ACT.3-4 流された罪悪感とケジメ

〈どうした? やっぱりどこか悪いのか?〉

 その日の実験の際、数値を計測した静真が気遣わしげに言葉をかけてくる。

「え、そ、そんなことは」

〈PETAによる『生命エネルギーティファレト』の発生量が著しく低下している。昨日も少し下がっていたが、今日はその比ではない。これまでの七割減で、およそ三割程度の出力といったところだ〉

「え! そ、そんなに……」

 カップ一つだ。トップとアンダーの差で約2.5センチ。その程度なら精々数パーセントの誤差の範囲だと勝手に思っていた。

 だが、実際は七割減。

 そこまで下がると、何かしらの問題の発生を疑われても仕方ない。

「あ、え、と……あ、あ……あ……あ、あ、あの日!」

 千沙菜は、またしても咄嗟に嘘を吐いてしまう。我ながら、酷い嘘だと思う。

〈あ、あの日! そ、そうか、言いにくいことを言わせてしまって済まない……〉

 だが、静真は疑いもしない。通信機の向こうからは、焦ったような声。きっと、顔を赤くしていることだろう。そんなニュアンスが感じられる。

〈そ、それなら今日の実験は中止だ。それと、調子を崩すほどに重いのなら、念のために保健室で知香君に検診を受けておくといい〉

「う、うん、そうします……」

 言葉の端々から、千沙菜の身を一番に考えてくれていることが伝わってくる。

 だからこそ、静真の一言一言に、チクリチクリと小さな胸が痛む。

 静真は、どこまでも紳士的だった。

 これだけ千沙菜の貧乳を重視しながら、その具体的なサイズは知ろうとしない。千沙菜の身体データは、全て知香が管理している。PETAスーツのサイズ調整も彼女にさせたほどだ。

 だから、千沙菜が豊胸ジェルの効果でカップが上がったことに気付いていないのだろう。

 そんな静真だからこそ、咄嗟の嘘でも誤魔化せてしまう。

 考えれば考えるほど、罪悪感が募っていたたまれなくなる。

 潔癖な千沙菜にとって、静真を裏切ってしまっている今の状況はこれ以上我慢できそうになかった。

 PETAスーツから制服に着替えると、逃げ出すように保健室へと向かう。

 そうして知香の顔を見た途端、

「地出先生、聞いて貰いたい話があります」

 豊胸ジェルのこと。

 そのせいで大幅にPETAの効果が下がったこと。

 それを誤魔化したこと。

 千沙菜は全てを洗いざらい話していた。

「昔話をしましょう」

 静かに告白を聞いてくれていた知香は、そう前置いて語り始める。

「あるところに、恩師と袂を分かった尊敬する先輩を追いかけて、研究の手助けをしようとした女性がいました」

 誰の話かバレバレでいつもならツッコむところだが、今は無粋だろう。

「その先輩は、貧乳の力を示す研究をしていました。ところが、その女性はEカップの巨乳といって差し支えないサイズの胸だったのです」

「え!」

 思わず、反応してしまった。千沙菜と比べれば誰もが巨乳だが、それでも現在の知香はCカップのはず。

「その女性は、悩みました。先輩の力になりたい。でも、自分では力になれない」

 千沙菜には実感しにくいが、そこに葛藤があったのは確かだろう。

「だけど、あるとき閃きました。胸の中身は主に脂肪です。ダイエットをすれば、胸のサイズは縮みます。だから、今からダイエットを開始するので、サイズが小さくなるにつれての効果の変化を計測してくださいと。その結果はきっと研究成果として意味のある数字になるだろうと。だから自分を使ってくれと、尊敬する先輩に申し出ました」

「そ、それって……」

 千沙菜が我慢できずに言葉を挟もうとしたところで、察したように知香は頷く。

「ええ、勿論わたしのことよ。一年前、静真様を追ってこの学園に辿り着いたときのわたしの胸のサイズはE。そこから、効率的に胸を縮めるための栄養バランスや運動量を計算して三ヶ月でCまで落としたわ」

「そ、そんな勿体ない……」

 思わず素直な気持ちが口を衝いたが、無感情な視線で見返される。

「でも、それ以上は無理だった。健康を害さないレベルでは、わたしにはそれが限界だった。それ以上無理すれば、静真様はわたしの身を案じて実験を中止したでしょうから……」

 本当に悔しそうに、唇を噛む。

「それに、EからCの差での出力増はたったの5%。やっぱりAを切らないと効果は薄いってことが解っただけ。それは当然よね? もともと貧乳であればあるほど効果を高める仕様なんだもの」

 千沙菜への露骨な皮肉が籠もった言葉だった。向けられるのは、いつも慈愛に満ちた笑みを浮かべている彼女からは想像もできない、冷たい視線。

「で、豊胸ジェルを使ったですって……」

 感情を殺したような、低い声。

 少し間を開け、大きく息を吸い込むと、

「ふざけないでっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっ!」

 いつもは穏和で優しい保健の先生然とした知香が、地の底から響くような大音声で一喝した。

 千沙菜は、思わず身を竦ませる。

「わたしは巨乳だったから、貴方の気持ちは解らない。でも、それは貴方も同じでしょう? 貴方に巨乳だったがゆえに静真様の力になれなかった悔しさが理解できるの? 少しはそういうことを考えてみた? 尊敬する方の力に慣れない無力感。そして、労せずしてその地位を得た人への嫉妬。それを全部押し殺して、静真様のために尽くしていた人間がいたことを! その人間の想いを、そんな形で踏みにじるの?」

 険しい表情で、千沙菜を詰問するように言葉を紡ぐ。

 過去、どんなに厳つい不良連中と相対しても余裕をかましていた千沙菜が、その迫力に押され、本気で怯む。

「……これが、わたしの本音よ」

 深呼吸して息を整えた上で、落ち着いた声で知香は締める。大人な対応だ。

 千沙菜は、絶句するよりない。

 知香の言葉は、心を抉った。

 バスの一件で調子に乗っていた。

 努力しなくても、ちょっとぐらい手を抜いても、変わらないと思っていた。

 でも、それは大間違いだった。

 静真は優しくて。

 その優しさに甘えていて。

 結果的に、静真の気持ちを裏切って。

 知香の秘めた苦悩に気付きもしないで。

 ただ、自分の心の弱さに流された。

 コンプレックスを言い訳にして、自分に託された願いを踏みにじった。

 そんな自分の不甲斐なさが、情けなかった。

 千沙菜は、唇を噛み、面を下げる。

「正直に話してきなさい」

 今にも泣きそうな千沙菜に、知香はいつもの優しい口調に戻って、そう告げる。

「素直に謝って、真実を伝えるのよ。それが、静真様への誠意。静真様はお優しいから、きっと許してくれるわ」

 そこで、悪戯っぽくウィンク一つ。

「でもね、それに甘えて自分を正当化しちゃダメよ?」

 そう釘を刺された。

「はい!」

 知香の心遣いは受け取った。

 千沙菜は決意を胸に、研究所への通路を駆け出した。



 研究所の応接スペース。

 千沙菜と静真は、ソファーに向き合って座っていた。

 全てを語り終えたところだ。

 静真はテーブルに肘を付き、組んだ両手で額を支えるような姿勢で沈黙している。

 その表情は、硬い。

 静真の胸中が測れず、千沙菜は緊張に膝の上で拳を握る。

 幾許かの静寂の時が流れ。

 握り込んだ掌が、じっとり汗ばんできた頃。

 ゆっくりと顔を上げ、静真が口を開いた。

「音無君……一つ、確認したい」

「な、なんでしょう?」

 千沙菜は戦々恐々、上擦った声が出てしまう。

「豊胸ジェルを使ったことで、君の志は変わってしまったのか?」

「え?」

「暴走バスへさえ立ち向かったように、己が危険も顧みず、学園のみんなを護るために力を行使したいという、君の志は?」

 やや堅さの感じられる声で、静真は問う。

 真摯な瞳で千沙菜を見つめ、返事を待っている。

 予想外の言葉に、千沙菜は困惑しながらも自問する。

 ついつい豊胸ジェルを使ってしまった。

 それは女としての本能的なもの。

 だけど、割り切るために、心に棚を作っていた。

 その棚の上には何がある?

 棚上げせねばならなかったものは何だ?

 目を逸らしていたものは何だ?

 PETAへの影響だ。

 それは、静真の研究に託した想いを裏切る事への不安でもあった。

 だけど。

 今、こうして己の行為を恥じている。

 誤魔化すために静真に嘘を吐いたこと。

 結果的にPETAを蔑ろにしたこと。

 申し訳ないと心から思っている。

 だが、それは飽くまで、PETAと静真の想いに関する話。


 では、学園のみんなを護りたいという自分自身の想いは?


――棚上げなど、考えたことはない。


 常に、それは心にある。

 かつて不名誉な二つ名が広まろうと、揺らぐことはなかった。

 護りたいという想いだけは、決して揺るがない。

 護ることが、千沙菜の矜持。

 出力が下がっても護るに支障ない。

 そう判断したからこそ、豊胸ジェルの使用を割り切って考えられたのだ。

 それどころか、護りたい意志そのものには、PETAは関係ない。

 意志を貫く力を渇望したけれど、それは飽くまで手段に過ぎない。

 例え力がなくたって、護るために立ち向かうだろう。

 あの、入学式のように。

 だから。

 PETAに関しては不安で溢れていたけれど。

 静真にも怒鳴られるんじゃないかと物怖じもするけれど。

「変わりません。失礼ですが、それとこれとは、話が別です。PETAがあろうがなかろうが、あたしの護りたいという想いだけは、決して揺るぎません!」

 断言できた。

 自分勝手で余りにも配慮に欠ける言葉にも思えたけれど、偽らざる本心だ。

 静真は、千沙菜の言葉に大きく一つ頷き、深い息を吐く。

「そうか……うん、それを聞いて安心したよ」

「え?」

 静真の言葉に面食らう。

「豊胸ジェルで、君の心根まで変わってしまっていないのなら、いいんだ」

 笑みさえ浮かべ、静真は言う。

 だが、どこか無理をしているように見えた。

「そもそも、君がそれを望むのなら、僕に否定する権利はない。AAAからAAへの変化による『生命エネルギーティファレト』発生量の変化も、貴重なデータには違いないしね」

 冗談めかして語る声は硬い。

「そもそも、女性が胸を大きくしたがるという心理は理解しているつもりだ。生物学的な雌としての本能もあるだろうから、避けられないのも致し方ない」

 千沙菜のしたことに理解を示す。

 いや、自分に言い聞かせて、理解を示そうと、している?

「でも、だからこそ。そんなコンプレックスを感じなくても、貧乳だからこそ有利なこともあるのだと、貧乳の可能性を示すのが僕の望み。だが、未だ道半ば。ゆえに、君にそういう行動を取らせてしまったのは、他ならぬ未熟な僕の責任だとも言える」

 自嘲さえ感じさせる、言葉。

 そこで、千沙菜は理解した。

 静真は、全てを己の責任としようとしている。

 千沙菜の志を尊重し、それが護られることを優先して。

 でも、それは、千沙菜にとって、罵倒されるよりも心に深く突き刺さる。

 確かに、志は失ってはいない。

 それでも、PETAのことを蔑ろにしていたことには違いないのだ。

 それを、こんな形で静真の矜持に甘え、なあなあにしてしまってよいのだろうか?

「違うっっっ!」

 いい訳がなかった。

 知香にも釘を刺されたではないか。

 いたたまれなくなって、千沙菜は全力で静真の言葉を否定する。

「バカにしないでください! そんな、そんな風に全部自分で背負い込んで、優しくされてしまったら……あたしの立場がありませんっ」

 千沙菜は、悔しかった。

 明らかな己の非を、認めて貰えないことが。

「なんで、なんでそんなに優しいことを言うんですか? あたしは文倉先輩の研究を軽んじたんよ! すごい結果が出てたから、そこに胡坐をかいて。ちょっとぐらい出力が下がっても、大丈夫かなって……嘘までついて……」

「それが、どうした?」

 千沙菜の言葉を、静真はいつになくクールな言葉で遮った。

「こちらこそ、バカにしないで貰いたい」

 静真の顔に、一転して熱の籠もった感情が浮かぶ。

「音無君。確かに、残念な気持ちはある。できれば豊胸ジェルなど使って欲しくなかった。悔しくて感情的になりそうにもなった」

 言葉にも、段々と熱が籠もってくる。

「でも、それでも、それらを押し殺してでも、出てしまった結果に対して最善を尽くすのが、僕の研究者としての矜持だ。確かに君は豊胸ジェルを使い、予想を大幅に上回る実験結果をふいにした。でも、出力が下がって一番困るのは、力を渇望していた君自身だろう? だからそれは君の責任だ」

 言われて、千沙菜はハッとする。

 力を求め。

 手に入れて。

 それを、失った。

 確かに、そこだけみれば、ただの自業自得だ。

「だが、君は絶大な力を失っても逃げなかった。それでも、それこそPETAの力が無かろうが、みんなを護る意志は失わないと言い切った。なら、僕は君の矜持に答えねばならない。君を被験者に選んだのは他ならぬ僕だから。君に絶大な力を失った責任を求めるように、君を選んだ責任を持とう。そう、現状での君の力を最大限引き出してこそ、僕は研究者としての己の矜持を護れるんだ」

 そこまで言われてしまうと、もう、どうしようもない。

 敵わない。

 力ではなく、人としての何かが、決定的に負けている。

 千沙菜は、知香があそこまで静真に心酔する理由が解った気がした。

 この人は、人として軸がブレていない。確固たる信念の元に行動している。

 それでいて、被験者をここまで気遣う度量まで備えているのだから、お手上げだ。

 だけど、このままでは気が済まない。

 負けたまま、フェードアウトなんてできない。

 負けたなら。

 最大限、負けを認めるべきだ。

「なら、ケジメを付けさせてください! このままじゃ、あたしが納得できません!」

 千沙菜は自分らしく、動き出す。

「ケジメ……お、おい。やめるんだ! そんなことはしなくても……」

 その行動を見て、静真は慌てて制するが、もう遅い。

 既に、正座は完了している。

 そのまま、頭を下げ。

「研究を蔑ろにして、ごめんなさい。嘘を吐いて、ごめんなさい。何より、豊胸ジェルを使ってしまって……ごめんなさい」

 土下座して、己の非を、誠心誠意、謝った。

 自己満足かもしれないけれど、そこだけは譲れなかった。

「……君らしい、行動だね」

 呆れたように、静真。

 しばし千沙菜を静かに見守ってくれる。

 穏やかに時は過ぎ、千沙菜の足が少しばかり痺れてきた頃。

「よし、君の誠意、確かに受け取った! これで、水に流そう」

「はいっ!」

 清々しい気持ちで返事をし、静真が言葉と共に伸ばした手を、取る。

 ゆっくりと、引かれて、立ち上がる。

 立ち上がってからも、手を離せなかった。

 気恥ずかしくて、目を合わせられず。

 それでいて、合わせた手から伝わる暖かい何かを感じていた。

 と、優しく静真が語りかけてくる。

「でも、本当に、そこまですることはなかったんだ。君は自省する余り、大切なことを忘れているよ……」

「大切な、こと?」

 静真の手を握ったまま、その瞳を見上げる。

 瞳には、千沙菜へと向けられた力強い色が浮かんでいた。

 一度合わせると、視線を外せなくなる、自信に満ちた安心できる瞳だった。

 視線を合わせたまま千沙菜に一つ頷きかけ、励ますように語られたのは。

「AAはまだ、立派な貧乳だ! PETAの守備範囲だ! だから、そもそもそこまで気にすることはない! 出力が三割になったところで、300トンのパンチ力の三割は90トンだ! 常人の域を超えた力が出ていることには変わりない! 君は、まだまだ、誰もに誇れる、素晴らしい貧乳の持ち主だ!」

「…………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………って、そんなオチかぁぁあああぁぁぁぁああぁあぁぁぁあぁあぁぁあぁぁぁぁぁぁ!」

 静真の言葉に、握っていた手を思わず払いのけ、頭を抱える千沙菜であった。

 色々、台無しだった。

 でも、ほんの少しだけ重くなってしまった胸元とは違い。

 心はすっかり軽くなったのだった。

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