File:6 相対のクロスゲーム




 椋村むくむらを前に立たせ、ところどころ街灯の光が青白く差し込むダイニングを奥へと進んでいく。

 万が一椋村が暴れた時にと、先端を収納して長さが3分の1になった警棒をベルトの後ろに差し込んでいる。だが、椋村はあれから一言も発していない。何かにおびえるように息を殺したまま、時々思い出したように暗い目がひびの入ったレンズの奥でまばたくだけだ。

 不意に椋村むくむらが立ち止まる。

 目の前に一枚のドアがたたずんでいた。古い木製のドアは近代的な家の中、まるで時代に取り残されたような異質さがあり、気味が悪い。ドアを引き開ければ、蝶番ちょうつがいが不気味で耳障りな音を立てる。そこには光を飲み込んだ暗闇がうずくまっていた。困った、何も見えない。視線を壁に走らせる。ドアの右側に懐古レトロなスイッチらしきを見つける。銀板から飛び出した黒い小さなつまみを上下に動かせば、カチカチと安いおもちゃのような音を立てた。反応はない。配線用遮断器ブレーカーが落ちているのか、そもそも電気が通っていないのかもしれない。

「ライトはないのか」

 問えば椋村むくむらがわずかに首を動かした。つられるように視線を向けると、ドアの内側、階段の隅に隠すようにこれまた時代に取り残されたような懐中電灯が置かれていた。拾い上げれば、ずっしりと重い。持ち手部分にあるスイッチをスライドさせる。ハロゲンライトなのだろう、オレンジ色のライトがともった。暗闇に向ければコンクリートの下り階段がぼんやり現れる。LEDとちがって光が小さすぎて段差を三つ捉えるので精一杯だった。足元を照らし、椋村の背中を軽く押す。ためらうような抵抗があって、もう一度押すと素直に段差を降り始めた。椋村が足を滑らせて道連れになるのはごめんだ、壁に手を当てて一歩一歩段差を踏みしめながら降りていく。

 行く先を照らすのは、ハロゲンライトのオレンジ色の明かりだけが頼りだった。暗闇が深くになるにつれ、靴音が大きく反響する。いつまで降りなければいけないのか。このまま永遠と地の底まで続く気さえしてきた。圧迫感を感じ深呼吸してみるが、地下独特のツンと鼻に染みるカビ臭さに息を詰める。不快でたまらない。舌打ちを飲み込み、足元に集中する。

 しかし段差は不意に終わった。ライトで周辺を照らしてから分かったが、二人立てるぎりぎりのスペースがあり、行き止まりだった。右手にはところどころ塗料が剥げてびた鉄製の扉があるのみ。

 扉の向こうに気配はしない。懐中電灯をドアに向けて床に置き、わずかな光を頼りに金属のドアノブを掴んだ。ひやりと冷えた感触。ふと椋村が震えているのが掴んでいる手から伝わってきた。暗闇で表情は見えないが、掴んでいる体温はドアノブと似ていた。

 開けた向こうに何があるのか。

 脳裏に顔の潰れた同級生たちがよぎる。

 椋村むくむらの震えにつられるように指が震え始める。ドアノブが氷のような冷たさで、指先が軽くしびれてくる。蕗二は鋭く息を吸い、覚悟を決める。

 ドアを勢いよく押し開けた。

 大きく開いたドアから目を刺すほどの光が漏れ、堪らず目をつぶる。

 手を瞼の上にかざして薄目でドアの先を確認する。

 ドアのすぐ近くに裸電球がぶら下がっているせいで、暗闇に慣れつつあった目に強烈な刺激になったらしい。光の奥は、コンクリート打ちっぱなしの部屋。オレンジ色の明かりでは頼りなく、部屋の奥はほとんど見えない。

 ふと、部屋の真ん中に一脚の椅子がある事に気がついた。

 人が座っている。

 力なく頭を下げている一人の男。

 来ている服に見覚えがあった。

 最期に会った時と同じだ。

 駆け寄りたい衝動が湧き上がる。が、足は床に張り付いたように動かなかった。

 首筋に触れて、もしドアノブのような冷たさを感じたら、と絶望が引き止めるのだ。

 情けない、いつもなら真っ先に生死を確認し、応援や救助を要請する。

 それがどうだ、かつての友だっただけでこの様だ。刑事の冷静さなんて見る影もない。一体どこに置いてきた、やるべきことをやれ。

 自分をそう叱咤しったしたけれど、結局できたことは、「栩木とちぎ……」と恐る恐る名前を呼ぶことだった。

 声が情けないほどかすれ、彼の届いたかどうかすら分からない。

 ふと空気に動きがあった。

 栩木とちぎの顔が上がり、目が合ったのだ。

 夢から覚めた直後のような生気のなかった目に、オレンジ色の光が灯った。

 生きてる、よかった。

 緊張で止めていた息を吐き出すと、目の奥がジワリと熱くなった。表情を緩めた蕗二に、弾んだ声がする。

「待っとったで、三輪みわ!」

 パッと顔を明るくした栩木とちぎは、

 そう、立ち上がったのだ。

「そんな幽霊見たみたいな顔、せんといてーや」

 混乱する心の声が漏れたのだろう、栩木は困ったように肩をすくめる。

「お前、怪我とか……」

「見ての通り、ぴんぴんしとるで?」

 両手を広げて何ともないとばかりにその場で一回転して見せる。拘束も何もされていない。怪我をしている様子もない。よかった、そう言って喜んでいいはずなのに、サイレンの鋭い警告音が頭に鳴り響く。

 栩木が首を伸ばして「ん―?」と唸る。蕗二と椋村むくむらに視線を往復させる。

「なんや、お前もおおつかいがまともにできん奴か……俺は三輪を捕まえて来いって言うたのにまったく」

 あきれたとばかりに大げさな溜息を吐き、栩木とちぎはズボンのポケットに手を突っ込んだ。

「おい椋村むくむら、説明しろ! どういう事だ!?」

 掴んでいた腕に力を込めれば、慌てて椋村が声を上げる。

「ぼ、僕は、手を貸しただけで……」

「連れへんわぁ、それでもバッテリーか? 二葉ふたばにとどめ刺したんはお前やん?」

 栩木とちぎ嘲笑ちょうしょう交じりに声を張り上げれば、椋村はびくりと肩を跳ねさせる。

「そ、それは! お前が」

「あーあーあー、もうええ。お前は余計なことしゃベるな」

 椋村を遮って、不機嫌さを隠す気もないのか、苛立いらだったように床を爪先で叩いた。

 状況が呑み込めず、椋村と栩木に視線を交互に投げつけていた蕗二だったが、突然吸い寄せられるように栩木のある一点で視線が止まる。

 彼の両耳の黒いストーンピアス。

 足元から鳥肌がいずり上がる。まさかと漏れた自分の声に血の気が潮のように音を立てて引いた。

「栩木、お前、≪ブルーマーク≫………なのか?」

「そうやで?」

 あっけらかんと悪びれもなく栩木とちぎが歯を剥いて笑う。目の前で起きたことが信じられず、蕗二は悲鳴に似た叫び声をあげた。

「なんで、なんで外れてるんだよ、生体チップが反応するだろ!?」

 そう、≪ブルーマーク≫には常に生体反応を観察し続ける生体チップが内蔵されている。もし無理やり外せば、生体を検知できなくなったチップが即座に反応し、全警察官の鼓膜を叩く強烈なアラームとともに、位置情報が一斉通知される。訓練として年に一度だけ実施されるが、犯人役の身柄はあっという間に拘束される。逃げられたものなど一人もいない。そして、今まで外した者など存在しない。

 それがなぜ、無効化されているのだ。あり得ない。こんなことは、絶対にあり得ない。

 震えが止まらない蕗二とは逆に、栩木とちぎは楽しそうに喉奥で笑う。

「トモダチやから、協力してもらってん、なぁ椋村むくむら?」

 視線を投げられ、椋村はおびえるように体を縮こませた。

 ≪ブルーマーク≫と警察。

 たった二つのピースがはまった途端、すべてが繋がっていく。

 ≪ブルーマーク≫の判定は科捜研と公安調査局が管轄かんかつしている。

 公安調査局は法務省に所属する組織だ。名前は似ているが、警察に所属する公安警察とは関わりはない。だが、よく考えてみろ。国家を脅かす存在を公安調査局は『事前に調査する』ことで、公安警察は『事前に逮捕する』かだけで、ほとんど同じ。まして、公安警察が≪犯罪者予備軍ブルーマーク≫を放っておくはずがない。

 そして、公安警察の中でも、とくに警察庁警備局と呼ばれる部署には非合法な捜査や潜入捜査に特化した隠密部隊が存在し、身分を隠すために個人の存在ごと偽造してしまうことがあるらしい。

 もし椋村が隠密部隊に所属しているとしたら。

 その過程で、死亡とされていたら……

 気が付けば椋村むくむらえりを掴み上げていた。

「椋村てめぇ、そういう事か! ≪マーク判定≫を改竄かいざんしやがったな!? だからいくら調べても出てくるはずがない! 死体偽装もお前ならできる。捜査で何をどう調べるか、ご遺体だって山ほど見てるもんな? お前のせいで二葉も小松も山梨も死んだんだぞ!」

「こうするしかなかったんだよ!」

 蕗二の言葉を食うように椋村がえる。

「お前は知らんよな、栩木あいつはずっとお前をねたんどった。投手って目立つポジションなのに、一番になられへん、背格好もほとんど変わらん三輪の陰に隠れるんが、ずっとずっとあいつは気に食わんかったんや!」

 唾が口の端で泡立つほど、言葉をき散らしていく。

「やっと、やっと栩木がお前のことを忘れてくれそうやったんや。そしたら僕は栩木から解放されると思ってたのに、お前があんなタイミングで現れるから、全部めちゃくちゃになったんだよ! こんな頭おかしい自己チュー野郎に、好きで従ってると思ってんのか!? お前に、僕の何が分かるんや!」

「椋村お前、そんなこと思っとったんか?」

 地をうような低い声が聞こえ、ひいっと椋村が引きつった悲鳴を上げる。

「お前はもうちょっといい子やと思ってたんやけどな、残念やわ」

 そう言って栩木は椅子の陰から何かを引き出した。ずるりと現れたのは、金属バットだった。

 マジックで書かれたサインと、中央に不自然なへこみ。

 あれは、二葉を殴った凶器だ。そう確信する。

 脚が立たなくなった椋村を壁にもたれさせ、かばうように栩木と向かい合う。

「知らんかったわ……バッテリーやから、仲良くつるんどるやなとは思っとったけど、まさか主従関係やったとはな」

「はあ? 勝手に言うとるだけやろ? オレはちゃんとお願いしたんやで?」

「それは命令って言うんや。覚悟せぇや、栩木。俺は警察や、今まで何とか誤魔化して分はきっちりつぐってもらうで。いくらお前が有名人でも、元チームメイトでも容赦せぇへんぞ」

 蕗二は半歩足を引き、拳を握りしめる。栩木は手の中でバットを握り直した。

 と、突然力を抜いてバットを肩に担ぎ、人を食ったような笑みを浮かべて見せた。

「その台詞セリフ。こいつにも言えるんか?」

「あ?」

「お前も同罪や、なあ?」

 栩木が大きく一歩れ、振り返る。

 いつの間にか、暗闇にもう一人立っている。

 うつむいたその姿に、波音を立てて血が下がる。

「なんで、ここに居るんや……あおい

 あの時、通天閣でタクシーを見送ったはずの、日向葵ひゅうがあおいだった。

 二人の左薬指には、シルバーとゴールドが絡み合った瓜二つの結婚指輪マリッジリングが巻き付いている。

「葵、お前まさか、全部知っとったんか?」

 俺が警察署に連行されたあのタイミングで、葵が警察署に訪れたのは本当に偶然か?

 そうだ、いくら何でもタイミングが良すぎた。

 一体いつだ、一体いつから知っていたのだ。

 栩木を探す必死な形相も、展望台での話も、四葉の話も、別れ際の口付けさえも、全部全部、仕組まれたことだったのか。

「答えろ、葵!」

「まあまあ、そんなに責めたるなや、流石に可哀想やろ?」

 無様に声が引きつらせる蕗二に、栩木が低く落ち着いた声で葵の肩を撫でて慰める。

 その体が不自然に揺れる。

 まるで体が浮いているような、不安定な横揺れ。

 そういえば、葵は身動き一つしていない。

 なぜうつむいたままなのか、なぜ一度も声を発さないのか。

 血の気のない顔色。

 薄っすら開いた唇。

 垂れ下がった指先。

 頭の後ろから天井に繋がる、一本の縄……

 悲鳴が喉を突き破る。

 何かが空を切る音。直後、バットが脇腹にめり込んだ。

 防御は間に合わなかった。

 吐き出した息さえ吸う間もなく、腹を蹴られる。真後ろに吹き飛ばされ、壁に背中を打ち付ける。

 投げつけられたボールのように、壁から床へ跳ね落ちる。

 蹴られた衝撃に血を吐く勢いでせ返る。あまりの苦しさから開けっぱなしの口からよだれが、床についた手の上に滴り落ちた。

「無様やな、三輪。葵は見る目なさすぎや。お前のどこが良かったんか、全然分からんわ」

 肩に靴が乗り、強く後ろに押される。壁と靴に挟まれた肩関節が悲鳴を上げた。栩木の足首を掴んで何とか引きずり倒そうと思ったが、頭頂部に衝撃が走る。

 衝撃でブレる視界、瞼裏に一瞬稲妻が走った。

 じわりと痛み始める頭部と額に何かが滴り始める。

 鼻を伝い、腹にぽつぽつと赤黒い染みを作り始める。

「冥途の土産に教えたるわ。お前が奈須なすらと出てったあと、二葉と小松、山梨がお前の話をしとったんや。せっかくオレが話題作ってきたのに、それを差し置いてや。だからまず二葉を殴ったった。でも、スターが傷害事件なんて笑えんやろ? だから椋村に処理させた。さすが警察やで、まさか指紋のついたグリップテープを巻き替える発想は出てんかったわ。小松と山梨はアホやさかい、二次会装ったらまんまと着いてきよったわ。んで、ここでボコボコにしたった。小松は割としぶとかったから殴りがいあったで」

 コンコンとバットの先端がコンクリートをノックする。

「流石に一気に何人も居らんくなったら怪しいやん? お前に疑いが向くように仕掛けさせたら、警察はなんも疑いもせずひっかかってくれたわ。でも奈須と五百森がどっか逃げてもうて、どっちかが警察にチクったみたいでな? なんか知らんけど、警察の特殊な部署が動いてるとか椋村が言うから、しゃーなし葵にお前を呼んで来いってお遣いさせたんや。けどな」

 栩木の声が変わる。インタビューを受けているような清々しい好青年から一変、怒りに染まった低い声が蕗二の後頭部に投げつけられる。

「葵なんて言ったと思う? 自首しよう言うて来たんや。プロのオレがせっかく嫁にもらったるって言うたのに、お前を選んだ。オレは愛してやったのに、葵は愛してくれんかった。お前のせいや。オレがここまで築き上げたもんを、お前はことごとく持って行きよる。お前がいなければ、なにもかも完璧かんぺきやったのに」

 栩木の足の間から、踵が浮いた葵の足が見えた。それだけじゃない、冷たいコンクリートの床に、力なく倒れる二葉と小松と山梨も見えた。

「それだけ……?」

 純粋に問う。栩木を見上げ、蕗二はもう一度問う。

「それだけの理由で、………みんなを殺したのか?」

 答えを待つ。栩木の眼は憎悪を色濃くした。

「それだけや。他に何の理由があんねん」

 頭上にバットが振り上げられる様子が、やけにゆっくりと見えた。

「オレの為に、死んでくれや」

 バットが振り下ろされた。

 金属同士が当たる甲高い音が部屋に響き渡る。

 栩木が大きく目を見開く。振り下ろされたバットは蕗二の頭をカチ割り、小松たちのように血と脳漿のうしょうを飛び散らせるはずだった。しかし、バットは受け止められていた。蕗二が警棒をかざしていたのだ。振り抜かれた衝撃で展開した警棒がバットを受け止めることなど造作ぞうさもない事だった。

「ふざけんなよ」

 蕗二の声が震える。いや全身が、体の奥底から震えて止まらない。

「なんでもかんでも、俺のせいにすんなよ!」

 バットを押し返す反動に乗せて床を蹴って立ち上がる。踏鞴たたらを踏んだ栩木だが、すぐさま持ち直し、バッドを横なぎに振り抜いた。剛速球を打ち出すスイングは蕗二の横腹を捉えた。はずだったが、まるで見えているかのように、蕗二も警棒を振り抜いていた。衝撃ではじき合うばかりで、互いにダメージは入らない。何度やっても同じだった。しかし、突然均衡が崩れる。蕗二が警棒の持ち手を強く握りこむと、打ち合うたびに少しずつ、バットと栩木の顔が徐々に歪んでいく。

「お前こそ、何も知らんくせに」

 頭が強く痛む。頭から滴る血が視界を真っ赤に染め上げる。

「俺がどれだけ、どれだけ我慢して生きてきたか知らないくせに」

 あの日、父が沈んだ血溜まりと同じ色だった。

 そう、一瞬にして崩れた日常は、どれだけ足掻いても取り戻せない。

 なにもかも失った。積み木が崩れるようにあっけなく、ただ崩壊する様子だけ目に焼きついて離れない。

 お前だけが、苦しいと思っているのか。

 ふざけるな、何も知らないくせに。

「この地獄を知らんくせに!」

 手首に警棒を振り下ろす。鈍い音がしてギャッと栩木が悲鳴を上げる。呆気ないほど軽い音を立てて転がるバットを蹴り飛ばし、無防備にさらされた頭部を狙って、警棒を振り上げた。

「確保おおお!」

 突然背後で怒声が上がった。

 威嚇するような低い叫び声と大勢の気配がなだれ込んでくる。振り返った時には警杖に膝を打たれ、肩と腰と足をさすまたで押さえられ、コンクリートの床に叩きつけられる。立ち上がる暇もなくポリカーボネート製の透明な盾が体の上にのしかかり、どこからともなく伸びる無数の手に抑え込まれ、強く握っていた警棒がむしり取られた。すべてがひと呼吸の間に終わっていた。

「やめろ! そいつは警察だ」

 鋭い声に押さえ込まれていた手足が解放される。起き上がるよりも早く、乱暴にえりを掴まれ、半身を起こされた。その顔にぽかんと口を開ける。

鳥頭とりとう、お前なんで……」

警視庁ほんちょうの柳本警視監から突然連絡が入ったんや。大阪府警の捜査のずさんさとか、みーんな指摘されて府警のトップは大目玉や。しかも、捜査中の事件の犯人まで特定されてもうたら、速攻動くしかなくなるやろ。どっかり椅子に座っとる連中が三倍速で動いたんは、めっちゃおもろかったけど、普段からあれくらい動けっちゅうねん」

 ぶつくさ口を動かしながら、蕗二の体をあちこちひとしきり叩き、頭を鷲掴みにされる。猛禽類によく似た目にじっと頭部の傷を見たかと思えば、後ろに控えていたのだろう、救急隊員に場所を譲った。

 柳本警視監が? と言う事は、竹輔たちが何かしたのだろうか。処置を受けながら、答えを求めて鳥頭を見上げ続ける。すると鳥頭は下唇を突き出して踏ん反りが返ってみせた。

「んで、オレはしゃーなし、特攻しよったちゅうアホを回収しに来たんや、感謝せぇ」

「なーに照れ隠ししとんねん、鳥頭とりとー

 鼻息を勢いよく吐き出す鳥頭とりとうの頭が、突然鷲掴わしづかまれる。ぎゃあッと間抜けな悲鳴を上げた背後から、防刃ジャケットを着た三枝みつまたがにやりと悪い笑みを浮かべていた。

「聞けや三輪。こいつな、最初ガサ入れ部隊には入っとらんかったんや。捜査チームが別やさかいな。で、いざ出発直前になって、こいつが俺に鼻水垂らして土下座しながら『オレも行かせてください』って頼み込んできよったんやで? なあ?」

 三枝の言葉に鳥頭が首から上を真っ赤にした。「どどど土下座はしてないですけど!?」と声をひっくり返して距離を取る。鳥頭は横目で蕗二を見ると、頭を強く掻きむしる。

「三輪、ほんまにすまん!」

 張り上げられた声とともに、背筋を正した鳥頭が蕗二に向かって頭を下げた。

 なぜ謝られたのか分からず、蕗二は動揺する。

「え? な、なにが?」

「あの時は、八つ当たりしてもうたんや。ホンマは薄っすら事件を疑っとった。ちゃんと調べるべきやった。なのに、自分に忙しいって言い訳して片づけた。それをお前に指摘されて、つい逆ギレしたんや。しかも、その、お前に一番言うたらあかんこと……言うてもうた。自分が情けないわ」

 鳥頭が下唇を噛み締める。

「許さんでもええ。お前が怒るのは当然なんや。けど、ホンマに反省してるって事だけ、聞いてくれ。あんなこと、二度と言わん。本当に、すまんかった」

 もう一段と下がった頭頂部に、もういいと舌に言葉を乗せたところで、部屋を震わすほどの怒声に遮られた。

「三輪蕗二!」

 名前を呼ばれた蕗二はもちろん、部屋にいた全員の視線が集まる。後ろ手に手錠をかけられているはずなのに、脇を固める刑事たちを弾き飛ばす勢いで栩木が蕗二を睨みつけていた。

「一生、うらんでやる! お前が! お前が全部悪いんや!」

 血眼の眼が男たちの背で遮られる。男五人がかりで引きずり出される栩木とちぎの怒声が尾を引いた。

「おお、怖っ。テレビの中とは大違いやな」

 応援しとったんやけどなと残念そうに三枝みつまたが眉を寄せる。

 そうだ、栩木は有名人だった。だとしても、彼は手を染めた罪は許されない。

 どんな扱いを受けることになるのだろうか。

 同級生殺しとして大々的に取り上げられるのだろうか。

 世間は面白おかしく、彼の過去をほじくり返して……

 蕗二は弾かれたように立ち上がった。傷を見てくれていた救急隊員を押しのけ、武装した刑事たちを掻き分ければ、葵はすでに床に横たわっていた。

「頼む! 葵を、葵を助けてくれ!」

 救急隊員にしがみつこうとして、後ろから羽交い絞めにされる。

「落ち着け三輪!」

「おれなんてどうでもええ! 葵を優先してくれ!」

 救急隊員によって応急処置がほどこされている。脈を測られ、まぶたを押し開けてライトを左右に振り瞳孔どうこうの散大を確認している。

「そいつは、彼女は被害者や。結婚するねん、頼む、頼むから助けてくれ!」

 眩暈めまいがして膝から崩れる。後ろから支えられていなければ、無様に頭からコンクリートに落ちていただろう。かろうじてコンクリートについた手から震えていた。

 分かっている。手遅れだって事は、葵が助からない事なんて、分かっている。

 それでも願わずにいられなかった。



















 蕗二は公園のベンチで、ひとり静かに座っていた。

 椋村むくむらの別荘から連れ出され、すぐに蕗二は病院に担ぎ込まれた。幸い、頭部の傷は出血のわりに皮膚を裂いただけで大した怪我ではなかった。診察を終えて足早に立ち去ろうとして鳥頭とりとうに止められる。頭を強打されたのだ、安静にした方がいい実家まで送ると言われたが断った。しばらく一人になりたいと呟けば、鳥頭はそれ以上何も言わなかった。事件に少なからず関わったのだ、事情聴取は受けなければいけないだろう。分かっている。分かっているが、何かを話せる気がしなかったのだ。


 いつまで同じ体勢でいたか覚えていない。

 ただ、ふと見上げた黒い空をずっしりと重い雲が覆いつくしていた。そのせいか、手が届くと錯覚するほど空が低く感じる。

 視線を下ろしていけば、蕗二の正面には大きな医療センターの煌煌こうこうともる光だけが良く見えた。

 あそこには葵がいる。治療のためじゃない。死亡を確定するためだ。

 そして今まさに、あおいの家族が遺体を確認しているだろう。

 婚約が決まっていた愛おしい娘の、変わり果てた姿。

 これから、新しい人生に進むはずだった。

 これから、幸せな人生になるはずだった。

 もう、それが叶う事はない。

 家族の涙にまるで呼応こおうするように空が泣く。

 雷の低い唸り声が、遺族の泣き叫ぶ慟哭どうこくに聞こえた。

 服が皮膚に貼りつくほどしとどに濡れても、その場を動けなかった。

「えらい演技派やったな葵、すっかりだまされたわ」

 呟いてみて、なんだか笑えてしまった。

 騙されたことに、不思議と怒りはなかった。

 心が読めるわけでもない。どこまでが葵の本心かなんて分からない。

 だが、ひとつ確信している。

 栩木はあおいが愛してくれないと言っていた。

 そんなはずはない。愛していないなら、とっとと通報してしまうか別れてしまえばいい。なのに自首しようと言った。葵は栩木を愛していたからこそ、自首してほしいと言ったのだ。犯罪者の妻として生きようとした。ごうを背負い、栩木とともに生きようとしていた。

 それが愛じゃないなら、なんだと言うのだ。

 雨が目に染みて痛んだ。手で強くこすり、滲む視界を少しだけ取り戻す。

 はっ、と息を飲み、思わず腰を浮かせた。雨で白くかすむ向こうに、葵の姿が見えたのだ。

「なあ、俺は、どうやったら葵を助けられたんやろうか。俺が変わったからあかんかったんか? 戻りたいと願ったのが悪かったんか? なあ……」

 空が強く光る。腹に響くような雷鳴に目をつぶる。

 恐る恐る瞼を上げれば、もう葵の姿は見えなくなっていた。膝から力が抜け、ベンチに座り込む。

 笑っていたのか、泣いていたのか、分からない。

 でも、もう彼女の声を聴くことはできない。

「ごめんな、葵。助けられへんで、ほんま、ごめん……ごめんな……」

 雨脚が強くなる。責め立てるように、雨粒が体を叩き続ける。

 父の時もそうだった。

 手のひらから零れてしまった命を、今度こそ取り零さないようにと生きてきた。

 なのに、どうだ。

 うつむいた視線に、雨粒が流れるてのひら。

 指を閉じても、指の間からなぜか漏れ出てしまう。

 何も変わっていない。

 あの頃と何も変わっていない。

 まだ、あの日の、父の血溜まりの中で座り込んだまま。

 手のひらに爪を立てる。

 苛立ちのまま膝を殴りつける。骨に響く痛みに、虚しさと怒りが増すばかりだ。

 当たり散らすように地面を蹴りつけ、頭を抱え込む。

「いつまで、俺の人生を壊したら気が済むねん!」

 あの事件さえ、あの日さえなければ、こんな事にはならなかった。

 何もかも全部奪われた。

 父を、友人を、未来さえ奪われた。

 勝手に大切な人を殺しといて。あの野郎は勝手に死んで、勝手に楽になりやがった。

 それでも足りないのか。

 一体いつまで俺を苦しめるつもりだ。

 なんで俺ばっかり……!




「独り言は、やめた方がいいですよ」


 体を打ち続けていた雨が止む。いや違う、蕗二の頭上だけ雨が避けている。はっと顔を跳ね上げれば、目の前に傘を差した少年が立っていた。芳乃の黒い眼が無表情にこちらを見下げている。

 幻覚かと顔についた雨水を手のひらで拭うが、芳乃は変わらず、いや呆れた表情で立っていた。

「お前、なんで……東京に帰ってると思った」

「帰る直前になって、皆さんからメールが入ったんです。実況中継みたいに細かく区切ってピロピロうるさくて敵わないし、一回見てしまったら参加せざるを得なくなる。通信が楽なのも考え物ですね」

 重い溜息を吐き、液晶端末を取り出した。かと思えば、目の前に掲げる。カチャンとシャッターを切る音に似せた電子音。

「おい、なんで今写真撮った」

 睨みつけるが、芳乃は端末から一瞬顔を上げただけだ。指は休むことなく動き続けている。

「あなたの間抜けな顔をみんなに送りつけてやりました。あとで東京に帰ってからたっぷりと怒られてください。ついでに、既読マークはあなた以外つきました」

 げぇっと思わず声が出る。確認しようと思って液晶端末が壊れていたことを今更思い出す。あかん、これめっちゃ怒られるやつやん。野村と片岡のにやついた笑顔と、竹輔と菊田が鬼の形相でこちらを睨む様子が目に浮かび、たまらず額を押さえる。ぐっしょりと濡れた包帯に冷汗が滲んでいる気がした。

「じゃあ、ぼくは帰ります」

 傾けられていた傘が頭上から離れた。少しだけ乾き始めていた服にまだら模様が再びついていく。なぜか、親に置いて行かれる子供のような寂しさを感じ、きびすを返す芳乃につられて立ち上がる。待てと手を伸ばし一歩踏み出した足元で、大きな水音が立った。その音に驚いて手を引っ込める。どう器用に歩いているのだろう、ほとんど濡れていない芳乃とは違い、濡れていないところがない自分を見下ろす。

「刑事さん」

 視界に白い何かが飛び込んでくる。自分でも驚くほどの反射で、それを掴み取る。何の変哲もない持ち手が白いプラスチック製のビニール傘だった。顔を上げれば、三歩離れたところで芳乃が立ち止まってこちらを見ていた。

露兄つゆにいから、念のためにと渡されました。返さなくていいので使ってください」

 ああだかうんだか、曖昧あいまいな返事を返す。留め具も外す気力が湧かず、腕とともに垂れ下げた。

「傘は差さない主義ですか?」

「いや、そうじゃない……けど、ちょっと、一人にしてくれへんか」

 こちらを観察しているだろう黒い眼から視線をらす。

「いくら悔やんでも、過去を変えることはできませんよ」

 喉を締め付けられるような圧迫感に息が止まる。落ち着けと無理やり息をするが、ひゅっと喉が鳴いただけだった。それでも容赦なく、雨よりも冷えた声が降ってくる。

「何度振り返っても、時間が戻ることも、死人がよみがえってくることもありません。あなたがどれだけ怒ろうと、どれだけ悔やもうと、どうにもなりませ」

 芳乃の声が途切れる。蕗二の大きな手が、芳乃のえりかんだからだ。

 力を込めれば、小さく呻き声が上がる。芳乃の手から傘が転がり落ちた。

 驚き見開かれた黒い眼に、感情を押し殺した凶悪な男の顔が映っている。その男が口を開いた。

「なあ、お前には視えるんだろ。俺が今思ってること全部」

 平坦で気持ちの悪い声だ。だが、確かに自分の喉を通り、声帯を震わせて、口が動いている。

「失せろ、今は加減できない」

 手から力を抜けば、襟が滑り抜ける。目の前の体が、濡れた地面に水音を立てて倒れこんだ。

 ああ、こんな事をするべきじゃない。ごめんと今すぐ謝るべきだ。

 だが、許せなかった。

 何を知っていると言うのだ。

 いくら悔やんでも仕方ない。戻れないことなど嫌と言うほど知っている。

 それを、可哀想かわいそうだって思うか。あわれだと思うか。

 どっちでもいい。なんとでも言え。けど、その一言で片づけられるのが、一番腹が立つ。

 馬鹿みたいにかわいそーかわいそーと口でかなでて、泣いて、忘れていく。感動として消費される。所詮しょせんは他人事だ。こっちの気持ちなど知りもしない。理解しない。知った気になって上っ面だけだ。

「そうですね」

 唐突に思考を遮った芳乃の静かな声に、背中がぞわりとざわめいた。

「あなたの思う通り、ぼくは視ることしかできません」

 雨脚が弱まる。雨が恐れるように道を譲り、伏していくようだ。

「映画やドキュメンタリーと変わらない。あなた自身が感じた感情全てまで、完全には理解することはできません。理解した気になっているなら、傲慢ごうまんだとののしってもらって結構です。ですが、これだけは、はっきりと言わせてもらいます」

 まっすぐはっきりと、冬の空気のように鋭く澄んだ言葉。

「いつまで被害者ヅラしてるつもりですか」

 ゆっくりと芳乃が立ち上がる。雨で重くなった前髪の隙間から、瞬きもしない黒い眼が覗いている。

「まだそこにとどまるつもりなら」

 瞬くことも逸らされることさえない、芳乃の腕だけが別の生き物のように持ち上げられる。

「引きずり出して、あげましょうか」

 水の中に潜るように、肺の中に空気を溜め込むような深い呼吸音。

 瞼が閉じ、鼻が摘ままれる。

 まるで深く潜水するような仕草は、何度も見てきた。

 凶悪な犯人を幾度となく刺し貫いた、氷の眼。

 何度も解決に導いてくれた眼。

 全てを見通し、嘘を吐くことさえ許されない。

 ただ、断罪の言葉に心臓を刺され、氷像になって粉々に砕かれる。

 閉じられた瞼が開けば最期。一度向き合ったら、誰も逃げられない。

 逃げるなら、今しかない。

 分かっている。

 だからこそ……

 拳を強く握り、雨でぬかるむ地面を踏みしめる。

 迎え撃つ。この身一つで。




 そして、氷の眼が現れた。









 

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