第四話 午前十二時
命令を告げられた榊は、憤慨した。
捜査課の会議室。
構造の簡単な会議テーブルと折り畳み椅子だけの殺風景な部屋である。
片隅の電話台の上に赤いプリザーブド・フラワーがいつの間にか置かれていたが、それが全体的にくすんだ色合いを、余計に強調しているように見えた。
榊と馬垣に署長からの命令を伝えるのがこの時間になってしまったのは、捜査のために午前中に立ち寄るところがあったからだ。
昼前なのに申し訳なかったのだが、帰ってきた早々に二人を呼んで、署長の言葉をそのまま伝えた。
「なんで今さら、そんなことを」
榊は、ショコラ・デ・トレビアン事案に関して、かなりの労力を費やして情報収集を行ってきた。これは、他部署との連携がさほど上手くない鞠子や馬垣にはできないことだった。
持ち前の明るさや、人の心にすんなりと溶けこむ要領の良さで、榊は本来入手困難なはずの他の署の捜査情報ですら、入手していた。
だからこそ、今回の決定には納得がいかないのだろう。
「榊、落ち着けよ。そんなことは警部も分かっているよ」
一方、馬垣はまったく動じていない。
もちろん、彼とて本件を素直に了承していた訳ではない。むしろ、捜査中に重傷を負うなど、彼にとっても本事案は重要であり、解決に対する意気込みは深いものがあると思う。
先般の体育館での暴走からしても、彼の伝承する『微塵流』が本事案にかかわっているらしいことを、簡単に諦められるとは鞠子も思っていない。
しかし、刑事として縦社会の命令に対して、彼は表向き淡々と従うことにしたのだろう。
「それで、我々は今後どのように動けばよいのでしょうか」
馬垣は極めて冷静に尋ねた。
鞠子も同じぐらい冷静に答える。
「本事案の引き継ぎは無用だそうだ。もともと、具体的な被害が不法侵入しかない案件でもあり、榊が収集して馬垣が分析した完璧な資料がある。それだけで十分だから、我々は新しい案件に今日からすぐに取り掛かれと」
「そんな乱暴な」
榊はまだまだ諦め切れていない。その駄々っ子のような真っ直ぐさを、鞠子は好ましく思った。
彼に関しては、県警本部でもその行動力と積極性を評価する声が出始めている。遠からず県警本部への配置転換があるかもしれないと、課長からも内々言われていた。
「いいじゃないですか。お手並み拝見といきましょう」
馬垣は榊を諌める。
その落ち着きと高度な分析能力、そして身体能力の並外れた高さから、本庁の公安が引き抜きを検討しているらしい。こちらも、それほど時間的な余裕はないはずだ。
そもそも、笠井班の解体は時間の問題だった。その前にショコラ・デ・トレビアン事案を解決したかったのだが、取り上げられてしまってはどうしようもない。
(――いや、そうだろうか)
署長の言葉をもう一度再生してみる。
彼はこう言っていたはずだ。
「本日より笠井班は、松本市内で頻発している知能犯および経済犯の事案に注力すること」
鞠子はにやりと笑う。
榊と馬垣もその様子に気がついたらしい。
「警部、なんだか楽しそうですねえ」
榊が、陰謀に加担する悪代官のような声を出した。
「まあ、上司命令には従わなければならないからな。知能犯の動向に目を光らせることが、今後の我々の課題となるわけだが――」
「「はい」」
榊と馬垣は、声を揃えて背筋を伸ばす。
「差し当たって、知能犯に関する情報収集が必要だ。となれば、松本市内で発生した『知能犯による犯罪と思われる事案』の情報収集は、本来の命令の範疇となる」
「そうなりますね」
さすがに馬垣は気がついたようだ。ニヤリと笑って、こう続けた。
「そうなりますと、単純な案件であっても背後に知能犯が隠れていないとも限りません」
「その通りだ」
「特に、具体的な被害報告がまったくなされていない事案については、その被害を明らかにすることも、知能犯の探索には有用であるかと」
「その通りだ」
榊があせって突っ込む。
「えっと、どうしたんですか。急に二人だけで今後の捜査方針の話を始めるなんて」
鞠子と馬垣は苦笑する。馬垣は榊の肩に手を置いて言った。
「要するに、だ」
「なんだよ」
「最近、予告はあっても被害がまったく分からない案件があったよな」
「予告って――あ」
榊は左の掌に右の拳を打ち付ける。
「ああ、そういうことか。あの件は不法侵入かどうかすら明らかになっていないんだったな」
「そう。今までとは様相が異なるから、模倣犯の可能性すら検討する必要がある。仮に模倣犯であればショコラ・デ・トレビアン事案ではない。そうですね、警部」
鞠子が笑いながら付け加える。
「その通りだ。単純な不法侵入犯の捜査に関しては、確かに県警本部預かりとなったが、高度な知能犯あるいは模倣犯のような案件については、我々が扱う事案の範疇となる。ということで早速、情報収集にあたろうか」
「「了解」」
榊が放たれた猟犬のように、馬垣がその後を追う狩人のように、会議室を飛び出してゆく。鞠子はそれを微笑みながら見送り、遅れてゆっくりと会議室を出た。
誰もいなくなった殺風景な会議室に、赤いプリザーブド・フラワーが置かれており――
それは、警告のように見えた。
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