第七話 午後七時
周囲に不穏な動きがあることは、朝から気がついていた。
自宅を出た直後から、監視の目があることを感じる。
しかも一人、二人ではない。どうやら組織的に監視されているらしい。
特に武道の修練もしたことがない自分が、こうもやすやすと察することができるほどだから、おそらくはわざと気配を表に現しているのだろう。
(これは警告だ)
四月朔日は、鞄の中に携帯電話があることを確認しながら、今日の打ち合わせの相手のところに電車で向かった。
(わざと存在を知らせて、こちらの動きを確かめようとしているんだ)
相手がどれだけの組織力を有しているのか、見当もつかない。警察であれば、こんなあからさまな方法はとらないはずだから、その可能性は排除できる。しかし、そうなれば残る可能性は『彼ら』だけだ。
(相手が具体的な行動に出始めたということは、私が最終段階まで肉薄していることの証明になるわけだけど――)
それにしても、遠巻きにしている意味が分からない。直接、私を確保すればよいのだ。それをしないで泳がせておく理由は、ひとつ。
(仲間がいるかどうかを確認すること)
そうに違いない。
おそらく、これまでの捜査資料も閲覧しているのだろう。協力者の存在も、おぼろげながら把握しているのではないか。そして、私が不安に押しつぶされて、協力者に助けを求めるのを待っているのだ。
(先生は巻き込まないつもりだったのに)
密かに唇を噛む。携帯電話を握る手が汗ばんでいた。
いずれにしても、彼らの監視の中で連絡を取ることはできない。
*
今日の予定は終わった。
作家との打ち合わせだったが、若干要領を得ないままで終わってしまった。状況が状況なので仕方がないと割り切る。作家に別れを告げると、四月朔日は駅に向かった。
打ち合わせの場所は世田谷区の上野毛付近。
そこから、東急大井町線の大井町方面行き、進行方向の一番先頭車両に乗る。
会社や家に向かうには二子玉川のほうが便利だったが、今日は目的が違う。
途中の大岡山で、東急目黒線がホームの向かい側に停車していたので、乗り換えた。
出発のベルが鳴る。ドアが閉まりかけたところで、急にホームに降りる。他に降りた乗客の姿はない。
これで、大井町線から目黒線に乗り換えていた尾行は振り切ることができたはずだが、油断はできない。
そのまま眼の前の階段を上り、反対側のホームまで移動する。
目黒線の逆方向の電車に乗り、途中の多摩川駅で東急多摩川線に乗り換える。
蒲田まで移動して、今度はJRで川崎へ。
川崎からはJR南武線で立川に向かう。
そして、立川から多摩モノレールに乗り換えて、甲州街道駅まで移動した。
すべて、ドアが閉まる寸前に飛び降りて、他に下りた者がいないことを確認してから乗り換えた。これで恐らくは尾行の目を逃れることができただろう。
甲州街道駅から徒歩で、中央高速道路の日野バス停に向かう。途中でインターネットから高速バスの乗車券を一枚購入した。
今日は金曜日。都心の高速道路は渋滞しているが、日野のあたりまでくると渋滞は解消されている。車が高速で通りすぎてゆく中、吹きさらしのバス停にある待合室に座って、バスを待つ。
このバス停には高速バスの松本行きが停車するのだ。
*
しばらく風よけのある待合室に一人で座っていると、誰かがやってきた。
(追手か?)
身構えると、なんだか細長いシルエットの男が現れた。
学生のようだ。Tシャツにジーンズ、荷物はどこにでもある量産品の黄色いデイパックだった。尾行にしては軽装すぎる。あまりの身軽さに緊張がほどけた。
男は待合室に向かってくる。
背が高い。天然パーマだろうか、乱雑に乱れた縮れ毛が、風に弄られている。その隙間からのぞく瞳は、眠そうな熊の縫いぐるみを思い起こさせた。
誰かに似ている。顔ではなく、雰囲気がだ。
男は飄々とした足取りで待合室に入ると、こちらに軽く一礼して座り込むなり、デイパックから本を取り出して読み始めた。本のタイトルは谷崎潤一郎の『陰翳礼讃』。
なかなか渋い好みである。自分の置かれている状況をしばし忘れて、その男の様子に見入ってしまった。
「あの、何か気になることでも」
本から目を上げずに、男が語りかけてくる。
「あ、いえ。その本が気になってしまって」
「ああ、そうですか」
男はこちらを向く。そして人懐こい表情で微笑むと、文庫本の表紙を示して言った。
「これ、好きなんですよね」
よく見ると、あちこち表紙が破れており、その都度セロテープで補修されていた。かなり年季の入ったその姿から、彼がその本を何度も繰り返し読んで、大切にしていることが伝わってくる。
「別に絶版じゃないのだから買い換えればいいのに、ってみんなに言われるんですが、これは兄貴から貰った本なので愛着があるんですよね」
聞いてもいないことを気軽に話してくる。男の、その無防備さになんだか心を暖められた。
「本を大切にする人に悪い人はいません」
「あ、そうですか。有難うございます。そうですよね。悪い人はいませんよね。うんうん」
なんだか盛大に納得されてしまった。
(彼は尾行者ではない)
と四月朔日は確信していた。そして、彼が尾行者であっても仕方がない、と腹を括った。それであれば、人を見る目がなかったと諦めもつく。
四月朔日は今日初めて心の底から微笑んだ。
と、同時に携帯電話に着信がある。
鞄から取り出して画面を見ると、病院からだった。
*
(四月朔日さんですか、よかった。やっと捕まった)
打ち合わせの時からマナーモードにしてあったので、気がつかなかったのだ。
「すみません。マナーモードになっていたので」
迷惑ではなかろうかと思い、男に視線を向けてみると、既に彼は本を開いていた。表情が柔らかい。特に問題はなさそうだ。
「それで、娘になにかあったのですか」
「それが、午後六時ぐらいでしょうか。急に男性がやってきて『転院させることになった』と言い出しまして」
血の気が引く。
「なんですって。そんなの無理じゃないですか」
「それがですね。あの、何と言ったらいいのでしょう。映画で見たことがありませんか。エボラウイルスが蔓延した地域で医療活動を行う時のような、あのごつい無菌設備」
「あ――でも、私は何も聞いていません」
「えっ、そうなんですか。彼ら、お母様の許可はもらっていると書類まで出してきて。連絡取れなかったので、前に出してもらった書類で筆跡も見比べたのですが、確かに同じものと思いましたので、やむなく――」
「そんな――それで娘はどこに」
声が裏返る。
男が心配そうな表情でこちらを向いていたが、それを気にしている余裕はなかった。
「どこに転院したのですか」
「それが、K大附属病院だという話だったんです。書類の引き渡しに不備があったので、事後に連絡をしてみたのですが、『そんな予定はない』と言われまして。何か聞かれてはいませんか」
後半部分はまったく聞いていなかった。
やられた、まさかそんな強硬手段に出るとは。これでは娘を人質に取られたようなものだ。
震える指で病院からの電話を切ると、そのままメモリーされていた電話番号にかける。呼び出し音が一度なっただけで、相手が出た。
「もしもし、笠井さんですか。娘が、娘が――」
その名前を読んだ途端、若い男が急に腰をあげたのを、目の端で捉える。
「もしもし、四月朔日さん。どうしたんですか」
笠井洋の声が、彼方から聞こえてくる。
四月朔日は呆然と、立ち上がった目の前の男を眺めていた。
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