パパは覆面作家 第五章 我が家は絶体絶命?

阿井上夫

第一話 午前七時三十分

 更衣室でユニフォームに着替える。

 洋の出社時間は早い。

 まだ誰も出社していない始業の一時間前に、自分の席に座って前日までの仕事内容をレビューすることが習慣になっているためだが、今日に限っては先手を取られた。

 珍しく、彼の上司である総務部長の仙崎が出社していたのである。

「笠井課長、ちょっと時間はあるかな」

「はい、大丈夫ですが。何でしょうか」

「ちょっとこっちで」

 総務部の打ち合わせ室のほうを手で示す。誰かが出社してくるかもしれない執務室内では、話し難い内容なのだ。

 何かミスでもあっただろうか。洋は考えてみるが思い当たる点はない。

 仙崎もなんだか困った顔はしているものの、険しい表情ではない。つまり、『悪いニュースではないのだが、洋に話すには少し問題がある』といったところだろう。

「分かりました」

 洋は手帳だけを手にして、仙崎と別室に向かった。


 *


「――海外赴任ですか」

「そうだ」

 打ち合わせ室の丸テーブルで向かい合い、仙崎はやはり困ったような表情のままで言った。

「もちろん、君が転勤を望んでいないことは承知している」

「では、何故?」

「私にも詳細は分からないのだが、本社サイドの意向だ。先日、人事部長から直接電話があって、その件を伝えられた。いわゆる内々示だそうだ」

 正式な辞令の前に、本人に人事異動を申し伝えることを内示という。さらに、人事異動に関して何らかの問題がある時に、内々に本人の意向を確認することがある。これを内々示という。

 海外赴任に関しては、生活に与えるインパクトが国内転勤よりも広範囲に渡るために、このような内々示の手順を取ることが多い。

「毎年の目標面談の中で、君が転勤は望んでいないことは聞いているから、その点は最初に本社の人事部長にも伝えた。彼もその点は承知していたが、本件に関してはさらに上、人事担当役員からの指示が出ているらしい。人事部長と私は同期だから、アングラでその辺の感触を教えてもらうことができたが――しかし、よく分からない」

 仙崎は首を傾げる。

 彼は本社勤務経験もある、いわば社内のエリートだ。事業の中心をこの長野県内に置く『精巧社』において、さらに中心的な事業所であるところの塩尻事業所の総務部長である。社内政治も通暁している。

 その彼が「分からない」と言う。

「もちろん君が極めて優秀で、本社経理部で部長が変わるごとに本社異動の話が出ていることは、前任の部長からも聞いている。奥様が松本警察署の刑事であることから、転勤は決して受けようとしないこともだ。ここに置いておくこと自体、君自身のキャリア形成にも、会社の業績にもプラスではないが、だからといって君の意向を覆すことができないことも、承知している。常に辞表を準備している点もだ」

 と、一旦言葉を切ると、仙崎は洋を柔らかな視線で見つめた。

「困ったものだと思う。君は自分が優秀であり、かつ我が社にとって貴重な人材であることを盾にとって、無理を押し通している問題社員だ」

 そう、さして問題であるとも思っていない優しい口調で言う。

「申し訳なく思ってはいます」

「そうだろう。しかし、君は決してその主張を曲げまい」

「――」

 仙崎は淹れたてのコーヒーを一口飲んだ。続けて、多少鋭さを増した視線で、コーヒーカップを睨みながら続ける。

「しかし、今回の件はいつもとは様相が違う。なぜ、人事担当役員が事業所の経理課長クラスの異動に、ここまで口出ししているのかは分からない。本件は内々示とは言いながら、それはあくまでも表向きのことで、明確な職務命令だ。サラリーマンである以上、上司からの明確な職務命令は無視できない」

「お立場は分かります」

「涼しい顔をして言わんでくれ」

 仙崎は苦笑した。

「まったく異例のことだ。ここまでの強権発動は、私も経験がない。社風にも合わないし、人事担当役員の人柄にもそぐわない。ということは、さらにその上からの職務命令ということになるのだが、そうまでして君を海外赴任させようとする意図が、どうにも理解できない。無論、海外赴任そのものはこの上もない栄転だ。中国の蘇州にある海外現地法人の、総経理だということだからな」

「――」

「やはり、納得しかねるという表情だな」

「――はい」

 仙崎は溜息をついた。

「まあいい。私は一応、伝えるべきことを伝える役割に徹することにする」

 背筋を伸ばして洋に真正面から向き合うと、仙崎は異動の概要を話し始める。

「異動の発令予定日は三ヶ月後だ。中国赴任の場合、事前に体格検査と呼ばれる健康診断がある。その検査項目である血液検査には、いわゆるAIDS検査も含まれているから、プライバシー保護の観点からも、必要あれば事前に個人的に検査を受ける時間的な余裕を――」

 仙崎の形式的な説明を聞き流しながら、洋は別なことを考えていた。

(なるほど。これはなかなか絶妙な攻撃方法だな)

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