隠れ鬼(序)

第11話「ノコギリカレーライス」

 雨宿りの桜が街に咲く頃、来客を告げる呼び鈴が『左団扇』の座敷に鳴った。


「蘭丸ー」


 新聞に視線を落としたままで、亜緒が蘭丸に客を促す。


「たまにはオマエが出てくれ」


 いつも客人の対応を押し付けられるのは蘭丸だ。


 蘭丸は蘭丸で今夜の晩御飯を何にしようかと思案中で地味に忙しいのだった。


 安い食材で栄養バランスの良い献立を考えている最中なのだ。


「新聞なんかいつだって読めるだろう」


「情報というのは鮮度が大事なのだ。腐らないうちに目を通す必要があるのだよ」


「だったら、もっと早く起きろ!」


 昼をとうに過ぎた時間に起きてきて、新聞をめくる亜緒に言われても蘭丸は納得がいかない。

 意識せずとも声が荒くなる。


「では男らしくジャンケンで勝負というのは?」


「いいだろう。負けたほうが玄関先まで出て対応というわけだな」


 二人は頷き合ってから互いの手を相手に示す。


 相子あいこだ。


 次々と目まぐるしく手を変えていくが、いつまでたっても相子が続いて勝負がつかない。


 いつの間にか呼び鈴の音も消えてしまった。が、それでも二人はジャンケンを止めない。


 負けたほうが次に呼び鈴が鳴ったときに玄関先まで出て行くことになるからだ。


「依頼人だったらどうするつもりだ! もう遅いがな」


「きっとガスか新聞の集金か何かでしょ! もう遅いけどね」


 ジャンケンに夢中になる二人を眺めながら、鵺は退屈そうに欠伸あくびをした。


「まったく、『左団扇ここ』はどうなっているんですの? 呼んでも誰も出ないし、鍵も掛かっていないし、家人は遊んでいるし……」


 聞き覚えのある声の先には雨下石しずくいし ノコギリが呆れた表情を作って二人を見据えて立っている。


 黒髪の一部が青に変色しているオカッパのサラサラ。釣り目気味の中の瞳の水色。


 一度会ったら忘れられない。どこか可憐な印象を持った少女だ。


「これはノコギ――」


 ノコギリが殺気を孕んだ視線を蘭丸に投げつけた。


「さ、桜子さん……」


 蘭丸が慌てて呼び直す。またスローイングナイフを盛大に放られたのでは堪らない。


 亜緒の妹であるノコギリは自分の名前を気に入っていない。


 他人に本名を呼ばれるとナイフを投げる癖? があるのだ。


 鵺が目を丸くしてノコギリを凝視している。


 この前の着物とは違うノコギリの女袴姿が気になって仕方が無いといったふうだ。


「どうしました? 鵺。さっきから人のことをジッと見て」


「その変わった服は何と云う?」


 少しだけ思案するような表情を作ってから、ノコギリの口元が笑みに変わった。


「ああ、そういうことですか。鵺は私の着ている女袴が珍しくも羨ましいのですね」


「おんなばかま?」


 袴は無地の臙脂えんじ、着物は西陣御召にしじんおめしとして代表的な赤い矢絣やがすりの柄。


 その姿は不思議とノスタルジックな印象を見る者に与える。


 ノコギリが鵺の前でゆっくりと回転しながらポーズを取ってみせると、オカッパに飾ってある銀の髪飾りがシャララと涼しげな音を奏でた。


 袖の部分が優美に舞うと、セーラー服を着た鵺の瞳が一層輝くのだった。


「ノン子は何しに来たんだ?」


 亜緒が茶々を入れたのは、これ以上鵺の着物で多大な出費をしたくないからだった。


 借金は無くなったが、『左団扇』に金銭的余裕が無いのは確かだ。


「あらあら。兄様、可愛い妹をそんなぞんざいに扱ってもよろしいのかしら?」


 今日のノコギリは妙にテンションが高い。


 ノコギリが呼ぶと玄関先に控えていた御付きが何やら荷物を運び込んできた。


「これから私が御三方に夕餉ゆうげを作って差し上げますわ」


 亜緒と蘭丸は顔を見合わせた。どちらも狐につままれたような表情をしている。


「それは助かります。ノコ、桜子さん」


 晩の献立を考えあぐねていた蘭丸がホッとしたような声で礼を言った。


 食費が一食分浮いた事実は喜ばしい。


「それで何をご馳走してくれるのですか?」


「カレーライスですわ」


 ノコギリは料理らしい料理はカレーライスくらいしか作れないのだ。


 それを知っている亜緒は苦笑する。


 昔と変わらない妹に、郷愁にも似た感情を抱いてしまった自分自身に対する不覚への自嘲だった。


 御付きに運ばせた荷物の中身はカレーの食材だ。


 ノコギりは許可を得るとたすきで和服の袖をたくしあげて、早速台所でカレーの調理と張り切るのだった。



かすみ 月彦つきひこの『月下美人』って、どんな能力の妖刀なんだ?」


 寝そべりなら顔を新聞紙で覆ったまま、亜緒は何気なく蘭丸に尋ねた。


「珍しいな。オマエがそこまで他人を気にするなんて」


「なんかな。どうもアレは妙だ。蘭丸は知り合いなんだろ?」


「知り合いだが、深い付き合いというわけでもないからな」


 蘭丸も『月下美人』がどんな妖刀であるのかは知らないという。


 そもそも自分の刀のことを語る妖刀使いはいない。


 彼らにとって刀は唯一にして絶対の切り札だからだ。


 手の内を明かしたら、明日にでも自身の命が無いかもしれない。


 彼らが身を置くのはそんな世界だ。


「気になるなら直接本人に会って確かめれば良かろう」


 蘭丸が皮肉を込めて薄笑った。無論、教えてくれるはずも無いことを確信しての笑みだ。


 亜緒にしても、そこまでして知りたいわけではない。


 カレーが出来るまでの暇潰しに聞いてみただけのことだった。


 鵺は落ち着き無く、台所のノコギリの様子を見に行っては戻ってを繰り返している。


 ノコギリが着てきた女袴が余程気になるらしく、何か言いたげに口を開くが結局閉じてしまう。


 あわせの着物を買ったのも最近だし、『左団扇』の家計の事情を知っているから無理も言えないのだ。



 暫しの間を置いて、今日はいつもよりも少し早い夕食となった。


 四つの皿に盛り付けられた米飯にジャガイモ、ニンジン、タマネギ、豚肉の入ったカレーソースがよそられている。


 多種の香辛料の香りが食欲をそそるように絡まり、鼻腔の奥を刺激する。


 複数の行灯の橙に照らされながら、皆で食卓を囲んで「いただきます」と手を合わせた。


 一口頬張ってから、「ほう!」と亜緒から感嘆の声が漏れた。


 ノコギリのカレーが想像以上に美味しかったからだ。


「ノン子、腕を上げたな」


「本当ですか? 兄様!」


 ノコギリの表情に思いもよらない花が咲く。


「確かに。美味しいですよ桜子さん」


 蘭丸にも大絶賛で、ノコギリは上機嫌だ。


 実は味にまろやかさが出るよう、隠し味に牛乳を使っているのだ。


 ただ、鵺だけは戦慄の表情でカレーを睨んでいた。


 鼻を近づけてカレーの匂いを嗅いでは顔を背ける。


「どうした鵺。べつに毒は入っていないし、美味しいぞ」


 亜緒の棘の隠れた言い方にノコギリが眉を寄せる。


「皆、騙されている。こ、このカレーは辛い!」


 鵺の言葉に亜緒と蘭丸が本日二度目の狐につままれたような表情を作った。


 考えてみれば、鵺はカレーを口にしたことが無いのだ。


「いや、カレーとはこういうものだよ?」


 亜緒に言われて鵺は恐る恐るとスプーンにカレーを掬って、それを一舐めすると苦悶の表情で水を飲み干した。


 といっても、それほど大袈裟に辛いわけではない。


 カレーの辛さは一般的で、寧ろ丁度良いといえた。


「どうやら鵺さんはカレーライスが苦手なようで……」


 ノコギリの瞳の水色が妖しく揺れて、口元が不敵に歪んだ。


 鵺の苦手を一つ見つけて嬉しそうにむ。


「ではケチャップを入れて辛さを消しましょう」


 カレーの黒味がかったくすんだ茶色にケチャップの朱が混ざり、何ともいえぬ不気味な色に染まっていく。


「やめろ! ノコギリの性悪者!」


 鵺の言葉などまるで耳に入っていないかのように、ノコギリはケチャップの容器を握って過剰に中身を捻り出してゆく。


「ノコ、桜子さん、食べ物で遊ぶのは――」


「心配要りませんわ蘭丸様。トマトの入っているカレーだってあるんですのよ?」


「そうなのですか?」


「ケチャップを隠し味に使っているカレーだってあるくらいですし」


「なら安心ですね」


 この光景を「安心」と見て取る蘭丸は少しばかりズレているかもしれない。


 少なくとも鵺にとっては、目の前で起こっているノコギリの行為は安心とは縁遠い所業のように思われた。


 鵺は助けを求めて亜緒のほうを見た。


 亜緒が何かを言おうとしたとき――


「そうそう。私、父様から伝言を預かってきましたのよ」


 手を叩いてテーブルを囲む皆の視線を引いてから、ノコギリは言葉を続ける。


「兄様と鵺、それと蘭丸様は明日の午後に雨下石邸の無間むけんの間へ来るように。とのことですわ」


 無表情で淡々とノコギリは伝言を言い終えた。


「俺も行かなければならないのですか?」


「父様は蘭丸様も是非にと」


 蘭丸は押し黙ってしまった。


 妖退治業界では最強にして最凶といわれる雨下石 群青ぐんじょうである。


 出来ることなら関わるなと云われる危険人物だ。


 なるべくなら会いたくはない。


 亜緒に至っては一族の御神体である鵺を無断で持ち出し、人の肉体を与えるという失態を犯してしまっている。


 本来なら、これは殺されても文句一つ言えない禁忌なのだ。


 鵺が珍しく深刻な顔で黙している亜緒を見て口を開いた。


「心配するな。亜緒は鵺が護――」


 ノコギリの前で口を開いてしまったのは迂闊だった。


 鵺の口の中にケチャップカレーのスプーンが否応無しに突っ込まれる。


「お味はどうかしら?」


 悪戯に興じる子供のように、ノコギリの笑みは無邪気だ。


 顔を真っ赤にして洗面所へと駆けていく鵺を見て、ノコギリは口元を袖で隠しながらも愉快そうにコロコロと笑うのだった。


 鵺とノコギリは仲があまりよろしくない……らしい。

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