送り火のとき

彩崎わたる

送り火のとき

       1


 僕は妙な涼しさを感じて目を開けた。

 やけに頭がぼんやりとしていた。夕食のあと、マンガを読むつもりでベッドに寝転がったはずが、いつの間にか眠ってしまっていたらしい。手探りで枕元に置いた携帯を探す。時間を見ると九時半を少し回ったところだった。

 僕は欠伸をしながら起きあがった。両手を上げて伸びる。

 と、撫でるような風を背中に感じた。

「あれ、クーラーは?」

 部屋に入ったと同時につけたはずのクーラーは停止し、代わりに全開の窓から風が吹き込み、カーテンをいっぱいに膨らませていた。窓を開けた記憶はない。窓を開けっ放しでクーラーなんてつけた日には、母親からクーラー停止を言い渡されてしまう。そんな愚は犯さない。

 つまり――。

「また勝手に……」

 僕はため息をついた。

 高校一年という多感な年頃の息子の部屋に勝手に侵入した挙げ句、クーラーを止めて窓を開けたというわけだ。おまけにこれから読もうと順番に積んであったマンガまでご丁寧に本棚に並べ、机の上に広げていたやりかけの宿題まで覗き込んでいったらしい。机の脇に置いてある写真立てが倒れていた。その写真立ては華奢なワイヤー製でバランスは悪い。何かの拍子に手が当たったのだろう。

 僕は写真立てを元通りに立てた。写真の中では、学ランを着た僕とセーラー服を着た少女が、清水寺を背にピースサインをしていた。中学二年の修学旅行のときの写真だ。

「あれからもう、一年以上経ったんだよな……」

 まるで自分に言い聞かせるように呟いた。言葉には力が宿ると言ったのは誰だったか。本だったかもしれない。だがそんなものは所詮迷信の類だ。言葉はただの言葉。僕はそれを中学三年の一年間で悟った。いくら言葉で慰められても励まされても、だめなものはだめなのだ。

 元々、僕は非科学的なものには否定的な子どもだったらしい。周りの子どもが疑いもなくサンタクロースの存在を信じていた幼稚園の頃、僕だけはサンタクロースを否定し、プレゼントを用意した親たちをがっかりさせたという。

 そして高校一年になった僕は、テレビでやっている怪奇現象も幽霊も、果ては墓参りや仏壇すら当然否定派である。

 写真から半ば無理やり目を離す。窓を閉めようとしたときだった。

「勇輔ー」

 階下からしゃがれた声が響いた。ばあちゃんだ。うちは二世帯で、母親がパートに出ていたため、僕は半分ばあちゃんに育てられたようなものだった。そのせいか、いまでも母親以上にばあちゃんには逆らえない。

「勇輔ー。ちょっと手伝ってほしいんだよ」

「わかった、わかった。いま行くよ」

 僕は仕方なく階段を下りていく。ぎしぎしと軋む音を聞く度に、我が家のボロさを実感する。築五十年の木造である。電気だけLEDに変えてみたところで、年月を重ねた床が放つ薄暗さや剥がれかけている土壁が異様に浮かび上がるだけだと思う。それこそ座敷童でもいるんじゃないかと思うほどだ。……座敷童だって。自分の幼稚な考えに苦笑しながら、階段を下りた先の角を曲がると、満面に笑みを浮かべたばあちゃんが立っていた。

「うわっ。なんでそんなところに立ってんの!」

 てっきり台所にいるのかと思っていた。暗がりで見るばあちゃんの笑顔は心臓に悪い。

「失礼だねえ。そんなに驚くことないだろう」

「い、いや……。ちょっと考え事してて」

「ほう、勇輔がねえ。女の子のことかい?」

 ばあちゃんに悪気はなかったのだろう。だけど、僕の顔は確かに引きつったと思う。僕の変化に気づいたばあちゃんは困ったように笑うと、手に持っていたものを僕に押しつけてきた。

「なに、これ……」

 つい受け取ってしまったものをまじまじと見る。それはかさかさに乾いた白い棒きれだった。数本が束になっていて、割り箸より長くて軽い。

「麻幹だよ」

「オガラ?」

「今日は七月十三日、お盆だろ。迎え火を焚かないと」

「ああ……」

 うちでは毎年この時期になると、先祖の霊が年に一度戻ってくる日とかで、迎え火を焚いて迎え入れ、送り火で見送るという儀式を後生大事にして決して欠かさない。死んだ人間がこの期間だけは帰ってこられるなんて、生きている人間に都合の良い話でしかない。大体、先祖が大挙して帰ってきた日には、こんな狭い家じゃ溢れかえってしまう。

 だが、ばあちゃんにそんなことは言えない。ばあちゃんにとっては、死んだじいちゃんが帰ってくる大切な四日間なのだ。僕は大人しくオガラとライターを持って玄関に向かった。

「ほら、勇輔」

 靴を履いていた僕の前に、ばあちゃんが新聞紙を差し出す。

「新聞紙があった方が燃えやすいんだよ。そう言えば勇輔が迎え火をするのは、小さい時以来だねえ。あの頃は楽しそうについてきたのにねえ」

 ばあちゃんが懐かしそうに目を細めるのを横目に見ながら、僕は玄関のドアを開けた。

 ふわっと風が吹き込む。夏の夜の風は悪くない。湿り気を含んだ独特の風に誘われるようにして外に出る。踵を踏みつぶした靴を引きずりながら庭の方に回る。雑草の生えていないところを探して、くしゃくしゃに丸めた新聞紙を置く。その上に短く折ったオガラを数本重ねた。ライターの火が風に煽られる。慌てて自分の体で火を庇うようにしてしゃがみ込み、オガラに近づけた。ゆらゆらと揺らめく炎は、あっさりとオガラにその身を移し、チリチリとオガラを燃やし焦がしていく。

 しばらく燃えていく様子をぼんやりと見ていたが、ふとあることに思い当たった。

「やべ、水っ!」

 庭の隅に置いてあるバケツを取りに行こうと、くるりと振り返り――息が止まりそうになった。

文字通り、背筋が凍り付いた。一気に血の気が引いていく。頭が真っ白になり、思考が完全に停止した。

 目の前にはセーラー服を着た少女。僕の部屋の写真立てで笑っていた、あの少女。

 でも、そんな……。だって、彼女は、南は、死んだはずなのに――。

「踏んで消せばいいじゃない」

「え?」

「だから、火! わざわざ水をかけなくても、踏めば消えるでしょ」

「あ、あぁ……」

 僕は言われるがまま、燃えかすの中で燻っていた残り火を靴で踏む。何度か繰り返すと火は消え、あとには焦げ臭い匂いだけが微かに漂った。

 僕はおそるおそる背後を振り返った。もしかしたら目の錯覚だったのかもしれない。会話をした気もするが、一人で喋っていただけかもしれない。そう言えば最近ちょっと夏バテ気味だった。高校生活が順調だとは言い難い。ストレスだ。きっとそうだ。そんな思いが一瞬で頭の中を駆けめぐる。その間、振り返るまでのわずか数秒。

 だが、彼女はいた。

「あーあ。またそんなだらしない靴の履き方して。だから靴がすぐ傷むんだよ」

「いや、それよりなんで……」

「うん?」

「なんで南がここにいるんだよ……」

 死んだはずじゃ、とは言えなかった。それを言えば僕は幽霊と話していることになる。そして何より彼女が消えてしまう気がした。

「え、だから勇輔が迎え火を焚いたからでしょ。帰ってきたの」

 何言ってるの、と言わんばかりの南はあの頃と変わっていない。そう、変わっていないのだ。あの頃と同じセーラー服を着て、交通事故に遭った中学三年のままの南だった。好奇心の強さとどこか繊細さを感じさせるリスのようなくりくりした目、肩のラインできれいに切り揃えられた生まれつきの焦げ茶の髪。スカート丈はかろうじて校則を守っている膝上三センチで――。

 ただ一つ違うのは、南の体がどこか透けて見えることだった。磨りガラスのように向こう側の景色がぼんやりと見える。

「ゆ、幽霊……?」

「まあ、幽霊かな。あんまり実感はないけど、一応死んでるし」

「だよな……。いや、そうじゃなくて!」

「いいじゃない細かいことは。私はいまここにいる。それだけで十分でしょ」

 南はそう言い切った。これ以上聞いても無駄だろう。南は昔から意志が強く、気も強い。

 僕と夏目南は幼なじみだ。家が隣同士で親たちの仲が良かったこともあって、幼稚園に入る前から毎日のように一緒に遊んでいた。小学校までは南がお姉ちゃん然としていたが、中学に入ってからはそのことが妙に恥ずかしく、学校では通り過ぎるときの挨拶程度になった。もっとも家に帰ってきてからは南が以前のように押しかけてくるので、僕たちの関係は変わらなかったが。

「なあ、でも何でうちなんだ?」

 僕が訊くと、南は首を傾げた。

「どういう意味?」

「だって迎え火って先祖の霊を迎えるもんだろ。なんでうちの先祖じゃない南が、うちに帰ってくるんだよ」

「ああ、そういうこと。隣、見て」

 南は隣の家を指さした。隣の家は今年の春に建てられたばかりの新築だ。南が住んでいたのは、うちに負けず劣らずのボロ家だった。

「ね、私は帰るところがなくなっちゃったの」

 南は平然とそう言うと、背中を向けた。僕は自分の失態に気づいた。

 南の家は少し複雑で、南の両親は彼女が小さい頃から不仲だった。ケンカが絶えず、南はその度に僕の家に逃げ込んできた。小さい頃から怒鳴り合う両親を見てきたためか、南は男性の大きな声が苦手で、中学のときも声の大きな教師には異常に怯えていた。確か父親の浮気癖が原因だったとかで、南が中学二年のときに両親は離婚したはずだ。

 その一年後である。南が交通事故に遭ったのは――。

 忘れもしない。中学三年の春のことだ。僕は自分の部屋でマンガを読んでいた。インターホンが鳴り、南でも来たのだろうかと部屋から顔を出した僕は、半狂乱に取り乱した南の母を見てぞっとした。母親たちの会話から南が交通事故に遭ったことを知り――そこから先は正直、記憶が曖昧だ。

「ちょっと、勇輔。いつまでそこに立ってるの。早く中に入ろうよ」

 気づけば南は玄関の方に歩き出していた。

「え、そのまま入るつもり? っていうか、うちにいるの?」

「そうだけど? ……ああ、大丈夫。たぶん勇輔以外には私の姿は見えないから。勇輔が一人で話してる、ちょっと危ない奴になるだけだから」

「それ、十分困るんだけど」

「まあまあ。勇輔が変なのはいまに始まったことじゃないんだから。平気へーき」

 南は玄関のドアを開けることなく、まるで家の中に吸い込まれるようにして、すーっと消えた。

「便利な体……」

 思わず呟く。

 南が僕の家に帰ってきたのは、帰る家がなくなってしまったからだけではないのかもしれない。だって南は自分の家にいるより僕の家にいる時間の方が長かったのだから。

 南が両親と上手くいっていないことは気づいていた。けれど確かめたことはない。南は僕に弱いところを見せるのをことさらに嫌う。僕だっていつまでも南の後ろに隠れている、小さな頃とは違うのに。そう思ったが、口には出せなかった。


       2


 目が覚めたら南は消えてしまっているんじゃないだろうか。幽霊だろうが何だろうが、南がいてくれるなら――。そんなことを思いながら眠りについたせいだろうか。僕の眠りは浅く、うとうとと眠っては目が覚め、僕から奪ったベッドで気持ちよさそうに寝ている南の姿を確認して再び眠りにつく、というのを一晩中繰り返した。

「おはよう!」

 七時きっかり、南の第一声で起こされた。昔からの恒例行事だ。朝に強い南はこうして毎日、僕を起こしにきた。一瞬、あの頃に戻った気がした。僕は中学二年で、学校に行けば親友や仲の良い友達が何人もいて、学校にいる以外はずっと南と一緒で――何ごとも起きず、昨日と同じ今日があって、明日が来る。何一つ変わらない平和な毎日。

 僕は目を擦りながら起きあがった。座布団を縦に並べただけの簡易布団のおかげで、体中がギシギシしている。首と肩を回しながら、学校にいる自分の姿を思い浮かべる。途端に体が重くなった気がした。軽い吐き気すら感じた自分に思わず自嘲の苦笑が漏れる。

 南が不思議そうに僕の顔を覗き込む。僕は再び寝転がった。

「今日は学校休む」

「何で? 具合でも悪いの?」

「うん、そんなところ。母さんに言っといて」

「言えるわけないでしょ。ねえ、どこが悪いの?」

 南の声には詰問の色が濃い。どうやら南には見抜かれているらしい。こういうところだけは本当に鋭い。僕はのろのろと起きあがった。

「高校、あんま馴染めないんだよ。翔太もいないし、苦手なタイプの奴がいるし」

「それで休みがちってわけ?」

 非難がましい視線を向けてくる南の視線に堪えきれず、僕は俯く。南にしてみたら、僕は随分と良いご身分だろう。南はどんなに高校生活を送りたくても送れないのだ。

「ダメ。学校に行きなさい。イジメられてるわけじゃないんでしょ。もしイジメられてるっていうなら、私が」

 にわかに変な方向にやる気を出した南に、僕は慌てた。

「待った! それは困る。行く、学校行くよ!」

「よぉーし!」

 南はそう言うと、にっこりと笑った。南の正義感の強さは筋金入りだ。僕も何度助けられたかわからない。南はイジメを仲裁してもなぜか次の標的にならない得な性格をしており、そのおかげか小学校、中学校と僕たちの周りでイジメは撲滅状態だった。どうやら幽霊になっても性格は全く変わらないらしい。

「いってらっしゃい」

 南に部屋の出口で見送りされると、不思議と気持ちが落ち着いていくのを感じた。

これは昔からだが、南といるとすべてが上手くいくような気分になるのだ。僕も南も本当の自分をさらけ出せるのは、偶然にも家族ではなくお互いだったのだ。南の家族はともかく、僕の家族は至って平凡でこれといった問題はない。むしろ客観的に見ても良い家族だと思う。それでも案外に家族というのは近いようで遠い。

 それだけに南を失ったときは、僕はすべてを失った気がした。最大で唯一だった寄る辺を失い、残ったのは例えようもない空しさと、どうしようもない喪失感。一年かけてようやく南は死んだのだ、という事実を受け入れることはできるようになった。だからと言って南の死から立ち直れたわけではないことは、僕自身が一番わかっていた。ふとした瞬間に気持ちの軸が揺らぎ、僕の中で何かがバランスを崩す。

 自室のドアの前で僕は立ち止まった。前を向いたまま、南、と名前を呼ぶ。

「何?」

「……いるよな? 俺が帰ってくるまで」

 南が驚くのが、何となくわかった。そして笑うのも。

「いるよ。……ほら、遅刻しちゃう!」

 南に急かされるようにして、僕は数日ぶりの学校に向かった。

 僕の通う高校は男女共学の都立高校だ。偏差値で言えば、まあ中くらいというところだろう。部活は特に運動部が盛んで、入学したての頃は連日のように入部勧誘のお声がかかった。僕みたいにどこから見ても運動音痴そうな奴にまで声をかけるというのだから、新入生獲得戦の熾烈さがわかるというものだ。

 南ならまさに引っ張りだこだったんだろうな。声を掛けられる度にそう思ったものだ。南には人を惹きつける力があり、いつだって友だちに囲まれていた。彼女の志望校も僕と同じこの高校だったから、本当ならあちこちから声を掛けられて、楽しそうにわいわいと騒ぐ南の姿を遠くから眺めている予定だった。

 僕はため息をついた。いつの間にか教室の前までたどり着いてしまっていた。小さく息を吸い、何でもないことを装ってドアに手をかける。がらりと開けた瞬間、どでかい声が教室の奥で響き渡った。

「だからマジだって! 熱湯みたいな温泉に飛び込んでさ」

 一人の男子が身振り手振りを交えて話すと、周囲にいた奴らがどっと笑った。どうやら昨日のバラエティ番組の話らしい。確かお笑い芸人が無謀なことにチャレンジする番組があった。

 男子がさらに話を続け、笑い声の輪が大きくなる。

 こいつが僕の苦手な奴――早乙女薫だ。声の大きさが象徴するようにとにかく目立ちたがり屋で、その場のノリが最重要事項という絵に描いたようなお調子者だ。場を盛り上げるためなら手段を選ばないところがあり、この間もたまたま席が近かったおとなしめの男子が肴にされた。そいつはいまも愛想笑いを浮かべながら何とか乗り切っている。

 関わりたくない。なるべく目立たず、あいつの目に触れないように。幸い、僕の席は早乙女と離れている。静かにしていれば、大丈夫――……。

 そう思って自席につこうとした僕の耳に、軍司という言葉が飛び込んできた。咄嗟にびくっと肩が跳ね上がった。軍司は僕の名字だ。

「似てねえ? ほら、あの相方の方に」

 早乙女たちの集団がこちらを見ているのがわかった。背中に無数の視線を感じながら、僕は気づかないふりを貫こうとした。このまま会話が流れてくれるのを切に願う。

 だが、そうはいかなかった。

「おーい、軍司!」

 ついに早乙女の声が掛かった。僕はおそるおそる振り返った。早乙女がこっちに来いと手招きしている。僕には地獄からの誘いに見えた。けれど断るわけにもいかず、立ち上がって早乙女たちの方に近づく。

「おぉ、似てるわ! すげー、そっくりじゃん」

 早乙女が囃し立てる。周囲からも似てる似てる、という声が笑いとともに上がった。

「え、えっと……何の話?」

 かろうじて話に参加してみる。ここでノリに乗れないと、間違いなく地獄行き決定だ。適当に合わせるから一刻も早く解放してほしい。僕は捕虜になった気分で早乙女の反応を待った。

「昨日の『燃えるバカヤロウ』って番組見たか? あれに出てるルーキーの芸人に、おまえそっくり! いや、ほんと。笑える!」

 早乙女はそう言うと堪えきれないとばかりに吹き出した。周りがつられたように笑い出す。

「あ……あぁ! あれか、見た見た。そんなに似てるかな」

 本当は見てないし、そんな芸人知らない。が、哀しいかな。ここでこの空気を壊せるほど僕の心臓は丈夫じゃない。ああ、こんなとき南がいてくれたら! 南なら早乙女みたいなタイプとも対等に渡り合えるポテンシャルを持っている。壁抜けて出てきてくれたらいいのに。いや、何言ってるんだ僕は。あいつは幽霊で、この会話に参加できるわけない。

 僕の葛藤などどこ吹く風。早乙女は笑いながら、僕の肩をばしばしと叩いた。

「似てる! そのへなっとした雰囲気とか。っていうか、おまえ本当ひょろいよな。軍司勇輔って名前はすげー強そうなのに。なっ?」

 早乙女はぺらぺらと喋り、周りに話を振る。

「確かになー。おまえは早乙女薫だもんな。むしろ交換した方がいいんじゃないか」

「お、それいいな! どうだ、軍司!」

「え、うん。いいかも。俺、乙女っぽいって言われたことあるし」

 僕の返しは何とか受け入れられたようで、女子たちが笑い転げる。僕はもはや青息吐息である。

 場は大いに盛り上がっていた。早乙女は満足そうに僕を見た。その顔を見た瞬間、僕は寒気に襲われた。猛烈に嫌な予感がする。

 と、まるで天の救いのように授業開始のチャイムが鳴った。集まっていた連中がつまらなさそうに各々の席に戻ろうとする。僕もそそくさと戻ろうとしたときだった。

「軍司って意外と面白いよな。……よし、決めた。おまえ今日からいじられキャラ決定な!」

 早乙女の声が高らかに響いた。僕はぎょっとして早乙女の方を振り返った。早乙女は楽しそうに笑っている。周囲の男女が賛成の声を上げるのなんて、もはや僕の耳に入ってこなかった。

 その日、僕は高校生活における事実上の死刑宣告を受けた――。


       3


「ああ、どうしよう……」

 夕食後の自室。僕は部屋の中をうろうろと意味もなく歩き回っていた。

「そんなの、嫌だって言えばいいだけじゃない」

「そりゃ南は言えるだろうけどさ、俺は無理なんだって。ああ、どうしよう」

 僕にいじられキャラが務まるわけがない。今日のあの数分ですら息絶え絶えだったというのに、どうやってこれから毎日を生き延びろというのか。

「そうか! 行かなきゃいいんだ」

「ダメ!」

 半ばやけくそになった僕の提案は、あっさり南に却下された。

「勇輔さ、その逃げ癖直さなきゃだめだよ。いい? イジメとかだったらちょっと違うかもしれないけど、いじられキャラはまだ立て直し可能!」

「……どうやって?」

「手段は二つに一つ。はっきり嫌だって言うか、いじられキャラとして生きていく覚悟を決めるか」

「なんだよ、それ……。どっちにしたって俺、地獄行き決定じゃん」

 僕はふて腐れた。興奮していたせいか、変な汗をかいていた。僕は机の上に放り出してあったクーラーのリモコンを取り、設定温度を下げた。そのままベッドにごろりと横になる。

 するとそれまでマンガを読みながら、僕の人生相談に乗っていた南がすっと椅子から立ち上がった。何をするのかと見ていた僕の前で、南はクーラーの電源を切った。

「何するんだよ」

「だって今日は外そんなに暑くないもん。クーラーなんてもったいないでしょ」

 南の家は元々経済的に恵まれていなかった。そこに母子家庭が重なり、かなり節約の観念が染みついている。

「俺は暑いの。南は幽霊だから暑さ寒さは感じないだろうけどさ」

 言ってから、はっとする。つい、いつもの癖で南に愚痴っていた。失言だ。いまのはいくら何でも酷すぎる。怖々と南の様子を窺うと、南は頬を膨らませて怒っていた。

「何よ、せっかくおなかが冷えないようにと思って消してあげたのに。勇輔なんておなか壊して、下痢しちゃえばいいんだ」

 僕はげんなりしながら、心底安堵した。

「下痢とか言うなよ……。つーか、ガキじゃないんだから腹壊すかよ」

 南と軽口をたたき合っている――ふいに、そのことが夢のように思えてきた。泣きたくなるほど胸にこみあげてくるものがあった。あのときだって南がいなくなることなんて考えたこともなかった。当たり前の毎日がずっと続くと思っていたのに、ある日、突然消え去った。いまこうして話していることだって、まさに夢のような話なのだ。そしてこの日々は、変わらない日常にはなり得ない。お盆が過ぎたら、南は――。

「なあ……」

 確かめるのが怖かった。だが、確かめないことはもっと怖い。

「何よ」

 まだ少し怒っているのか、南はこちらを見ようとしない。僕は上半身を起こし、ベッドの上に座った。

「おまえは迎え火で帰ってきたんだろ。なら……送り火であっちに戻るのか?」

 南は背を向けている。表情は見えない。僕は息を飲んで南の返事を待った。

「そうだよ」

 全身から力が抜けた。体の芯がすーっと冷えていく。また別れなきゃいけない。せっかく会えたのに。またあの喪失感を――。

「……また会えるのか?」

「わからない。迎え火で帰ってこれるのは、一夏につき一人。わかるでしょ。来年も私が帰ってこられるとは限らない」

「それって……」

 絶望的な数字じゃないか。僕はかろうじてその言葉を飲み込んだ。うちの先祖がどれぐらいいるのか知らないが、一夏に一人だというなら南が帰ってくる可能性なんていったい何パーセントあるんだ。

「あ、そうだ。勇輔のおばあちゃんに謝っておいてね。今年は私が帰ってきちゃったから、おじいちゃん帰ってこられなくなっちゃったわけだし」

 ふざけて笑う南の顔を今度は僕がまともに見られない。いま見たら、本気で泣きそうだ。

 南と別れたくない。南を帰したくない。僕の中でその思いが激しく渦巻いた。だって僕が送ってしまったら、もう二度と会えないかもしれない。

僕が送ったら……?

 ――もし、僕が送り火をしなかったら?

 その考えは実に恐ろしいものの気がした。帰ってきた霊をあちらに送り出さない。そうしたら、その霊はどうなるんだろうか。確か昔、ばあちゃんに迎え火と送り火はセット、それが先祖の霊との約束だ、とか何とか言われたことがある。

 でも、もし送り火をしなくてもいいなら、僕はこれからもずっと南と一緒にいられるのだ。甘い誘惑が鼻もとを掠めた。自分の考えに捕らわれていた僕は、ふと、奇妙な沈黙が漂っていることに気づいた。南はじっと僕の顔を見ていた。思わずたじろぐほど真っ直ぐな視線に、僕はどきまぎするのを通り越して一気に後ろめたくなった。

「あ、あのさ」

「送り火をしないとね」

 僕の言葉を遮るように南が言った。

「え?」

「だから、送り火をしないとどうなるかって話。言ってなかったでしょ」

「あ、あぁ……」

 まるで僕の心を読んだみたいな話の流れに、背中から冷や汗がどっと吹き出した。

「送り火をしないと霊はあちらに帰れない。二度と帰れない。未来永劫、こっちの世界を彷徨うことになる」

 南の言葉は恐ろしく淡々としていた。まるで他人事みたいだ。けれどそれが余計に言葉の重みを感じさせた。

 初めて南は幽霊なのだと思った。これまではどこか昨日の延長みたいに思っていた。南が生きていた日の続き。頭ではわかっていたが、心は納得していなかった。けれど、いまはっきりと思い知らされた。南は幽霊。僕とは違う。

「じゃあ……南と一緒にいられるのもあと二日だな」

 そう言うのが精一杯だった。

「うん……」

 南もいつになく殊勝だった。

 それから僕たちは言葉も少なに、それぞれの寝床にもぐった。

 僕は結局その日も朝までほとんど眠れなかった。


       4


 翌朝、僕はまた南に追い出されるようにして学校に向かった。

 教室に入るなり早乙女のでかい声に迎えられ、授業の合間にちょいちょい呼び出されては、ムチャ振りに対応する。昼休みに入る頃には、僕は精根尽き果てていた。せめて昼休みぐらいは心安らかに過ごしたい。そんな切実な願いは当然叶うこともなく、僕はいま、早乙女の横に立っている。

「軍司、おまえ遅いよ。その話はもう終わったって!」

「え、あ、悪い……」

 どうやら反応が遅かったらしい。テンポの早い早乙女はポンポン会話を進め、周りの奴らも当たり前のようにそれについていっている。僕の反応に近くの女子が笑う。それをさらに早乙女がからかい、場は盛り上がり、さらに話の速度はヒートアップしていく。

「軍司ぃ、そんなんじゃおまえ。特攻したら死ぬぞ」

 早乙女からの振りがくる。

「以後、きをつけまう!」

「噛んでる、噛んでる!」

 周囲が爆笑に包まれた。僕は決死の作り笑いを浮かべ、ボケてみせる。ここで、こういう立場もありかもと思えればいいのだが、生憎と僕の適正はゼロ以下だ。ストレスの溜まり方が尋常じゃない。いっそ授業が終わらなければいいのに。

 と、教室のドアが勢い良く開け放たれ、早乙女と仲の良い一人が走り込んできた。

「なあ、ニュースニュース! 次の授業前に席替えするって!」

「マジ? 昼休みにやんの?」

「一時間目のホームルームで言うの忘れたんだって。ほれ、先生から新しい座席表もらってきたもんね」

 そう言うと、そいつは僕たちの前にぴらりと一枚の紙を見せた。

 まず早乙女が目を輝かせて覗き込み、周囲の奴らが一斉に続く。僕は後ろの方に引いた。別にあと少しすればわかることなのだ。何もがっつくことは……。

 そう達観を決め込んでいた僕の耳に、早乙女の楽しそうな声が届いた。

「おぉ! 軍司、俺ら隣だぞ!」

 ――は?

 耳を疑った。俄には信じがたかった。否、信じたくなかった。神様は僕をどれだけいじれば気が済むんですか?

「それに鈴木、三田おまえらも近いじゃん。いいねえ最高の席だわ、これ」

 早乙女が嬉しそうに笑う。鈴木と三田は早乙女と特に仲の良い奴らで、もちろん僕のいじり役だ。つまり僕はいじり役三人に周囲を取り囲まれたわけである。

 早乙女たちが喜々としてハイタッチを交わすのを漫然と眺めながら、僕は途方に暮れた。一瞬にしてこれからのことが頭を巡る。朝から放課後までことある毎に、早乙女にいじり倒されるのだ。次の席替えがあるまで毎日毎日――。

 本気で登校拒否をしたかった。高校生活において僕に友達らしい友達はいない。もちろん、あえて孤立したかったわけじゃない。ただ、出遅れてしまっただけだ。でもだからといってこれはあんまりだ。

 確かにいじめではない。しかし、いじられることに僕が苦痛を感じている時点で、立派ないじめ未遂なんじゃないだろうか。

 僕が悶々と考え込んでいると、担任が教室に入ってきた。のんびりとした足取りで黒板に向かい、新しい座席表をマグネットで止める。

「あ、もう新しい座席表は回ってたか? さっき渡したばっかりなのに、さすがに早いな」

「先生、この座席最高!」

 早乙女がさっそく声をかける。担任は満足そうに胸を張った。

「だろう? 何しろ俺が寝ずに考えた最高の座席順だ。ただし、早乙女。あんまり騒ぐようなら、おまえの席を変えるからな」

 この担任は間違いなく早乙女の同類だ。お気楽そうに笑う担任を見ながら、僕は心の中でありったけの呪詛を吐いた。

 担任の号令で急遽昼休み中に席替えが催され、僕は完全に捕虜と化した。窓際から二列目の後ろの方である。左の窓際に早乙女、真後ろに三田、斜め左前に鈴木。救いはない。

 早乙女は手早く身の回りを整えると、もたもたと机の脇に鞄を掛けていた僕の方を見た。

「よろしくな! 俺、教科書忘れの常連だから。俺が数学で当てられたときの回答役は、おまえに任せた」

「あ……」

 あまりにも受け入れがたい現実にどこか放心状態だった僕は、思いっきりタイミングを外した。すかさず三田が後ろの席から身を乗り出してくる。

「おーい、軍人。おまえほんとトロいよなあ。ネジ回してやろうか」

 話を聞きつけた鈴木が笑いながら、振り返った。

「無理無理。回すネジがすでに爆発で吹っ飛んじゃってんだよ」

「ひでーな。それじゃ、軍司がバカみたいじゃんか。軍司はバカなんじゃなくて……芸人なんだよ!」

 早乙女がわけのわからないフォローらしきものを入れる。すると右隣の席から何かで突っつかれた。驚いてそちらを見ると、右隣の奴がにやにやしながらシャーペンでまた突っついてきた。

「あれ、やってみろよ。ほら、あの芸人の」

 そう言うとそいつはいま流行っている芸人の一発芸のフシを歌った。そのフシに乗せられるように周りに期待が広がっていくのがわかった。

「いいじゃん、いいじゃん。ほら、軍司」

盛り上がる場をさらに盛り上げようと、早乙女がトドメを刺す。僕を半ば強制的に立たせ、手拍子を送り始めたのだ。もはや逃げ場はなかった。僕は死にたくなるような思いで、その一発芸を踊った。

 場が静まりかえった。自分でも思うが似てないどころか、完璧に白けるレベルだ。

「軍司、似てないぞー」

 早乙女がヤジを入れ、何とか場は持ち直したが、僕の立つ瀬はない。その場に突っ立ったまま、卑屈な薄笑いを浮かべているしかなかった。


       5


 五時間目の授業が冗談の通じない教師だったのだが、せめてもの救いだった。

その授業中はさすがに早乙女も大人しく、僕は昼休みの出来事を思い出しては泣きそうになった。ひどくみじめな気分だった。端から見たら、僕はすっかり早乙女たちと仲良くなったように見えるのだろう。事実、僕はそう見えるように振る舞っていた。〝イジメ〟と〝いじられている〟では現実はどうあれ、周りからの見られ方が違う。いじられているうちは、仮にも仲間内でのふざけ合いで済む。だが、イジメは同情の対象だ。いま以上にもっとみじめなことになる。僕はイジメられていると思われたくなかった。

 けれど早乙女たちのいじりは、席替えをきっかけに明らかにエスカレートしている。

 こんなのが毎日続くかと思うと……僕が登校拒否になるのは時間の問題の気がした。

 暗鬱とした気分で六時間目の授業までを終え、終礼前の空き時間。

 僕は例によって早乙女たちの会話に加わっていた。すっかりノリを合わせることに疲れた僕は、それでも必死に早乙女たちの会話についていこうとした。合わせられなくなったときが、僕の最期だ。

 マンガの話から派生し、いまは幼なじみの話題だった。

 一日の授業がすべて終わったこの時間帯は、開放感に溢れている。早乙女の周りに集まっている人数も休み時間より多く、さっさと帰り支度を終えた早乙女は机の上にどっかり座っている。すっかりお山の大将状態だ。

 話の流れが途切れたところで、早乙女が僕を見下ろした。

「軍司は? いるの、幼なじみ」

「え……っと」

 反応に困った。正確に言えばいたになる。が、いまはいる。というかできれば南の話はしたくなかった。僕は言葉を濁し、必死にこの場を逃れる方法を考える。

 そのときだ。僕の斜め後ろから声が上がった。

「あ、俺知ってる。確か中学のときに交通事故に遭った子だろ」

 僕は弾かれたように声の主を見た。はっきりとは覚えていないが、同じ中学だった気がする。

「うわ、マジかよ……。幼なじみが交通事故とかマンガみたいじゃん」

 早乙女が驚いた声を上げる。

 初めて、いじられることへの嫌悪を覚えた。自分自身がいじられていたときには、感じたことのない感情だった。胸の辺りがざわつき始める。

 ――やめてくれ、南の話題は。

「え、何なに。交通事故って轢かれたの? どこで?」

「即死?」

 少し離れた場所にいた女子までもが話題に入ってくる。こういうネタはどうやら大好物らしい。これが将来ワイドショーに釘付けになって、近所の井戸端会議に花を咲かせるおばちゃん候補か。

 僕は自分でも驚くほど醒めていた。人の過去をネタに周りが騒げば騒ぐほど、僕は冷めていく。こんな感覚は初めてだった。いじられることへの恐怖感が薄れ、代わりにふつふつとした怒りが沸き上がってくる。

「どんな感じで轢かれたんだ? つーか、見たのか? その、遺体確認ってやつ」

 死を前提で話す三田の興味津々という声が癇に障る。鈴木が茶化すように三田の肩をぽんぽんと叩いた。

「軍司の幼なじみだぞ。きっと軍司以上にぽわーっとしてて、赤信号なのに渡ろうとしてそのままキキィーみたいな」

 ――やめろ。それ以上、話すな!

「……それでその幼なじみ、どうなったんだ?」

 早乙女が机の上に座ったまま腰をかがめるようにして、僕の顔を覗き込んだ。

 ああ、そうか。僕は悟った。早乙女たちにとっては、南の死は他人事に過ぎないんだ。僕にとって世界が変わってしまうほどの意味を持っていても、早乙女たちにはネットの記事と変わらない。興味があるから記事をクリックするし、関係がないから同情するのもネタにするのも自由というわけだ。

 何かが僕の中で音を立てて弾けた。衝撃で全身が震えた。腹の奥で煮えていた怒りが急速に冷えていく。

「……死んだ。即死。見たよ遺体。足が変な方向に曲がってて、顔は判別不可能」

 しん、となった。

 僕の言葉で空気が凍り付いた。場の雰囲気を壊したのは生まれて初めてだった。いつだって場の空気を犬のように嗅ぎ、カメレオンのように場に合った反応をしてきた。そうしなければいけないと思っていたし、何より空気を壊すことへの恐怖があった。

 けれど、いまは奇妙な高揚を感じていた。

女子たちが寒そうに自分の腕を抱き込む。誰も言葉を発しようとはしなかった。ざわついた教室の喧噪がひどく遠い。僕たちの周りだけ油膜を張ったように重苦しい沈黙が淀んでいく。

 心のどこかで、ざまあみろという声が聞こえるようだった。こんな状況で自分がこんなことを考えるなんて思わなかった。僕は自分の行動に驚きつつも不思議な誇らしさを感じていた。

 そんな空気を破ったのは、早乙女だった。

「ちょっとちょっと! いまここでお通夜やってどうすんだよ。そういうのは、初七日だか四十九日とかでやらないと!」

 早乙女の明るい声に、わかりやすく周りの空気が弛緩する。解凍されたように鈴木や三田が椅子に座り直し、僕たちのもとに音が戻ってきた。

「おまえなー、初七日も四十九日もとっくに過ぎてんだろうが」

 三田が早乙女にツッコミを入れ、早乙女が珍しくボケ役を引き受ける。僕はその光景をぼんやりと見ながら、あることに気づいた。

なんだ、そういうことか。

「軍司。おまえももうちょいオブラートしてくれないと、こっちが困るじゃんか」

「だよなー。俺なんかぐちゃぐちゃなの想像しちゃったぜ」

 早乙女と鈴木が僕を見ながら掛け合う。早乙女がいつものように笑いながら、僕の肩に手を置いた。

「それとも、軍司は意外とブラックジョークが好きだったりするのか? そう言えばブラックジョークが好きな芸人いたよな。あれの真似してみ。絶対似てるって」

 早乙女は机から下りると、昼休みのように僕を立たせようとした。僕はやんわりとその手をよけた。早乙女が意外そうな顔で僕を見る。

「どうした」

「似てないよ」

 僕の言葉は早乙女が想定していたものとかけ離れていたらしい。早乙女は面食らったような、困ったような顔をした。

 早乙女でもこんな反応をするのか、と僕は少し可笑しくなった。

 早乙女たちの話はつまり予定調和形式なのだ。お笑い番組のようにボケ役がいてツッコミ役がいて、いわゆる〝お約束通り〟に進む、安全で型どおりの会話。たとえ僕がちょっとぐらい会話のツボをハズしてしまっても、早乙女たちがキャッチしてまた盛り上げられるほど、単純で予測しやすいお喋り。

 けれど僕が型から完全にズレたことを言えば、途端に破綻をきたしてしまう。

そして早乙女はそれを嫌がる。何とか破綻を繕って、盛り上げようとする。たとえ自分がボケ役に甘んじることになったとしても、だ。

 僕はそのことにさっき早乙女がボケ役を引き受けたときに気づいたのだ。僕がまともに相手をするから面白がっていじられるのだと。僕がいじられ役をしなければ、話題を振った早乙女が自分の投げた球を拾いに行くしかない。そうしなければ空気が壊れてしまう。

 気づいてしまえば単純なことだった。僕はただ早乙女が期待する反応をしなければいいだけなのだ。冷静にやんわりとよける。あとは早乙女が動けばいい。

現に僕の変化球を早乙女が受け損ね、妙な間が生まれた。

「そ、そうかあ? 似てると思うんだけどな……」

 早乙女が慌てて反応する。だが、さすがに最後の方は尻すぼみに声が小さくなった。

「っていうか、その幼なじみと軍司って、もしかして付き合ってたりして?」

 三田が取りなすように言い、女子たちの気を引こうとする。三田の作戦は成功したらしく、女子の一人が食いついた。

「えー、それってすごい悲劇じゃん」

「ねえ、写真とかないの?」

 そう言うとその無神経な女子は机の脇に掛けていた僕の鞄を持ち上げた。携帯を出せ、ということらしい。僕は無言でその鞄を元通り机の脇に掛けながら、

「付き合ってない。だから写真もないよ」

 無機質な声を出した。女子たちが鼻白むのがわかった。でも大丈夫。早乙女が動くはずだ。

 果たして早乙女は僕の予想通りの行動に出た。

「照れんなって、軍司!」

 ことさら大きな声で言いながら、早乙女が僕の頭をばしっと叩く。さっきまでの僕なら間違いなく、いじられキャラとしての役目を全うするところだ。けれど、僕はもう気づいてしまったのだ。

 僕は叩かれたことがまるでなかったことのように、すっと椅子から立ち上がった。僕が反撃に出るとでも思ったのだろうか。早乙女はぎくりとした様子で机の上であとずさった。

「悪いけど、ちょっとトイレ行ってくるから」

「お、おう……。あんまりゆっくりしてると、先生来ちまうからな!」

 僕は早乙女の声を背中で聞く。早乙女の声に続いて、女子たちの忍び笑いが聞こえた。どうせ早乙女が下ネタでも言ったのだろう。

 気分がよかった。このキャラは十分通用する。僕は手応えを感じていた。ただいじられるだけのキャラからは卒業し、だからと言って早乙女が取りなすから僕が空気を壊してしまうこともない。要は打ち返す方向を変えただけなのだが、いじられっぱなしだった状態から考えればかなりの進歩だ。まさかこんな簡単だったなんて。

 僕は終礼が始まる寸前に教室に戻り、終礼の挨拶と共に席を立った。帰り際に話し掛けられたときも、僕は新しいキャラで会話に参加した。もう順応したのか早乙女は器用にも球を拾い、またみんなの元に投げ返す。いままでは耳障りにしか聞こえなかった女子たちの笑い声が、いまの僕には心地良い。

 放課後のお喋りに興じたあと、早乙女たちに手を振りながら、僕はこのクラスも悪くないかもしれないと思い始めていた。


       6


「南、風呂空いたぞー」

 自室のドアを開けながらそう言った僕を見て、南が目を丸くする。僕は鼻歌交じりに髪をガシガシ拭きつつ、ベッドの上にどさっと座った。スプリングのせいで体が弾み、南の顔が軽く上下に揺れて見える。

「何、言ってるの……」

 南が戸惑ったように言うに至って、僕はようやく自分がおかしなことを言ったことに気づいた。

「ああ、そっか……。南はもう風呂入らないんだっけ」

 たった二日ほどで、僕は南のいる生活にすっかり慣れてしまっていた。あれほど心霊現象や非科学的なものを否定していたにも関わらず、南がいなかった一年のほうが夢みたいに思える。

 僕のいない昼間、南は本棚から勝手にマンガを抜き出して読んでいるようだが、読んだ端から片づけているらしく、いまは八巻が机に置かれているだけだ。南は読んでいた七巻を机に置くと、フローリングの上を滑るようにするするっと寄ってきて僕の前に立った。

「ねえ、今日学校で何かあった?」

「いや、別に」

 僕はすっとぼけた。今日のことを南に言うつもりはなかった。僕はもう小さい頃とは違う。学校であったことをいちいち南に報告したりしないし、何かあったとしても自分で解決できるようになったのだ。それは言わないことでかえって僕の中で確固とした自信になるようだった。

「本当に?」

 南が訝しむように僕の顔をじっと覗き込む。真っ正面から見つめられた上、前屈みになったせいでセーラー服の胸の部分が見えそうになって――主に後者の部分で――ドギマギしたが、僕は平静を装った。むしろ南ばかりが優勢に立つのは面白くない。少しからかってやろうと、僕はぐいっと南に顔を近づけた。

「本当に!」

 その瞬間、南の顔がぱっと赤く染まった。一瞬で耳まで真っ赤かになった。南はそっくり返りそうな勢いで僕から離れると、慌ててくるりと背を向けた。

「な、ならいいけど!」

 南の声が裏返る。そのことにさらに慌てふためいた様子で、椅子に座ろうとしてずるりと滑り、危うく尻餅をつきそうになった。

「ちょっと!」

 果てはキャスターつきの椅子にまで怒る始末である。

何をそんなに慌てているのか。僕は一人で勝手に怒り出した南を見ながら、枕の脇に置いた携帯を取り上げた。

「写真、か……」

 昼間の早乙女たちとの会話がよみがえる。思えば早乙女たちとの会話を乗り切る手段に気づけたのも、元はと言えば南の話からだった。南の話題が出なければ、僕はきっと明日も早乙女たちのいじられキャラだっただろう。

 そして何より南がこうして居てくれるからこそ、僕は今日のような態度が取れたのかもしれない。僕が安心して帰ってこられる場所。それはやはり南のところなのだ。

「撮ったら写るのかな。それともやっぱり心霊写真みたいになっちゃうのか」

 僕は携帯を手の中でくるくると弄びながら、南の様子を窺った。

 南は読みかけだったマンガの世界に再び没頭している。僕は携帯のカメラを起動させ、フォーカスを南に合わせた。南の体はやはり透けており、どこか儚げだ。幽霊を科学的に分析しようと思っても無駄なのだろうが、いつ何かの拍子で空気に融けて消えてしまっても不思議じゃない気がしてくる。

 僕は妙に怖くなった。もちろん幽霊の南が怖いわけじゃない。南が消えてしまうことが怖い。もしカメラのフラッシュで消えちゃったら?

 僕は携帯のカメラを終了させた。そう言えば南が気に入っていたマンガ家の新連載が載った雑誌を弟に貸していたはず、と僕が部屋を出ようとすると、階下で母親の悲鳴が聞こえた。

「何、なに?」

 南が驚いてマンガから顔を上げる。

 僕は自室から顔を出して階下の会話に耳を澄ませた。

「ゴキブリ! ほらっ、そっち行った! ちょっと掴まえてお父さん!」

 母親の絶叫が響き、階下では夏の風物詩が繰り広げられる。このあとの展開はお決まりだ。父親がゴキブリ駆除に駆り出され、戦闘から文字通り収拾までを担うことになる。いま、階下に下りるのはバカというものだ。僕だってゴキブリは嫌いだ。

「ゴキブリだってさ」

 僕が自室に引っ込みつつ言うと、南は笑った。

「勇輔のうちは本当に仲が良いよね。お父さんも普段はだらーっとしてても、こういうときはビシッと決めてくれるし」

「まあ、尻に敷かれてるだけとも言うけど」

 家族のことを褒められるのはいつだって気恥ずかしい。僕が謙遜すると、南は笑って否定した。

「そんなことないよ。勇輔のお父さんは優しいし、私のことも本当の娘みたいに可愛がってくれたし」

 南の目が寂しそうに細められる。南は暗に自分の父親を揶揄しているのだ。小さい頃にどこか連れていってもらったことどころか、遊んでもらった記憶すらないという。父親は仕事を口実に浮気相手のところに頻繁に出入りし、その度に母親とケンカになる。そんな父親を南は嫌悪と怒りの目で見ていた。

 勇輔のうちがうらやましい。いつだったかそんなことを言われたのを思い出し、僕は顎を掻いた。

「確かにうちの親父、南にはやたら甘かったよな。俺とか弟がやったら怒ることでも、相手が南だと仕方ないなあで済むんだもんな」

「それは勇輔たちに強い日本男児になってもらいたかったからでしょ」

「日本男児って……いつの時代だよ。いまの流行は草食男子だって」

「えー、そんなことないよ。女子はいつだってちょっと強引な男子にときめくんだから。ほら、このマンガの主人公みたいな」

 南は勢いよく椅子から立ち上がると、僕の前にマンガを突きだした。それは僕たちが小学生ぐらいのときに流行ったマンガだった。当然、主人公は熱血野郎で、草食の「そ」の字とは無縁の存在である。

「こんなやつが現実にいたら暑苦しいだけだろ……」

 僕は半ば呆れながら、弟が持ち込んだ雑誌を本棚の奥から取り出した。どこから仕入れてきたのか知らないが、結婚情報誌である。

「これ見てみろよ」

 僕が結婚情報誌を差し出すと、南は嫌そうに顔を顰めた。

「げっ、なんで勇輔がこんなの持ってるわけ」

「バカ、俺のじゃないよ。弟が持ってきたんだって。それより三十七ページを開いてみろって」

 南が渋々ページをめくる。

「えーっと……結婚するなら家事メン、育メン候補のこんな男たちだ……。なーんか頼りなさそうな男ばっかり」

 うんざりした様子で雑誌を見ながら、南が感想を漏らした。

「いまはそういう男がモテるんだよ」

「私は嫌だなあ……。もっと強くて頼りがいがあってかっこよくて!」

「いるかよ、そんな奴!」

 僕が突っ込むと南はため息をついた。

「ま、もっとも私は結婚したくない派だから」

「ああ、そういえばそう言ってたよなあ……」

 あれは中学二年の秋頃だったか。クラスの女子が気の早い結婚話で盛り上がっていたときのことだ。みんながそれぞれ結婚したい年齢を言っていく中で、南だけは私は結婚しないと宣言したのだ。その声はなぜか教室中に響き、近くの席でこっそり聞き耳を立てていた僕を驚かせた。

 理由を問われた南は、自由がなくなるからとか、面倒くさいからと適当に答えていたが、あとで僕が訊くと勇輔にだけは特別に教えてあげると、恩着せがましく教えてくれた。

「結婚っていう法律に縛られて、世間体だけ気にして必死にその関係性を守ろうとしたり、その関係性に甘えたりしたくないの。好きだから一緒にいるんでしょ。一緒にいたいからそばにいるんでしょ。だったらわざわざ法律で縛る必要なんてないじゃない。だから私は好きな人ができても結婚はしない。籍はいれない。事実婚にする」

 そのときの南は、はっとするほど凛としていた。もともとちょっとやそっとじゃ揺らがない性格だ。きっとあのときの覚悟にも似た決意はいまも変わっていないのだろう。

「勇輔は? ……彼女とか、できたの?」

 南がちらりとこちらを見た。

「え?」

 唐突に訊かれ、僕は言葉に詰まった。

「怪しーな。いま慌てたでしょ」

「いや、それは南が急に変なこと言うから」

「じゃあ、いるの、いないの?」

「いないよ、そんなの。いるわけないだろ。俺がモテないの知ってるだろ。どうせ俺は女子の理想からは程遠い、弱くて頼りない奴なんで!」

 半ばやけくそのようにそう言ってやると、南はなぜか寂しそうな顔をした。

「……とないよ」

 南の声は異様に小さくて聞き取れなかった。聞き返してみたが、南は首を振って笑った。

「そんなに落ち込まなくても、ほら、ゴキブリを好きな収集家とかだっているじゃない」

「ひでー。俺はゴキブリかよ」

「例えだってば」

 南は笑いながら、僕に結婚情報誌を返してきた。それを受け取りながら、僕はふと、南に好きな人はいたのだろうかと思った。南はごく控えめに言ってもモテていた。女子からも人気が高かったが、男子からはそれに輪を掛けて人気があった。僕と南が幼なじみだと知ると、大抵の奴はうらやましがり、一緒に遊ぶ機会のセッティングを頼んできた。そのうち僕の周りの友達がすべて南目当てのような気がしてきて、僕が学校で南と距離を置き始めたきっかけにもなったのだが。

 もし、僕が訊けば南は教えてくれるのだろうか。あのときのように、僕にだけ特別に。


       7


 次の日、僕はいつになく積極的に学校に向かった。朝も南に起こされる前に自分でかけた目覚ましで起き、普段はコーヒー一杯ですますところを朝食まで食べて家を出た。

 学校に向かう足取りがこんなにも軽かったのは久しぶりだった。

 揚々と教室のドアを開けた僕は、妙な違和感を覚えて一瞬立ち止まった。それはわずかな空気の揺らぎというほどの些細なものだったが、それが些細であればあるほど人間は気になるものらしい。

 何とはなしに周囲の様子を窺いながら教室に入った僕は、いつもと大きく違うことに気がついた。

 教室のドアを開けたときの早乙女の、軍司ぃー、というでかい声がなかったのだ。不思議に思いつつ席について、鞄を脇にかける。そろそろ早乙女からの声がかかるはずだと身構えるが、一向に声は掛からない。

 早乙女はいつも通り机の上に座っているし、周りに三田も鈴木もいる。何の話をしているのか、早乙女が笑いながら机をばしばしと叩いた。周りの女子たちも大口を開けて笑っている。

 いつもと変わらない。

 隣の席なのだから、と僕は早乙女に声を掛けてみた。

「おはよう」

 ふっと沈黙が訪れた。早乙女たちは一時停止でもかかったように、一斉にぴたりと止まり、すぐにまたお喋りに戻っていく。僕の声が聞こえなかったのか。僕は咄嗟にそう思おうとした。だが、そんなわけないのだ。早乙女たちは明らかに僕の声に反応して会話を止め、再開した。聞こえなかったのではなく、聞こえなかったふりをした。 

 猛烈に嫌な予感がした。全身が急速に冷えていく。頭が真っ白になり、次いで凄まじい勢いで回転し始めた。

 無視された? なんで? 僕が昨日あんなことをしたから?

 だって、まさかそんな。昨日は普通に話してたじゃないか。急にこんな……。

 僕はハブられたのか。このままずっと無視され続けるのか。クラスのムードメーカーである早乙女に無視されたら、クラス全体から無視されることになる。移動教室のときも一人、体育の時間も一人、休み時間も昼休みも――。

 僕は軽いパニックになっていた。どうしよう、その言葉ばかりが頭を巡る。もう一度、もう一度確かめてみよう。もしかしたら本当に聞こえなかっただけかもしれない。そんなわけがないと頭のどこかではわかっていたが、わずかな希望に縋り付かずにはいられなかった。

「あ、あのさ……」

 信じられないほど卑屈な声が出た。早乙女がちらりとこちらを見た気もするが、鈴木の馬鹿笑いにすぐにそちらの話題に戻ってしまった。

 もはや決定的だった。僕は早乙女たちにハブられたのだ。

 僕はがたりと椅子を押し、立ち上がった。足下がぐらりと揺れる。そのまま早乙女たちの笑い声から逃げるように教室を出た。最近は治まっていた吐き気がこみ上げていた。途中から小走りになってトイレに駆け込む。個室に入ってしゃがみ込んだ。便器に顔を向けてみるが、吐き気は遠のいていた。落ち着くまでじっとしていたが、授業開始の予鈴が鳴ったところで、僕はのろのろと立ち上がった。

 教室に戻るべきか、保健室に行くべきか悩み、結局教室に戻る方を選んだ。ここで保健室を選んだら、本当に二度と教室に入れなくなる恐怖があった。自分の身にこんなことが降りかかるとは思ってもみなかった。

 授業が始まる寸前に戻ったおかげで、早乙女たちと関わることはなかった。そのあとも授業が終わると同時に席を立ち、トイレや人のいないところで時間を潰しては、授業が始まる直前に戻るというのを繰り返した。何回か早乙女の視線を感じたが、確かめる気にはなれなかった。

 そうして何とか一日をやり過ごし、僕は飛ぶように家に帰った。一刻も早く南に会いたかった。

 家に着くなり、僕は二階の自室に駆け上がった。

 南は珍しくマンガを読んでいなかった。窓の前に立ち、外を眺めている。南の背中越しに、夕焼けが広がっている。空は茜から紫に変じようとしていた。夕方でも夜でもない夏特有の不思議な空の色である。

「おかえり」

 南は窓の外を見つめたまま言った。その声に心底ほっとした。これだ。僕にはやっぱり南が必要なのだ。

「ただいま」

 そう返すが、南はこちらを見ない。どうしたのかと思いつつ、僕は鞄を部屋の隅に立てかけ、着替えるための服をクローゼットから引っ張り出す。南が帰ってきてからは、自室で着替えるわけにもいかず、僕は服を持って廊下で着替えるようになっていた。

 廊下で手早く着替えを済ませ、脱いだ制服を持って部屋に入ると、南はまだ窓の前に立ったままだった。

「外に、何かあるのか?」

「ううん、いつも通り」

「そう……」

 いつになく南の元気がない。幽霊でも体調不良とかあるのだろうか。それとも一日中家に籠もりっぱなしというのは、南の性格上ストレスが溜まるのかもしれない。僕はむしろずっと家に居てもいいくらいの心境だけど。

「勇輔、あのさ」

「学校でさ」

 僕と南の声が重なった。いつもなら譲らない南と、押し通さない僕がこのときだけは逆転した。南は言葉の先を僕に促し、僕も自分の話を続けた。今回ばかりはたとえ格好悪くてもみじめでも誰かに、南に、話さずにはいられなかった。

「クラスの中心的な奴にいじられキャラにされたって言っただろ。いじられても相手が期待してる反応しなければいじられないポジションになれるかと思って、昨日そういう態度を取ってみたんだ。そのときは普通に話してたのに、今日学校行ったらハブられてた」

「それで、勇輔はどうしたの?」

「どうって……教室には居づらいから、授業中以外はトイレとか別のとこに行って」

「明日からどうするつもり? これから毎日、卒業までずっとそうしてるつもり?」

 南の声はやけに淡々としていた。

「それなんだよ……」

 僕はため息をついて、いつも南が座っている椅子に腰を下ろした。明日からのことを考えると、お先真っ暗すぎて笑えてくる。どうして僕なんだ。他にもいじりやすそうな奴らが固まっているグループがあるのに。

「ねえ、勇輔」

「何っ?」

 何か妙案でもあるのかと、僕の声は自然に弾んだ。南はいつだって僕に助け船を出してくれた。それは直接的なときもあれば、間接的なときもあったが。

「今日が何の日か、覚えてる?」

「え……」

 南にそう問われ、僕は壁に掛けたカレンダーに目をやる。七月十六日。南の誕生日は十二月だ。思い返してみても特に記憶に残っている特別な出来事はない。

 南が呆れたように、これみよがしに首を振る。ゆっくりとこちらに向き直った南と目が合った。何かを諦めているような、それでいてひどく寂しそうな目。

その瞬間、僕は何故だか逃げ出したい衝動に駆られた。けれど僕が身動きする間もなく、南の口が動く。

「送り火の日」

 がつんと頭を殴られた気がした。僕はカレンダーに飛びついた。七月十六日。送り火。南があちらに帰る日。別れの日。

「嘘だろ……」

 どうしてこんな大事な日を忘れていたのだろう。早乙女のことで頭がいっぱいで、ついうっかり……。そこまで考えて、僕は途方もない脱力感に襲われた。学校では早乙女たちにハブられ、南は送り火であちらに帰ってしまう。絶望と喪失感がいっぺんに押し寄せてくる。

 僕はカレンダーから視線を引き剥がし、まさに幽霊でも見るように恐る恐る南の方を見た。

 南は相変わらず窓辺に立ち、感情の読めない表情で僕を見ている。僕たちはじっと見つめ合った。南とこんなふうに向かい合うのは初めてだった。真っ正面から見る南は僕より少し小さくて、幽霊ということを差し引いてもいまにも消えてしまいそうなほど華奢で儚げだった。

 時間が止まってしまったかのように、僕も南も動かない。ただ、お互いの目を見ていた。このままじっとしていれば、何もかも解決するような錯覚を僕が覚え始めた頃――南が均衡を破った。

「送り火、してくれる?」

 ぎくりとした。それはまるで僕を試すかのように、挑発的な口ぶりだった。南の射抜くような視線に気づき、僕は咄嗟に目を逸らした。自然と視線が下がり、僕は俯いた。

「勇輔……こっち見てよ」

 南の声が耳に痛い。視線が痛い。

「勇輔」

 再度名前を呼ばれ、僕は観念して顔を上げた。南の笑った顔が視界いっぱいに広がる。

「なんで……」

 笑ってるんだよ、と言おうとして僕は言葉を飲み込んだ。というより、言葉が続かなかったのだ。僕の口から溢れたのは、泣き声にも近い嗚咽だった。

「無理、だよ……。南とまた、別れるなん、て……」

 僕は目を擦った。泣くつもりなんてなかったのに。こんな格好悪いところを南に見せたくなかったのに。

 涙で滲む視界の中で南が動くのが見えた。南はゆっくりとした足取りで僕とのわずかな距離を埋め、ぶつかりそうなところでぴたりと止まった。もうくっついてしまいそうに近い。

 僕は南の目を見ようとして、口元まで視線を上げるのが限界だった。そして告げる。

「ごめん……送り火はできない」

 南は寂しそうに笑った。

「うん、わかった」

 そう言うと南はすっと一歩後ろに下がり、くるりと僕に背を向けた。その仕草に僕は無性に不安に駆られた。いまの僕を支配しているのは、南を失いたくない一心だった。

「南」

 僕の呼びかけに南が静かに振り向くのと、窓から一際強い風が吹き込んできたのが同時だった。一瞬にして南の髪が散り、彼女の表情を隠す。翻っていた髪の隙間から、恐ろしいほどに真っ直ぐな瞳が見えた。どこまでも貫き通しそうな強い意志を秘めた瞳。

「私は後悔しないよ。今年の夏に帰ってきたこと」

 南の言葉に、なぜか僕は激しい動揺に襲われた。言いしれない胸騒ぎが全身を駆けめぐる。呼吸が次第に早くなり、わけのわからない焦燥感に追い立てられる。もう居ても立ってもいられなかった。僕は南から視線を外すと、

「ちょっと、ごめん!」

 そう言い捨てて、半ば転がるように部屋を出た。後ろ手で勢いよくドアを閉め、そのままドアにもたれかかるようにずるずると座り込んだ。膝から力が抜けたように、僕はそこから立ち上がれなかった。


       8


 僕はしばらくの間、ドアを背に座り込んでいた。

 色んなことがいっぺんに溢れ出し、僕の思考を掻き混ぜた。何とか整理をつけようとしても潮の満ち引きのようにまた押し寄せてくるのだ。片づいていない思考を浚っては、新たな問題を乗せて次から次へと。

「誰か助けてよ……」

 ほとんど口の中で呟いたにもかかわらず、僕ははっと口を押さえた。いまの言葉をドア越しの部屋にいる南に聞かれはしなかっただろうか。そう思い、何をいまさらという思いが頭をもたげて、僕は自嘲のため息をついた。

 南に格好悪いところを見せたくない、僕はもう子どもの頃とは違うと思っていながら、結局のところ僕はまた南に頼ろうとしているのだ。

 と、横で何かがギシリと音を立てた。

「おや、勇輔。部屋の前になんか座って、何してるんだい?」

 突然掛けられた声に、僕は文字通り飛び上がった。

「ば、ばあちゃん! どっから来たんだよ!」

「階段上がってきたに決まってるだろう。他にどこから来るっていうんだい」

 ばあちゃんは呆れたように言うと、よいしょっと、とかけ声をつけて手に持っていたものを床に下ろした。

「掃除機?」

「そうだよ。たまには二階の廊下も掃除機をかけないとねえ。ついでに空気の入れ換えもしたいから、勇輔の部屋も開けといてくれるかい」

 言われて頷きかけた僕は慌てて首を横に振った。それはまずい。非常にまずい。

「な、何もこんな時間に掃除始めなくてもいいじゃん。掃除なら今度の土日に僕が大掃除しようと思ってたところだから。ばあちゃんは、ほら、夕食に全勢力を注いでよ」

 自分でも驚くほどぺらぺらと口が回る。早乙女相手にもこうできればいいのに。

 ばあちゃんは訝しむように僕を見た。ばあちゃんの視線が僕を通り越して、ドアに向けられている。

「勇輔……何か隠してるだろう?」

 僕は背中を冷や汗が伝っていくのを感じた。大丈夫。南は僕以外には見えないはずなのだから、ドアを開けてもたぶん大丈夫だ。僕は自分にそう言い聞かせると、何でもないふりをしながらドアを開けた。

「ほら、何も隠してないって」

 ばあちゃんが部屋の中を覗き込む。続いて中を見た僕は、危うく声を上げそうになった。

 そこに、南の姿はなかった。

「何で……」

 僕が送り火をしない限り、南はこちらの世界にいるはずじゃなかったのか。

「何で?」

 ばあちゃんが不思議そうに僕を振り返った。

「い、いや、何でもないだろって言いたかったんだよ」

 僕のしどろもどろな嘘に、それでもばあちゃんはとりあえず納得してくれたらしい。再び掃除機を持ち上げると、階段を下りていこうとして、思い出したように立ち止まった。

「そうそう、勇輔に言っておこうと思ったことがあってね」

「何?」

「自分を幸せにできるのは自分しかいない。でも幸せを感じさせてくれるのは自分じゃない。自分以外の誰かなんだよ。……ふふ、じいちゃんの受け売りだけどねえ」

 ばあちゃんはそう言い、とん、とん、とのんびり階段を下りていった。

 僕はその場に立ち尽くしていた。動けなかった。ばあちゃんの言葉が僕をたたきのめしていた。遅効性の毒のように僕の全身に言葉の意味が巡っていく。

 ――僕は南に何て言った?

 ――送り火をしない?

 それは南に未来永劫こちらの世界を彷徨えと言っているのだ。僕が死んだあともずっとずっと、果てることなく……。僕は自分の勝手な都合を押しつけて、南を犠牲にしようとしたのだ。

 自分の残酷さと情けなさに吐き気がする。

 小さい頃から南の存在に甘えて依存して、死んだあとも南の死を理由に色んなものから逃げてきた。学校から、早乙女から、自分を幸せにする最低限の努力からも。

 南はいつだって僕に幸せを感じさせてくれたのに、僕は南に最低のことを――。

「南ッ!」

 ドアを開け放した。勢い余って跳ね返ったドアを片手で押さえつけ、部屋を見回す。

 南はいなかった。

「どうして……」

 僕は放心した。もう謝ることもできないのか。僕の手であちらの世界に送り出すことも。膝から力が抜け、僕はがくりと崩れ落ちる。

「じゃーん! ……何してんの?」

 僕は弾かれたように顔を上げ、目を瞬く。そこには見慣れた半透明の南が、きょとんとした顔で僕を見下ろしていた。僕は亀もびっくりの緩慢な動作で立ち上がる。

「どこに、居たの……?」

「ドアの後ろ。勇輔以外には見えないと思うんだけど、念のために隠れてみたの。いきなりドア開けるみたいな話になって、こっちも慌てたんだから!」

「そっか……」

「何、その反応! もし見えちゃったら大変じゃない。勇輔だって」

 南の言葉を遮り、僕は南の顔の真ん前に掌を突き出した。

「送り火、するよ」

 南の目が丸く、驚きに見開かれる。信じられないとばかりに凝視され、僕は妙に照れくさくなって、頭を掻きながら南の横をすり抜けた。

「えーっと、オガラオガラ。あとライターもか」

 僕が照れ隠しに送り火セットを探していると、南がかき消えそうな声で、どうしてと呟いた。

「どうしてって?」

「だってさっきまで送り火はしないって。どうして?」

 南が僕の前に回り込んでくる。

「……気づいたんだ。いつまでも南に頼ってばっかりじゃダメだって。早乙女とのことも俺が自分で解決しないと、きっと解決しない。俺さ、南の前で格好つけたかったんだ。もうガキの頃とは違うぞって言いたかった。でも中身はガキの頃と全然変わってなかったんだよな。だからどんなに格好つけようとしても、すぐにボロが出た」

 僕は手を動かしながら、言葉を続ける。

「俺、今度こそちゃんと南から卒業するよ」

 僕は言葉を少しでも証明するために真正面から南の顔を見た。今度は目を逸らさない。僕と目が合った瞬間、南の顔がくしゃりと歪んだ。僕は思わずぎくりと怯む。

「泣くな! 頼むから泣くな! まだ、そこまでは経験値が」

「もうっ」

 南は怒ったようにバシッと僕の背中を叩き、ぷっと吹き出した。

「あははっ。勇輔、すっごく情けない顔!」

「なっ、言うなよ……そういうこと」

 僕は机の引き出しの奥からオガラを見つけ出したが、ライターだけはどこか別の場所にやってしまったらしい。仕方なくマッチを持って南と一緒に庭に出た。

 迎え火を焚いたときのように新聞紙とオガラを並べ、南と向かい合うように立つ。

「いいか、いくぞ」

 僕はマッチを擦った。ゆっくりとオガラに近づける。

「ちょっと待って!」

「うわ、何だよ」

 取り落としそうになったマッチを持ち直し、南を見ると、彼女はにっこりと笑っていた。

「勇輔に卒業証書あげるよ」

 えっ、という間もなかった。

 南はさっと一歩を踏み出すと、わずかに背伸びをした。僕の唇に南の唇が触れた、気がした。南の体は実体がないはずだが、僕は確かに南を感じた。手からぽろりとマッチが落ちる。

 僕の手を離れたマッチは落下し、オガラの上にぽとりと落ちた。

「あっ!」

 オガラが燃えだし、それはすぐに新聞紙に燃え移る。パチパチと爆ぜる音が聞こえ、僕は慌てて南を見た。半透明だった南の姿はもう消えそうに薄い。

「南!」

 南は笑った。幸せそうに、はにかむ。

「ずっと好きだったよ」

 ゆらりと南の姿が揺らぎ、ふっとその姿が消えた。僕は呆然と南のいた場所を見つめた。

 ふいに一際強い風が吹き、僕は咄嗟にオガラの火を庇った。この火だけは消してしまうわけにはいかない。僕が南を見送るのだ。僕はすべてが燃え尽きたあともしばらくオガラを見つめ続けた。


       9


 翌日、僕は学校に着くなり早乙女一人を廊下に呼び出した。僕からの呼び出しに早乙女は驚いた様子でついてきた。

「話って?」

「俺はいじられるのが嫌いなんだ。でも席だって隣だし、まったく無関係ってわけにもいかないと思う。だから、普通に話してほしい」

 僕にしては上出来だ。少し噛みそうになったし、ロボットみたいな口調の気もするが、この際気にしない。要は早乙女に僕の意志が伝わればいいのだ。

 そう思ってちらりと見ると、早乙女は心底驚いたように目を白黒させていた。何かを言いかけては言いよどむ。

「え、えっと……何て言うか。ごめん」

「え?」

 今度は僕が面食らう番だった。まさか早乙女に謝られるとは思ってもみなかった。

「いまさらこんなこと言うのもあれだけどさ、俺、悪気があって軍司をいじってたわけじゃないんだ」

「どういう意味?」

「軍司、いつも一人だっただろ。誰も友達とかいなかったみたいだし。俺も中学のとき、転校してクラスに馴染めなかったんだ。でもそのクラスの中心だった奴がちょくちょく絡んでくれたおかげで、友達できてさ。おまえが嫌がってるなんて思わなかったから、俺もうまくできてると思ってたんだ」

 唖然とする僕を見て、早乙女はもう一度、ごめんと言ってきた。

「でも、そのうち調子に乗っちゃってさ……。俺もクラスで浮きたくなくて、誰かをいじってれば自分のポジションも確保できるしって……。ほんと悪かった!」

 早乙女は拝むように顔の前で手を合わせた。

 それを見て、僕は一気に気が抜けた。なんだ、早乙女も僕と大して変わらないじゃないか。

「怒ってるよな? 昨日とかだって」

 僕の顔色を窺うように早乙女が手の向こうから顔を覗かせる。

 なんだ。意外と良い奴なんじゃないか。そう思ってしまう僕はお人好しだろうか。

「いや、いいよ。俺も早乙女のこと誤解してたし。お互い様ってことで」

 たとえお人好しだと言われていまなら気にならない。なぜならこれまでの僕を、いまの僕を、南は好きだと言ってくれたのだから――。


 僕は高校での新しい友達と居場所を手に入れ、高校生活をそこそこ満喫している。

そして不思議なことに、あのお盆以降、母親が僕の部屋に勝手に入ってクーラーを止めたり、掃除をしたりすることはなくなった。



                                        完


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送り火のとき 彩崎わたる @ayasaki

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