File:5.5 衝突するランナー



 夕闇に沈む街を、蕗二ふきじは一人歩いていた。

 都心の開発は急速であっという間で、見慣れた風景は流れるほど過ぎていく。だが、都心から少しでも外れれば、たちまち懐かしい下町の少しすたれた街に変わっていく。一歩進むごとにタイムスリップするような不思議な感覚だった。

 10年前の記憶をたどるように、蕗二は等間隔に並ぶLEDの街頭の下を迷いなく進む。

 緑の多い住宅地を抜け、角を右に曲がれば行き止まり。

 そこに一軒の家が建っていた。

 グレーの外装、近代的な角ばった形、二階建てで一部吹き抜けているため大きなガラス面が夕闇の空を映していた。蔦科つたかの植物が根を張る門戸に視線をわせる。葉をき分ければ、ガラス製の表札が顔を出した。美しく掘られた名前は、【椋村むくむら】。


 そう、奈須をいた車を運転していたのは、元捕手キャッチャーの男・椋村だった。


 しかし、竹輔からの報告によれば、5年前に亡くなっていると記録されている。

 なのになぜ生きているのか。なぜ死んだことにされているのか。なぜ奈須を殺そうとしたのか。

 同級生たちが次々と殺された一件と無関係なはずがない。

 それに、椋村の顔を見た瞬間、ある可能性にたどりついた。

 現在行方不明の栩木とちぎは、監禁されているのだと。

 栩木は野球界で顔を知られている。そんな人物が遺体で上がれば、たちまち大ニュースになり、捜査の規模が大きくなる。そうならないように、監禁されているのだろう。

 もし人を監禁しようと思ったら、まず他人に声が届かない場所を選ぶ。また犯人が出入りしても不審ふしんがられない場所、つまり犯人のテリトリー内で行われているはずだ。

 椋村の家は金持ちだった。元々は兵庫出身で、高校の間はこの大阪にある別荘に住んでいたのだ。高校時代は広い家にあやかって、よくチームでお邪魔した記憶は懐かしい。

 そしてその時に、強烈に覚えていた。この大きな家には地下室があったのだ。


 遠目に家の周囲を観察する。カーテンは閉め切られていて、中の様子はうかがえないが、明かりはひとつも点いていない。長年人がいないことを示すように、枯れたり伸びたりした植物たち、汚れで薄く曇った窓ガラス。ガレージを覗けば空だ。車は蕗二が衝突時にフロントガラスが派手に割れたはずだ。あれで走っていたら相当目立つが、ナンバープレートはレンタルカーを示す「わ」だったところから、初めから乗り捨てる気だったのかもしれない。

 門を抜け、身をかがめて玄関にそっと近づく。タイルに膝をついてドアに片耳を押し当てる。

 気配はない。ドア裏に潜んではいないようだ。ドアノブを握り、音を立てないように慎重に下げていく。完全にドアノブが下がり切った。蝶番ちょうつがいが鳴らないようにゆっくりと手前に引けば、呆気あっけにとられるほどドアは簡単にひらいた。

 ドアを盾に薄暗い家の中を覗く。電気はひとつも点いていない。動く気配がないのを確認し、ドアの内側に体を滑り込ませ、入ってきた時同様にドアを閉める。

 暗闇に目を慣れるために暗闇を見つめたまま、指先で足元のタイルを撫でる。指の腹同士を擦り合わせれば、わずかなざらつき、綿毛のようなふわふわとしたものを感じないと言う事は、ほこりがほとんど積もっていないと言う事。つまり今現在使用していると言う事だ。まぶたを閉じ、静かに大きく息を吸う。肺一杯に酸素を満たし、口から細く吐き出す。そしてゆっくりと目を開ければ、目はおおまかに暗闇を捕らえるようになった。

 立ち上がり、靴は脱がずにフローリングに足を下ろす。足音を立てないように爪先つまさきかかとの順に下ろしながら前へと進む。

 エントランスを壁沿いに進めば、右側の壁が途切れる。そこには吹き抜けのリビングが広がっている。吹き抜けを利用し、たっぷりと陽の光を取り入れる窓は完全にカーテンで覆われ、役目を果たしていない。

 暗闇の中、ぼんやりと見える影と記憶を重ねていく。目の前にあるのは、膝ほどの高さしかない六人掛けのテーブルと柔らかな布張りのソファだ。置いて行ったものと持って行ったものの差は分からないが、ちらほらと家具が置きっぱなしになっているようだ。物陰に身を潜めているかもと注意深く視線を隅から隅まで巡らせるが、ここには誰もいないようだ。視線を上げ、リビングの奥に目を凝らす。二階に繋がる白い螺旋らせん階段があった。これも記憶にある。素材が薄い鉄板製で、昔チームで上り下りして実験したのだが、どれだけ慎重に歩いてもかなり大きな音が立つ。一階や地下にいなかった場合の捜索は最後にするべきか。

 階段から視線を壁に向ける。そこには両開きの木製ドアがあった。向こうは、確かダイニングだったはずだ。玄関と同様に近づいてドアノブを引き下げる。

 ドアの隙間からわずかに明かりが見え、動きを止める。急激に高まった緊張感に、鼓動がうるさくなる。息を殺して明かりを観察すれば、正体が分かった。ダイニングのカーテンがわずかに開いていて、外から街灯の光がダイニングを青白く照らしているのだ。

 落ち着かない心臓を収めるように撫で、ゆっくりと呼吸する。目を慣らすために、しばらくダイニングを覗き見る。リビングと打って変わって、物は何もない。ただ広々とした空間が広がっているだけだった。

 記憶が正しければ、ダイニングの奥に地下へと通じる階段があったはずだ。

 ドアを抜け、ダイニングへと足を踏み入れる。ふと、ドアノブが抵抗するように手から離れ、派手な音を立てて閉まった。その音を聞いた時には、体が勝手に水面へ飛び込むようにダイニングの真ん中へ転がっていた。思わず驚きの声を上げ、慌てて床から跳び起きる。

 カーテンから細く漏れる青い光の先、蕗二が入ってきたドアに、黒い棒状の何かがめり込んでいた。そうだ、ドアノブから手を滑らせたんじゃない。無理やりドアを押されたのだ。閉まる音に紛れて、耳元をかすめていった風を切る音の正体があれだ。

 黒い棒は、蕗二の視線を感じたのか、ずるりと暗闇に戻っていく。

 長さは約60センチ。ドアに当たった音から素材は金属か。黒塗りの二段振り出し式、先端に硬質ゴム、シャフトグリップの間には刃物除けのつば

 間違いない、【特殊警棒】だ。

 街灯の青い光を背に受けながら、握りこんだ手のひらに冷汗が滲んでいた。飲み込んだ唾が渇いた喉に引っかかる。

 警棒は叩かれても痛くないなどという噂があるが、まったくの嘘だ。本来警棒は、威嚇や相手への牽制に加え、相手の武器を叩き落とし無力化するためか、急所と首から上以外の場所を強く打ってひるませ、速やかに対象の体を拘束するために使用する。が、素材は金属なのだ、青痣あおあざ程度なら簡単にできる。もし警棒を全力で相手に振り下ろせば、相手の骨を折ることも、殺すことだって簡単にできる。

 自ら警棒を握ったことがあるからこそ分かる。扱う者に殺傷力をゆだねられた【武器】なのだと。

 二撃目を警戒し、瞬きもできずに暗闇を見つめていると、男が影から染み出てきた。

椋村むくむら……」

 堪らず零れた言葉に、男は反応しなかった。

 しかし、眼鏡の奥の視線とかち合って、体がぶるりと震える。

 感情をそぎ落とし、蕗二の体のほんのわずかな動きさえも見逃さないと観察していた。

 まるで狩りの目だ。狩人ハンターに遭遇したけものの気分はこんな感じだろう。

 蕗二はゆっくりと腕を持ち上げ、体の前に拳を構える。対照的に椋村は微動だにせず、体の横に垂れた右手に警棒が握られているだけだ。ただ、警棒の先は狙うようにこちらの頭部に向いている。

 椋村の左手がゆっくりと持ち上がった。焦れるほどの動きで眼鏡に手がかかる。眼鏡がずれ、遮るものの無くなった目が鋭くなった。

 蕗二が息を吸ったのと椋村が眼鏡を放り投げたのは同時だった。

 眼鏡が床に落ちる音。一瞬にして詰められた間合い。警棒が頭上に振り上げられる。

 蕗二は冷静に椋村の手首を掴み止める。が、椋村の手首が回り、警棒の先が外側に倒れた。しまったと思った時には、椋村が大きく一歩下がる。

 警棒と交差した腕に挟まれた左腕が強く引かれ、つんのめる。膝を蹴られ、体勢を立て直す暇もなかった。椋村に覆い被さるように倒れこむ。椋村の足が振り上がり、首と左脇に絡みついた。太腿に強く挟まれ、頸動脈が絞められる。首から上が膨れる感覚。三角締めだ。

 とっさに拳を椋村の脇腹に叩きこみ、わずかにゆるんだ隙に首を抜く。

 しかし、今度は取られたままの左腕に足が回り、腕十字固めを決められそうになる。完全に関節技が決まる前に床を蹴って飛び上がり、椋村の顔面目掛けて全体重をかける。椋村の顔面に着地するはずだった肩を床にぶつけ、衝撃を殺すために体を一回転させる。

 立ち上がったところを予測していたように警棒が振り下ろされた。太腿へ二撃。的確に同じところを強く打たれ、骨に響く。痛みに膝を曲げれば、もう警棒が振り上がっていた。頭部を守るように腕を上げれば、肩口かたぐち前腕ぜんわんに重たい衝撃。指先までしびれが走った時には、胸倉と腕を取られていた。見えたのは椋村の肩と背中。背負い投げの体勢。とっさに座り込むように腰を落とす。背中に乗るはずだった体重が突然移動し、バランスを崩した椋村を力ずくで引き倒す。そのままの勢いで巴投げを仕掛けるが、予想されていたのか椋村が体を勢いよく横に振る。負けじとえりを掴んだため、フローリングを転がり、もつれ合う。

 立ち上がったのはどっちが先か、椋村が顎を狙って足を振り上がる。手でさばいたところを狙って振り下ろされた警棒を寸前でかわし、外側から椋村の手を掴んで手の甲を強く手首側に押し込む。可動域限界まで内側に手首が曲げられ、強制的に椋村の手が開く。指の間を滑り落ちた警棒が、音を立てて床を転がる。警棒から視線を戻す。椋村と視線が合った。ひと呼吸もたがわず、強く握った拳を振り被る。

 わずかな差、先に蕗二の拳が椋村の顎先を捉えた。ゴッと骨を殴る硬い感覚。衝撃によろめいた椋村が尻もちをつき、そのまま床に倒れこんだ。

 ひと呼吸も許さず上に腰にまたがり、椋村の腕を捻り上げる。


 勝負あった。


 ほっと息をついた途端、全身から汗が噴き出した。顎から滴った汗がぼたぼたと椋村の背中に染みを作る。

 文句のひとつでも言われるかと思ったが、顎を殴った衝撃で脳震盪のうしんとうを起こしているのか、苦しげに息をしているだけで、抵抗はまったくなかった。汗を手の甲で拭い、上がった息を整える。念のため腕を捻り上げたまま、椋村のズボンのポケットを探る。ナイフが出てきたらどうしようか。そう考えて肝が冷えるが、杞憂きゆうに終わった。しかし、プラスチック製の柔らかい黒い棒状のものが5本出てきた。片面に細かな溝のついたそれは、園芸などに使う結束バンドだ。

 蕗二は眉間に深い溝を刻み、椋村の背中を睨みつける。

 舌打ちを飲み込み、椋村むくむらの手首をひねり上げたまま背中で交差させ、親指と手首を結束バンドで固定する。これで肩関節が固定され、腕を動かすことはできない。

 大人しくされたままの椋村の脈と呼吸を確認する。脳震盪のうしんとうおさまっているようだ。立ち上がれないように椋村の太腿に腰を下ろし、背中に向かって声を落とした。

「お前警察やろ? 素人にしちゃ、警棒の使い方が慣れ過ぎてる。まあ、寝技は得意やないみたいやな?」

 得意げにそう言ってやれば、椋村が肩越しに睨みつけてきた。

「それはお前もちゃうんか。素人だったら、最初でカタが付いてる。よくも嘘ついてくれたな?」

 苛立ちを隠そうともしていない椋村に、蕗二は肩をすくめてみせる。

「俺はちゃんと公務員って言うたで」

「アホ抜かせ、調べても出てこんかったぞ」

「さあ? 調べ方が悪かったんちゃう?」

 そりゃあ簡単には出てこないだろう。【特殊殺人対策捜査班】は極秘部署だ。例え警察みうちでも情報がれる可能性をつぶすため、メンバーのデータベースは柳本警視監によって、閲覧アクセス制限がかかっている。

「俺の事はどうでもええねん。問題はお前や。死んだことになってるってどう言う事やねん」

「教える義理はない」

 他人のような冷たい言葉に、眉間が痛むほど眉を寄せる。

「じゃあ、質問を変えてやる。二葉ふたばの遺体を偽装して、小松と山梨殴り殺して、栩木とちぎさらって、俺を犯人に仕立てて……今度は奈須まで殺そうとしたな? 一体どういうつもりだ」

 言葉にすればするほど、背筋が冷えていく。ついこの間、やっと会うことができた仲間たち。酒を飲んで笑い合っていた仲間たちとは、もう二度と会えなくなってしまった。賑やかな笑い声を思い出し、鼻の奥がツンと染みる。うつむいた蕗二に、ハッと鼻笑いが投げつけられた。

「どういうつもりも何も、邪魔やからに決まってるやろ?」

「邪魔? 何が邪魔だったんだよ。俺たちチームだったんだぞ? なんでそんな簡単に殺せるんだよ!」

 怒りのままえりつかみ上げれば、椋村は初めて見る生き物と会ったような表情を浮かべた。

「お前こそ、えらい肩入れするな? 久々にみんなと会って、青春でも思い出したんか? 10年も戻って来ぉへんかったくせに。今更戻ろうとしたんやったら、都合良すぎやと思わんかったか?」

 嘲笑あざわらうように歪んだ笑みを見た途端、頭痛とともにこめかみに血管が浮き上がる。

「俺を追い出したかったんなら、そう言えば良かったじゃねぇか!」

「奈須が勝手に言っただけやろ。だまされたお前が悪いねん」

 振り上げた拳を床に叩きつける。拳の痛みで頭が冷えるかと思ったが、逆に苛立ちがあおられる。

 椋村を床に突き飛ばし、飛び退るように立ち上がる。怒りで体が震えていた。怒り狂った猛獣のような唸り声が喉から勝手に漏れ出ている。目の前に何かあったら蹴るか殴るかして破壊していただろう。その方が良かった。壊せるなら壊したかった。じゃないと体の内側で暴れ回る感情が椋村に向いてしまう。一度殴ったら止まらない、それが恐ろしかった。震えが止まらない拳を握りしめ、歯を割り砕かんばかりに噛み締める。なんとか苛立ちを収めようと意味もなくうろついていると、椋村の短い笑い声が聞こえた。

「ノイローゼの肉食動物みたいやな」

「無駄口叩くな、死にたいのか」

 自分の声とは思えないほど、地をう低い声が出る。そのせいか、椋村は口をつぐんだ。

「栩木はどこだ」

 床に転がったままの警棒を拾い上げる。伸びる影の先、こちらを挑発するばかりだった椋村は、ぴくりとも表情を動かさなかった。ただ、街灯の青白い光のせいか顔色が悪く見える。

「もう殺したのか」

 靴音を立てて椋村に近づくと、椋村が腰を滑らせ、ずるずると間抜けな動作で離れていく。だが、壁際に追い込むまで時間はかからなかった。

「答えろ」

 警棒を握りこむ。椋村の引きつった呼吸音。強く瞼を下ろしたかと思えば、椋村の口がわずかに動いた。かすれた声が、かろうじて耳に届いた。

「眼鏡を拾ってくれ。……案内する」





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