File:8 また会うためのシーズンオフ





 9月22日月曜日、AM9:15。

 大阪駅。リニアモーターカー乗降場プラットホーム


 周りは平日と言う事もあってか、キャリーケースのような大型荷物を持った人は少なく、まぶたが重そうなスーツ姿の人が多い。もしかしたら、ラフな格好をした自分の姿は観光客に見られているだろうか。頭上ずじょうの電光掲示板を見上げると、まだリニアモーターカーが駅に到着するまで時間はある。

「改札まででよかったんやけど……」

 振り返れば、母・ツヅミがきょとんとした顔をしていた。

「ええやん見送りぐらい。せっかく入場料払ってんから、改札内でぜーたくになんか食べてから出るわ。それよりあんた、ちゃんとお土産持ったん?」

「あーはいはい、持った持った」

 手首に引っ掛けていたビニール袋を見せる。バターをふんだんに使った棒状のプレッツェルにチョコレートをコーティングしたお菓子で、大阪限定販売ものだ。お土産にはもってこいだろう。

「帰ったらまず、菊田きくたさんに謝るんやで? こっち帰ってきてさらに傷こさえるとか、ほんまあんた、お父ちゃんも呆れるわ」

 盛大な溜息を吐くツヅミに、蕗二は気まずいと後頭部を掻きむしる。

「いや、それは、その……心配かけてすまんかったと、思います……」

 頭の傷は出勤する頃にはガーゼも外せるだろう。見た目には何もない。ほら何もないぞと嘘をつくのは簡単だが、今回の事件の事はすべて筒抜けになっているはずだ。片岡かたおか野村のむら芳乃ほうのには笑われそうだが、菊田と竹輔たけすけにはどう謝ればいいか。誠心誠意謝り倒すしかない。たぶん土下座は余計怒られるから……と腕を組んでシミュレーションを始めた蕗二ふきじの耳が、ぽつりと呟かれた言葉をかろうじて拾う。

「お母ちゃんな、たまに悩むねん」

 視線を向けた先、ツヅミが不貞腐ふてくされた子供のようにうつむいていた。

「あんたが刑事になるって言った時、止めた方がよかったんか。お父ちゃんの時も、仕事で怪我して帰ってくるときはあったよ? けど、あんたまでそんな……」

 震える言葉を隠すように勢いよく天井を見つめる。平然とした表情だが、増えた瞬きから涙を堪えた事を察するには十分だった。

 蕗二は肩にかけていた荷物を降ろす。

「俺がこの仕事を選んだんは、確かに親父が死んだからや」

 ツツジが動きも呼吸もひそめる気配。おどかさないようにゆっくりと言葉を吐きだした。

「高校ん時は、将来なんてなんも考えてへん。好きやから野球選手になりたいと思ってた。けど、あんなことがあって、正直…………感情的になって、そのまんま警察になった。あの事件の日がずっと忘れられへんかった。≪ブルーマーク≫を見て、事件を思い出して、でも犯人とは違うって事も分かってた。でもどうしたらええんか、答えを出すんが怖くて……」

 瞼の裏、夏のグラウンドがちらついた。

 あの日、選ばなかった未来。選べなかった未来。あっけないほど砕け散った夢。未練がまったくないと言ったら嘘になる。目を背け続けてしまった11年、無駄に生きてきた。間違った未来を進んでしまった。戻れない過去を理由にして、≪ブルーマーク≫と言う意味もない相手を恨み続けて、幸せになっちゃいけないと自分で自分の首を絞めていた。

 でも、もう違う。やっと分かった。

 過去は置いていくんじゃない。過去から繋がった今、ここにいる。今歩んできたこの未来は、まったくの無駄じゃない。間違いだってひとつもない。もしもなんていくらでも考えられる。だから今、この未来に進んで出会った人たちや、この道じゃなきゃ得られなかった経験を大事にしようと思えた。

「刑事になった理由は、あんましカッコよくないし、めちゃくちゃかもしれへん。けど、この仕事をやり切って、最後は胸張ってこの仕事やってて良かったって、言えたらええなって思う。お袋にはまだこの先も心配かけるやろうけど、なるべく無茶はせえへんようにする。だから、その、これからも応援してくれたら嬉しい」

 照れくさくなってきて、首の後ろをでる。伸びてきた生え際を落ち着きなく撫で上げながらちらりとツヅミをいかがえば、なぜか両腕を横いっぱいに伸ばしてこちらを見つめていた。

「…………なんやねん?」

「何って、ハグやん?」

「はあ? せーへんで?」

「なんでぇ? 別にええやん。減るもんちゃうやろ?」

「いやいやいや! 俺もう27やで、適切な距離ってもんがあるやん」

「ちっちゃい時はママと結婚するとか言うてくれたのに」

「はああああ!? そんなん覚えてへんわ! ガキん時とかノーカンやろ!?」

「えーやん、けち臭い! 我が息子よおおお!」

「ぎゃあああああああああ!」

 突然の抱擁に、蕗二は腹の底から絶叫する。なりふり構わず振りほどき、後ずさりながら自分の体を守るように二の腕を強く擦る。

「なんやねんもおおお!! 見てみーや、寒イボ立ったわ!」

 産毛が逆立っておろし金のようになっている腕を突きつければ、ツヅミは頬を大きく膨らませ、ぶふっと音を立てて噴き出した。

「そうそう! あんたはそれでええねん、辛気臭しんきくさい顔は似合わんわ」

「なんかそれって、微妙に馬鹿にしてへんか?」

「してへんしてへん」

 到着を知らせる音楽が鳴り、掲示板が点滅する。

「ほな、東京着いたら一回連絡するし」

 リニアモーターカーが滑らかにホームへ滑り込んできた。

 荷物をかつぐと、突然背中の真ん中を叩かれる。勢いが良すぎて息が詰まるほどだった。

「なあ蕗二、今度は元気な時に帰って来ぃや? あれや、東京のチームの人たちも連れてきて、タコ焼きパーティとかどない? お母ちゃんプロやから焼くのは任せとき!」

「タコパ、ええなそれ」

 軽やかな電子音とともに、ホームゲートとリニアモーターカーの入り口が開く。

「いってらっしゃい」

「行ってきます」

 乗り込む人の最後尾。閉じたドアの向こうで、ツヅミが手を振った。

 小さく手を振り返すと、リニアモーターカーは滑るように動き出し、あっという間にツヅミの姿は見えなくなった。










 9月25日木曜日。AM6:00.


 耳のすぐ近くで、規則的な電子音がやかましく鳴り響く。

 いつもと音が違う、と画面を見る。音どころか画面の表示も操作方法もまったく違うことに眉をしかめ、そこでやっと端末が壊れてしまったこと、代替えしていたことを思い出す

 それ以外は、何ともない朝だった。

 窓の外で行き交う人の気配、時間通り流れるニュース、クリーニングから戻ってきたばかりで折り目がしっかりとついたスーツ、洗って逆さまにした茶碗やグラス。

 なにひとつ昨日寝た時と変わらない。

 ざっくりと顔を洗い終わると、タイミングを計っていたように炊飯器が電子音をかなでる。

 炊き立てのご飯を茶碗に盛り、生卵を割り落とす。ご飯全体に馴染なじむようにかき混ぜ、醤油の味が染みこませてある味付け海苔をお供にかきこんだ。栄養満点具がいっぱいとポップな字で書かれたカップ型の即席味噌汁と一緒に平らげると、ちょうど占いコーナーに差しかかった。いつものように寝間着代わりに来ていたTシャツと半ズボンをベッドの上に脱ぎ捨てる。インナーシャツとワイシャツ、靴下、スラックスと手早く身に着け、ショルダー型のガンホルスターを肩にかけたところで手を止める。

 肩から恐る恐る抜き取り、まじまじと観察する。

【特殊殺人対策捜査班】に所属し、菊田から許可状を渡されてからは、≪あいつら≫に会う前には必ず拳銃を収めていた。いつでも装備できるようにと常にスーツの下で身を潜めていたこともあり、ところどころほつれていたり、毛羽立っていたりする。極めつけはこの前の事件でたっぷりと血を吸ったことだろう。黒いナイロン製のベルトに染みは確認できない。退院後に洗ってはいるが、鼻を近づければ鉄錆てつさびの匂いがする気がした。

 ホルスターを椅子の背もたれに引っかける。手を離してしまえば、身軽すぎて少し戸惑った。寂しいような不安なような、心許ないとさえ思った。それでも、もう身に着けることはない。

 空になった手でネクタイを取り、立てたシャツの襟元に巻きつける。シュルシュルと心地のいい衣擦れとともに結び、えりを直して、結び目を引き上げる。腕時計と液晶端末、手土産を持ってドアを開ければ、何ともない日常がまた始まる。


 人ごみの中を進み、改札を抜けて駅のホームへと駆け上がれば、時間通りに到着した電車。通い慣れた東京メトロ丸の内線。

 壁に備えつけられた液晶画面は、次に到着する駅名や現在の車両位置はもちろん、ニュース、天気予報まで静止画や、動画、さまざまな広告を表示する。

 天気予報が映る中、画面の半分にニュース番組が流れる。

 一瞬、栩木とちぎの名前が映り込む。殺人容疑で逮捕。あっさりとした文字は次のニュースに切り替わる。誰かの目に留まったかさえ分からない。

 他人から見れば、些細ささいな話題にもなりはしないのかもしれない。

 足の裏で電車の揺れを感じ取りながら、液晶端末をチェックする。

 まだなんとなく操作方法が掴めず、指先をもたつかせながら、昨日交わしたメール文を表示させる。

 昨日、連絡を取ったのは三人。

 車に足をかれ重傷を負った奈須なすは、病院で適切な治療を受け、無事家に帰れたようだ。行方しれずだった五百森いおもりは、どうやら椋村むくむらがこっそり栩木とちぎから逃がしていたらしく、遠く北の大地・北海道で保護された。彼も無事、家に帰ることができた。

 それから、鳥頭とりとう。大阪府警に労働環境の見直しが入ったと、うるさいくらい絵文字だらけの文章から嬉しさが伝わってくる。二葉の遺体偽装を見破れなかったこと、度重たびかさなる捜査のずさんさを警察庁からさんざん指摘されたらしい。やっとやりたいことができる、そう締めくくられた言葉に、親指を立てた絵文字を送ったところで会話は終わっている。これから鳥頭や大阪の仲間たちは、活気を取り戻していくのだろう。

 液晶端末の画面を閉じれば、ちょうど霞ヶ関かすみがせきに到着した。


 階段から地上に上がれば、高くんだ青空を背にそびえる警視庁は、やはり威圧的な姿をしていた。

 ガラス張りの正面玄関ではなく、裏手のこぢんまりとしたガラスドアをふたつ通り抜け、10メートル先に箱状のセキュリティーゲートが三つ並んでいる。人一人がギリギリ通り抜けられる程度の大きさで、完全にゲートを抜けるまで三歩ほどあるゲートは、人が通るたびに白く発光する。警察手帳IDを自動的に読み取り、持っていない場合は駅の改札口のように遮断器が横から出てくる仕組みだ。不審者の場合は箱の中に閉じ込める仕組みになっているとかいないとか。必要とあれば金属探知やスキャニングもできると言う噂もあるが、作動しているのを見た事がない。胸元を軽く撫でて、ジャケットの内ポケットに入っている警察手帳を確認する。うまく読み取れなくて引っかかったらどうしようか、そんな杞憂きゆうを考えてみるが、蕗二が通ってもゲートは一瞬白く光っただけですんなり通してくれた。

 階段とエレベーター、数段しかない段差や斜めに横断する廊下や曲がり角と入り組んだ廊下の先、見慣れた資料室へとたどり着く。再三確認した手土産をもう一度確認し、ドアの前で襟とネクタイを正す。

 壁に埋め込まれている読み取り機に警察手錠をかざせば、短い電子音とともに開錠された。

 ドアを引き開け、鼻先でほこりっぽい、湿気しっけた紙の臭いをぎながら横歩きで積まれた段ボールの隙間を進む。

 段ボールの壁の奥には人の気配がある。気を引き締め、段ボールの壁の向こうへと大きく踏み出した。


「復帰おめでとうございます!」


 5発の破裂音。頭の上に降りかかった紙吹雪に、蕗二はまばたきを繰り返した。

「お前ら何しとんねん」

 野村が今しがた発射したクラッカーを目の前で振って見せた。

「何って、お祝いだよぉ! お見舞いなかなかいけなかったから、その代わりー!」

 隣で同じくクラッカーを持っていた片岡がわざとらしく眼鏡を鼻の上に押し上げた。

「心配していたんだよ。戦隊モノでもリーダーが居ないと、しっくり来ないじゃないか」

「前から思ってたけど、戦隊モノってなんやねん」

「五色カラーのぴちぴち全身タイツで決めポーズを取った後ろで爆破が起きる奴だ」

「いやちょっと待て、それはなんか古すぎる気がする」

「えー、じゃあ僕は絶対カレー色じゃないですかー?」

 竹輔が不満げに自分の腹をつまんで揺すって見せる。

「カレー色ってなんやねん」

「ああ、正確にはターメリック色でしたっけ?」

「なんやねんターメリック色って、イエローでええやんか! そんな正確性とか求めてへんわ!」

「君たちの場合、原色の五色で済まない気がするんだがね」

 クラッカー片手に腕を組んで真剣に悩む菊田に、蕗二は飛び上がった。

「菊田さん!」

 慌てて頭の上を払うと、パラパラとカラフルな紙吹雪が落ちる。

「こ、このたびは、その……」

「まあまあまあ、かたい挨拶はとりあえず後にしよう。まずちょっとおいで」

 菊田は気味の悪い笑みを浮かべると、ゆっくりと手招きする。

 じりじりと床に足の裏を擦りながら近づく。手招きしていた手が、屈むように下げられ、恐る恐る膝に手をついてかがむと、突然すぱーんという音がして頭頂部に衝撃が走る。

「痛ッ!!」

 頭を押さえて後ずさる。痛いと言うよりは衝撃が強い。一体何だと菊田を見て、蕗二は思わず声を上げた。

「嘘やん! ハリセンってマジで!?」

「マジだぞ、ほら」

 菊田はよく見えるように目の前に掲げて見せてくれる。白い厚紙を蛇腹状じゃばらじょうに折って三分の一をテープで巻いただけのシンプルなものだ。

「うわあ、こんなん売ってるんですね」

「いやまさか、これは売り物じゃないぞ。画用紙から折って作った私のお手製だ。ちゃんと痛くないように面を広く取ってある」

「えっ、手作りなんですか!?」

「既製品も考えたんだが、痛そうだったからな」

 手のひらで叩いて感触を確かめた菊田は、溜息を吐いて自らの肩をほぐすようにハリセンで叩いた。

「蕗二くん、私はくどくど説教をしたくないんだ。なぜハリセンを作ることになったのか、理解はしているか?」

「えー、うーん?」

「分かった、ひと昔前のような愛の鉄拳ってやつの方がよかったらしい」

 指の関節をわざとらしく鳴らして見せ、拳に息を吹きかける菊田に、竹輔が「それは傷害か暴行になるので……」やんわりと間に入った。

「蕗二さん、怪我はもう大丈夫ですか?」

「ああ、かすり傷ばっかりだよ」

「じゃあ手を見せてください。瘡蓋かさぶただらけになってませんか?」

 おもむろに竹輔は手を差し出してきた。なんともないぞと手を差し出すと、突然強く手を掴まれる。驚いて手を引っ込めるより先に、手を外側にひねり上げられた。

「痛たたたたたたッ!」

「ここで解説いたしまーす。逮捕術は相手を叩きのめすための技ではなく、市民や警察自らの安全を確保しつつ、犯人を無傷で逮捕するための技術のことを言いまーす。これは二カ条にかじょうという逮捕術のひとつでーす。ほーら、こーんな体が大きい人でも簡単に動けなくなっちゃうんですよー」

 テレフォンショッピング顔負けの笑顔を浮かべた竹輔が、さらに腕を捻りながら肩を押してくる。

「待て待て待てこれあかん奴やああああああああッ!」

 痛みに耐えられず膝をついた蕗二に、片岡が興味深そうに顎を擦る。

「さすが大阪人、リアクションがいい」

「大阪関係ないわ! 誰か通報して!」

「きゃあ、おまわりさぁん!」

「はーい、僕がお巡りさんですよー!」

「もうええわ! なんやねんこの茶番! 竹、いい加減離せ」

 肩に置かれた竹輔の手を叩くが、一向にゆるまない。見上げた竹輔の表情は困ったようにも怒っているようにも見えた。

「蕗二さん、僕はまだ怒ってるんですからね。ひとりで勝手に突っ込んでいくなんて、どれだけ心配したか…………僕がモールス信号に気が付かなかったら、どうする気だったんですか?」

「モールス? ああ、まばたきの合図の奴な、竹なら気がつくやろ?」

「いやあ、照れるなあ………って、誤魔化されませんよ?」

「痛い痛い痛い! ほんまやって! 携帯壊れるとは思ってへんかったんや!」

「本当に? ちゃんと反省してます?」

「してるしてる! してるからギブギブギブ! 肩外れる!」

「仕方ないですねぇ、これくらいで勘弁しましょう」

 ぱっと手が離され、反動で床に手を突く。

「あー、ひどい目にうた……」

 堪らないとひねられて痛みを訴える肩と手首を擦っていると、菊田が大きく手を叩いた。

「さて、余興も済んだところだ。メインイベントに行こうじゃないか」

「見て見て三輪っち、ケーキ用意したんだよぉ」

 目の前にホールケーキを差し出される。定番中の定番、真っ白いクリームに大粒の苺が乗ったケーキだ。真ん中には板状のミルクチョコレートが飾られ、復帰おめでとうございますとメッセージまで書かれている。

「ケーキって、誕生日かよ。お前らが食べたかっただけじゃねぇの?」

 竹輔がわざとらしく舌を出す。

「ほんのちょっとだけ。味は僕が保証しますよ。あ、切り分けるので待っててくださいね」

「扱いがざついなぁ、ほんま」

 わざとらしく肩を持ち上げて壁にもたれかかる。わいわいとケーキを囲んで話しているメンバーを見ながら、独り言にしては大きな声で呟いた。

「一応聞いていいか、どっからあの段取りだった?」

「クラッカーから全部予定通りです」

「うーわマジか、俺リハーサルしてないんやけどなぁ」

 あからさまな鼻笑いが聞こえた。それを合図に隣へと視線を向けると、腕を組んでべったりと壁に背中を預けている芳乃が見えた。

「いつからだ」

 芳乃は幼い子供のように首を傾げた。

「今更とぼけるなよ。俺の事、いつから気づいてた」

「あなたに初めて会った時からですよ」

「は? 初めてってお前……」

 大声を上げそうになって口を押さえる。薄っすらは勘づいていた。しかし、改めて驚きを隠せない。

 初めて会った時、あの会議室で黒い眼に見つめられたあの瞬間には、もう奥底に息を潜めていた三輪蕗二あいつを視ていたと言う事だ。

 茶番か。以前の俺だったらそう思っていただろう。あの時の俺は、きっと事実をストレートに指摘されたとしたって受け入れられなかったはずだ。目をらし続けている自分が、ましてや≪ブルーマーク≫からの言葉に耳を貸せるわけがない。

 だから芳乃はずっと、遠回しに気づかせようとあんな質問してたわけだ。

 しかし、もしもの話。あの時、あちら側を選んでしまっていたらどうなっていたか。

 全部視えていたんだったら、危険だって事は分かっていたはずだ。

「お前さ……俺があっちを選んだら、どうするつもりだったんだよ」

 疑問をそのまま口に出し、そして後悔する。

 前髪の向こう、氷の眼がこちらを視ていた。分厚い氷面の向こう側、永遠と続く暗闇の向こうで何かがうごめいている。ゆっくりと瞬き、それが笑う。ぞわりと神経が逆立った。得体の知れないもの。正体を知ってはいけないもの。それはなんだ。問えば答えが分かるだろうか。だが、問う事ができない。一歩でも動けばとんでもないことになるとさえ思う。声は喉の奥で怯えて出てくる気配はない。唾を飲んで促してみても、痛むばかりで吐き気さえする。

 氷の眼がふとそれた。興味をなくしたように瞼の裏へと消える。

「さあ?」

 芳乃は肩をわざとらしく上下させた。

「さあって、お前……」

「まあ結果として、あなたのわんわん泣く姿は面白かったですけどね」

 動画撮ってなかったかと液晶端末の表面に指を滑らせ始めた芳乃に、蕗二は首から上が真っ赤になるのを感じた。

「ちょ、それはやめろ!」

 端末を取り上げようとして簡単にかわされる。

「馬鹿ですか、撮ってるわけないじゃないですか」

「お前の冗談は分かりにくいんだよ……」

「『あーあカッコ悪ぃ』とか思ってるようですが、安心してください。あなたのことカッコいいとは思ったことは一度もないですから」

「おいこら、今のは流石に傷ついたぞ」

「なんですかなぐさめてほしいんですか、丁重にお断りします」

「なんも言ってねぇだろうが! そこは適当に慰めろよ!?」

「あーはいはいそうですねよしよし」

「そういうことじゃねぇんだよぉ!」

「あーもう! 目を離したらすぐ喧嘩するんですから!」

 蕗二と芳乃の間に割って入った竹輔は、そのまま二人の腕を引っ張って壁から引き剥がす。

「ちょっと待ってくれ」

 踏ん張り止まって、握られた腕を振りほどく。手首にかけていた手土産を目の前に突き出し、勢いよく頭を下げた。

「心配かけて、本当にすみませんでした!」

 狭い部屋に蕗二の声が反響する。一瞬にして沈黙が訪れた。

 まずい。タイミングを間違えただろうか、いや謝り方が悪かったか。冷汗で背中にシャツが貼りつく。

 ふと、手の中が軽くなった。

「これって大阪限定じゃないですか! 確かネット販売してないんですよ!」

「うそぉ、すごーい! めっちゃ並ぶやつじゃん!」

「せっかくだ、みんなで一緒に食べようじゃないか」

 さっきまでの沈黙が、嘘のように掻き消える。

「もう怒ってないですよ。でも次は、頼りにしてくださいね?」

「そうそう、私たちチームなんだからぁ!」

「これからも頼りにしてくれたまえ」

「頼られ過ぎても困りますけど」

 空になった手に、使い捨てのフォークと紙皿の上に乗った白いケーキが渡される。六等分された白いケーキの脇にメッセージ入りのチョコレートプレートが添えられている。

 さっそく開封された手土産と用意していたのだろうポテトチップスやポップコーンやチョコレートなどのスナック菓子までも皿の上に追加された。皿の上が雑然としつつも華やかになった。

 なんだかその騒々しさが懐かしくて、涙腺が緩みそうになった。表情を引き締めようと頬の内側を噛んでみたが、口の端がむず痒くて堪らなかった。

「ただいま」

 ぼそりと呟いた言葉は、床に落ちることなく拾い上げられた。

「おかえりなさい!」






【朝露に濡れるベゴニア 了 】




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