのでした。
太陽がきらきら輝く、暖かい午後のことでした。トコちゃんとママは電車に乗ってお出かけしました。着いたところは大きなお部屋で、トコちゃんと同じくらいの大きさの子供がいっぱい。同じでないのは、他の子供たちのまわりにいる生き物でした。
青いボールは「ばぶ」、透明な円柱は「ふう」、流線型は「だー」と、種類が同じものは同じ名前で呼ばれていました。また、動きが激しい生き物と一緒の子は活発で、動きの穏やかな生き物と一緒の子はおすましでした。とげが生えているのもいましたが、最後まで名前を呼ばれませんでした。しきりに子供の顔にぶつかってくるし、ママの顔の前でじっと止まってくれないのです。
トコちゃんは「えう」がお気に入り。他の生き物よりも白くて柔らかくて、動きが可愛らしいのです。
その日の夜。
「トコちゃんは外でもよくしゃべるのよ」
「それはすごいね」
*
トコちゃんはずいぶんおしゃべりになりました。前より大きくなって、すこし透き通って見える「えう」と一緒に、床をはいはい進みます。目的地はママのいるところです。
風がそよそよ吹く、気持ちのよい午後のことでした。トコちゃんはすやすや眠っていました。
夢の中にはトコちゃんの大好きなものがいっぱい。ふわふわしたもの、きらきらしたもの、ぽかぽかしたものがいっぱいです。寝ているのに笑顔がこぼれます。
そのとき、外で大きな音がしました。トコちゃんはびっくりして泣き出してしまうと、ママがやってきてトコちゃんを優しく抱き上げてくれました。ママはいつもいい香り。ママはいつも優しい手触り。
「えう」もいつも通りママの顔の前にいましたが、トコちゃんは「えう」よりもママのことが見たくてしかたがありません。そういえばパパはいつもなんて呼んでいたかな。
「マーマ」
すると「えう」は突風に吹かれて一瞬のうちに天井の片隅に飲み込まれてしまい、ママの顔だけがトコちゃんの目の前にあるのでした。
その日の夜。
「トコちゃんがママって呼んだの」
パパは大喜びでママにキスをしました。
( 終り )
「えう」 阿井上夫 @Aiueo
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