File:7 未来へのウィニングショット
日本人の眼の色は、黒いと言われている。正確には濃い茶色が光の加減で黒く見えるだけらしい。だとしても芳乃の眼は、黒と言っても過言ではない。もしかしたらもっと明るい場所で見れば濃い茶色なのかもしれないが、真っ黒としか表現できない。
そう感じたのは初めて会った時、【特殊殺人対策捜査班】が結成され、
しかし、氷の眼を正面から見るのは初めてだ。
なぜ彼の眼を氷とそう表現したのか、思い出すことはできない。
ただ犯人を貫く視線が恐ろしく冷えていた。
それの意味を初めて知る。
正面から初めて見た芳乃の眼は、恐ろしいほど
「ぼくの質問を、覚えていますか?」
「なんで、刑事になったか……だったな」
「何度言わせるつもりだ、復讐だ。≪ブルーマーク≫がいなくなればって……」
「そうですね、あなたは言いました。≪ブルーマーク≫を見ると、時々あの日を思い出す。≪ブルーマーク≫なんて居なくなればいい、そう願うだけで何もできない自分が嫌で、刑事になった。あなたは事件で父親を殺されて、犯人である≪ブルーマーク≫を恨んでいる。普通の人は、これで納得できます」
会話を思い出すように芳乃は顎に指をかけ、首を傾けて悩む仕草を取る。
「でも、よく考えるとおかしいはずなんです。なぜ≪ブルーマーク≫なんですか。犯罪者が許せないなら、≪
瞬きもしない氷の眼がこちらを射抜く。芳乃は自らの青いピアスを指差して見せた。
「あんたは犯罪者や犯罪者予備軍が憎いのではなく、あなたの父親を殺した象徴である≪ブルーマーク≫と言う存在が憎いからです」
ピアスを指していた人差し指が、ゆっくりと蕗二に向けられる。
「そしてもうひとつ、あなたは一体【誰に】復讐するつもりですか? 復讐とは、相手と同じ目に遭わせる仕返しの事です。仕返しするには相手がいる。でも、あなたの復讐相手は自殺してしまい、もうこの世にはいません。そう、本当は≪ブルーマーク≫に復讐する必要もなければ、刑事になる必要もないんです。それでもあなたは復讐相手をすり替えてまで、復讐しようとする。その理由はどこにあるんですか」
目を
「ちゃんと答えてください、三輪蕗二さん」
頭に直接話しかけられるような鮮明過ぎる鋭い声に、じわじわと体の末端から凍りつき、皮膚が裂けて血が
その痛みに、なぜか口角が上がった。
息を吐けば、ははっと笑い声が出る。
笑いたくて笑っているわけじゃない。
熱湯に触れた時に熱いと指を引っ込めるのと同じ、体が反射的に動いている。
体が逃げろと警告を出している。
「そうだな。復讐、できないんだよな」
やめろ、これ以上言うな。手は口を押えようと上げられ、口元を覆う。
唇が指を振り払うように震え、爪が口の端を
「そうだよ、復讐なんてもうできねぇんだよ」
震える低い声が息を吐く。
長く長く、肺からすべての空気を押し出すと、上がっていた口角が下がっていく。
「でも、復讐を
口はひとりでに動いた。今の今まで、歯を食いしばっていたくせに、まるで我慢していたと言わんばかりだ。俺の意思とは関係なくひたすら言葉を吐き続ける。
あの日の事は、今でも鮮明に思い出せる。
病院で冷たくなってベッドに横たわる父。
白い服を着た人々が父を自宅か葬儀場に搬送しなければいけないと言う。ベッドを空けないといけないのだ。悲しみに暮れる間もなく、葬儀場を選び、お金を下ろし、病院から葬儀場に移動して、葬式の段取りを決めろと言う。何が何だか分からないうちに父は良い匂いのする美しい木目の箱に、白い着物で眠っていた。寝ているんじゃないかと胸の下で組まれた手に触れたら、固く冷えていた。よくできた人形だとさえ思った。葬儀が始まり、黒い服を着た人たちが父を訪れて泣いては去っていき、見上げるほど大きかった父の背は、抱えるほど小さい壺に納められてしまった。
泣ければよかった。でも泣く暇なんてなかった。事務手続きが必要だった。紙の書類を何枚も書いた。いろんなところで何度も同じことを書いた。父が死んだことが、右から左へ感情もなく処理される。それに耐え切れず、聞いた事のない声を上げて泣き崩れる母に、恐怖も覚えた。だが、それでやっと分かったのだ。俺はずっとずっと、守られていたのだと気がついてしまった。そして、父を失ったこの先、一体どうすれば良いのか………不安で堪らなくなった。
それだけならまだ、耐えられたかもしれない。でも違った。
「毎日毎日週刊誌だかテレビだかに追い回されて、同じことを何回も何回も聞かれて、テレビじゃお前誰だよって奴が勝手にしゃべるし、会う人会う人が慰めてくれるけど、誰も俺の話なんて聞かねぇ。ただの話のネタが聞きたいだけだったんだよ。話しても話しても、ちっとも楽にならない!」
口々にみんな同じことを言う。辛かったね悲しかったねと。だが誰一人、この感情を聞いてくれるわけでなかった。ただ勝手に善意を押しつけ、慰めている自分に酔った連中ばかりだった。
さらに、ネットでは父への称賛と罵倒で
お前らに一体何が分かる。ほっといてくれ、そっとしといてくれ。怒鳴り散らしても、都合のいいように編集された。ただのお涙
「せめて犯人をぶん殴ってやりたかった。こっちは親父を殺されたんだ、骨の一本や二本折れたところで安いだろ。俺の父親だけじゃない、たくさんの関係ない人を殺しといて、笑って生きるなんて許さない。死んだほうがマシだって思いをさせてやる。やったこと全部の責任を取らせてやる。そのはずだった」
犯人が死んだ。
家に訪れたスーツを着た初老の男が、真っ青な顔でそう言った。
犯人が留置場で首を吊ったと。着ていた服をうまく鉄格子に引っかけ、勢いよく体重をかけたせいで首の骨が折れたらしい。即死だった。
「あいつは裁かれなきゃいけなかった。なのに、あいつは、逃げやがった。勝手に死にやがった、勝手に許された、勝手に楽になりやがった! 俺は何もかもめちゃくちゃにされたのに、あいつは謝りすらしなかった! 俺はあいつをぶん殴ることも、なんで親父が死ななきゃいけなかったのか、その理由を問い詰めることも、もう一生できないんだよ! 許せる訳ねぇだろ、こんなの理不尽すぎるだろ!」
怒声なのか悲鳴なのか、耳障りな絶叫は雷鳴と混じって体を震わせた。
一瞬だった。犯人は死刑だとか、許せないだとか、寄付金がとか、あれだけ騒がれていたのに、犯人が死んだ瞬間まるで潮が引いていくように、あっけないほど話題にされなくなった。
諦めろ、終わったことだ、復讐なんて無様だと、声なき声がそう言った。
それからというもの、同じ思いをして悲しんだ人たちは、日を追うごとに減っていた。あんなに泣いていた母でさえ、もう過ぎた事だと笑った。
「なんでそんな簡単に諦められるんだよ。分かってる、分かってる! 復讐ができないことくらい分かってるんだよ! でも、この怒りはどこにやればいい。俺は誰に怒ればいい、待って我慢して消えるような感情でもねぇのに、何を我慢しろって言うんだよ!」
俺が子供だからなのか。聞き分けが良いのが大人なのか。
俺だけがおかしいのか。
俺にはまだ、あの日の犯人の笑い声が聞こえているのに。
足元にはまだ、血溜まりが広がっているのに。
「俺はどうすればよかったんだよ! 刑事になったことがただの八つ当たりだって言うなら、刑事以外なんだったら良かったんだよ。なあ、教えてくれよ! お前なら分かるんだろ、全部視えてるんだったら!」
目の前の体に
氷の眼は
同情も、
ただ雨に濡れ怒りに顔を
氷の眼は、必死に覆って隠してきたはずの『言い訳』をはぎ取っていく。
その顔の醜さに、両手を顔に押しつけて隠した。
見るな視るな、視ないでくれ!
本当は分かっている。
もう11年も経っている。
犯人は死んだ。怒ったって意味はない。何もかも無意味だって
でも認められなかった。
認めてしまえば立ち止まってしまう。
怒りを盾に、刑事として生きてきたのに。
無意味だと認めれば、刑事でいる意味がない。
真っ暗闇の中、前に進むことだけを考えて、信じていた道をひたすら走ってきたのに。
立ち止まったら、もう分からなくなってしまった。自分が立っているのか、座っているのか。前に進んでいるのか、後ろに戻っているのか、下っているのか上がっているのか、何も分からない。
答えが分からない。
完全に見失ってしまった。
この当てもない暗闇を、どうすれば抜け出すことができるのか。
答えを探して記憶をひっくり返しても、何も思い当たらない。
何も浮かばない。
なにも思いつかない。
なにもない。
なにも……
「今回は逃がしません、『引きずり出す』っていたじゃないですか」
恐ろしく冷えた声がした。突然の強い力で襟を掴まれる。
目の前に、フードを被った男が立っていた。
「やあ、三輪蕗二くん。ようやく会えた」
父の命を奪った殺人鬼が笑っていた。
「わああああ」
手を振り払い、飛び退くように後ずさる。足元で激しい水音。すぐに濡れた感触が伝わってきた。
立ち
体が奥から一瞬にして燃えるようだった。
汗が噴き出して手足は冷えていくのに、心臓と頭の血管が強く脈打って破裂しそうだ。
「なんで、なんでお前がいる!」
唾を飛ばして怒声を投げつければ、フードの男は肩をすくめた。
「せっかくおチビちゃんにここまで引っ張り出されたんだから、ゆっくりとお話ししようと思って?」
「お前と話すことなんざひとつもねぇ!」
「そう冷たいことを言ってくれるな。お前が刑事になった理由の答えを持ってきてやったんだ、むしろ感謝の一言くらいほしいくらいだけど」
「答えだと?」
フードの男が歯を剥いて笑う。
「お前が復讐にこだわったのは、俺への怒りだ。でも怒りって言うのは、普通はそう長くは続かない。怒りの対象が消えたら自然と
男は手の中でナイフを
「俺が事件を起こすまで、お前は一般人だった。あの日が来なければ、お前は普通の大人になって、野球の夢を追って
男が首を傾げた。フードの奥から青い光が強く
「で? 現実はどうだ?」
男の顔を見たくなくて蕗二は足元に視線を落とした。足音が近寄ってくる。徐々に大きくなる水音に、ガタガタと体が震える。足は血に
「刑事になってあの日に戻れたのかよ。戻れてないだろ? 刑事になる意味なんて最初からなかった」
「この11年、全部間違いだった、全部無駄だったんだよ」
ねっとりと
必死に足掻いて、復讐のために生きてきた。
そのはずが、あの日から一歩も進めていない。
そりゃそうだ、あの日から、もう11年も経っている。
周りが変わっていくのは、自分が立ち止まっていたからだ。周りがおかしいんじゃなくて、ただひとり、自分だけが逆走していたから。
こいつの言う通りすべて間違っていた。
正気に戻ってしまえば、ずいぶんと自分が馬鹿で、どうしようもない。
今からやり直しなんて利くのだろうか。
いや、何をどうやり直せと言うんだ。
何度も何度も考えた。
どうしたら、父は生きていただろうか。
この結末をどうしたら避けることができたのだろうか。
あの日が来なければ。
あの場所にいなければ。
あの時間にいなければ。
結局たどり着くのは、真っ赤な血溜まりの中で、父の冷たい体に
無力で、ただ父が目の前で死ぬ瞬間を見ているだけ。
何もできない。
何もできないのだ。
「馬鹿で可哀想な三輪蕗二くん。11年も無駄に生きてきたお前に、たったひとつだけ、やり直す道がある。聞きたいか?」
細めた
首から力を抜けば、自然と頷く仕草になる。
赤い刃物がくるりと回り、持ち手が向けられる。
「今からでも間に合う。選べよ、
腕が掴まれる。二の腕から、肘を伝い、手首を握られる。
気遣われた心地のいい圧迫感。迷子の子供が、ようやく見つけた母の手を握るのはこの安心感を手に入れたいからなんだろうか。冷たくなった手を温めるように、甘い痺れがじわりと奥から広がる。
力の抜けた自分の手から、渇いて赤茶色に染まっている黒い持ち手に視線を移す。
鉄の
拳を握り、男の手をナイフごと払いのけた。
「違う、違う違う違う! お前は殺人鬼で、俺は刑事だ! お前とは違う!」
男と距離を取れば、右手が突然重くなる。突然手の中に出現した物のせいだ。
最初から持っていたように握りこみ、目の前に構える。
5発の銃弾が入った回転式拳銃。
照準は男の額。
男は笑って、両手を広げて見せる。
引き金に指をかけ、蕗二は絶叫とともに腕に力を入れた。
発砲音が、空気を波打たせた。
ゴトンと重い音を共に、跳ね上がる水音。
弾丸は、フードの男にかすりもしなかった。
血溜まりの中に蕗二が投げ捨てた黒い鉄の塊は、何も言わずに蕗二を見つめている。
乱れて波打つ呼吸音が死にかけの獣のようで、ただただ耳障りだった。
「お前、何がしたいんだ?」
感情をそぎ落としたまっ平らな声に、乱れたままの呼吸だけを返す。
「刑事を貫くんだったら、今のは撃たなきゃダメだろう。まさか、どっちも選べないって駄々こねる気か? 殺人鬼も刑事も選べない。
力なく垂れさがる腕を見つめる。
分厚い皮膚、深く浅く刻まれた皺、うっすらと青く透けて見える血管、けして綺麗だとは言えない。指同士を隙間なく合わせてみても、どこかに隙間があって、少しずつ零れてしまう。ゆっくり指を丸めて、強く握りしめる。
「刑事になる気なんてなかった」
男の身じろぐ気配。やっと落ち着いた息を吐いて、自分の口を一文字ずつ噛み締め動かす。
「親父の事はカッコいいと思ったし憧れてたけど、刑事になりたかったんじゃない。事件が起きなかったら、野球は続けてたし、やり直せるなら野球選手になりてぇよ」
「野球選手? 野球が好きってだけで、野球選手になりたいのかよ」
「そりゃあ、当たり前だろ。好きなことを仕事にしたいに決まってる。正直、
「嫉妬するわりに、ちゃっかりサイン
「うるせぇ。ガキみたいに
「ただの強がりじゃないか、お前はそんな大人だったか?」
「少なくとも、お世辞が言える程度には」
乾いた笑い声がした。つられるように蕗二も笑う。
そうだ、俺は背が高いし、声が大きくて威圧的で、強そうだ恐いとよく言われる。
だがどうだ、中身を開けたら驚くほど臆病者で、ぎゃんぎゃん喚いて威嚇する犬と変わらない、怖くて堪らないから大きな声を出して歯を剥いて
「最悪だな、直視できない」
「目を背けて、無かった事にして、知らないふりをし続けていたらどれだけ楽か……自分が聖人だって、正義だって思ってる方が、どれだけ楽なことか……」
言い切らないうちに大きく踏み出す。男の息を飲む音が目の前にあった。
仰け反った男のフードを握り込む。「やめろ!」怒声と悲鳴が混じる声に構わず
いや、見覚えがあるどころじゃない。
ほぼ毎日絶対に顔を合わせている。
「
笑ってやれば、『俺』は鋭い舌打ちを返した。
「なんで、今更気がついた。今まで散々目を背けてきたくせに」
「目を背けるなって言ったのはお前だろ」
目を逸らし続けていた記憶がある。
夏の日差しで白く光るグラウンド。
授業や宿題、野球の事でいつまでも話し込んだチームメイトたち。
繋いだ手から、じわりと溶け合う葵の体温。
思い出せないほど
明日も来ると信じて疑わなかった、何気ない日常さえも……
一瞬にして失い、一変した。
腫物を扱うように戸惑う視線。
興味本位でねっとり撫で回されるような視線。
どちらも嫌で、部屋に引きこもった。
カーテンで遮った窓の向こうには青く晴れた青空、何気ない会話を交わす学生たちの声、鳥のさえずりや草木が風で擦れあう音、車やバイクのエンジン音が聞こえる。今までと変わらない日常がある。
それなのに、この部屋だけ切り離されている。
手のひらに収まり、
世間は犯人や事件のことを覚えている。
でも、被害者の事なんてまるで知らないのだ。
とっとと立ち直れ、うじうじ泣くな、悲しむな、ショックで立ち直れないなんて甘えだ。
世間の空気が責め立てる。待ってくれない。次に進めと急かされる。
誰も助けてはくれない。誰も聞いてはくれない。
この世界はあまりにも理不尽だった。
俺は初めて、生きてきた世界の残酷さに気がついた。
テレビやネットで専門家という偉そうな大人たちが、犯人についてあれこれ憶測を並べて勝手に議論している。SNSや動画配信では会ったこともない赤の他人が、人のことを知っているかのようにべらべら勝手に意見を垂れ流す。食べ残しの腐敗物に群がる
もういいや。
そんな声が、はっきりと耳の奥で聞こえた。
悲しみや怒りがどろどろと沈殿していたヘドロのように渦巻いた腹の底から、鈍い音を立てて大きな泡がひとつ沸き上がるような、得体の知れない感情だった。
もううんざりだ。
何も聞きたくない。
何もかも目障りだ。
もう疲れた。
もうどうでもいい。
こんな理不尽な世界、消えてしまえばいい。
何もかもなくなってしまえばいい。
投げやりにも聞こえた声。
だが、頭は
まるで一世一代の決意のような、はっきりとした確かな感情。
蕗二の中で、殺意が産声を上げたのだ。
腹の中で、生まれたばかりの殺意を抱えて呆然とする。
一度も考えたこともなかったはずの感情が、今まさに生まれてしまった。
そんなまさか。父を殺された自分自身が、父を殺した殺人鬼と同じ感情があるなんて思いたくもなかった。
あり得ない。あり得ないはずなのに、殺意は狂ったように泣き喚いている。
堪らず悲鳴を上げる。全身が汚い気がした。体を掻き破いて、湧き上がった感情を引きずり出したいとさえ思った。殺意なんて感情が、自分の中にある事が許せなかった。だってそうだろ、殺意なんて普通は持たないはずだ。
殺人は悪い事なのだ。他人の命を奪うなんて、許されない。
殺意を感じる醜い自分の方こそ、いなくなるべきだ。
誰かを殺すくらいなら、自分を殺せば誰も犠牲にならない。
そうだ、自分一人がいなくなったところで、何か変わるとも思えない。
今だってそうだろう、誰も気にしない。みんな忘れていく。
それなのに、一人置いて行かれる。いつまでもいつまでも、苦しいまま。
いつになったら楽になれるんだ。
いつまでも苦しいままなのか。
もう戻れないのなら、こんなに苦しいだけなんだったら。
もう終わりにしたっていいじゃないか。
もう、嫌だ。
楽になりたい。
楽になりたい。
楽になりたいだけなんだ。
ふと見上げた天井。
何の変哲もないスイッチのひもが、黒く垂れさがっている。
音もなく、輪を描いて左右に揺れている。
重い肉塊をぶら下げて、紐が
「そう、直視できない」
目の前の男は歯を剥いて笑った。
「
フードを掴んだままの手に爪が立てられる。ジワリと食い込んでいく痛み。ぎらついた刃物と同じ赤い眼がこちらを見ている。こちらを飲み込もうとしている。
強すぎる視線を蕗二はまっすぐ受け止める。
「そうだ。残酷で醜くて誰も助けてくれない最悪で理不尽なこの世界の誰かを、またはどう
暗い部屋で死の幻想に手を伸ばしたその直後、菊田がやってきたのだ。
喪服のような黒いスーツに身を包んだ菊田が、亡き父について淡々と事務的に、でもときどき感情が
警察に、いや刑事になれば、この殺意を収められるんじゃないかと。
「だから刑事になった。刑事になれば、引き金を一回引けば死ねる自殺の道具が合法で手に入る。もしそれができなくて人を殺しそうになっても、一番近くに裁いてくれる人がいる。最悪撃ち殺されたって構わなかった」
あの日から、すべて狂ってしまった。
もう普通に戻れないのなら、どう狂っていようが構わないじゃないか。
渋る菊田を言いくるめて、同級生との関わりを完全に閉ざし、埃を被っていた教科書たちを再び開き、一回り遅れて高校を卒業すると同時に、警察学校の門をくぐり抜けることができた。
警察の象徴である濃紺の制服に身を包み、正義感と使命感を持って警察官を目指す人々の中、俺は殺意と自殺願望しか持ってなくて、どこまでも自己中心的だった。そんな汚い自分を誤魔化すために、殺意の上に言い訳を重ねた。誰に聞かれても納得するように、父を失った復讐だと≪ブルーマーク≫が憎いと言い続けているうちに、いつのまにか目的と理由を見失った。
「自業自得だ、三輪蕗二。隠したって隠し切れないんだよ。いつしかバレる、その時またお前は独りぼっちだ。誰も助けてはくれない。刑事にしがみついたって、結局誰もお前を救ってはくれないんだよ!」
叫びに
手が振り払われるよりも先に無理やり抱き寄せた。
「怖かったんだな」
腕の中でびくりと跳ねた体を逃がさないように力を込める。
「殺意を持ってる自分はおかしい。そんな自分が刑事をやってるなんて、なおさらおかしい。殺意がバレた時、見捨てられる。そしたら刑事をやってきた11年が無駄になるんじゃないかって。怖くて堪らなかった」
震えだしそうな声を落ち着けるため、深く息を吐く。
「お前の言う通りだよ。俺に刑事である資格なんて、最初からなかった。やりたいことでもない、嘘ばっかりついて、仲間にも迷惑をかけた。警察になりたがってる優秀なやつに席を譲って、もっと早く、お前を選べばよかったかもしれない。その方が、ずっと楽だったはずだ」
「楽だった? ふざけんなよ」
怒りを隠そうともしない声とともに、腕の中で体がよじられる。
「どっちにしろ地獄だよ。楽になんてなれるわけがない」
隙間なく押さえ込んでいるはずだが、ぴたりと合わせている腕に筋肉や骨が動く感触が伝わってくる。おおすごい、流石俺だな。なんて笑いをこらえて喉を鳴らすと、耳元で唸り声がした。
「落ち着けよ、
背中を擦って、幼い子供をあやすようにてのひら全体で一定の間隔で優しく叩く。
「たしかに、
俺はずっと怖かった。
殺意を生んだ自分は、もう殺意を生む前には戻れない。
選択を間違えたら、簡単にはやり直せない。一度狂ってしまったら、もう戻れない。過去をやり直すことはできない。
誰に、何を、どう助けを求めればいいのか。
困り果て、疲れて、いっそ一緒に死んだしまえばいいとさえ思った。
でも楽になっちゃいけない。あいつみたいに、楽になるのは許されない。
だから隠すしかなかった。
目を背け続けて、見失って、だから余計に狂っていった。
「もういいんだ、お前を隠すための嘘を重ねる必要もない。だってもう、11年も一緒に生きてきた。殺意があったから、刑事になれた。無駄なんかじゃない、なにも無駄じゃないんだ。他人に自慢できるもんじゃねぇかもしれないけど、確かに俺は11年を生きてきた」
どの道を選んでも、ああすれば良かったとか、きっと後悔ばかりするんだろう。だけど、いくら後悔したって、いくら目を背けたって、なかったことにはできない。
だから、生きる。前に進む。どんなに無様でも、背負って生きる。
「
悲しくて辛くて寂しくて死にたくなるほど殺したかった俺の、大切な感情。
こんな暗闇に、ひとり置いていくなんて寂しすぎる。
沈黙。押しつけた互いの心臓の音だけを感じる。
「いつか、俺を連れていったこと、後悔するぜ?」
かすれて消えそうな声がした。
「後悔したって、お前だけはそばにいてくれるんだろ?」
ふ、っと短く息を吐く気配。硬く強張っていた体が柔らかくなる。潰れてしまいそうで、腕から力を抜けば、自然と体が寄りかかってくる。
「お前、馬鹿だな」
恐る恐る、腰に回ってきた腕に抱き返される。
「辛くなったら、いつでも
突き放すような強さで、それでいて
波打っていた血溜まりが、赤い彼岸花へと姿を変えていく。
白く輝く青空の下、彼岸花が咲いていた。
「そうだな、これも置いていけない」
振り返って思い出して、
置いていきたくないから、手放したくないから、壊したくないから、忘れたくないから。
大切だからこそ、奥の奥にしまい込んで、触らないようにしていた。
過去を過去にしたくなかったから。
幸せな日々を思い出して、悲しくて辛かった。
でも、違ったんだ。
忘れることはない。壊れることもない。しまい込んで大事に蓋をするんじゃない。
幸せだった頃の思い出は、なくなったりしない。
比べて
何度でも確かめていい。何度だって思い出していい。
過去として通り過ぎていくけれど、確かに幸せだったことだから。
一緒に持って行ってもいいんだ。
名前を呼ばれる。
目の前に立っていたのは二葉、小松、山梨、そして葵だった。
じゃあな、元気でな。
肩を叩いては去っていく。
「もう大丈夫やな」
ひと際強く肩を突かれる。振り返らなくったって、分かっている。
「ああ、もう大丈夫や」
蕗二は強く頷いてみせる。
「次会う時はいっぱい話そうな」
だから、またな親父。
大きく温かな手が肩を叩き、握り、去っていく。
その温かさが引くと同時に目が
長い夢を見ていた。そんな気がする。
不思議な感覚だ。
気だるい体とすっきりとした頭。
白む空を見上げ、顔にかかる雨粒に目を細める。
目の前には同じずぶ濡れの少年。
顔に貼りついた黒い髪の向こうで、眠っているように
「俺、もういいんだな」
声に応じ、伏せられていた瞼がゆっくりと上がる。
黒い眼が柔らかな光を反射して、肯定する。
「ええ、もう十分ですよ」
緊張の糸が、音を立てて弾けた。
目の奥が熱くなって、目の前が
人肌と同じ温かな水が指を伝って、手のひらを濡らして、手首へと流れていく。
肌を流れる感覚がむず痒い。目の端を、手で
瞼を固く閉じても
落ち着かせようと息を吸えば、鼻が詰まって満足に吸えない。
苦しくて口を開ければ、あああ、と声が漏れる。
止まらない、止め方がわからない。
あの日満足に泣けなかった分、すべて吐き出すように泣きじゃくった。
置いてきた感情すべてを吐き出すように、
水溜まりを跳ねる雨音は、柔らかい
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