第六話 午後五時三十分
帰宅前、更衣室で着替えていると、総務課長の飯島が近づいてきた。
彼は洋よりも七歳上、総務課に高卒で入社した後、じっくりと叩き上げられてきた古兵である。その学歴から本社勤務の対象とはなっていないが、培ってきた実力は侮れない。
本社の事業部長が長野県の事業所長を拝命する時に、前任者からこう引き継がれるという噂がある。
「くれぐれも飯島君を敵に回してはいけないよ」
彼が狷介な人物だという意味ではない。
権力に左右されずに言うことを言う。それを嫌って彼を閑職に回そうものなら、事業所の運営に支障をきたす。
彼自身の事務処理能力の高さもさることながら、事業所のあちこちにいる彼のシンパが一斉に敵に回るからだ。
ある事業所長は、朝、秘書からのお茶が出なくなったことに衝撃をうけて、早々に敵対行為を撤回したという。
飯島自身は、極めてフレンドリーな人間である。
「よう。仙崎さんから内々に聞いたよ」
洋は苦笑した。
「まさか、飯島さんまでが説得――ということではありませんよね」
飯島は角刈りした白髪頭をかきながら、浅黒い面長な顔をしかめて笑う。
「言ってくれるなよ。仙崎さんはなかなかの人物だからな。そんな無駄なことはしないよ」
「すいません」
「まあ、しかし、なんとかならんかと相談されたのは事実だがな。なんともなりませんと答えておいたが、礼は言うなよ」
先んじて止めた飯島は、顔を引き締めて続ける。
「――やめるつもりか」
「回答は保留しました」
「そいつは何故」
飯島は意外なことを聞いたという顔をした。
「お前のことだから、そんな無茶苦茶な話をされたら、さっさと辞表を出して別なところに転職するものと思っていた。ほら、業者の中には『笠井さんなら明日にでも来てほしい』というところは無数にあるだろう?」
「そんなことはありませんよ」
「そんなことはあるんだよ。この辺の総務課長の会合で、お前の話を何度持ちだされたと思っているんだよ」
飯島が真顔で言う。
「俺にしても仙崎さんにしても、お前が他に移ると困るんだよ。仕事がやりにくくなる。この辺一帯の経理関係者が、全員敵に回るからな」
「そんな――」
「そんな、じゃないって。まったく」
そういうと、飯島は洋の頭をがしがしと撫でた。この男特有の愛情表現だ。
「で、どうして保留なんだ」
「誰にも言わずにおいてもらえますか」
飯島には本当のことを言っておいたほうが良いだろうと、洋は判断した。
「もちろんだ」
飯島もそんな洋の思いを受け止めたらしく、力強く了承する。
「時間稼ぎなんです」
「なんだって」
「今回の異動はどうもおかしい。かなり上の方から圧力がかかっている気配があります」
「それは仙崎さんからも聞いている。俺もそう思ったが、しかし社長がわざわざ――」
「社長ではありません」
「――なんだって」
飯島はそう言うと、表情を強ばらせる。
「そんな馬鹿な。社長ですらないということが――お前、何を考えているんだよ。誰を敵に――いや、おかしいな」
彼は顎に手をあてて考え込む。
「じゃあ、なんでわざわざお前を栄転させようとするんだ? 意味が分からない」
「だから、時間かせぎが必要なんです」
洋は飯島の困惑をよそに、涼しい顔で言った。
「ここで辞職という手段をとったとしても、相手が不明では行った先で同じ手段を取られる可能性がある。むしろ相手の正体が掴めるまでは、多少なりとも時間的な余裕を確保しておいたほうがよいと思いまして」
「それはそうだが――やはりよく分からん」
飯島は白髪頭を乱暴にかきながら、顔をあげるとにやりと笑った。
「よく分からんが、俺でよければ力になるぞ」
「ありがとうございます。でも、ちょっとそれはできません」
「どうしてだよ」
「それは、他の戦略が考えられるからなんです」
「他の戦略?」
「そうです」
洋は穏やかな表情で、不穏な言葉を口にした。
「もし、これが同時多発テロの一つにすぎないとしたら、関係のない周囲の方々まで巻き込むことはできません。それに――」
怪訝な顔をしている飯島に向かって、洋は告げた。
「多分、本来の狙いは私ではありません」
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