外伝

怪物姉開戦記


 

 ごくり、と緊張を飲み下すために喉を鳴らす。

 己の服装に問題はないか、川面を覗き込み何度もチェック。

 宮仕え初日として、失礼のない格好で向かわなければならないため、その目はいつにも増して真剣である。

 見学や研修、挨拶などでは執政省に入ったことは何度もあるが、その一員として入るのは今日が初めて。

 

 ユウキ・メイラー18歳。

 執政官秘書として、本日初出勤。

 

 心の中で何度も突撃の雄叫びを上げる。

 気合いのノリは最高潮。

 あとは顔を上げ、出撃するのみ!

 さあ行け、ユウキ・メイラー! 職場がお前を待っている!

 

「……緊張するなあ」

 

 心の中はどんなに強気でも、表に出るのはヘタレだった。

「……まあ、どれだけ緊張したところで、今日が初出勤だってことには変わりないしな」

 半ば諦めつつ顔を上げる。

 それに、緊張感があった方が、間の抜けた失敗をしないで済むかもしれない。

 学院生時代はそんな失敗を大量にしてしまい、仲の良かった先輩に幾度となくからかわれてしまった。

 これからは、そうならないようにしなければ。

 それに、同期の少女も確か今日が初出勤だったし、2人で助け合えばどうにでもなるはず。

 そうだ、無駄に気負う必要なんてない。

 どうせ自分は新人も新人、仕事なんて知識としてしか覚えてない半人前だ。

 失敗を恐れるのではなく、成長することを考えなければ。

「――よし、行くか!」

 気合いを入れて、川に背中を向けた。

 ありがとう川さん。貴方のおかげで、自分を見つめ直すことができました。

 

 そんな清々しい気持ちで街道に目を向けると。

 

 

 お尻が見えた。

 

 

「――んなっ!?」

 不意打ちな色っぽい情景に、ユウキの心拍数が跳ね上がる。

 黒いスカートを履いた女性が、四つん這いになっていた。

 そのお尻がこちらを向いており、慌てているのか裾が乱れて、やや上にずれていた。

 肉付きのいい立派なお尻に、すらりと伸びた白い脚。

 男なら誰でも凝視したくなる、そんな光景に、しかしユウキは全力で抵抗した。だって女性振り返って目が合ったりしたら滅茶苦茶気まずいし。というか変態扱いされてしまうし。

 というわけで、慌ててそっぽを向こうとして、――足がもつれる。

 そしてそのままバランスを崩し――

 

 どぼん、と。

 

 早朝の運河に、大きな水音が響いた。

 

 

 

 

 

 

 ――私は様々な秘書を付けてきたが、初日にしわくちゃの官服で出勤してきたのは君が初めてだよ。

 

 ユウキが付くことになった初老の高官――クロス・ケレブは、溜息混じりにそう言った。

 これでもできるだけ乾かしたんです、と言い訳したかったが、何の意味もないので止めておいた。

 綺麗に糊付けされていた襟は今や見るに耐えない代物になっていて。

 本来なら挨拶回りをすべき初日に、ユウキは机仕事を大量に押しつけられていた。

 無様な姿の秘書を連れて歩くわけにいかないのは当たり前である。

 悪いのはあくまで自分。

 今はとにかく、この大量の書類仕事を黙々とこなさなければ。

 書類仕事に関しては、学院生時代に勉強していたことが殆どなので、特に違和感なく進められた。

 クロス執政官には多大な迷惑をかけてしまったので、せめてこの仕事だけでもしっかりとやらなければ。

 

 

 しっかし。

 女性のお尻を偶然見てしまっただけであそこまでうろたえてしまうとは。

 自分のそういった方面への免疫の無さには涙が出る。

 学院生時代は美人の先輩と、よく一緒にいたので、そういうのには慣れていてもおかしくないのだが……。

「……アマツさんに相談してみようかなあ」

 でも、相談したら豪快に笑われそうな気がする。いや、笑われるだけでは済まないか。

 

「――なにを相談するって?」

「うわあっ!?」

 

 いきなり背後から声をかけられて、ユウキは情けない悲鳴を上げた。

 慌てて振り向くと、そこには見慣れた顔がひとつ。

「なんだ、サラか。脅かさないでください」

「うっさいわね。貧相な格好で出勤した馬鹿が生意気な口きいてんじゃねーわよ」

「はいはい、それは失礼いたしました」

 

 いきなり声をかけてきたのは、女性用の官服に身を包んだ顔馴染みだった。

 名前はサラ・フルムーン。ユウキと同い年の少女で、他の高官の秘書となった学院同期である。

 

「で、何の用ですか? サラはベボユ様付きでしたよね。ここはクロス様のお部屋ですけど」

「んなこたーわかってるわよ。

 ボクはね、初日に情けない失敗をして落ち込んでるだろう同期を笑いに――って、あれ?」

「? どうかしました? 泥魚みたいな変な顔をして」

「誰が泥魚よ! じゃなくて、ユウキ、なにやってるの?」

「普通の書類仕事ですけど……。水路管理のやつは講義で扱ったのと同じ形式ですね」

「いや、それは私もわかってるけど……ちょ、これ全部ユウキがやったの?」

「そうですけど……まだ半分も終わってませんよ?」

「早すぎだって! っていうか、私なんてまだ書類触らせてもらえないのに!」

「……罰みたいなものですから」

「で、でも、水量計算とか、普通もっと時間かかるよね?」

「そうでしょうか……?」

 

 ひょっとしたら、長期休暇のときに色々な書類整理の練習をやっていたのが良かったのかもしれない。

 遊びに行くお金なんてなかったため、ひたすら寮に籠もって勉強していた記憶がある。

 まあそれはそれとして。

 

「で、人を笑いに来たのなら、好きなだけ笑っていってくださいな」

 反論できる余地は皆無なので、嘲笑は甘んじて受けなければならない。

 これをバネに、明日以降頑張ることにすればいいのだ。

「あー、うん。笑いに来たんだけど、……えっと、そろそろお昼じゃない?」

「……そういえばそうですね」

 窓の外に目を向けると、さんさんと照った太陽がちょうど真上でのんびりしていた。

「ボク、ちょうどお昼休み入ったとこなんだ。折角だから、一緒に食堂行かない?」

「んー。ですけど、クロス様はまだ戻ってきませんし、勝手にここを離れるわけには……」

「……むー」

「申し訳ありませんが、サラは先に食堂へ向かってくれませんか?

 僕の方も終わり次第向かいますから、良い場所を取っておいていただけると助かります」

「……仕方ないわねー。お昼休みいただいたら、すぐに来るのよ!」

「善処します」

 

 何故か少しだけ上機嫌なサラは、軽い足取りで部屋から出て行った。

「……って、そういえばサラ、ノックしてませんでしたよね」

 アレでいいのか秘書一年目。あとで注意しておかなければ。

 

 

 

 

 

 その後。

 戻ってきたクロスは、ユウキが7割ほど済ませた書類の束を見て、かなり驚いていた。

 さっぱりわからずに泣きつくか、できてもせいぜい2割程度だと思っていたそうな。

 ユウキは官服の件を許され、新しい制服を渡された。

 これに着替えて昼休みを取ってきなさい、とはクロスの言葉。

 どうやら、ユウキのために新しい官服を一式揃えてきてくれた模様。

 しきりに恐縮したユウキに対し、初老の執政官は、

「今はそれほど忙しくはないからな。雑務官の娘の尻を撫でるついでだ」

 と笑って言った。

 好々爺という言葉が似合う、気のいい上司である。

 この人の部下でよかった、と。ユウキは思った。

 

 

 

 

 

 そんなこんなで昼休みをいただき、サラが待っているであろう食堂へ向かう途中で――

 

 再び、お尻を発見した。

 

「って、ええっ!?」

 朝に見たのと同じお尻のような気もするが、別にそこまで凝視していたわけではないので不確定である。

 ではなくて。

 よく見ると、お尻の主は、四つんばいになって何やら拾い集めている模様。

 小さく細かいもののようで、床に口づけしそうなくらい、顔を寄せて探している。

 

「あの、拾うの手伝いましょうか?」

 足下に気を付けながら女性に近付く。

 それに気付いた女性は、長い黒髪を静かに揺らし、ユウキの方へと振り向いた。

 

 その顔を見た瞬間。

 ユウキの胸は、内側から強く叩かれた。

 

「あ、えっと、その、お、落とし物拾うの、て、手伝いましょうか?」

 何故か上手く言葉を紡げず、つっかえつっかえで声をかける。

 ばくばくと心臓が暴れている。

 ユウキは女性に不慣れな方ではあるが、ここまで話すのに手間取るほどではない。

 一体何が原因なのか。

 布越しでも肉付きの良さがわかるような、形の良いお尻を見てしまったからか。

 振り返った女性の顔が、とんでもなく整っていたからか。

 流れる黒髪の美しさに目を奪われたからか。

 理由はわからない。でも、間違いなく、今この瞬間、ユウキはこの女性に心を奪われていた。

 

「あっ! 川に落ちた人じゃないですか!」

 

 鈴を転がすような明るい声色で、

 四つんばいのまま、女性はそんなことを言ってきた。


 

 

 

 

 女性と一緒に四つんばいになりながら、ユウキは床に散らばる小さな欠片を拾い集めていた。

 落とし物は、柔らかい軽石のようなもので、強く擦るとさらさらと崩れてしまう。

 なるほど、これなら四つんばいになって慎重に拾うのが確実である。

 

「どうもすみません……わざわざ手伝っていただいて……」

「気にしないでください。ちょうど昼休みですし。……ひょっとして朝も同じように?」

「み、見られてたんですか!? うう……お恥ずかしいところを」

「えっと……」

「こっちに来てから失敗ばかりで……このままでは、帰ったときにセっちゃんに怒られちゃいます」

「セっちゃん?」

「ああ、妹です。故郷でお留守番中なんですけど、いっつも私のこと馬鹿にするんですよ!」

「は、はあ」

「この前だって、セっちゃんが怪我したから手当てしてあげたのに、あとでぷんすか怒るんですよー。

 理由を聞いてみたら、包帯と下着を間違えたからですって。清潔な布には変わりないのにー……」

「…………」

 

 会話をしながらふと思った。

 この女性、相当天然ではなかろうか。

 

 よく見ると、鞄の底に大きく穴が空いている。

 確かにこれなら、通路のど真ん中で荷物をぶちまけてもおかしくない。

 拾い終わったら、指摘してあげなければ……。

 

 現在、ユウキと黒髪の女性が作業しているこの通路は、どうやら人通りが滅多にないところのようで、2人揃って四つんばいになっているところを見とがめられた様子はない。

 というか、見つかったらとんでもなく恥ずかしい気もするが。

 

「そういえば、自己紹介がまだでしたね。

 ――私、ユメカっていいます。ユメカ・ヒトヒラです。

 田舎者でご迷惑おかけしました」

 

 迷惑云々は田舎者とかそういう問題ではない気もするが、まあそれはそれとして。

 ユウキも自校紹介を返し、そのまま2人で雑談しながら作業を続けた。

 

 

 

 

 

 そして、あらかた拾い終わったところで。

 

「そういえば、これ、何なんですか?」

 

 ふと気になったことを訊いてみた。

 黒髪の女性――ユメカは、ぱちくりと目を瞬かせて。

 

「えっと、媚薬です。粉末状のを固めてあるんですよ。

 吸ったら効果が出ちゃいますから気を付けてくださいね?」

 

 

 は?

 

 

「って、いけない!

 これ、機密事項でした! どうしましょうユウキさん!?」

「え? ちょ、その」

「あああ、とにかく口封じしなくちゃ! まだ任務終わってないし――ていっ!」

 

 がつん、と。

 後頭部に手刀を叩き込まれて。

 ユウキの意識は、そのまま暗闇の中へ落ちていった。

 

 

 

 

 

 目が覚めたら、身動きが取れなかった。

 暗くて狭い部屋の中、どうやら縛られている模様。

「ここは……?」

 ぼんやりとした頭で辺りを見回すと、すぐ近くから声がかけられた。

「――今は使われていない倉庫です。離れの方にありますから、近くを人が通りかかることもありません」

「……ユメカ、さん?」

 先程までの明るい雰囲気はどこへやら。

 冷たい視線を突き刺すユメカが、そこにいた。

 

「ユウキさんは、知ってはならないことを知ってしまいました。

 親切で手助けしていただいた手前、抵抗はあるのですが、仕方ありません」

 完全にユメカの自爆だと思うのだが、ユウキは彼女の雰囲気に呑まれて何も言えなかった。

「本来ならお亡くなりになっていただくところですが……場所も場所ですし、死体の処理が面倒です」

 言っていることは物騒なのだが、あまりに物騒すぎるので、逆に現実味がないなあ、とユウキは思った。

 

「……き、今日のことは誰にも言いません」

 だから解放してほしい、と。駄目で元々、提案してみた。

「すみませんが、その言葉には何の確証もありません。

 ですから、このまま解放というわけにはいきません」

 

 では一体どうするつもりなのだろうか。

 まさか、記憶がなくなるまで殴るとか言わないだろうな……?

 

 と、ユウキがビクビクしていると。

 

「――ユウキさんには、共犯者になってもらいます」

 そう言って、ユメカは着ている服を脱ぎ始めた。

 

「へ?

 って、ちょ、ユメカさん、なにを!?」

「都合のいいことに、手元に媚薬もあります。完璧ですね!」

「いやちょっと待ってください! 全然完璧じゃありませんよ!?」

「だってー……ユウキさん、凄くいい人みたいですし、乱暴な真似はしたくないので……」

「だからって何で裸!?」

「一緒に気持ちいいことして、ついでに私の仕事も手伝ってください☆」

「わけわかりません! と、とにかく服を着てください! あと☆ってなんですか☆って!?」

「え? 着たままの方がいいんですか」

「そうじゃなくて! ああもう!」

 

 じたばたと暴れるユウキ。

 それを微笑ましく眺めながら、ユメカは怪しい笑みを浮かべる。

 

「もう、ユウキさんってば可愛いですね。いっぱい、ご奉仕しちゃいます」

 ぺろり、と下唇を舐めるユメカ。

 ユウキは身の危険を感じ、とにかくこの場を逃れようと必死に思考を巡らせる。

 縛られて身動きの取れない状況。

 ユメカは何やら非合法な任務の最中。

 物理的な口封じも手段のひとつとして存在する。

 そして何より、ユメカのぶっとんだ思考回路。

 

 ――結論。

 

「あ、あの……ユメカさん」

「何ですかあ。もう観念しちゃってくださいよう」

「いえ、ひとつだけお願いが」

「?」

 

「ふ、服だけは脱がせてください。

 これ汚しちゃったら、換えがありませんので……」

 

 こうして、ユウキは屈することになった。

 

 

 

 

 

 

 

 

「……遅い!」

 

 執政省の食堂にて。

 窓際の席を確保していたサラは、不満の叫びをおもむろに上げる。

 与えられた昼休みは、もうじき終わろうとしていた。

 そろそろベボユ執政官のところに戻らないと、雷が落ちる恐れがある。

 きゅるるる、と可愛くお腹が鳴ってしまう。

 同期の青年を待っていたせいで、結局昼食にはありつけなさそうだ。

 

 重い溜息を吐いて、サラは立ち上がる。

 そしてそのまま、食堂をあとにした。

 2人分のランチが、机の上に残される。

 

「――ユウキ、何やってるのよう」

 

 

 

 強姦されてるだなんて、一体誰が想像しようか。

 

 

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