第10話「彼岸花」

 ぼやけた虚空に浮かぶあかい月が、亜緒を追いかけてくる。


 孤独な紅が土手を歩く唯一の生者である青い髪の術士を観察している。


 果たして流れがあるかどうかも分からない、向こう岸の見えない川。


 たまに見かける枯れた木々。


 此処は足音までが死んでいるように静かだ。


 暑くもなく、寒くもない。


 風すら吹かない。


 すべてが乱れなく完結した、ただそれだけの世界。


 闇子が愛する世界に似ている。


 三途の川は世界の果ての果てだ。


 渡った先はもう別の世界。死者の国。


「貴女と死ぬはずだった男の様子を見てきましたよ」


 亜緒の惚けたような声に藤村 雪絵は感情無くかいの無い小舟から立ち上がると、水面には申し訳程度の波紋が咲いて消えた。


「彼は貴女と別れた後、人としての幸せを手に入れて悠々自適ゆうゆうじてきの暮らしを送っている……ようでした」


 亜緒の言葉に、小舟の上で雪絵は自虐的な笑みを浮かべた。


「それと彼はまだ当分の間、死なないと思います」


 亜緒の瞳は知りたくも無い他人の寿命がえてしまうこともある。


「面白くないですか?」


 少し意地の悪い表情で亜緒は雪絵の顔色を窺う。


「仕方ありません。私はもう死んでいるのですから……」


 雪絵は目を伏せてから少し笑ったようだった。明らかに無理に作った笑顔だ。


「写真は渡しておきましたから、これからは彼も貴女のことを日々思い出すことでしょう」


 生きている人の思い出の中から消えたときが本当の意味での死なのだ。


 誰かの受け売りが亜緒の頭の中を通り過ぎてゆく。


「だから貴女は貴女の行くべき処へお行きなさい」


 藤村 雪絵は三度目のお辞儀を亜緒へと向けた。


 此処はあまりにも寂しすぎる。


 紅くて大きな丸い月を亜緒はこの世界の太陽みたいなものだと思っていた。


 燈籠も行灯も無いのに、空に浮かぶ冷たく光る紅い玉は亜緒の住む世界よりも明るく周囲を照らす。けれど、黒い太陽よりも寂しく輝く。


 それは人が居ないという直接的な理由とは別に、生命の息吹が何処にも感じられないからかもしれない。





 目が覚める。


 彼女は無事に彼岸へと渡ってくれるだろうか。


 聞き分けの良さそうな人に見えたから、既に彼岸へ向けて舟を漕ぎ出しているかもしれない。


 真面目そうな彼女が真面目そうに舟を漕いでいる姿を想像すると、何故か可笑しくて小さな息が漏れた。


 ともあれ、停滞していたものが動き出す光景を想像するだけで亜緒の心は躍る。


 一階が騒がしい気がして、亜緒はすぐに雪絵の舟には櫂が無かったことを忘れた。


 座敷に降りると、鵺が亜緒から隠れるように障子の向こうへと身を隠すところだった。


 それからそっと顔だけを出して、亜緒の様子を注意深げに窺っている。


「鵺?」


 亜緒が一歩近づく度に三角形の大きな耳がシバシバ動いて、その表情は困惑しているようにも見える。


「亜緒は笑わないか?」


 その言葉には、鵺を――という対象が抜け落ちている。


 亜緒は鵺に笑顔を向けることはあっても、し様にわらったことは無い。


 蘭丸に促されて鵺が座敷へ入ってくると、亜緒から感嘆の息が漏れた。


 行灯の灯りを受けて、鵺があわせの着物を着て佇んでいる。


 京藤色に桜の柄は春らしく、鵺の持つ可憐な雰囲気によく似合っていた。

 無粋な亜緒でも一瞬見惚れてしまうほどにみやびだ。


 どこか居心地悪そうな表情は初めて着物を身に纏った自分自身に照れくささを感じて、気恥ずかしさをどうしても拭えないためだ。


「どうしたんだ? それ」


「蘭丸が買ってくれた」


 バツ悪そうに言う。ときめきと羞恥の間で言葉が揺れていた。


 亜緒は何も言わずに蘭丸を見た。青い瞳に驚嘆の色が混ざり込んでいる。


「まぁ、あれだ。夜桜見物に行くのに制服というのも味気無いものだしな」


 蘭丸としてはそれ以上触れて欲しくない話題らしく、はにかんだ表情を外へと向ける。


 もう夜の幕が下りようとしていた。


「いいとこあるじゃないかよ。この朴念仁ぼくねんじんが」


「誰が朴念仁だ。それよりもオマエは寝すぎだ。夜桜を見に行くなら、そろそろ出たいのだがな」


 柱時計はもう午後五時を回っていた。


 亜緒としてはそれほど長く睡眠を貪っていた自覚は無いから、此岸しがん彼岸ひがんでは時間の流れが同じではないのかもしれない。


 鵺が亜緒の袖を恥じらうように引く。


「鵺の着物……似合っているか?」


「もちろん似合っているさ。僕の鵺なんだから」


 亜緒が春風のように破顔すると、鵺も少しだけ微笑んだ。


 僅かな感情の発露。


 満更でもない様子を見ると、もしかして鵺はノコギリが着ていた着物が羨ましかったのかもしれない。





 花見の会場である中央公園は『左団扇』から歩いて五分ほどの距離にある。


 鵺の素体となった黄泉帰りの少女が、蘭丸に五体バラバラにされた公園である。


 もちろん現在は惨劇の跡は消えて、闇子の気配も無い。


 まだ宵の口であるし、公園内は夜桜見物の客で何処もかしこも賑やかだ。


 沢山の屋台の光。


 いつもよりも数多い燈籠や提灯の灯りが、辺りの闇を明るい橙の色に染め上げている。


 その橙の中に浮かび上がる沢山の満開の桜の木々の並び。


 まるで低い雲のような、淡く白いピンクの花弁たち。


 その雲間から気まぐれに降り落ちては舞う花びらの雪に鵺は瞳を輝かせた。


 亜緒が見守る隣で感情の蕾を開花させてゆく。


 一方で蘭丸は周囲を警戒していた。


 祭りの人の群れの中には死者や性質たちの悪い妖が混じっていることがある。


 鵺や亜緒はもちろん、人に危害を加えるような妖は周囲が気づく間も無く斬って捨てる。


 蘭丸には花もダンゴも無い。ただ、斬るのみだ。


 向こうの人の波から蘭丸を目指して一直線に歩いてくる青年がいた。


 人混みの中にあっても目立つ長身と茶色い髪。

 整った顔立ちには、絶えず涼やかな笑顔が張り付いている。


 そして、孔雀緑の着流しに差した日本刀。


 笑顔の剣客は美貌の剣客の前で足を止めた。


「久しぶりですね。蘭丸くん、君も見廻り組ですか?」


「俺は今日は花見客だ」


「随分と物騒な花見客ですねぇ」


 蘭丸とは顔見知りであるらしい青年の名は、かすみ 月彦つきひこという。


 笑顔を絶やさない物腰柔らかな雰囲気を持った、蘭丸とはまた違ったタイプの美青年だ。


「まぁ、殆どの妖は君を見れば悪さも忘れて逃げ出してくれるから、ボクとしてはラクでいい」


 見廻り組とは人が集まる催しにおいて妖の類を取り締まる集団なのだが、月彦は助っ人として頼まれた臨時の見廻りである。


 やはり妖刀持ちがいると心強いのだろう。


「そちらのお二人は蘭丸くんの知り合いですか?」


 月彦が亜緒と、その後ろにいる鵺へと笑顔を向ける。


雨下石しずくいし 亜緒と……鵺だ」


 蘭丸はため息混じりに二人を紹介した。


 鵺をどう言ったらいいいのか瞬刻迷ったのだが、結局そのまま紹介してしまった。


「霞 月彦といいます」


 笑顔のままうやうやしく頭を下げる。


 顔を上げると月彦から笑顔が消えていた。


「はて? 雨下石……」


 それでも温和そうに感じるのは愛嬌ある顔立ちや仕草、そして月彦自体から醸し出される雰囲気が元々柔和なせいだろう。


 彼にはとにかくけんというものが無かった。


「貴方の刀、妖刀ですね」


 慧眼けいがん禍々まがまがしいものを見抜く。


 ノコギリが蘭丸の刀を見抜いたように、亜緒もやはり妖刀には人一倍の興味と、それ以上の警戒を感じるのだ。


「さすがに雨下石家の御嫡男ごちゃくなんですね。仰る通り、これは『月下美人げっかびじん』という名の妖刀です」


 月彦は雨下石という姓と、その意味を思い出したらしくまた笑顔に戻った。


 亜緒としては勘当されているようなものだし、思い出してもらわなくても一向に差し支えなかったのだが。


「不思議な刀ですね。それとも貴方が変わっているのかな」


 月彦の笑顔に疑問符が浮かぶ。亜緒の言っていることが、よく分からない。


「貴方はその刀で妖も人も一切斬っていないでしょう?」


 人を斬った刀には血と悔恨が、妖を斬れば怨念の情が刃に残る。


 それは人の知覚を超えた次元の話で、亜緒の青い瞳には一目瞭然に映る。感じることが出来るといったほうが、より近い表現かもしれない。


 人はともかく、妖を斬らない妖刀というのは存在しない。少なくとも亜緒はそう思っていた。


 ところが月彦と『月下美人』からは、それらの情が感じられない。


 蘭丸の『電光石火』からは斬られた妖の呻きのようなものが、真っ黒にこびりついているというのに。


「ボクは殺生が嫌いでしてね。食生活も菜食です」


 『人が妖刀を選ぶこと叶わず。妖刀が人を選ぶのだ』という言葉がある。


 蘭丸も月彦も妖刀に選ばれた人間であることは間違いない。


「しかし、そこまで見抜くとはさすがに雨下石といったところでしょうか」


 感心しきりと月彦は利き手を細い顎に当てながら頷いてみせた。


 いずれにしても、霞 月彦にも『月下美人』にも奇妙な不気味さを感じる亜緒だった。


「そちらのネコミミさんは妖ですか?」


「鵺です。妖ではありませんが、人見知りです」


 鵺は亜緒の背中の向こうからいぶかしげに月彦を覗いていた。明らかに警戒している。


 鵺も亜緒同様、月彦と『月下美人』に只ならぬ「何か」を感じていた。


「はて? 鵺。どこかで聞いたような」


 静かに考え込む。月彦は忘れっぽい性質らしい。


 しかし、その言動は妙に嘘っぽくも見えて、やはり得体が知れない。


「月彦、見廻りの仕事に戻らなくていいのか?」


 蘭丸が助け舟を出す。


「そうでした。私は見廻りの途中であったのだ」


 思い出したように手を叩くと、笑顔の剣客は人混みの流れへと帰っていった。


「闇子ほどではないけど、君の知り合いは変わったのが多いねぇ」


 とはいえ、妖刀の所有者は変わり者が多いと聞いてはいたから、改めて蘭丸の性格は貴重なのかもしれないと亜緒は思うのだった。


 もっとも蘭丸から見れば、亜緒も充分変わり者であるに違いないのだが。



 花見に来たとはいえ、空腹で眺める桜は桜餅に見えてしまうこともあるかもしれない。


 それは花にも失礼ということで、取り敢えず何か食べることにする。


 亜緒や蘭丸はともかく、鵺は夜店の屋台は初めてで何を食べるか迷う以前に買い方も分からない。


「鵺は何を食べたい?」


「あ、あれ!」


 白く小さな指でたこ焼きの屋台を指す。


「よし、まかせとけ。蘭丸、金!」


 迷いも無く、当然のように亜緒の手が蘭丸へと伸びた。


「何だって? オマエ、少しの持ち合わせも無いのか?」


「僕が宵越しの金さえ持たないのは知ってるだろ?」


 さすがに蘭丸が呆れてため息をつく。まるで財布代わりだ。


 蘭丸が渋々と袖口から札を取り出すと亜緒が無遠慮な仕草で取っていく。


「お釣りはちゃんと返せよ。生活費だからな」


「はいはい。いつも感謝してますよ蘭丸先生」


 返事は良いが、亜緒に金を渡してお釣りが返ってきたためしは無いのだ。


「蘭丸、ありがとう」


 言葉少なげな鵺の精一杯の感謝が抑揚無く響いた。


 感情の情報量は相変わらず少ないが、気持ちは充分に伝わる。


「まぁ、今日は祭りだからな」


 蘭丸は鵺の前では調子が狂う。が、それは嫌なズレではなかった。


 今まで彼が馴染んでこなかった空気だから、息の仕方が慣れていないというだけのことだ。


 たこ焼きの他にフランクフルトと焼きそば、お好み焼きも買ってベンチに座り三人で食する。


「パンの耳よりもいろいろな美味しい味がする」


「まぁ、今日は祭りだからな」


「亜緒、蘭丸と同じこと言う」


「そうなのか?」


 蘭丸のほうを見ると、剣客は照れくさそうにお好み焼きに箸をつけていた。


「いいから黙って食え」


「へいへーい」


 ふと、亜緒は誰かに呼ばれているような気がして池のほうを見た。


 中央公園の池は広く、薄暗い昼には沢山のボートが浮かぶ。


 だが尚暗い夜にはボートは出さない。否、出せないのだ。


 そんな暗い水面に木舟が一艘浮かんでいる。櫂は無い。


 小舟の上には若い男女が乗っていた。


 女のほうが楚々そそとして立ち上がると、亜緒に向けて四度目のお辞儀をした。


 三つ編みに結った長い髪。清楚そうなワイシャツとスカートのシンプルな服装。


 舟の上で男のほうが意思を持たない人形のように前のめりに倒れた。


「心中……か」


「何か言ったか?」


 蘭丸が珍しく亜緒の独り言に反応する。


「いや、花が綺麗だと思ってね」


「花より団子の口が何を言うやら」


 喧騒に紛れて亜緒が何枚かの紙切れを投げ捨てた。


「子供みたいなことをするな。ゴミはゴミ箱へ捨てろ」


 呆れながら蘭丸が拾い上げた紙切れは、家屋の結界等に使われる札に似ていた。


「何だこれは?」


「ゴミさ」


 一言呟くと亜緒は愉快そうに笑った。


 その声はやがて周囲の笑い声へと同化してゆく。


 鵺は一心不乱に屋台の味に夢中だ。


 すべて世は事もなし。




 後日、亜緒が藤村家を訪ねてみると草之介翁は亡くなっていた。


 浴室で溺れたという老紳士の首には、女の手跡がハッキリ見て取れたという。

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