第六話 「まさかお泊りしたとか」

 早苗ちゃんからの一言で変に意識してしまった。


 実際問題、私は同性に非常にモテる。

 中学時代、背の高い女子はバスケットボール部員かバレーボール部員が定番(というか鉄板)で、私もご多分に漏れずバレーボール部に所属していた。しかし、どれだけ練習を重ねても丸いボールを思い通りに操ることはできなかった。レシーブすれば顔に向かって飛んでくるか、あらぬ方向に飛んでいくし、サーブをすればネットまたはコートの外が定位置だった。

 バレーボールに限らず私には球技全般が向いていないようで、授業でやったバスケットボールも手が付いて行かなかった。ドリブルを繰り返しているとだんだん手元が怪しくなくなって、ボールは自然に私の手を離れてゆくのだ。

 そんな万年補欠選手の私に、なぜか先輩・同輩・後輩入り混じった女子の応援団がついていた。

 放課後のクラブ活動中は、体育館の扉の向こう側や足元の換気窓からの視線を絶えず感じていたし、バレンタインデーには一日に何度も校舎の裏まで呼び出されて、とても『友チョコ』とは思えない気合いの入ったラッピングが施されたチョコレートを手渡された。本来とても優柔不断な私でも、さすがに百合方面の趣味にはお付き合いできないので、断らざるをえない。結果、他の対人関係は奥手なのに、この手の修羅場については手慣れている、ということが悲しかった。

 そして、これは同じ年代に限らない。

 家が自営業だと、中学生にもなれば「立派な一人分の労働力」と数えられ、よく食材の買い出しを頼まれた。JR名取駅前は周辺に大きなショッピングセンターが乱立しており、その影響で個人商店は錆びれていく一方の絶滅危惧種だったが、まだ細々と残っている店がある。生き残り組は出来る限りお互いの店で買い物をするようにしているのだが、いつどこに行ってもおばちゃんのサービスが手厚いので当惑させられる。

「あんれー美代ちゃん、しばらぐみないうぢにーまっためんこぐなって、まあ」

 という、宮城のおばちゃんの定番ご挨拶から始まって、いろいろと念入りにサポートされてしまうのだ。まあ、古くから顔馴染みのおばちゃんならば、まだ分からないでもない。これと同じようなことが、仙台市内で飛び込んだ店でもあるから困る。

 母と買い物で広瀬通一番町まで出て、たまに小洒落たショップを覗いたりなんかすると、なぜか店のお姉さんの集中砲火を浴びる。次から次へと試着させられるのだ。それが「売ろう」という意識の表れならばまだよい。非常に高い確率で、店員の趣味の世界に引きずり込まれ、しかも母がまたノリがよいものだから火に油を注ぎまくって、延々と付き合わされることとなる。

 練習終了後、みんなからの

「しっかりやるんだよ、ファイト!」

 という、どこの部分を応援しているのかさっぱり分からない励ましを受けて、私は先生と二人きりで道場に取り残された。


 *


 私はその時、弓立の前に正座していた。

「それでは始めましょうか」

 三笠先生はそう言うと、私のほうに向かって一歩一歩近づいてきた。痩せてはいるけれども、猫科の肉食動物に似たしなやかな動き。その瞳は獲物を狙うかのようにこちらを見つめていた。

 うわ、マジ?

 私の鼓動が激しくなる。恥ずかしくて前を向いていられなくなり俯くと、先生の靴下を履いた足が目の前に止まる。そして、座っている私に向かって三笠先生が上体を屈める気配がした。

 うわー、ヤバいよ、ヤバいよー!?

 私の頭の中に桃色のスズメバチがぶんぶん回る。

 先生はそっと、言った。


「ちょっと、これ引いてみてくれるかな」


「ほえ?」

 私の口から思わず間の抜けた声が出る。顔を上げてみると、三笠先生は今朝弦を張った竹弓を手に取って、上体を起こしたところだった。

 ――ちぇっ、なんだよ、弓の実験台かよ。

 勘違いなら勘違いで自分が腹立たしい。心の中でひとしきり悪態をつくと、気分を切り替えて立ち上がった。

「でも、古くて壊れやすいものじゃなかったですか」

「ああ、それはもう気にしないで。多分、この竹弓はこれが最後の晴れ舞台でしょうから」

「しかし、私はみんなから馬鹿力って思われていますし――」

「大丈夫、大丈夫。もし壊れても、それは貴方の力によるものではなく、弓の寿命だから」

「そうですか。じゃあ引いてみます」

 私はおっかなびっくり、先生から竹弓を受け取った。

 想像していたよりも重い。

 そして、実際に触れた天然素材の弓は、(見た目からしてそうなのだから、当たり前なのだが)グラスファイバーの弓よりも手触りが丸みを帯びていた。上を結んでいた切れ弦は既に外されており、そのまま引ける状態だった。

「素引きでいいんですか」

 矢を付けず、ゆがけもつけずに素手で弓を引くことを『素引すびき』という。

「お試しだからね。まずは素引きで」

「分かりました、ではやってみます」

 足を広げて、左手で弓の握り皮を持ち、右手で弦を掴むと、私はいつもの通り打ち起こしてみる。

 大三に移行する時に、いつもの弓よりも少しだけ重さを感じるが、目を過ぎる時の重さに比べたらなんということもない。と、そこで思い出した。

 ――あ、このまま引き分けて大丈夫かな。

 目から下に降ろす時の抵抗感で、この弓が壊れはすまいかと一瞬手が止まる。しかし、ここまで引いてきて戻すのも不自然だ。壊れても構わないという三笠先生の言葉もあり、ここは覚悟を決める。

 いっちゃえ!

 引き分けに入っても弓の重さは変わらない。いつもより多少重いままだ。

 そのまま額から目まで降ろし――


 目から口までをそのままの重さで引き下ろす。


 あ、あれ、あれれれれ?

 左腕も右腕もすんなりと収まっていて、いつもの窮屈さがない。これならば左掌にさらに力を加えて耐える必要もない。

 うわっ、竹弓って凄い。

 感動すら覚える。こんなに楽なのは初めてだ。

「どうですか。楽じゃありませんか」

「はい、楽です。いつもの嫌な重さがありません」

「やはりね。じゃあ、ちょっと戻してもらえますか」

 とても快適な感触と別れるのは残念だったが、いつまでもこうしている訳にはいかない。先生の指示に従って、しぶしぶ弓を元に戻した。古い竹弓なのが残念だ。今の時代に生まれたならば、きっと私のベストパートナーとなっていたに違いない。

 生まれてきた時代を間違えたのね、よよよ……

 などと、頭の中で小芝居を再生していると、目の前に違う竹弓が差し出された。

「これも試してもらえるかな」

「はい、分かりました」

 私は同じように素引きを始める。やはり、大三をとった時に重さを感じた。それも、さっきの竹弓より強く、いつもの目から下の嫌な重さよりは軽い。そのまま引き分けに入り――


 やはり目から口まで同じ重さのままで引き分ける。


 三本目の弓はさらに重かったが、やはり口のところまで引き込んだ重さは、今のグラスファイバー弓よりも軽かった。

「先生、竹弓って凄いんですね!」

 ベストパートナーが三人もいたことに私は驚く。いや、もしかして竹弓ならばどれでも同じように問題はないのだろうか。ここにあるのが全部お古なのが恨めしい。私が竹弓を愛おしく眺めていると、三笠先生は言った。

「もうちょっと時間貰ってもいいかな」


 *


 着替えて手荷物を持つと、私は先生の車に乗り込んだ。なんと連れ出されてしまったのだ。

 先生の軽自動車は、仙台市内の路地裏をとことこと駆け抜けてゆく。私は知らない世界に連れていかれる恐怖に身を震わせて――

 いる、という想像をたくましくしながら、いつもの弓具店に向かった。

 私が知っている限り、東京と九州の一部を除くと、だいたい弓具店はどこの都市にも一つしかないか、全くない。仙台市も同様で「加藤弓具店」という名前の、高校生が普段行くにはとても不便なところにある店だけだった。三笠先生はお店の一階に車を止めると、慣れた足取りで二階への階段を上った。私はとぼとぼとその後ろをついてゆく。

 私が見るからに消極的なのは、この店の店長が苦手だったからだ。見るからに偏屈な老人で、客商売の癖に愛想が悪い。弓具について質問したくても、なんだかしにくい空気が漂っている。他の店員がいるときならばそちらに聞けばいいので問題ないが、店長しかいない時にあたるとどうにも間合いが取りにくくて、何も買わずに帰ったこともあった。

 西條先輩は、

「あら、そうですか。そんな風に感じたことがないですね」

 と言っていたが、それは先輩が人類一般に対して非常に好意的であるからで、一般的な女子高校生は苦手なタイプだと思う。

 三笠先生が店のドアを開けると、今日は見事に店主一人の日だった。

「ご無沙汰しております」

 先生はとても親しげに加藤店長に歩み寄る。店長はいつもの通り「まゆを潜めて、眉間みけんに皺を三本立てた顔」で、しげしげと先生を十秒ほど眺めていたが、皺の数を一本減らすや言った。

「あや、なんだい三笠ちゃんがい」

 ちゃん…だ…と!!

 衝撃を受けた。しかもどうやら加藤店長は笑ったらしい。口角が微妙に上がっていた。

「もう、『ちゃん』という歳でもありませんよ。店が変わってから初めて来ました」

「随分と顔をみながったけんど、どごさ行ってたの」

「あちこちを転々としてました。ずっと仙台の教員枠を狙っていたのですが、最近になってやっと戻ることができまして」

「ふうん。んで、続けてるの」

「はい、細々と。ただ、宮城県の弓道連盟とは路線が違ってしまいましたので」

「ああ、はなすは聞いだことがあるよ。んでも奥羽大の鈴木先生が同門でながったか。彼を経由すれば大丈夫だべ」

「鈴木先生とはもちろん面識がありますが、何分にも私は急進派なので先生にご迷惑をおかけしますし」

「あんだは変わんねえなあ。まんだ肩肘張ってるんだ」

「先生と喧嘩したことが懐かしいです」

「あはは、んだ。俺もそうだ」

 なんと、加藤店長がとうとう笑い声をあげた。驚きを通り越して奇跡に近い。それよりも何よりも、二人がなんの話をしているのか、私にはまったく分からない。

 そこで三笠先生は、やっと今日の用件を切り出した。

「今日は、この子にあうグラス弓を探しに来たんです」

「ああ、最近たまにくる一女の生徒だな」

 私は緊張しながら頷いた。『一女』は仙台第一女子高校の短縮名称だ。

「でがいがら気はついてたけんど、全然しゃべらんがら」

 そうじゃない、あんたの愛想が悪いんだ。

 私は「心で悪態をつきつつ、頭を下げる」という女子高生にしては高等技術、自営業には必須スキルを駆使した。

「何があるんですか」

なぬがって、おめ。直心なおごころから蘇山そやまかけるまであるべや」

「今は錬心れんごころを使ってますから、それの十五キロを試したいのですが」

「素引きならば自由にやってもらってかまわね」

 それから加藤店長は私のほうを見た。眉間の皺が三本に戻ったので、思わず身が縮む。店長はしばし私を見ると、ぽつりと言った。

「四寸伸もあるよ」

「ありがとうございます」

 三笠先生が頭を下げたので、あわてて私も頭を下げた。

 しかし、相変わらず話の筋は全然分からない。


 うわあ、随分種類があるなあ――グラスファイバーの弓が並んだ棚の前で、私の目が眩む。

 これまでは、備品係であるかおりちゃんの付き添いか、自分個人の細々とした用具を買いに来るだけだったので、弓の棚は眺めてみたことはあっても、目的を持ってまじまじと見つめたことはなかった。

「店長の許可を頂きましたので、いくつか素引きしてみましょう。それじゃあまずはこれを試してみて」

 私としては、引きやすい竹弓を試してみたかったのだけれど、ちらりと見たお値段が全然可愛くなかった。グラスファイバーでも、新品ならば少しは違うのだろうか。あまり期待せずに、大三から引き分けていき――


 やはりそのまま楽に口まで降ろした。


 頭の中をはてなが三連荘さんれんちゃんで踊る。もしかして、私の弓が古いからいけないの?

 いくつか新しい弓を試させてもらったが、多少引くときの抵抗感や、手の内への当たり具合が異なるものの、少なくとも目のところを過ぎて急に重くなる弓はなかった。

「じゃあ、最後にこれ」

 三笠先生から、今使っているものと同じ錬心れんごころを受け取ると、引き分けてみた。


 今度は急に目のところで重くなる。今のと同じだ。


「ああ、そこで戻してちょうだい」

 私が降ろすのに苦労しはじめたと見るや、先生は急いで静止した。私は弓を降ろす。

「さて、そろそろ違いに気が付いてもよさそうだけれど」

 私は考える。

 材質の違いではないらしい。

 新旧もどうやら重要なポイントではないようだ。

 ということはなんだろう。

 私は眼の前に並んだ「重くなる錬心れんごころ」と「重くならない錬心れんごころ」を並べて凝視する。下から上に向かって比較して、一番上まで視線を上げたところで、やっと違いに気が付いた。

「先生、弓の長さが違います」

「ご名答」

 三笠先生が拍手をしたが、視界の片隅にあった加藤店長の顔は歪んでいた。どうやら苦笑したらしい。

「高校生が普通に使っている弓には、二種類の長さがあります。それは『並寸なみすん』と『伸寸のびすん』です。並寸は七尺三寸ですから約二百二十一センチメートル、伸寸は七尺五寸ですから約二百二十七センチメートルですね。どちらを使用するかは、弓を射る者の身長や用いる矢の長さによって決まります」

 三笠先生は一旦区切ると、並寸と呼ばれた『重くなる弓』を手に取った。

「阿部さんの身長は百七十センチを超えていると思いますし、手も長そうです。ですから、この並寸の弓では長さが足りません。それにもかかわらず無理に引こうとしていたので、目通りを過ぎたあたりで引きが重くなっていたのです。こちらの伸寸であれば問題はなさそうですが、場合によっては四寸伸、七尺七寸ですから約二百三十三センチメートルになりますが、そちらを使ったほうがよいかもしれません。今日はそれを試しに来ました」

「あの、では学校の竹弓も」

「そう。あれも伸寸です。どうやら最近はグラスファイバー弓を並寸でしか買っていなかったようですね。そこに阿部さんのような引きなりの大きい生徒が来たものだから、誰も気が付かずに並寸を渡してしまった――と、そういうことです」

 私は眩暈がした。いままで「おかしい、私は弓道に向いていないのではないか」と悩んでいたことの原因が、ただの道具の選択ミスで片付いてしまった。やはり、知らないということは恐ろしい。

「今日は急でしたから購入資金がないと思いますし、まだいろいろと試行錯誤が続くので、新しい弓に手を出すのは次の機会にしましょうか。当面はあの竹弓を使ってもらって――」

「「え」」

 私の驚きの声に、もう一つは加藤店長の声だ。

「今の子に竹弓はねえべや」

「そうです、私にはそんな大層なことはできませんし、壊してしまったら大変ですし」

「でも、今の弓道部に伸寸の弓は、他にありませんよ」

「う――」

 言葉に詰まる。その通りだ。過ちに気が付いてしまった以上、元の知らなかった時代には戻れない。というか戻りたくない。私は降参した。

「分かりました。とりあえず竹弓で」

「大丈夫だって。私が付いているから」

 三笠先生が私の肩を叩いてそう言うと、加藤店長がぼそりと言った。

「相変わらずだべ。いまだ『奥羽の魔女ウィッチ』は健在ということだべか」

 私は「伸寸の竹弓」の件ですっかり舞い上がってしまっていたので、この時の一連の会話を思い返して、それが三笠先生の過去及び現在の苦難に関連した話であったことに気が付くのは、ずいぶんと後になってしまった。いや、竹弓の件がなくても、経験が浅い頃の私にはやはり分からなかっただろうし、そして分かったからといって何かできたわけでもない。

 

 ただ残念に思うのは、『魔女ウィッチ』という加藤店長の言葉を聞いた時に、三笠先生が見せた悲しげな表情に気がついていたのに、そのことをすっかり忘れてしまったことだ。


 *


「美代ちゃん、どうしたの?」


 翌日の朝、理穂ちゃんが道場にやってきて驚いた声をあげた。

「まさかお泊りしたとか」

「そんなことないわよ、今朝は早く来たの!」

 誤解されるのは嫌なので、私は強く否定した。

「しかもそれ――竹弓じゃないの」

 理穂ちゃんは普段細い目を丸くした。

「そう。昨日、三笠先生からこれを使うように言われたの」

「ということは先生も来ているの」

「うん、学校のほうの仕事を片付けに行ってる――あの、何か」

 理穂ちゃんが何だか邪悪な笑みを浮かべていた。

「やっぱりお泊りなんじゃないの。先生の家とかどうよ」

「ちがうって――」

 と言っている最中に北側のガラス戸が開く。そこには、邪悪な笑みを浮かべた早苗ちゃんが立っていた。

「――ふうん、お泊りしたんだ」

 しまった、終わった。

 理穂ちゃんをなんとか出来ても、さらに早苗ちゃんまで攻略することは出来ない。

 この後暫くの間、弓道場の控室に置いて、さらに邪悪な笑みを浮かべた加奈ちゃんまで交えて、私が如何にして大人の階段を登ったのか(或いは登らされたのか)、という点についての面白半分の妄想がじっくりと熟成されていくのだが、私はもう否定する気もなかった。


 *


 竹弓の扱いはかなり面倒で、しかも熟練が必要であるらしい。

 とりあえず、当面の弓張りと始まりと終わりの調整(が必要と聞いて驚いた)は、先生が学校に来た時と部活が終わった時にやってくれることになった。私は帰りの調整をたまに見ていればよいということになったのだけれど、どうにも収まりが悪かった。

 自分が使う道具を人に任せる。出来る時にその様子を見ていればよい。

 そう言われても素直に「ラッキー」と喜べない自分がいる。それで、今朝は早めに出てきて先生の調整を見ていたのだが、何をしているのかさっぱり分からない。昨日と同じく両手での弓師張りから始まって、その後は神棚前の畳スペースで、弓のあちこちを静かに押し始めた。穏やかにではあるものの、力は確実にかけているらしい。いつポッキリと折れるのか気が気ではなかったが、幸いそんな悲劇も起きず、練習に入ることが出来た。

 ちなみに、使うのは三本の竹弓の中で引きの重さが真ん中のものだった。

「なんだか上級者みたいだねー」

 かおりちゃんが巻藁に向った私を見て言った。これから竹弓を初めて使う――その瞬間を目撃しようと、三笠先生と部員全員が私を取り囲んでいた。なんだかとても恥ずかしい。

 大三から引き分けに入る。

 目のところできつくならないというのは、本当に天国だ。すんなりと口のところまで降ろしてきて、そこではたと気がつく。

 手の内は楽だけど、このまま離しても大丈夫なのだろうか?

 そういえば、まだこの楽な状態で離れたことがない。右手は別に変ったところはないから大丈夫として、左手の心もとなさはどうだろうか。「卵を握っても壊れない」ほどではないが、昨日までとは全く別次元の柔らかさだと思う。だからこそ、この状態で離しても弓を抑え切れるのか、その点が心もとないのだ。

 しかしながら、離さないという選択肢もない。

 あいかわらず「土壇場で、えいや」ばかりだが、この時もえいやと腹を括った。

 悩んで五秒、決断して一秒後にえいやと右手を離す。

 左手は――多少の抵抗はあったものの殆ど反動なく、柔らかく握った手の内の中に弓は収まった。そして弓が少しだけ回って、自分から見て三十度ぐらいの位置にとまる。

「お――」

 周囲から歓声があがった。自分でも狐につままれたような気分だ。

「なんだか、昨日までと随分違うね。私も竹弓つかったら変わるかな」

 加奈ちゃんが感心したように言った。

「変わりません。阿部さんは無理していた部分が楽になっただけですから」

 三笠先生はにこやかに否定した。


 続いて的前練習。

 筋肉痛が消えると、さらに射場での足の安定性は高くなった。最初になんであんなに苦労したのか、こうなるともう分からない。さすがに、不用意な素早い動きや強い力を加えれば滑るものの、行射そのものには支障がなくなってきた。 

 さて、巻藁では非常に具合がよかった竹弓も、的前となると新たな不安が沸いてくる。

 射場から的までの距離は二十八メートルある。

 昨日まではきつい思いをしていた反面、これだけ重いのだから飛んで当たり前という感じがしたが、伸寸の竹弓だと楽な反面、的まで届くのか不安になる。射位で会に入った後、また「えいや」とばかりに離れた。


 矢は、昨日までよりも素早く飛んでいく。


「???」

 物理法則はどこにいったのだろう。

 気持ちはいいのだが、釈然としない。なので、三笠先生に聞いてみた。

「今まで弓の力を十分に使えていなかった、ということです」

 三笠先生は、いちいち戸惑っている私に苦笑しながら、そう言った。

「弓も物理現象である以上、物理法則に従います。しかし、重い弓を無理して引いたからといって、速く飛ぶわけではありません。そこには別な要素が介在するからです」

「別な要素って、何でしょうか?」

 三笠先生はにっこりと笑うと、

「それは、もう少し慣れてから説明しましょう」

 と、正々堂々とはぐらかした。私は合点がいかなかったけれど、そう言われてしまった以上、さらに追及することもできずに引き下がる。

 ただ、はっきりと分かった点もある。弓が変わって楽になっても、的中率が上がるわけではない。相も変わらず的の周りが私の矢の定位置だった。


 きっと、的中には超自然現象が介在しているに違いない。

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