遥かなるゴール

阿井上夫

遥かなるゴール

 いつもは閑散としている街角に、今日は人だかりがあった。

 行列である。しかもかなり長いものらしく、先で角を曲がっているために先頭がどこまで続いているのか分からない。その日は暇だったため、私は最後尾にふらふらと並んでしまった。

 私の前には、私と同じくらいの年齢と思われる男性が立っていた。何のために並んでいるのか聞こうと思ったが、耳にヘッドホンをしているのが見えたので躊躇う。

 まあ、次にならんだ人に聞けばよいと思い、そのまま並び続けた。

 行列は先頭で着実に消化されているらしく、ほぼ同じペースで三歩程度前に進む。私の後ろにはなかなか人がこない。なんだか、ぼんやりとした不安を感じるものの、そのまま並び続けた。

 三十分過ぎたところで、前方に動きが見えた。なんだか順番に後ろを振り返るような動きを繰り返している。近づくにつれて、振り返ったところで何かを後方の人に手渡しているらしいことが分かった。

 ラーメン屋の行列で、前からメニューがまわってくることがある。

 ――ああ、食べ物屋の列だったのか。

 そう私は考えたが、それにしては様子がおかしい。よく見てみると手渡す速度があまりにも速かった。誰も前からまわってきたものには目もくれていないのだ。機械的に繰り返される同じ動き。

 しかも、近づくにつれて何人かは私のほうを見ているような気がする。そして、とうとう私の前に並んでいた男が振り返って、私にその「何か」を差し出してきた。受け取ってみると、それは封筒だった。

 これは何かと尋ねようとしたが、男は既に前を向いていた。背中が全力で問いかけを拒んでいる。仕方なく、手元の封筒を開けてみると、紙が入っていた。

 そこにはこう書いてある。

「この注意書を受け取られた方は、以下の二つの点を厳守して下さい。途中で列から離れてはいけません。他の方と話をしてはいけません。守れない方の命は保証されません」

 私は一瞬意味がわからなかった。

 次第に丁寧な言葉の裏側に隠された悪意が認知されてくると、私はその一方的な話に腹が立ってきた。おおかた心理学者が考えた実験か、さもなければテレビ番組の収録に違いない。

 ここは憤然として立ち去るのがよかろうと、列から半身ほど踏み出したところで――

 私は前の男の肩が大きくすくんだのを見た。

 しかも、彼の身体は小刻みに震えている。

 生存本能が全力で私の足を押さえ込んだ。と同時に、列のはるか向こう側に黒い服を着た、遠目にも立派な体格をしていることが分かる男がいた。懐に右手を入れている。私はまだ状況が理解しきれない。

 前の男や黒服が優秀な役者である可能性を考えてみる。

 その時、後ろに誰かが並んだ気配がした。このような場合、振り向くのは遵守事項に反するのだろうか。いや「話をしてはいけない」という条件からすれば、問題はないはずだ。

 私は恐る恐る後ろをうかがってみる。

 そこには車椅子の老人がいた。

 そんなことをしている場合かとつっこみたくなるほど、存在感が希薄で、車いすの周囲には生命維持装置と思われるものが林立している。老人は私の手元の封筒をぼんやりと眺めると、突然涙を流し始めた。

 私は前を向く。手紙の内容は真実に違いない。

 そのまま時間は経過する。

 時折、とても危険な呼吸音が後ろから聞こえてくる。しかし声をかければ命の保証はないらしい。

 ごほごほ、ぜいぜい、ごぼごぼ。

 そして、やっと行列の目的地らしき建物が近づいてくる。そこで私はもっと不穏なものを見た。行列は向こう側にも伸びている。

 だんだん近づくにつれて、その列の人数がどうやら私の列のほうが一名多いこともわかる。後ろの老人がぼそりとつぶやいた。

「ああ、今日は誰か新入りがいたに違いない。これではわざわざ並んだ意味がないではないか」

 泣き出したらしい。鼻水をすする音まで聞こえる。独り言はルールの範囲内らしい。そのまま私は建物の中に吸い込まれるように入った。二列になった。私の隣の男は、筋肉質でむやみに体が大きい。

 薄暗い廊下の向こう側からは、ときおり大きな叫び声が聞こえてくる。しかも、どうやら歓喜の声らしい。

 泣き声、威圧感、歓喜。

 泣き声、威圧感、歓喜。

 輪舞のようにぐるぐる回る。とうとう室内に到達すると、壁面に大きな模造紙で、

『今回の種目:じゃんけん』

 と掲げられていた。私の前には三組の対戦者が並んでいる。無言のうちに対戦は始まる。

 ふん、ふん、ふーん。

 ふん、ふん、ふーん。

 呼吸音だけで間合いを合わせて、じゃんけんにより雌雄を決する。勝負がついたところでルールの適用外になるらしい。勝った方の喜びよう、負けた方の落ち込みよう、ともに半端がない。

 私の後ろでは老人がまだ泣いている。

 ――順番を変わるべきだろうか? 

 ――いや、それがルール上の「列を離れる」に該当しないかどうかの保証がない。

 まごまごしていた時に、廊下の方から、

「待ってくれぇ」

 という声が聞こえてきた。それに続いて部屋に入ってきたのは、若い男である。息を切らせながら車椅子の老人の隣に並んだので、私は安堵した。

 そうこうするうちに私の番である。大きな男と向かい合って、呼吸で間合いを取ながら、じゃんけんをした。

 ふん、ふん、ふーん。

 私はグーで、相手はパー。

 呆然としている私の前で、男は勝利の雄たけびをあげる。その姿を見ていると、今度は黒服が寄ってきた。先ほどの封筒と同じものを手渡される。

 封筒の中にはやはり紙があり、そこにはこう書かれていた。

「今回の勝負で負けた方は、次回の行列に必ず並んでください。約束が守れない方の命は保証されません」

 なんだこれは。理解できない。唖然としていると突然、感極まった叫び声が聞こえた。

 声のほうを見ると車椅子の老人が滂沱の涙を流しながら、叫んでいた。

「おお、おお、やっと解放される。若き日の過ちからやっと…」

 車椅子の生命維持装置に表示された心拍数が、ゼロとなる。

 それは束縛からの真の解放を現していた。


( 終り )

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