第二話 午前九時

 出署して早々、署長から呼び出しがあった。

 前日の捜査が深夜まで及んだものの、鞠子は通常通りに出署した。いつものようにコーヒーを入れ終わって、前日の捜査資料に目を通そうとしている矢先のことである。

 総務課の愛川がやってきて、

「署長がお呼びですが――笠井警部、またなんかやったんですか」

 と言った。愛川の顔には『興味津々』と、墨痕鮮やかに書いてある。

「なんだろう。まったく身に覚えがない」

 鞠子は無表情で答える。

「じゃあ、榊君かしら」

 そう言うと、愛川は空いている榊の席のほうを向いた。彼女が榊を狙っているらしい噂は、その方面に疎い鞠子もなんとなく聞いている。

「それならば、本人を呼び出すのでは」

「そうですよねえ」

 天然パーマの柔らかな髪を揺らし、眼鏡の奥の瞳を細めて愛川は笑う。その容姿の愛らしさからは想像もつかないが、彼女は署内情報に深く通じている。ACIAと呼ばれる所以である。

「仕方がない。行くか」

 鞠子には思い当たる点はない。愛川も自分の情報網に引っかからなかった案件に、興味をかきたてられるらしい。なんだか楽しそうな顔をしているものの、目つきは鋭い。

「後でコーヒーをお持ちしますね」

 その愛川の言葉に頷くと、鞠子は手帳だけを手にして署長室に向かった。


 *


「――広域指定ですか」

「そうです」

 署長室の中、重厚な執務机の前にある応接用のソファに腰をかけて、松本警察署長の佐藤は楽しげに言った。

「もちろん、君たちの今までの功績は十分理解しています。このまま捜査を継続したいだろうことも、承知してます」

「では、どうして今になって」

「僕にも詳細は分からないけれども、県警本部の意向ですから無視はできません。先日、県警本部長から直々に僕に電話があって、その件を伝えられました」

 所轄の署だけでは対応しきれない、他の警察署との連携を要する影響範囲の広い事案については、広域事件指定されて対策本部が県警本部内に立ち上がることになっている。

 今回の事案は、最近の事件こそ松本市内で連続発生しているものの、過去に他の管轄内で発生した事件もあり、広域指定されること自体は不思議ではなかった。

「これまでの経緯を見ても、君たちのチームが一定の成果を得ていることはわかっているから、その点は県警本部長に強調しておいた。彼もその点は承知しているから、帳場が県警本部に移ったからといって、君たちの実績に傷がつくわけではない。どうやら、本件に関してはさらに上、警察庁からの指示もあったらしいと、本庁の同期からそれとなく聞いている。これまでの功績から、君にだけは伝えておくけれども――それ以上は僕も知らないんだ」

 佐藤は首を傾げる。

 彼は本庁経験もある、いわゆる『キャリア』だ。鞠子よりも年下ではあるが、松本警察署長に任命されること自体は、なんら不思議ではない。

 長野県内における松本警察署の位置づけは決して低くはないから、彼がキャリア組として将来のある人物であることは確かだった。

 しかし、鞠子はこの佐藤という男に対して、いまひとつ信を置けずにいた。

 佐藤はいつもの笑顔に戻って、言った。

「君たちは、このまま捜査を継続したいのではないか」

「無論です」

「しかしねえ――」

 佐藤はさらに笑いを深くする。

(この顔だ)

 鞠子は思った。

 この顔が信用出来ないのだ。

 佐藤は基本的に笑顔で、人当たりも本庁経験者とは思えないほどに柔らかい。

 総務系の役職を歴任してきたらしい、という愛川情報から、捜査系や公安系のキャリアに比べると凡庸で、出世競争からは少し外れていると見做されていたが、鞠子はそれも信じていなかった。

(この男は何か隠している)

 笑顔はカモフラージュにすぎない。よく見れば、目の奥底では笑っていないのだ。この点は馬垣も気がついているようだが、表立って話をしたことはない。

 後でちょっと意見交換しておいたほうがよいだろう。

 鞠子が心の中の手帳に記録していると、佐藤は言った。

「僕としては、これ以上君たちをこの件に携わらせておく気はないんだ」

「な――」

「まあ、待ちたまえ。これは戦力外通知ではないよ」

 佐藤は右手を挙げて苦笑する。

「もともと僕は、こんな具体的な被害すら定かでない愉快犯のような案件を、君たちが担当していることに疑問を持っていたんだ」

 一旦言葉を切ると、佐藤は柔らかそうな視線で見つめた。

「これでは貴重な戦力の無駄遣いだ。他にも凶悪な事案はたくさんある。そちらの解決こそ、松本警察署にとっては喫緊の課題だと思う。それなのに君は、その優秀な能力と優秀な部下を、愚にもつかない案件に投入している」

 そう、詰問するでもなく優しい口調で佐藤は言った。

「――事件に軽重はないと思いますが」

「それは正論だが、効率的ではない」

「――」

 佐藤は、さきほど愛川が盛大に後ろ足を引かれながら置いていったコーヒーを一口飲むと、あいかわらずの笑顔でコーヒーカップを見つめながら、続けた。

「署員の数は限られている。さらに優秀な人材となれば、もっと少ない。本事案は今回のことがなくても、僕から県警本部に上申して、県警本部預かりにしてもらうつもりだったんだ。なにせ、僕は出世コースからは外れたキャリアだからね。この程度の傷では今後の展開は変わりようがない。警察という縦社会で、上司命令は絶対だということを、理解してほしい」

「意味はわかりますが、所轄から県警本部への応援派遣は可能なのではありませんか」

「そんなことなら、他の人間にやらせるよ」

 佐藤は苦笑した。

「君たちは、君たちにもっと相応しい案件に注力してほしい。僕はあまり強権発動を好まないけれども、今回は命令だ」

 そして、背筋を伸ばして真顔に戻ると、佐藤は言った。

「本日より笠井班は、松本市内で頻発している知能犯および経済犯の事案解決に注力すること。この事案は松本警察署だけではなく、本庁とも連携しなければならない非常に高度な案件であり、君たちのような優秀な刑事でなければ解決できない」

「――」

「納得しかねているようだね」

「――はい」

 佐藤は溜息をついた。

「まあそうだろう。命令は伝えたからね。班員には君から説明したまえ」

 佐藤はソファに上体を沈ませると、最前の笑顔に戻って言った。

「繰り返しますが、これは君たちの能力を高く評価しての抜擢です。貴重な人材の有効活用です。そのつもりで全力を傾注して――」

 応接テーブルの上に無造作に置かれた『ショコラ・デ・トレビアン連続侵入事件』というファイルを見つめながら、鞠子は別なことを考えていた。

(なるほど。抜擢とはなかなか絶妙な言い換えだな)

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