エピローグ

 最後のコードを弾き終えて、僕は顔を上げた。

 河川敷の先に見える町並みに、橙が一筋差していくのが見える。澄んだような青さが消えて、夜がしっとりと馴染んでいく。光を受けてビルは陰り、黒い輪郭だけを残して切り取られたみたいに見えた。


 水っぽい色彩がじわり、じわり。

 暫く空の景色を眺めてから、手にしていたアコースティック・ギターを隣に置かれたケースの中に置いた。

 背の低い草木が茂る傾斜の先を、横切るようにして川が流れ、その川辺で犬が愉しげに駆け回っている。首元から伸びるリードの先にはジャージ姿の男性が一人。向かいからは買い物袋を提げた女性と子供がいる。まだ幼く女性の腰くらいしかない少年は、張り切って買い物袋を手に提げ誇らしげに歩いていた。それを女性は微笑みながら見つめている。互いに空いた方の手を繋いでいる。

 男性と親子がすれ違った。

 互いに軽く会釈をし、少年は駆け抜けていく犬を目で追いかける。追いかけて、大分先に言ってしまうと、やがて女性に嬉そうに何か言葉をかけ、女性はその少年の言葉に困ったように笑った。

 なんてことない、日常だ。

 先日まで体験していた出来事が、今になると本当に夢のよう思えてくる。いや、もしかしたら自分は今まで本当に夢を見ていたのかもしれないと、時折不安になる。

だから、そういう時はギターを持ち出して歌うことにしていた。

 僕が最後に作った曲を。

 彼女が書いた詩を。


 そうすると、不思議と不安が去っていくのだ。自分が今までもちゃんと現実にいた事を感じさせてくれる。

 けれど、同時にとても寂しくなる。彼女と自分が違う道を歩んでいることに、たった一つの選択の違いから生まれた二つの世界が、もう交わることが無いことに。

 僕らの小さなイエスタデイは、もう完成してしまった。


 腕時計を見て立ち上がる。ケースの蓋を閉じて、傍に置いておいたマフラーを首に巻くと、傾斜を登って路上に止めておいた自転車に触れた。


「アンコール、しちゃ駄目ですか」

 その時、背後から声がした。

 僕は振り返って、声の主を見た。

 彼女は遠慮がちに僕を見ていた。思い切った自分の言動が恥ずかしかったのか、少し頬が赤らんでいる。

「構いませんよ、聴いてくれる人がいるなら歓迎です」

 そう言うと、彼女は良かった、と微笑み、両手で口元を覆ってみせた。随分と可愛らしい仕草をする人だと思った。

「その代わり、持ち歌は一曲しかありませんよ」

「構わないです」

 微笑む彼女を見て僕は目を細めて頷き、ケースから再びギターを取り出して傾斜に胡座をかいて座る。彼女も少し間を空けて隣に座った。汚れますよ、と言ってハンカチを差し出したが、彼女は首を振った。折角綺麗にアイロンの掛かったスーツを着ているのに、と思ったがこれ以上言っても多分彼女は聞かないだろうと思って、ハンカチをしまうと軽く咳き込み、ポケットに手を突っ込む。

 ハンカチの代わりに取り出した音叉をギターの傍で打つ。二股の金属はふるると震え、耳元で小さな音を響かせる。

 暫くその音に耳を傾け、僕は瞼を下ろした。

 あのステージで、ライトアップされたあゆむの姿が瞼の裏に浮かぶ。青白くて、淡い光の中、たった一人で調子外れのギターを奏でる彼女の姿が。

 音叉が振動を止める。

 瞼を上げると、沈んでいく日がふらり街の奥に見えた。黒くて濃い陰が伸びて周囲を埋め尽くしていく。

「今日、満月だそうですよ」

 隣で同じように夕日を眺めながら、彼女はぽつりと呟いた。

「じゃあ、良い夜になりそうだ」

 呟きながら、ペグを摘んで調弦していく。弦を弾く度に音が生まれて、それがギターを通して伸びやかに広がっていった。

「綺麗な音色ですね」

「ありがとう」僕は言った。

「ずっと探していた音があって、偶然それに近い音を出してくれるギターを見つけたんです。それ以来僕のお気に入りです」

 ふうん、と彼女は言うと、隣で膝を抱えて、息を吐き出した。白い吐息がふわりと浮かぶ。

「羨ましいなぁ」

 彼女は膝を抱えながらそう口にする。「羨ましい?」と僕が問いかけると、彼女はこくりと一度頷いて、それからギターにそっと手を添えた。

「一期一会って言葉があるじゃないですか。二度と同じ出会いなんて無い。それは人でも楽器でも、何にでも当て嵌まると思うんです。だから、人生に二度似た出会いがあった貴方は、とても幸運なんだと思います」

「一期一会、ね」含みのある言い方をすると、彼女は不思議そうに首を傾げた。

「僕には、当てはまらないかもしれない」

「どうしてです?」

 微笑む僕に、彼女は困ったように顔をしかめる。

 さて、と。

 調弦を終えたギターでコードを、優しく撫でるように鳴らした。ふわりと音が広がって僕とギターを中心に音が波紋を描いて広がっていく。

 彼女は瞼を閉じると、心地よさそうに髪を掻き上げる。黒髪の奥に、タートルネックで隠れた首筋が見えた。

「私、その音好きです」

「それは良かった。曲の初めがこの音なんだ」

 そう言ってもう一度コードを鳴らす。彼女は心地よさそうに音に耳を澄ましていた。その横顔を眺めながら、唐突に言葉を口にする。

「この歌、貴方はとても好きだと思いますよ」

 その言葉に、彼女は不思議そうな目をする。

「なんとなくそんな気がするんです」

 首を傾げている彼女を横目に、僕はコードを鳴らす。唯一の持ち曲の、始めのコードを。

 本当は生まれてくるはずのなかった夢の中の一曲。

 四つのコードを繰り返し奏でながら、歌詞とメロディを頭に思い浮かべる。

 僕は大きく息を吸い込み、陽の暮れていく空に向けて大きく口を開ける。


 ナインスコードから始まるイエスタデイを、そうして僕は歌い始めた。



   了

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ナインスコードのイエスタデイ 有海ゆう @almite

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ