第八話 「お前、馬鹿じゃないの」

「通常練習後に特別講師による指導を行なう」

 

 先日の三笠先生の言葉に、その日は全員がそわそわしていた。

「特別講義って何するんだろうね」

 巻藁をしながら加奈ちゃんが尋ねてくる。

「何だろうね」

 私も朝から落ち着かなかったが、何があるのかは見当もつかない。

 そして、その『特別講義』は練習終了寸前に――歩いてやってきた。


「こんにちわ」

 道場の東側玄関が開けられて、背の高いすらりとした女性が入ってくる。弓と矢を持ち、弓道着を着ていた。

「――ちわ」

 続いて、同じく弓と矢を持ち、弓道着を来た、背の低い男性が入って来る。

(男性?)

 もちろん女子校だからといって、先生が全員女性というわけではない。男性教師もいるから珍しいというわけではないのだが、私達とさほど変わらない年代の男性がいるというのは、学園祭の時でもなければ、まずありえない。

 射込練習の手が止まる。

 二人は雪駄を脱ぐと、弓道場に一歩足を踏み入れて、


「――?」


 一瞬だけ動作を止めるが、やはり普通に歩き出した。

 男のほうが、

「ふうん」

 と、一言発しただけである。

 そのまま、手早く弓巻きから弓を取り出すと、張って弓立てに置く。その動作は先日、三笠先生に教わった通りの、元はずを持ち上げるやり方だった。

 矢を出して矢立に入れ、鞄の中からゆがけを取り出して弓立ての下に置く。

 そして、弓道場の後方に正座すると――

 神棚を向いて礼を始めた。

 最初に小さく頭を下げ、二礼、二拍、一礼した後、最後に小さく頭を下げる。

 私たちのやりかたとは微妙に異なる。頭を上げた二人は、視線を道場にいる私たちのほうにむけると、

「よろしくお願いします」

 と礼をした。私たちも思わず頭を下げる。

 立ち上がった二人は西側にいた三笠先生の方に歩み寄った。

「三笠先輩、本日はよろしくお願いします」

 三笠先輩――ということは、彼女たちは三笠先生の後輩ということになる。男性がいるということは大学ということだろう。

「今日は有難う。忙しい時に無理を言って申し訳なかったわね」

「いえいえ、先輩のお願いごとですから」

 女性の方はにこやかに応じる。男性の方は物珍しそうに私たちの練習風景を眺めていた。

「相模さんはもう就職は決まったの」

「はい、既に内定をいくつか」

「まあ、あなたならそうでしょうね」

 就職ということは、相模と呼ばれた女性の方は大学の四年生。

「北条君は調子どう?」

 名前を呼ばれた北条という男性は、ふいをつかれたのか慌てて、

「あ、絶好調です」

 と答える。私たちの練習風景を真剣に眺めていたらしい。

 そのまま三人で練習風景を眺めている。私たちはなんだか動物園の動物になったような気分で、射込練習を続けた。

「三笠先輩――一人だけ竹弓がいますね」

 北条さんが問いかける。

「伸寸の弓があれしかないんだよね」

「そうですか、ふうん」

 なんだかその『ふうん』が気になってしまい、その後の私の練習はちぐはぐになってしまった。


 さて、練習が終了すると、三笠先生が前に立って二人を紹介してくれた。

「さて、これから特別講義を始めるわけですが、まずはお二人を紹介しますね。奥羽大学四年生の相模さんです」

「相模です。今日は宜しくお願いします」

 彼女は非常に優雅な姿勢でお辞儀をした。西条先輩に負けず劣らずのお嬢様オーラが道場中に漂う。

「そして、同じく奥羽大学二年生の北条君です」

「北条です、宜しくお願いします」

 北条さんは勢いよく頭を下げる。そして、

「ちなみに、俺は宮城第一高校出身です」

 と、にやりとしながら言った。私たちの中に、

(えー、宮城一高だってよー)

 という空気が流れる。宮城一高は仙台第一女子と同じく、仙台駅の東側にある男子進学校だが、バンカラな校風で女子高生に受けが悪かった。本人も承知しているらしく、わざとそれを最初に説明したらしい。

「さて、それでは今日の講義内容だけれど――」

 三笠先生の言葉に、再び空気が引き締まる。

「これから二人に弓を引いて頂こうと思います」

 予想外のことに全員が顔を見合わせる。てっきり私たちの行射に対する徹底指導が始まると思っていたので、なんとなく微妙な空気が漂った。しかも、相手は宮城一高出身者である。私たちと同じく『かつての伝統校』扱いされている高校で、あまり期待はできない。

(先生はなにを教えたいのだろう)

 全員がそんな表情を浮かべて当惑する中を、相模さんと北条さんは黙々と準備し始めた。私たちは神棚下に正座して待つ。

 正座をして、ゆがけをつける。二回ほど簡単に素引きをする。そして、

「では、始めましょうか」

 と、相模さんが言って北条さんが頭を下げた。

 私たちは驚く。

(えっ、それでいいの?)

 ここは初めての道場で、彼らは満足に肩慣らしすらしていない。それで何をするというのか。

 なんだか安易な展開に、私たちの戸惑いはさらに深まる。

 二人は弓と矢を取ると、北条さんが前に、相模さんが後ろになって、弓道場の東側後方に並んだ。

「それでは入ります」

 北条さんが一言声をかける。そしてそのまま左足で道場後方のビニールテープを跨いだ。

 神棚に礼をして、彼は左に向きを変えると、そのまま射場を的の方に向かって歩き出す。

(え、何、早速間違えたの)

 と、私たちが驚いていると、続いて相模さんが一礼して、同じく的の方に向かって歩き出した。

 そのまま二人は道場の東側に並ぶと、特に合図するわけでもなく同時に神棚の方を向く。そして、そこで正座をすると、礼をした。


 『射礼』だった。


 弓道の大会では、試合が始まる前に高段者の先生による射礼が行われる。

 結構時間が掛かるのと、よぼよぼのご老人が特に見どころもない射をするだけのことが多かったので、私たちは真面目に見たことはなかった。二人はその射礼を始めたのだ。

(これが特別講義?)

 クエスチョンマークが飛び交う道場内で、二人の動作は途切れなく進行してゆく。

 相模さんと北条さんは、立ち上がって私たちから見て左に向きを変えると、今度は相模さんが前になって歩き始めた。

 二足一呼吸。相模さんと北条さんの足は「右、左」まで完全に揃っている。

 本座の一歩後方をゆっくりと歩いてきた二人は、途中で的の方向へ向きを変えた。無造作に見えたが、やはり二人のタイミングはばっちり合っていた。

 一歩踏み出して、本座の位置で静かに腰を下ろす。的に向かって一礼。

 ここから一本目の矢を射るまでは、私たちが座射をする時のやり方と同じだったが、実際は全然別物だった。

 二人の動きは見事なまでに同期している。

 本座で立ち上がり射位に向かう時のタイミングから、そこで座って向きを変えるまでのタイミング。すべて同時で遅滞することがない。

 三笠先生に体配を教えて貰う前であれば、それがいかに大変なことであるのか私たちは気がつかなかったに違いない。先生に教えて頂いた通りのお手本が、そこにあった。

 相模さんが弓構えを始める。ここで私たちは、少しだけ前のめりになった。

 どこにも力が入っていないゆるやかな弓構えから、相模さんは打ち起こしを始めた。肩慣らしもしていない状態とは思えないほど、速やかに弓は上昇してゆく。大三への移行も滑らかで躊躇とまどいがない。そのまま引き分けて会に入る。五秒ほどの緊張の後、


 ――私たちは、私たちが今しているものとは別な次元の『弓道』があることを知った。


 ゆがけから弦が外れる。

 弓は鋭く弓返りし、矢はそれに送られて的に向かって真っ直ぐに飛んでゆく。

 弦が弓を叩く澄んだ音。

 矢が飛んでゆく風をきる音。

 そして、的に的中する破裂音。


 すべては一瞬の出来事だった。

 相模さんはわずかに左拳を下げ、右肘をゆるやかに曲げた状態で残身を取る。

 そして、弓倒しをするとその場で腰を捻ると的の方を向いて、後方に下がり始めた。これは座射にはない。

 相模さんが下がって北条さんが見える。彼は立ち上がるところだった。身長は百六十センチ以下だろうか。弓構えを始める彼の姿を見ながら、私はあることに気がついた。

 北条さんのゆがけが四本指になっている。

 私たちが使っているのは親指、人差し指、中指の三本を覆うゆがけだが、さらに薬指まで覆う四本指のゆがけがあることは知っていた。しかし、身近で使っている人を見たことがなかった。

「加奈ちゃん、男の人は四本指のゆがけを使うの?」

 小さな声で隣にいる加奈ちゃんに聞いてみる。

「えーと、兄貴は私と同じ三ツがけだったから、違うと思うんだけど……」

 加奈ちゃんもよく分からないらしい。


 さて、ここで正直に申し上げると、私たちは北条さんの射にはあまり期待していなかった。

 さきほどの相模さんの射が鮮烈すぎて、むしろ彼女の射をもう一度見たくて仕方がなかった。

 宮城一高OBということもあり、「どうせ大したことはないだろう」と高をくくっていたのである。

 北条さんは弓構えを終えると、やはり速やかに打ち起こしに入る。相模さんと同様に滑らかな動き。会まですらすらと引いてくる。やはり五秒ほどの制止の後、


 ゆがけから弦が外れる。

 弓は相模さんの時よりも鋭く弓返りし、矢はそれに送られて的に向かう。

 弦が弓を叩く澄んだ音。

 矢が飛んでゆく風を切る音とともに真っ直ぐに飛び、的に的中する破裂音が響く。

 そして、それらが相模さんに比べて格段に速い。そして、重い。


 唖然とする私たちの眼の前で北条さんは残身を取った。右肘は鋭角に曲がっている。

 彼が弓倒しをする間に、相模さんが立ち上がる。相模さんが前進する動きと、北条さんが足踏みを閉じる動きがシンクロして、さらに二人は同時に腰を下ろしていった。

 相模さんの二本目は、やはり滑らかに進行して、軽くて鋭い離れの後に的に中る音がする。

 北条さんの二本目は、やはり滑らかに進行して、重くて鋭い離れとほぼ同時に的に中る音がする。

 先に本座まで戻って座っていた相模さんの隣に、行射を終えた北条さんが後ろ歩きで並んで、座る。

 二人そろって的に向かって一礼。

 立ち上がると、一歩後ろに下がってから、最初とは逆方向で道場東側の位置まで歩き、そこで同時に神棚のほうへ向きを変える。座って一礼の後に立ち上がり、一歩後ろに下がってから、最初の射場入場位置まで歩いて、神棚に向かって一礼する。

 そして、右足でビニールテープを跨いだ。


 私たちはその姿を、圧倒されて見送るだけだった。


 *


 相模さんと北条さんの射礼が終わってから、しばらくの間は誰も言葉が出せなかった。


 おのおの、今の目の前の出来事を消化するのに一所懸命だったと思う。

 私は私でこんなことを考えていた。

 私は、部員以外の人が弓を引いているところをこれだけ真面目に見たのは、今回が初めてだった。

 六月のインターハイ県予選に同行してはいたが、あの時点では弓道を始めて二か月足らずで、まだまだ初心者みたいなものだったから、他校の射を見ても違いがよく分からない状態だった。

 自分が実際に射場で弓を引くようになった今だからこそ、他の人の射に対しても良し悪しが多少は分かるようになっていたのだと思う。

 それでも、三笠先生の指導を受ける以前であれば、体配に関してはその良し悪しの区別がつかなかったかもしれない。

 そして、今回の二人の射礼は私が初めて自覚的に見た『自分とは別次元の弓道』だった。

 そして、なによりも驚いたのは、相模さんと北条さんが高段者ではなく、自分とたいして年齢の違わない大学生という点だった。

 これが宮城県弓道連盟の年配の先生であれば、ここまで驚くことはなかったかもしれない。

 それだけの修練を長期間積んでいるのだろう、と割り切っただろう。

 ところが、北条さんは私たちと四歳ぐらいしか離れていないのに、実力は天と地ほどの差に思える。

 彼が隣の男子高出身であることが、その格差の意味を重くしていた。


「さて、何か質問のある方は」

 射礼を終えた相模さんと北条さんが道具を片付けて、神棚の下までやってきたところで、三笠先生がそう言った。

 誰もがなかなか口を開くことができない。

 北条さんがにやにやしながら、

「なんだよ、見てて何も気づかなかったのかよ――」

 と言ったところで、


 ばしん!


 という平手打ちの音が道場内に鳴り響いた。

「痛ってえええ――」

「いつまでいい気になって男子高校生モードやってるの! さっさと副務モードに戻りなさい!」

 品の良いお姉様キャラだった相模さんが眉を吊り上げている。

「はい……すんません……」

 涙目になりながら相模さんに謝った北条さんは、背筋を伸ばして大きく息を吐くと、先程までとは打って変わって、

「大変失礼しました。拙い射技で申し訳なかったと反省していますが、何か聞きたいことがあれば気軽に聞いてもらえればと思います。私と相模先輩でお役に立てることがあれば、とても嬉しいです」

 と滑らかに口上を述べて、爽やかに笑った。

 あまりの落差に全員が息をのみ、それから――爆笑した。

「ちょっとちょっと、せっかく真面目に言ってるんだから」

 北条さんは顔を赤くしている。

「あ、すいません、その、あまりに落差が激しくて――」

 辛うじて西條先輩が謝罪する。

「まあ、僕も申し訳なかった。つい、昔の癖で」

「癖って――男子高校生のあの自意識過剰な行動は癖なんですか」

「あれは習性。太古の昔から男子高校生のDNAに刻み込まれているやつ」

 早苗ちゃんの過激なツッコミに、さらりとボケで返す北条さん。さっきまでの話しかけ難さがすっかり抜けている。

 そこで、いつもの通りの切り込み隊長、加奈ちゃんが、

「はいはーい、質問がありまーす」

 と、やはりいつもの如く、右手を挙げてぴょんぴょん跳ねながら言った。

「何でしょう?」

「お二人とも弓道は高校から始めたのですか?」

 まずは基本情報の収集。さすがは早耳の加奈ちゃんだ。

「僕はご存知の通り、隣の男子校で始めたけれど――」

 そう言って北条さんは相模さんのほうを見る。相模さんはにっこりと微笑むと、

「私は大学から始めました」

 と、言った。

 全員が衝撃を受ける。

 理穂ちゃんがぽつりと全員の想いを代弁した。

「それで、どうやってあそこまでの射に……」

「それほどの射でもありませんが、練習はしました」

 相模さんがこともなげに言った。

 後で三笠先生に聞いたところによると、相模さんは東北地方の大学が組織している大学生の弓道連盟ではかなりの有名人で、何度も個人優勝しているということだった。

 弓道を始めてから四年目。

 しかも、高校から始めた人に混じっての戦いで、全然引けを取っていない。

 もちろん、その時はそこまで知らなかったけれど、なんとなく『凄い人』とは感じていた。

「あの、それでは別な質問、いいでしょうか?」

 私はおずおずと手を挙げた。

「はい、そこの方。小さく挙げても目立つから大丈夫です」

 北条さんににこやかに言われた。

 ただ、彼は彼で身長のことでいろいろ言われることが多いのだろう。何だか他の人に言われるよりも全然不愉快じゃなかった。

「あの、ものすごく初歩的な質問で申し訳ないんですけれども」

「はい、大丈夫ですよ」


「じゃあ――どうしたら、あんなに上手に当てられるんですか?」


 それを聞いた時の北条さんの顔は、なんとも表現しづらいものだった。

 恥ずかしいような、くすぐったいような。辛そうでいて、楽しそうな。

 一瞬のうちにさまざまな想いが駆け抜けていったようだった。

 隣で相模さんが、なぜか笑いを堪えている。

「えっと、どうしようかな」

「あの、なんか変な質問をしたようで申し訳ありません」

「いや、いいんですよ。そうね、じゃあ、そのまま伝えましょう。実はね、僕も同じ質問を大学に入りたての時に上級生にしたんですよ。そしたら、こう言われました」

 全員が身を乗り出して聞き耳を立てる。

 北条さんはにっこり笑いながら言い切った。


「お前、馬鹿じゃないの?」


「あぁん?」

 理穂ちゃんの口からドスの利いた声が漏れる。

 北条さんは両手を前に挙げて小刻みに振ると、

「いや、これは僕の回想だからね。君たちに言ったわけじゃないから」

 それは分かっているが、質問者である私は少々傷ついた。

「貴方も本当に女の子の心が分かってないわねえ」

 相模さんが笑いながら溜息をつく。

「まあ、事実そのままなので仕方がありませんが、私が補足します」

 そう言うと、彼女は一歩前に出た。

「さて、本来は質問に質問で返すのは失礼にあたるのですが、その点はお許しを。まず、皆さんに考えて頂きたいことがあります。もし、はいはいできるようになったばかりの赤ちゃんが貴方の前にやってきて『車の運転を教えて下さい。大人なら誰でもできるのだから、難しいことではないんでしょう?』と言ったら、貴方ならどう答えますか」

 どう、と言われても、すぐには答えようがない。

 確かに、大人にとっての『車の運転』は、簡単とまでは言わないものの普通は出来ることだ。

 だからといって、赤ちゃんが教えてもらって出来ることではない。

 この間の違いを正確に伝えるためにどう言えばよいか。

「貴方ならどうしますか」

 相模さんが西條先輩に尋ねる。

「そう、ですね。まずは立ち方を学び、それから歩き方や走り方を学んで、基本の動作がちゃんとできるようになってから教えます、でしょうか」

「そうですね。真面目で気の長い方であれば、そのように答えると思います。では、貴方ならどうしますか」

 相模さんは、今度は早苗ちゃんに尋ねた。

「もちろん、こう答えます。『赤ん坊の癖になに生意気なこと言ってるの』」

 まあ、早苗ちゃんなら思い切り『上から目線』でそうだろうなと、一年生は全員頷く。

「これもまあ、あるかなと思います。つまりはそういうことです」

 と、相模さんはにこやかに笑いながら言い切る。


(え、どういうこと?)


 部員全員の頭に『はてな』マークが浮かび、少しだけ間を置いてそれが一つずつ電球(しかもLED)に変わる。

 そして、変わった順に今度は物思いに沈みこんでいった。 


 *


 特別講義があったので、部活の帰りは三時ぐらいになる。

 電車の中はクーラーが効いていて、その安楽な世界から見つめる窓の外の灼熱地獄は、なんだか全然リアルな感じがしなかった。

 でも、実際には一歩外に出た途端に、リアルが押し寄せてくる。

 自分の周りの環境次第で世界の見え方がくるくる変化することは、普通にあるのだ。

 今日の特別講義で、三笠先生や相模さん、北条さんが伝えたかったことは、きっとそういうことだと思う。

 自分たちが自分の周囲の状況だけで判断していた小さい世界から、それよりも広い範囲まで見渡せる世界に向かって、どうしたら周りが見えるようになるの、と問いかけたら、帰ってくる答えは一つしかない。

「少しずつ焦らないで世界を広げてみること。そうしないと無理があるんだよ」

 急に世界が広がったとしても、感じる側の自分がいままで通りだと、広がったことが感じられない。むしろ、身近な環境変化に適用することに必死になって、周りが見えなくなることもあるだろう。

 まずは赤ちゃんが立ち上がるように、着実に進んでいくこと。

 自分のレベルが、弓道を本格的にやっている人から見ると『赤ちゃん』に過ぎないことが分かって、ちょっとショックだったけれど、でも知らないよりはましだ。

 そして、この経験を三笠先生がどうして特別講義の形で伝えたのかも、なんとなく理解ができた。

 多分、先生のように離れた存在から言われても、全然ピンとこなかったのではないかと思う。

 それが相模さんや北条さんだからこそ、すんなりと受け止められたのだと思う。

 いいとか悪いとか、そういう意味ではなく、やり方によって受け止められ方が異なる場合があるということ――それがよく分かった。

 電車は、名取川の広い河川敷を横切ってゆく。


 鉄橋上からキラキラ光る川面を眺めながら、なんだか自分の心もキラキラし始めていた。

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