8.カエル「モンスター、俺たちだ」
明くる日の朝、六時ごろのことだ。俺が起きるともう兄妹の幻影は消えていた。
マリウスの話だと俺が起きる少し前に消えて、扉の鍵が開く音がしたという。
湯を沸かしてインスタントのコーンスープと、後は食パンにジャムで朝食にした。昨日の疲れかブランチ氏は七時過ぎまでぐっすり眠っていたから、起こすのが申し訳なかった。
「それじゃー、今日も元気に行きましょう」
俺の宣言とともに第三階層の探索が始まった。
寝室のドアの向こうは案の定寝室ではなくダンジョンだった。一転して内装が変わり、クリーム色の壁紙と抑えめの蛍光灯が目に優しいデザインとなっている。昨晩見てきたブランチ家のどこにも見られない壁紙で、依頼人も首をひねるばかりだった。
エンカウントモンスターもがらりと変わった。やや狭くなった通路に合わせ、小型ですばしっこいリザードマンとゴブリンメイジが火の弾を繰り出してきて少し厄介になった。
「アチーんだよ!」
火の弾の大方は昨日拾ってきた大鍋で防いだが、相棒はそのうちパーカーの裾を焦がして不機嫌になった。戦闘に関してはあとは特にない。
三十分も探索したろうか、第三階層最初のイベントが始まった。
「あれは……誰だ?」
胡乱な呟きはブランチ氏のものだ。
「あ、ガキですね」
道の先に立っていたのは年のころ七つか八つの童女だった。アニメキャラのプリント付きパジャマ姿。顔はどことなく、ブランチ氏に似てなくもない。どちらかというとミリーの方が近い。穏やかそうなタヌキ目と顎のラインが美しい。
もう少し近づくと彼女はおびえた顔をして走り出した。
「最初のイベントのリプレイだな」
「ああ。マリウス、先行しなくていいぞ」
どうせ行き先で戦闘があるだけだと思い、ほとんど歩くような速さで追跡をする。
少しして、少女は俺たちを行き止まりに導いた。
ところが、いつまでたっても何も起こらない。
「あれれー?」
「出てこねえな、モンスター」
壁に張り付くようにして震える童女を前に首をかしげる俺たち。ブランチ氏はまだ状況が飲み込めずおろおろしている。
「リプレイしちゃいけなかった?」
「いや、それはない。でなきゃここでコイツが出てくる意味がない。でも、うーん」
珍しくマリウスが詰まってしまったので、場が静まりかえる。
手掛かりを求めて二人でその場をうろうろ回る。歩数を重ねてもエンカウントが発生しないので、イベント中なのは間違いない。
マリウスが童女の前に立ってしゃがみこむ。額を突き合わせて観察している。
にらまれた彼女は、恐怖にすくみ涙目になっている。それからパジャマの胸元、鎖骨の下が少し青くなっているのが見えた。ああー。
閃いた俺は、わかりやすく拳で手のひらを叩く動作をした。
「なんだよ?」
「モンスター、俺たちだ」
相棒もポンと手を叩く。
「それだ」
そして、そのまま握った拳で女の子の頬を薙ぎ払った。
「ぎっ」
「なっ、何を!?」
殴られた童女は勢いよく地面に転がった。ブランチ氏が驚いて近寄ろうとするのを手で制す。
「いだっ! いだいっ、ぎゃあああああっ!」
マリウスは続けて童女の手をギリギリと踏みにじる。俺も近づくと彼女の長い栗色の髪をつかんで引き上げる。
彼女の頬は切れて傷口から血がジュクジュクとにじんでいた。グラグラ揺れる瞳が突然の事態に混乱していることを伝える。ガチガチと打ち鳴らされる歯の隙間から鉄臭い息が俺の顔にかかった。
かなりリアルに再現された〈NPC〉だ。殴られるために生まれたのがよくわかる。
「やっ、やめ、たすけ…て……」
「どういうタイプだ?」
「HP減少、部位破壊、あとは特定の場所を数回攻撃するとかもあったな」
「それならボディー中心だな。顔とか手足は多分違うんじゃねえか?」
マリウスが踏みつける足を浮かし、彼女を軽く蹴り飛ばす。
這ってどこかに逃げようとする彼女の髪の毛をまたつかんで引きずり戻した。
「まあ万遍なくやろう」
「ああああっ、ああああっ!!」
マリウスと二人で囲んで童女をけたぐる。
死なないように手加減し、なるべく全身を蹴れるようたまにひっくり返す。
「ぐぎっ」
「あーでも、性的な方だったらどうすんの」
「うげっ」
「そんときゃそっち専門の冒険者呼ぶしかねえだろ。性病とかあったら怖いし」
「ぶっ」
「なかなかイベント進行しないな」
「ごっ」
「あ、昨日の鍵ここで使うんじゃね? コイツの穴に差したらなんか出てくるかも」
「がはっがはっ」
「宝箱ってことか。でも穴ってどこだよ?」
「はっ……」
「目とか」
そこで背後から俺の肩をつかむ手があった。ブランチ氏だ。
「もうやめろっ!! 何をしているんだ君たちは!?」
「あー、進んだ」
彼の怒号は、壁が引っ込む音に掻き消えうやむやになった。ぼろ雑巾になっていた童女は蒸発するように消える。
壁の向こうはもうムービーの用意が出来ている。
ブランチ家夫婦の寝室だ。大きなベッドに二人の男女が寝そべっていた。それは何を隠そうブランチチとオニババで、ムーディな〈BGM〉が小さく掛かっている。蛍光灯がふっと消えて、窓の外は真夜中、光源は今や枕元のランプだけ。
『アタシ、こわい』
『なにが?』
二人とも今まで見たよりもずっと若げに見える。時期はブランチ氏生誕以前だろう、たおやかなオニババのお腹はぼてれんだ。
抱き合う二人は、あの食卓での険悪さが嘘のように仲むつまじい。ブランチ氏は怒りを忘れてその様子を眺めている。ちなみに今回の攻略は彼の目的のため、もうムービーをスキップしないことになっている。
『アタシも、あの人と同じになるんじゃないかって』
『あの人ってお義母さん? 君をいじめていたっていう』
ブランチチは妻の不安を拭うように彼女の頭を撫でる。浮かない顔のオニババに束の間安らかさが戻る。
『きっとね、あの人はアタシの顔が嫌いだったの』
恋しい男の前ではオニババの喋り方も甘えてトーンが高くなっている。ハイトーンからのどん底な話の内容で男の庇護欲は倍率ドン更にドンだ。
『よく似てた……。小学校のいつだったかな、あの人の彼氏が言ったの。「見分けが付かないね」って。帰ったあと、血を吐くまで殴られた。でも、顔は殴らないのね。彼氏さんに気づかれちゃうから、体だけ。一番嫌いなところが殴れないのだから、いつまでもアタシのことが嫌いだったの』
自分の肩を抱くオニババは一言ごとに針に刺されるみたいな苦痛の表情を浮かべている。ブランチチは彼女から目を離さず話に耳を傾ける。
『その彼氏さんから捨てられた時も、あの人、怖かったの』
『どうして?』
『アタシが寝取ったんだって、首を絞められた。騒ぐといけないからって口の中に靴下を詰め込まれた。アタシ、あそこで一度死んだんだと思う。心臓がもう一度動き出したときにはゴミ袋の中に入ってた。こう、体を折りたたんで。捻られた足が痛くて……。
起き上がってあの人を見ると、あの人泣いて喜んだのよ。「グレイシア」って名前で呼んでくれた。
あの日からもうあの人を親と思うことは止めた。生まれ変わったの、アタシ』
『辛かったね』
夫婦というよりはまるで娘をあやす父親のように、夫は彼女の頭を撫で、目尻に浮かんだ涙をそっとすくう。
『でも、でも、最近本当は何も変わってないんじゃないか、結局母親になったら、アタシもそうなるんじゃないかって、こわくて仕方ないの。自分の子供の顔が憎くて殴りたくなるんじゃないかって』
『そんなことないよ。君は大丈夫だ』
ブランチチはここぞとばかりに彼女の肩を抱く。
『君は君のお義母さんとは違う。人を思いやることができる。自分と同じ目を人に見せたりなんかしないさ。それに』
『それに?』
腕の中の妻は、次の言葉を予期しているかのように促す。
『ここはもう僕たちの家だ。頼れる夫がついている。そうだろう、お母さん?』
甘い言葉を舌の上で転がすようにして、妻は顔をほころばせる。
『しっかり妻の私を支えてよ、お父さん』
見つめ合う二人の雰囲気はどこか手馴れていて、察するにこういったやり取りは夫婦の間で繰り返し行われていたんだろう。男の胸に頬をあてた女の熱い息がかかる。
『ごめんね、いつも不安になるたびに。アタシ、メンドクサいよね』
『いいんだよ。僕にも気持ち、少しならわかるから……』
愁いを帯びた夫を見て、妻は急に夫のパジャマに手をかけた。
えっ。濡れ場!?
『くすぐったいよ』
ではなかった。ブランチチのパジャマがめくられた腹には、小さな丸い火傷の跡がぽつんとあった。
彼女は焦げ跡を慈しむように触れる。それで夫の傷をいやせるとでもいうように熱心な触れ方で、夫はそのさまを眺めながらため息をついた。
『父さんは、悪い人じゃなかったけど、酒を飲んで帰った日はいつも最悪だった。仕事の不満を全部僕と僕の母さんに向けて、一回だけだけど、僕は灰皿になった。
アル中の治療を受けて今はまともになったらしいけど、もう十五年もあってない。とても見本にはならない』
『見本、父親の?』
『そう。僕も自信はないよ。本を読んで勉強してはいるけど、わからないことばっかり』
『アタシも貴方を支えるから、だって貴方の妻だから』
『ありがとう、グレイシア』
父となる男は妻のお腹を気遣いながら正面から抱きしめる。
母となる女は満ち足りた声を上げる。
『ふふ、生まれ変わったみたい……』
一つになったどちらかの手が、枕元のランプに伸びて、スイッチが切られる。
暗闇に包まれた。〈BGM〉がアオられてフェードアウト……あれ?
次に蛍光灯がつくとそこはまたブランチ家の壁紙とフローリングだった。ただし、昨日までと比べて随分綺麗になったようだ。つまり、ここに引っ越してきたばかりのころを表しているつもりだろう。
さて、ムービーが終わった。ブランチ氏は「そんな、今まで一度も聞いたことがない」とかなんとか呟いているが俺はそれどころではない。
さっきの〈BGM〉、ハバネラだったのだ。カルメンの名曲、恋は野の鳥。
俺はこの曲から『【悲報】俺の妹がこんなにかわいくてハメちゃったんだが』説を推している。それなのに兄妹と関係ない夫婦の場面でも流れていたら根底から覆される。
もっと悪いことは横の相棒がそのことに気付いちゃっていることだ。すっごいニコニコ笑顔でこちらを見ている。
俺は必死に弁解の言葉を探した。
「……まさか……妻と夫の禁断の恋……?」
「ホームラン級のバカだな、お前」
こんなはずじゃなかったんだけどなあ。
この後第三階層のイベントとムービーで語られたのは、名づけて『オニババ誕生秘話』といったところだ。
夫妻がこの家に引っ越してから、ラッド君が生まれて広くて何もなかった家に活気が生まれる。上品に笑う若奥さまの顔が苦難に歪むのはそれからすぐ先のことだった。
『オギャアアアアアアアアアアアアア!!』
夜泣きのラッドベビー!
俺たちの踏み込んだ真っ暗な部屋にいた赤ん坊は、一度泣くと耳が聞こえなくなるほど泣きじゃくり、俺が抱えるや否やモンスターの来襲。以降、対になる朝の部屋のベッドに寝かせるまであやしながらの探索、ちょっとでも泣き出せば強制戦闘というイライライベント。
ミリー誕生時にはそれをもう一度繰り返したし、さらに小さいころのラッド君は身体が非常に弱く夜中に痙攣を起こして救急車を呼ぶことが何度もあった。彼女の長い夜は続き、見る見るうちオニババは疲弊していった。
だが、彼女の災難は身内だけではない。
『ゴミイイイイイイイイイイイイイイ!!』
金曜日のお隣さん!
金曜日は不燃ゴミの日。不燃ゴミの分別は基準が分かりにくいため難しい。しかしお隣のおばちゃんは異常にこだわる人で、中身を覗き少しでも違っていようものなら目の前で何度でもやり直させられる。
そんな、彼女の苦難を追体験できるミニゲームが用意されていたわけだ。このミニゲームの最終ステージでは、袋から時限爆弾が出てきて爆発するまでに解体と分別を同時に行う気の狂った展開になった。最後の「赤い線は不燃ゴミ、青い線は市内の小売店、公共施設などの店頭で回収」という答えに辿り着くまで実に七回もプレイする羽目になった。
お隣さんはかなり意地の悪い人で、おそらくだがオニババの若さと美しさを妬んでいたと思われる。ゴミ出しに関わらず、足しげくブランチ家を訪れては彼女を苛んだ。じきにお隣さんは周り近所にオニババの日常の迂闊なミスを紹介して回るようになる。
噂話は尾がついてヒレがついて、滝を登って龍になる。曰く、彼女は夫の目を盗んであちこちの男を漁っている。曰く、彼女は子どもを虐待している、などなど。どれも笑えるほどにステレオタイプな悪妻のデマだが、心を傷つけ誰とも付き合う気を失くすには充分だ。
ものの二、三年で彼女は地域から孤立した。
元から友達もいない彼女に頼る人はおらず、抑うつ状態におちいり家事も難しくなった。自己嫌悪をつのらせていっそう深みにはまり、症状が少し改善すると目の前には手頃に殴りやすい的がいた。泣き声がとてもうるさかった。殴った。うるさかった。殴った。
こうして画龍は点睛を得、本当に誰からも疎まれるオニババが生まれたのであった。
午後最初の休憩までに進めた物語は以上だ。当初はあんなに白く清潔だった壁の漆喰も手垢で黄ばんで見え、フローリングも擦り傷が増えた。嫌味な演出だ、どう見ても昨日までより汚れているじゃないか。
ブランチ氏は俺たちから少し離れたところで体操座りをしている。彼は考え込む時間が増えた。打ちひしがれた様子で時折独り言をする。
「こんなこと、誰も教えてくれなかった……。こんなに追い詰められていたなんて」
「あ、これもオニババ誕生の一つの説というだけですよ。今までブランチさんが考えていらっしゃったように、オニババは最初っからああいう人だったという見方も、」
「人の母親をオニババとはなんだっ!!」
「あ、すみません」
やべー。気をつけなきゃ。
ブランチ氏を見ないように、首を逆方向に向けると相棒が思案顔で顎に手をあてていた。その悩んでいる内容は想像しやすい。
このダンジョンのテーマは奴の考えた児童虐待とも、俺の考えた近親相姦とも離れ始めている。これまで展開が一方的だったから何かあるとは想定していたが、過去編に突入し母親も被害者の属性が付与された。退屈で単純だった構図が複雑化しようとしている。俺たちは今後の展開を考え直す時期に入ったのだ。
目が合うと、奴は答え合わせをするように俺に問う。
「この間、親父は何してたと思う?」
「考えるまでもねえな」
第三階層でブランチチが登場したのはベッドでの一度だけだった。
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