第八話 午後八時
榊と馬垣が大学に向かった後、私は署内で偽装工作に励んだ。
全員が行動を共にしたのでは、怪しまれる。
むしろ私が署内に留まって、今まで知能犯や経済犯を専門としていた班を訪問して、念入りに引き継ぎを受けていたほうが、命令に従順に従っているように見える。
そこで、午後はずっと内勤で、最近の経済事案に関する話を聞いていたのだった。
その後、少し書類整理を進めて、ほどほどのところで帰宅する。
定時は過ぎていたが、なんだか久しぶりに早く家に帰れる気分だった。
*
車を下りた時、いつもとは何かが違うような気がした。
(なんだろう)
車のドアを開けて、右足を外に出した状態で動きを止める。
この時間に帰宅したのは久しぶりだからだろうか。
いや、そうではない。
そういえば、いつもなら楽しそうに吠えるカニコ二号が静かだ。
私は身構えて、車の前方、自宅の門の前を見る。
全身黒づくめで、目出し帽を被った男が、静かにそこに立っていた。
あまりにステロタイプな服装に思わず笑いそうになるが、その衒いのなさが却って『暴力のプロ』であることを匂わせ、私は気を引き締めた。
また、如何にも怪しい姿であるにも関わらず、彼から暴力的な香りがほとんどしなかった。
膨れ上がった上腕二頭筋であるとか、無理に押し込めたような胸板であるとか、そのような分かりやすいアイコンがあれば話は簡単なのだが、目の前の男はどちらかといえば、華奢なほどに痩せている。
加えて、彼はその体を緊張させるでもなく、何気なく立っていた。自然にぶらりと下げられた両腕からは、むしろこの状況をリラックスして楽しんでいるのではないか、という雰囲気すら感じられる。
以上三点、これは容易な相手ではない。
警察官の基本的な素養としての『格闘術』しか修練していない私には、必要に迫られて格闘技を身につけた者は、十分な脅威である。
しかし、単にやくざの世界で腕力頼みで生き残ってきた普通のやくざ者は、縄張りや主従関係に縛られており、暴対法の規制もあるので、意外に交渉の余地が残っている。
目の前の男には、それが全く当て嵌まらない。
(交渉の余地なしか)
自分が極めて冷静であることに、少々驚く。
警察官である以上、「いつかはこんなことが起こるかもしれない」という想定はしてあったが、さほど蓋然性が高いものではなかった。
それが現実になったのだから、もう少し慌ててもいいのではないだろうか、と我ながら思う。にも拘らず、将棋で相手が定石通りに駒をすすめた程度にしか、感じていない。
危機感のない勝負は、敗北に終わる。
恐怖や危機感があるからこそ、相手の動きを読んで先回りしようと考えられる。今の自分のあり方は――諦めに近いのではないか。
圧倒的な実力の差に、最初から戦いを放棄している。
自分が背負っているものはそんなに多くはないが、それを守るために力を振り絞ろうという気力は湧いてこない。
むしろ、守るための大騒ぎに守るべき者を巻き込む、その可能性を恐れている。彼の目的は私の命だけであり、その他のものは目的遂行の障害にならなければ関係がない、と考えているはずだ。
私は言った。
「理由はよく分からないけれど、目的はよく分かったわ。騒ぎが大きくならないうちに最小限で終わりしなさい」
男の手が、ゆるゆると上がり始める。
それは、夏の日のかげろうのように現実感を伴わない眺めだった。
男は間合いを詰めてくる。
何気ない動きであるにも拘らず、そこには舞のような優雅さがあった。つまりは熟練者ということだ。私はその動きに見覚えがあるような気がした。
最近だろうか。そう、多分最近だ。
どこでだろう。そう、体育館の中でだ。
あの激しい格闘技の試合の後、パパが覆面格闘家に近づいた時の動き。
それに似ているような気がする。
確かに彼も古武道の修練を積んだことがある。それでだろうか。
しかし、パパはもう修練はしていない。それは私を助けたからだ。
関係のないことが次から次へと浮かんでくる。どうして自分はこうも冷静なのだろう。さっきまでは『諦め』だと思っていたが、そうでもない。
恐怖はない。
体の震えもない。
むしろ落ち着いてさえいる。どうしてだろう。
その答えが、玄関のドアを開けた。
*
室内の光が漏れ出してくる。
「ふむ。やはりそうでしたか」
パパがゆっくりと姿を現した。
「多重波状攻撃とは、なかなか戦略的ですね」
そう言いながら、私の前に出る。
黒尽くめの男の足は止まっていた。
二人はそのまま対峙する。
「しかし、実力行使とは――」
そこで、急にパパが言葉を切った。
パパの背中が引き締まるような動きをする。
同時に、黒尽くめの男の手が上がる。
右手を前に出して手刀、左手は引き気味で握り拳。
「――うん。これは珍しい」
パパは背中を緩める。そして――
左足を半歩前に出すと、静かに両腕を大きく広げた。
その腕を緩やかに上下に振る。
右と左のリズムがわずかに異なっているのか、往復する間に僅かずつ動きに差が生じていく。
しかも、右は右、左は左のリズムを崩さない。
妙に集中力を乱される動き。
黒尽くめの男は動けない。
いや、先ほどとは違って、わずかに狼狽しているらしい。
手刀の先がわずかに揺れている。
よく見てみると、パパの右手の動きに合わせて揺れたと思うと、今度は左手の動きに合わせて揺れ始める。
それを何度か繰り返した後、
男は静かに後退り、身を翻すと闇に消えた。
パパは動きを止めると、
「ふう」
と小さく息を吐いて腕を下ろした。そして、私の方を振り返ると、いつものように大きく笑って、言った。
「ごめん。隠し事がある。話したいので家に入ろう」
私の背中を軽く押してくれる。
その時、私は確信していた。
そう。諦めでも恐怖でもなく、パパが家にいることが分かっていたので、自分は安心していられたのだ。
あんな絶体絶命の瞬間でも、必ずパパが助けに来てくれることを信じていたからこそ、動じることはなかったのだ。
『隠し事がある』とパパは言った。
しかし、何を言われても私の信頼は揺るがない。
今度は私の番だ。
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