第4話「闇子」

 『左団扇ひだりうちわ』では逃げ帰ってきた亜緒あお宗一郎そういちろうが一息ついていた。


 亜緒は宗一郎を抱えて走ってきたので、息も絶え絶えである。


「視力は戻ったか? 少年」


 喉の渇きを水で癒してから、亜緒が少年の目を気遣う。


「ほとんど見えるようになりましたけど、まだ少し立眩みのような感覚が。一体僕に何をしたんですか」


言霊ことだまで一時的に君の視力を奪った」


 言葉や文字には強い力が宿っている。

 その意味を理解し、相応しい場で使えば使役者の味方になってくれることもある。


「どうしてそんなことを……吃驚するじゃないですか」


闇子やみこが現れたからだ」


「闇子って、あの都市伝説の? 実在したんですか!」


 闇を纏い、闇を彷徨う単眼の女性。


 その瞳を二度見ると闇子の闇の中から出られなくなる。


 その噂は都市伝説化していて、今や小学生ですら知っている。


「闇子の瞳を二度見ると闇の中に閉じ込められるというのも本当なんですか?」


「多分ね。都市伝説っていうのは、つまり都市伝説化した時点でそういう現象になってしまうものだからな」


 都市伝説として多くの人が立てる噂が、現実に実体化することがある。

 特に闇子は誰の中にも当たり前としてある闇の具象化だけに根が深く、普遍の存在だ。


 それはすでに現象そのものと云ってしまってもいいもので、故に厄介である。


「だから君の視力を一時奪った。闇子の瞳は見ていないだろうね?」


「情けない話ですが、吐くのに夢中でしたから」


「それなら結構。闇子の瞳の力は、俺たちプロでも引き込まれてしまうくらい強力だからな」


「それじゃあ、蘭丸らんまるさんは……」


「あいつなら大丈夫でしょ。『電光石火』は闇をも断ち斬ることが出来るらしいから。持っているだけで所有者に憑く闇を払ってくれるのさ。何でもあの刀、この世に闇が生まれる以前から存在しているらしい」


「何だか良く分からないけど、凄いですね」


「本気にするなよ少年。妖刀に纏わる逸話ってヤツさ。似たような曰くつきの刀があと四振りあるし、本当かどうかは誰にも分からん」


 眉唾と言いながら力無く笑う。


 暫し間が空く。


 一匹の黒猫が亜緒の傍に寄ってくる。


「あ、猫!」


 宗一郎の声が、まるで花が咲いたように弾む。彼は猫好きのようだ。


ぬえっていうんだ」


「亜緒さんが飼っているんですか?」


「まぁね。僕の鵺だからな」


『闇子が出てきたのなら、この依頼は断ったほうがいいかもしれない』


 鵺は亜緒に話しかけていた。


 亜緒は沈黙で答える。


『闇子を倒すことは絶対に出来ない。亜緒だって分かっているはず』


「一人だけ何とか出来そうな奴がいるんだけど、無理かな」


『彼はアテにしないほうがいい。依頼料は高額だし、それも内容次第、気分次第で請けたり請けなかったり……しつこく依頼して殺された奴もいる』


 宗一郎は鵺にかまって欲しいらしく、手の動きと猫の鳴き真似で関心を引こうとしている。


『コイツは自分の置かれている状況を理解しているのかな』


「状況把握能力に問題ありだけど、パニックを起こされるよりはマシ」


「……亜緒さん、大丈夫ですか?」


「何が?」


「いえ……」


 宗一郎には亜緒が猫と会話しているようにでも映ったのだろう。


 事実、会話しているのだが、それが逼迫ひっぱくした状況からの逃避行為に見えたのかもしれない。


「ただいま帰った」


 亜緒が公園に忘れていった桐箱を持って蘭丸が帰宅した。


「ああ、すまない。手間掛けさせてしまったね」


 『終の封印』はもう使えない。


 闇子が絡んでいると分かった時点で、あらゆる策は無効にされてしまう。


 まったくもって、闇子という存在は厄介な意味で完全無欠である。


「少年は少し眠っておいたほうがいい」と蘭丸が言った。


 宗一郎にとってはいろいろと衝撃的な夜であったろうし、いざという時に体力切れで倒れられても困る。


 時計は午前二時を指していた。


「俺たちは今後についての作戦を立てなければならん」


「二階の客間に布団を敷いておいたから」


 宗一郎は頭を軽く下げると、不安そうに二階へと上がっていった。


 客間には亜緒が安眠効果のある香を焚いてある。


「布団へ入るなりグッスリさ」


 言いながら蘭丸に向けて意味ありげな視線を向ける。


 あからさまに依頼人を外したのだから、緊急な話があるのだろう。


 もっとも、話の内容は想像のつくものであった。


「闇子が出てきた以上、少年には気の毒だがこの依頼は断るべきだ。いや、断るしかないだろう」


「さっき鵺とも話したんだけど、やっぱり断るのが正解のような気がするね。でも……闇子はどうして黄泉帰りなんて呪術めいたものに手を貸しているんだろう。気まぐれ? 退屈しのぎ? 放っておけば高校生同士の何てこと無い殺人事件で事は済んだろうに」


「あいつは俺が困ることをするのが趣味なんだよ」


「この世で一番厄介なのに目を付けられているね。ところでさ……」


 亜緒の顔から独特の柔らかさが消えて、その表情が妖しく歪んでいく。


「君の刀って闇を斬ることが出来るんだよね? もしかして、もしかしてだよ? 闇子を斬ることも出来るんじゃないの?」


 まるで普段の亜緒とは人が変わったような、正体不明の威圧感。


「……どうかな。試したことが無いからな」


 一瞬の沈黙と逡巡の後、蘭丸の返事は実は答えになってはいない。


「答えたくなければ答えなくてもいいけどね。無理強いする気も無いし。闇子のことも話したくないなら、それでいい」


「…………」


「僕にも人に言えないアレやコレがあるしね」


 膝に乗っている鵺を撫でながら、いつもの平和そうに緩んだ表情に戻った青い髪の術士は虚空に呟やくのだった。


瞑想類めいそうるい 現子うつつこだっけ? 黄泉帰りの少女。純粋だと思わないか?」


「ああいうのを純粋っていうのか?」


 蘭丸はまた亜緒の軽口だと思った。


「純粋だよ。死んで尚、永遠に愛する人と一緒に居たいなんて、純粋すぎて吐き気がするよ」


「褒めているのか貶めているのか、よく分からんな」


「いやね。彼女のその後ろ向きな純粋さに免じて、宗一郎くんは殺されてもいいんじゃないかなと思ってね」


 闇子が出てきた時点で、誰かがどうこう出来る事案ではなくなっている。


 亜緒の膝の上で寛いでいた鵺が一声唸ってから、何処かへ走り去った。


「来たみたいだね」


 二人が何処からか入ってきた風を感じると、いつの間にか目の前に現子が立っていた。


「こんばんは。既にお邪魔してます」


 現れた現子は闇子が差していた日傘を持っていた。


「家、土足厳禁なんだけど」


 緊張感無い亜緒の声が座敷に渡る。


「そんなことより傘に気をつけろ。あれは『宵闇よいやみ』という仕込み刀でな。斬られたものは人であれ、物であれ、空気であれ、闇子の一部になる」


 蘭丸が刀に手を掛ける。


 亜緒も懐から札を数枚手に取って距離を取った。


「闇子さんから借りちゃいました」


 招かれざる客は傘を器用に回しながら、ゆっくりと近づいてくる。


「物騒だな。でも闇子が直接乗り込んで来ないだけマシかな」


「油断するなよ。何時いつ出て来るかも分からんぞ」


「僕たちはもう君と戦う意思は無いんだけど」


 亜緒があからさまな白旗を揚げる。


「そうなの? 宗くん持って帰っていいの?」


「殺したければ、ご自由にどうぞ」


「何だか怪しいな。罠とかあるんじゃない?」


「何も無いよ。さっきも君の純粋すぎる一途な想いに感嘆していたところさ」


「お兄さんも、やっぱりそう思いますか? でも困りました」


 嬉しそうに困る。


「そっちの刀持っていないほうのお兄さんは殺すように言われているんだけど」


 それはもちろん、闇子からということだろう。


「なんだって? 僕は割りと無関係っぽくない? どちらかというと、殺すなら蘭丸のほうだろ。君をバラバラにしたのはあっちの刀のお兄さんだよ?」


 死の宣告を受けても、まるで他人事のように受け流す。

 肝が据わっているのか、単に鈍いのか。


「オマエ……護ってやらんぞ」


 呆れた物言いをしながらも、蘭丸は既に自分の間合いの中に現子を捉えている。


「でもですね。刀を持っているほうは殺すなって言われているんです。髪が青いお兄さんはいろいろと邪魔なので殺してくれと」


「何だか理不尽な展開だなぁ」


 現子が傘から刀を引き抜く。


 サーベルのように細く黒い直刀から禍々しいオーラが辺りを撫でている。


「本当はね、私は貴方みたいな人は結構好みなので気は進まないんですけどね。でも、そういうことだからゴメンなさい」


 『宵闇』を手に現子が亜緒へと迫っていく。


 闇子が現子にとっての一方的な協力者なのであれば、二人は主従関係のようなものなのかもしれない。

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