File:3.5 偶然のカバープレー




 浪速なにわ区。


 主要都市として大きく発達した大阪の中でも、真新しいビルと錆びたトタン屋根の盾元が隣り合う混沌とした地域だ。

 治安ランキングではワーストから数えた方が早く、犯罪遭遇率観測アプリKOMOKUTENでは昼夜問わず50%以上を保つような場所。

 警察署の正面玄関ではなく、地下駐車場への入り口へと足を運ぶ。

 シャッターやゲートがあるわけではない。一目が少なくなる場所だ、ちょっとしたやんちゃな人間がたむろするには絶好の場所にみえる。が、なんといっても警察署だ。足を踏み入れた時点で警察手帳のIDが読み取れなければ、即座に警報が鳴り、建物から警棒片手に警察官が駆けつけてくる。また車で突入しようとしても、入り口には鉄のポールが三本地面からせり上がっていて、必ず引っかかる。

 明るい外から、薄暗い駐車場に踏み込んだ。暗闇の中、駐車場の一番奥の壁に小さく赤い光が見える。目を凝らせば、光を中心に人影が滲み出てくる。紺色のポロシャツに黒いジャンパーを羽織った男が一人壁にもたれて、煙草を吸っていた。ジャンパーのポケットに手を突っ込み、足元に視線を落として黙々と白い煙を吐いている姿は人を一人殺し終えた後の暗殺者と言われても、納得できそうだ。ちょうど3メートルまで近づいた瞬間、顔が上がった。猛禽類に似た鋭い目つきで睨まれ、蕗二は立ち止まる。

「久しぶりやな、鳥頭とりとう

 軽く手を上げて見せれば、鳥頭は驚いたように目を見開いた。

「ホンマに来よった! 久しぶりやんかあ!」

 慌てて靴の裏に煙草を擦りつけて火を消し、吸殻を携帯型灰皿に放り込んだ。本物か確かめるように肩や二の腕を叩くと、鳥頭はにやりと笑う。

「なんや、眉間の皺とか目つき悪いとことか、全ッ然変っとらんなあ。東京に行ったって聞いとったさかい、もっと毒されとるかと思ったわ」

「ないない。東京行って顔変わるんやったら、みーんな行っとるやろ? あ、お前じぶんは行かなあかんのちゃう?」

 口の端を上げて笑い返せば、鳥頭はあからさまに渋面じゅうめんを作る。

「あー、オレは無理無理、ぜーったいあかん! 東京アレルギーで全身かゆなるわあ! 東京の話はもうええから、はよ入れ」

 背中に腕を伸ばして掻きむしる動作をひとしきりして、かたわらのドアを乱暴に開け放ち、さっさと中に入ってしまった。ドアが閉まる前に滑り込み、黒いジャンパーの背を追う。ドアが自動でロックされる音を背中で聞きながら、違和感を覚えた。大阪府警の文字とPOLICEと英語でプリントされているその背を無遠慮に観察する。

鳥頭とりとう、お前痩せたか……?」

「で? 何の事件が気になるって?」

 蕗二の言葉に被せるように、鳥頭が声を張り上げた。

「ああ。昨日、焼鳥屋で店長が死んでた事件やねんけど、ちょっと資料見せてくれへんか?」

「ああ、あれな。一酸化炭素で亡くなっとったやつやろ? 奥さんも災難やな」

 こちらを振り返りもせず、どこか他人事のように言う鳥頭とりとうの肩が、小さく跳ねるのを蕗二は見逃さなかった。自然と眉間に皺が寄る。背中の白いロゴを見つめながら出した声は、威嚇するように低かった。

「なあ、鳥頭。その事件の担当、誰や」

 鳥頭は答えない。ふと立ち止まると、ひとつのドアの前だった。

 鳥頭は胸ポケットから警察手帳を引き出し、ドアノブの上に取り付けられていた機械に押しつける。短い電子音に続き、ドアが独りでに開いた。鳥頭はゆっくりと開くドアを力づくで押し開ける。壁に当たって大きな音を立てたドアに張られた金属プレートが目の端をかすめた。資料室と書かれていたその文字に、蕗二はさらに眉間の皺を深くする。資料室に仕舞われる書類とは、もう処理が終わったもの。つまり、二葉の事件は解決したものということだ。

「お前、あの事件、なんかおかしいと思わんかったんか」

 鳥頭を睨みつける。資料室に入ってすぐ、無造作に置かれた段ボールの中を漁っていた鳥頭が動きを止めた。

「あれは事故死や。それ以上何があるねん」

 段ボールの中から、黄緑色の紙製A4ファイルを引きずり出すと、乱暴にファイルを机に叩きつける。ジャケットから握りつぶされて皺だらけの煙草ケースから口で煙草を抜き取っている鳥頭を横目に、蕗二は無言でファイルを引き寄せ、ページを開く。真っ先に見たのは担当刑事だ。その名前は『鳥頭武士とりとうたけし』と表記されていた。

「司法解剖はしたんか?」

 資料から視線だけを向ければ、鳥頭は鼻で笑った。

「あほか、せーへんで。一酸化炭素中毒で亡くなった遺体は、鑑識どころか刑事だって見たら一発で分かるくらい簡単や、解剖する必要もあらへんやろ。無駄にホトケさん傷つけんのはバチ当たりや」

 一酸化中毒で死んだ遺体は特徴的だ。発見が早く、腐ってさえいなければ死んでいるように見えないくらい血色が良いように見える。血液中の酸素を運ぶヘモグロビンが一酸化炭素と結びつき、酸素が全身に回らなくなって酸欠で窒息するようなものなのだが、そのヘモグロビンは酸素と結びついていたらオレンジか朱色なのに対し、一酸化炭素と結びつくとピンク色に変化する為だと鑑識から教えてもらった。

 だが、引っかかったのはそれじゃない。

「バチ当たり? せっかちすぎて、ホトケさんに手ぇ合わせんの忘れるお前が、バチ当たりなんて単語知っとったんか? 今まで聞いたことなかったで。家族から許可貰ったらええだけの話やのに、せっかちにも程があるんちゃうか?」

 ファイルを閉じ、突きつけるように向ければ、鳥頭とりとうはくわえていた煙草を口から離して蕗二の顔を奇妙なものを見る目で見返した。

「やけに熱心やな。自分お前融通が利かんちゅうか、ご遺族から頼まれて断られへんかったんかは知らんで? 遺族が納得できへんのも分かる。けどな、どっからどう見ても、これは事故死や。そんなんにいちいち構っとったららちがあかん。それは分かるやんな?」

 諭すように言われ、蕗二は一瞬にして頭の血が沸騰する。

「事件に大きいも小さいもあるのかよ! 残された家族が、どんな思いで居るのかわかってんのか!」

 鳥頭とりとうの右腕が動いた。避けようと足を引いた時には、もう胸倉をまれていた。

「お前は遺族やから、そっちに肩入れしすぎるねん!」

 鳥頭の怒声に、こめかみに青筋が立つ。蕗二の表情の変化に、鳥頭は一瞬おびえを見せたが、歯の軋む音とともに蕗二の胸ぐらを両手で掴み直す。

「刑事なら分かっとるやろ。一課はドラマみたいに殺人だけ解決してるんちゃう。泥棒とか、強姦とか傷害暴行事件も、ぜーんぶ受けおってんねん。『犯罪防止策』で昔よりは減ったかも知れへんけど、1万あった事件が0になるわけちゃう。結局、≪ブルーマーク≫のアホどもが、毎日毎日ど突いたとかぶん殴ったとか、110番にクソほど電話がかかってくる。事件が起こらん日なんて無い! 人が全然足りひんねん。まだ解決できてへん殺人事件もあるのに、お前に構ってられるほど暇ちゃうねん!」

 突き飛ばされるように、胸倉から手が離れる。その手がジャンパーのポケットを漁ると、机に叩きつけられた。

「資料は渡したる、あとは勝手にせぇや。そんで満足やろ」

 蕗二の肩に肩をわざとぶつけながら、鳥頭は部屋を出て行った。

 紫煙の香りが薄くなった部屋、机にはUSB端末がひとつ転がっていた。

 やり場のない怒りが全身を焼き尽くすように駆けずり回っていることに耐え切れず、机に拳を振り下ろす。机の上げた大きなきしみ声が不快だった。









 天王寺動物園。AM10:55.


 土日と言うこともあり、この動物園の名物であり、人気のシロクマを見にやって来る人は多いようだ。影に入ると少し肌寒いが、日に当たっていれば過ごしやすいことも相まって、家族連れが多い。

 真っ昼間から辛気臭しんきくさい顔をした男が一人混じっていたところで、誰も気にしないだろう。

 蕗二はベンチに腰掛け、手元の資料に視線を落とし続ける。

 ページをめくる気にもなれない。

 鳥頭とりとうとは大阪で勤務していた時、同じ班にいて相棒バディとして組んでいた。せっかちで口は悪いが、世話好きでおせっかい焼きでもあった。仏頂面で愛想が悪い蕗二にもひるまず、蕗二が事件で父を亡くしたと知った時も、周りが憐みの目を向ける中、唯一まったく変わらず接してくれた。

 些細な話も冗談交じりによく聞いてくれた。

 あんな言葉を吐くような人ではなかった。

 一体、何があったのだろう。

 痩せた背、投げやりな言葉、そこからにじみ出すもの……人が足りない、事件が解決できないと漏らした弱音。一人で抱えるには限度がある。それでも事件は待ってくれない。だから諦めなくてはいけない。優先順位をつけて切り捨てなければいけない。手のひらから零れ落ちていくものを見ていられず、打ちひしがれてしまったのかもしれない。

 だとしても。

 蕗二は拳を握り締める。零れ落ちてしまうものを、ただ見ているだけなんて俺にはできない。たとえ握り締めすぎて、てのひらに爪が食い込もうとも、零れ落ちるものを必死に掻き集めて、取りこぼさないように足掻あがき続ける。馬鹿だと貪欲だといくらでもののしれば良い。血溜まりに沈む父にすがって泣き喚くだけの、何もできなかったあの頃とは違うのだ。

 蕗二はズボンのポケットから端末を引き出し、ロックを解除した画面に指を滑らせ、発信ボタンに触れる。真っ黒になった画面に呼び出し中の文字が浮かび、五コール目で画面が切り替わった。

 慌しく揺れる画面が止まり、目の前に座った男が映し出される。

『お疲れ様です、蕗二さん』

「お疲れ、竹。悪いな、飯食ってるところだったか」

 画面の端に、わずかにはみ出たインスタントラーメンを指摘すれば、ばれたかと照れ隠しに鼻下を擦った。隠していた場面の外側からお湯を入れる前だったらしい、蓋の開いたカップラーメンをわざわざこちらに見えるように画面へ近づけてくる。

『これ美味しそうでしょ? 期間限定なんですよ!』

 蓋に書かれた【期間限定 激ウマ博多からしめんたいこ&たっぷりねぎ マヨネーズ付き】の文字。辛いものと期間限定品には目がない蕗二なのだが、今日ばかりは余裕がない。それに異変を感じたのか、竹輔は不安そうに眉を下げられる。理由を問われる前に、蕗二は口を開いた。

「竹、今から俺は、部署を個人的な理由で使うつもりだ」

 先を促すように竹輔が口をつぐんだのを見て、蕗二はさらに言葉を続ける。

「ちょっとこっちで気になる事故があって、大阪の仲間にかけ合ったんだが、見向きもされなくてな。資料だけなんとか借りたんだけど、その事故処理は、もう終わったことになってる。正直俺だけじゃあ何もできそうもない」

 事件や事故を処理するということは、証拠がそろっていて、誰がどう見ても疑いがなく、満を持して終わったということだ。それを穿ほじくり返すというのは、仲間に対して捜査に不手際があった疑いを向けていることになり、不信や対立などの混乱を招く。また世間に一度発表している場合、途中で意見が変わるというのは、警察への非難や炎上に繋がるとして、終わったら関わらないことが暗黙の了解だ。

 正規の手続きでは、もう手出しできない。『普通』なら諦めざるを得ない。

「だから、上司として命令する。何も聞くな、黙って指示に従ってくれ」

 竹輔は戸惑いから視線を手元のカップラーメンに落とす。蕗二の言葉に戸惑い、混乱して彷徨さまよわせる。

 と、蕗二は思っていた。

 しかし竹輔は、眉間に皺がくっきりと浮かぶほど眉を寄せ、迷いなく蕗二を真っ直ぐ見詰め返した。

『嫌です。命令には従いません』

 蕗二が動揺すれば、竹輔は険しい表情を引っ込め、顔がまるくなるほど穏やかに笑う。

芳乃ほうのくんたちは、あくまで例外ですから命令でも命令じゃなくても、柳本は班長のあなたに責任を擦りつけるつもりでしょう。ですが、僕は別です。蕗二さんだけに責任被せるなんて、僕にはできません。だって、僕は蕗二さんの相棒ですよ? 相棒が困ってたら、何が何でも助けたいんです。だから、頼ってください』

 蕗二は手のひらで顔を覆う。恥ずかしさに顔どころか首まで熱い。

「すまん、竹。ちょっとお前のこと舐めてたわ」

『そうですよ、もっと褒めてくれてもいいんですよ? 「よっ、流石相棒! 頼りになるぅ」って』

 指の間から竹輔をうかがえば、いつもより凛々しい顔を作って見せ、ついでに片目を瞑ってみせた。蕗二は周りがぎょっと立ち止まるほど喉奥から声を上げて笑った。腹に力が入って傷が痛んだせいか、辛いわさびを食べた時のように鼻の奥がちくりと痛んだ。勢いよく鼻をすすれば、ずずっと音が鳴る。

「わかったわかった。頼りにしてるぜ、相棒」

 降参だと片手をあげた蕗二は膝に置いていた資料ではなく、その上に置いてあったUSB端末を指先でまみ上げ観察する。パソコンへの接続部分とは反対側、指の腹になじむように表面がわずかにへこんだ丸いボタンを長押しすると、携帯端末の上に接続開始の文字が表示される。

「早速だけど、まず今送った資料を野村に見せて、何か違和感がないか聞いてくれ」

 竹輔がカップラーメンの代わりにノートパソコンを手元に引き寄せたのを目の端に捉えつつ、端末から展開したキーボードで素早く文字を打ち込んでいく。

「竹は、今から送る人物の中に≪ブルーマーク≫が付いてた奴がいないか探してくれ。階級別で閲覧制限がかかってたら、俺のIDを使っても構わない。それでも見つからなかったら、片岡に頼んでもいい。とにかく徹底的に頼む」

 竹輔に送った名前は、全員で7人。

 あの日、同窓会に出席した奈須なす五百森いおもり小松こまつ山梨やまなし椋村むくむら栩木とちぎ、そして二葉ふたばだ。

 二葉がもし殺されたと仮定して、貸し切りになった店に入り、厨房まで侵入を許し、まさか背後から襲われるとは思っていなかった人物。つまり、同窓会に参加したメンバーの誰かだ。

 だが、メンバーの誰にも≪ブルーマーク≫は付いていない。考えられるとすれば、付いていたが外れた可能性だ。≪ブルーマーク≫が付けられても、その後15年間テストに異常値が見つからず、矯正セミナーに参加していれば外される。だが、高校卒業直後に≪ブルーマーク≫が付いたとしても、10年しか経っていない。計算が合わないのだ。もちろん、判定前ってこともあり得るが、前の検査が2ヶ月前の8月。たった二月ふたつきほどで殺人衝動が爆発的に湧き上がるんだろうか? いや分からない。ここ半年で【特殊殺人対策捜査班】で捜査に当たった犯人のほとんどは、こちらの理解を超えていた。

『蕗二さん』

 竹輔に呼ばれ、思考の海から上がる。ノートパソコンから顔を上げた竹輔がこちらを覗き込んでいた。

「どうした?」

芳乃ほうのくんにも連絡しますけど、蕗二さんから連絡しますか?』

 名前を出され、ふと記憶から引き出した少年・芳乃が不機嫌そうにこちらを睨んだ。

 最初こそは柳本の命令でしぶしぶと言う事もあり、また『人の心を視る』という能力を当てにしていた節もある。だが最近、彼を捜査に協力させてもいいのか悩むときがある。

 ≪ブルーマーク≫であることを除けば、一般人の高校生と言う事もあるが、切り札でもある『あの眼』は、彼に何かしらの負担をかけている。それに……

 蕗二は乱暴に頭を掻きむしった。

 考え出したらキリがなさそうだ。今は目先のことが先だ。

「すまん、竹の方から連絡してくれ。今回は場所が場所だしな、今回は呼び出さないから安心しろって伝えといてくれ。俺が言うより話もスムーズだろうし」

 肩をすくめれば、竹輔は眉をㇵの字にして心底困った顔をした。

『なんでか蕗二さんとは相性が悪いというか、素直じゃないというか……分かりました、僕から伝えときますね。では、分かり次第連絡します』

「ああ、頼む」

 画面が切り替わり、黒い画面に通話終了の文字が浮かんだ。蕗二は端末をズボンのポケットにしまい、ひとつため息をついた。安堵あんどから軽くなった気がする肩に手を当てる。

 あとは待つだけだ。だが、じっとしているのも性に合わない。

 もう一度、二葉の店を見せてもらおう。

 USB端末を資料のファイルに挟んで脇に抱え、弾みをつけて立ち上がった。

 しかしそれが悪かった。突然立ち上がったせいで、目の前を横切ろうとしていた少年と衝突しかかった。

 衝突をまぬがれたが、少年はバランスを崩して踏鞴たたらを踏んだ。少年の腕をつかみ支え間一髪、倒れずに済んだ。

「すみません、大丈夫ですか?」

「こちらこそ……」

 聞き覚えのある声だ。そんなまさか。少年の顔が上がり、そしてその驚愕の表情を見て、蕗二は絶叫した。

「ほ、芳乃ほうの!?」

「刑事さん!?」

 同時に声が重なり、弾かれたように距離を取る。

 蕗二は芳乃の顔面に向けて人差し指を突きつける。

「おま、なんで大阪にんねん!」

「こっちの台詞ですよ。つい先日まで病院にいたじゃないですか」

 鬱陶しいとばかりに手を払いのけ、わざとらしく蕗二の足元を見る。

「幽霊じゃねぇぞ、足生えてんだろ。昔から丈夫なのが取柄でな、閻魔えんま様に喧嘩売ってあの世から追い出されてきたんだよ」

「迷惑な人ですね、あなたみたいなのを相手にした閻魔がかわいそうです」

 心底呆れように半眼でこちらを見上げる芳乃に言い返そうとすれば、遮るように男の声がした。

「蓮、大丈夫か!?」

 液晶タブレットを片手に青年が駆け寄ってくる。黒縁眼鏡の奥、眠たげな眼と視線が絡んだ。すると、懐っこい犬のように目が輝いた。彼の顔は覚えている、畦見の事件に協力を依頼した獣医の加藤だ。

「ああ! 三輪さん、この前はどうも!」

 ぺこぺこと何度も頭を下げたかと思えば、心配そうにこちらを見上げてくる。

「体調はもう大丈夫ですか? 蓮から入院されたと聞いていましたが、お見舞いすらいけず、すみませんでした。……多田羅先生もとても心配されていましたよ」

 加藤の言葉に、蕗二は気まずげに視線をらした。心理カウンセラーの多田羅には、事件が終わった後にカウンセリングに来るように言われていたのだった。正直忘れていたが……彼にも捜査に協力してもらった恩と心配をかけてしまった。後で連絡しようと頭の片隅にメモを取りつつ、蕗二は加藤に頭を下げる。

「こちらこそ。おかげさまで無事解決いたしました」

「いえいえ、そんな。俺は大したことしてませんよ」

 顔の前で手を振って謙遜けんそんする加藤は、ふと芳乃の肩を優しく叩いた。

「蓮、よかったな。すごい心配してただろ?」

 芳乃は加藤の言葉に体を跳ねさせた。顔を引きらせ、加藤の手を振り切るように後ずさる。

「してません!」

 声を荒げた芳乃は、はっと蕗二の顔を見て、なぜかあからさまに嫌悪の表情を浮かべると、完全に背中を向けてしまった。そんな変な顔をしてしまっただろうかと蕗二は自分の顔を触る。なぜか楽しそうに笑っている加藤に、蕗二はそういえばと疑問を投げかける。

「二人揃って、なんで大阪にいるんですか? 加藤先生は、仕事で?」

 蕗二の問いに、加藤はよくぞ聞いてくれたと、持っていたタブレットを操作し始める。

「ええ、院長のお遣いがてら遊ぼうと思って、今日は新喜劇しんきげきを観に来たんですよ!」

 目的の画面が見つかったのか、タブレットを差し出された。そこには電子チケットが表示されていた。

「お笑いかぁ、ええな。あれは面白おもろいで………って、新喜劇!?」

 関西では休日の昼にテレビで流れるほどお馴染みである、お笑いを主軸にした演劇なのだが、勝手な偏見ではあるが東京人は知らないと思っていた。いや、まず加藤が東京育ちかは知らないのだが。

 そんな蕗二の動揺をよそに、加藤は楽しみで仕方ないのか笑みをこぼしながら、話し続けている。

「俺、毎週録画するくらい新喜劇が大好きなんですよ。ずっと生で見たいと思ってたんですけど、これがなかなか取れなくて。蓮も見てるんですよ、だからチケット取れたら一緒に行こうって言ってて、やっとチケットが取れたんですよ」

 蕗二は思わず背を向けたままの芳乃を凝視する。腹を抱えて笑っている姿をまったく想像できない。普段から笑ってはいけない罰ゲームでもやってるのかと言わんばかりだ。ちょっと見たい気もする。脇をくすぐったら流石に笑うんだろうか。

 蕗二の視線を感じたのか、振り返った黒い眼に睨みつけられる。

 あ、こいつ考えてること視えるんだった。

 今更だが目を逸らして誤魔化していると、端末の震える音がした。蕗二は期待を込めてズボンのポケットから端末を取り出すが、待機画面に通知はなかった。念のためメールや着信もチェックするが、やはり連絡は来ていない。肩を落とす蕗二とは対照的に、左手首に巻きつけていた液晶パネル型の端末を触っていた加藤が「もうそんな時間か」と呟いた。身長の関係で自然の覗き込んでしまったのだが、パネルには何か文字が表示されていた。

 蕗二はもう一度端末に目をやる。液晶に表示されている時刻は11時27分。さっき見せてもらったチケットの開演時間から考えて、そろそろ新喜劇の会場へ向かわなければいけないのだろう。

「もう行かないといけないんだろ? 楽しんで来いよ」

 蕗二は端末をしまいながら促すと、加藤は申し訳なさそうに頭を下げた。

「すみません、気を遣わせてしまって……三輪さんもゆっくり休んでくださいね」

 加藤が芳乃の背を軽く叩くと、芳乃は前髪の間から蕗二を見上げた。

「動けるからって調子に乗ってたら、傷が開いても知りませんよ」

 捨て台詞のように言葉を吐いた芳乃に言い返す暇もなく、俊敏しゅんびんな動きで歩いて行ってしまった。加藤はもう一度蕗二に会釈えしゃくして、慌てて芳乃を追いかけていった。

 蕗二は二人の背を見送り、少し長めに息を吐いた。

 まさか、芳乃が大阪に来ていたとは……

 まだ竹輔から報告は来ていないのだろう、入っていたら小言がさらに増え、一発蹴られそうな気もするが、今回は蕗二個人の目的で部署を動かしている。後で甘んじて受けてやろう。

 だが、このタイミングで最大の切り札でもある芳乃が大阪にいるのは、あまりにも運が良すぎる。

 昔から言うじゃないか、事が上手く行っている時ほど、やばいことが起きる。

 風向きが嫌な方へ向かう前に、とっとと用事を済ませてしまおう。

 蕗二は足早に動物園の出口へと歩き出した。





 天王寺動物園を後に、もう一度捜査資料を片手に二葉の店を訪れ、再度おかしな点がないか探したが、これと言った収穫はなかった。しかも、根を詰めすぎたせいか腹の傷が痛み始めていた。塞がっているとは言え、まだテープは外れていない。養生しろと送り出してくれた菊田に知られたら、長々と説教を食らいそうだ。竹輔から連絡が来るまでは、大人しくしよう。

 足早に帰路へ着き、実家の家のマンションの階段を二段飛ばしに上がるところを丁寧に一段ずつ踏みしめながら上がる。

「ただいまー」

 家のドアを開け、声を上げればリビングから母・ツヅミの返事が聞こえる。

 背中で閉まったドアの鍵を二つ閉め、チェーンをかけてから靴を脱ぐ。スニーカーの踵を踏みつけながら脱ぎ、爪先で適当に端に寄せる。玄関から3歩でたどり着く自分の部屋に抱えていた資料を置こうと踏み出したところで、呼び止めるようにチャイムが鳴った。

 肩越しに何の変哲もない鉄のドアを振り返る。ドアの向こうには、当然だが人の気配を感じた。何人かいるようだが、やけに足音を潜めている。息を殺し、こちらの気配を探る様子は余計な動きがなく、手馴れている。もう一度、チャイムの音が鳴り、蕗二の眉間の皺が深くなった。

「どうしたん、蕗二?」

 ツヅミがリビングから顔を出す。蕗二はドアを睨みつけたままツヅミに手のひらを向けて、その場にいろと指示する。ただならぬ様子にツヅミはリビングと廊下を仕切るスライドドアを半分閉じ、盾にするように身構えた。手にはおそらく携帯端末を握っているのだろう。

 蕗二は背中でツヅミの動きを感じながら、音を立てないように慎重に動き、靴を履かないままドアに張りつく。覗き窓を見ると真っ暗だった。明らかに誰かが手で覆っている。

 このやり方には覚えがある。

 蕗二はドアから体を離し、チェーンをかけたまま鍵をもったいぶってゆっくりと開け、ドアをチェーンが伸びきるまで押し開ける。すると、すかさず隙間から顔が覗き込んできた。

 カッターシャツにジャンパーを羽織った中年の男と、その後ろに白いマスクをした若い男が立っていた。

「三輪蕗二さんですか?」

「そうですが?」

 答えると、二人そろって革製の手帳を掲げてきた。手前にいた中年の男の手帳を覗き見る。

 手帳の下には見慣れた金と銀の旭日章きくじつしょうと、上には旭日章がホログラムされたプラスチック製のカードが嵌められていて、下から順に警部補 山下啓介、捜査第一課第二係、大阪府警。丁寧に英語表記までされている。顔写真には冬服の警察服を着こんだ男が移っていた。手帳から視線だけを上げれば、写真とほとんど変わらない顔の男がそこにいた。

 不躾に手帳を見ていても動じる様子はなく、男・山下は蕗二と視線が合ってから口を開いた。

「大阪府警の山下です。夕ご飯前に大変申し訳ないですが、この近くで事件がありまして、その事についてなんですがお話してもよろしいですか?」

 手帳をカッターシャツの胸元にしまいながら、山下は人当たりの良さそうな笑みを浮かべている。

 二葉の件を嗅ぎ回っていることを咎めに来たか。それにしては回りくどい、まるで家宅捜査にでも来たような丁寧さだ。

 蕗二はドアの縁にもたれ、ズボンの後ろポケットから同じく警察手帳を見せる。

 わずかに首を傾げた山下に、蕗二は鼻でため息をついた。

仲間みうちなら俺が休みなんは知っとるやろ? 率直に聞くで、何の用や?」

 山下は愛想笑いを引っ込めた。

「それやったらまず、チェーン取ってくれへんか?」

 チェーンを指ではじかれる。恐らく拒否したところで、切断する道具を持ってきているだろう。蕗二はドアを一度締め、チェーンを外した。途端、ドアは強引に開かれ、閉められないように足や手、体を使って押さえられる。山下の他にも五人ほど刑事たちがいるようだ。

「小松良介は、よーく知っとるな?」

 同窓会の席で、小動物のような明るい表情の男が脳裏をちらついた。

「同級生、ですが……?」

 素直に蕗二が頷くと、山下は小さく舌打ちする。

「三文芝居はおんなじ刑事同士、やめようや。もう分かるやろ、それとも令状取ってきた方がええか?」

「は?」

 山下の言葉の意味が分からなかった。令状といえば、警察から裁判官へ請求、発行される法的な許可状のことだ。代表は逮捕状だろう。なぜそんな話になる。

「まだ分からんか」

 首を横に振る。いや本当は分かっている。

 だが、信じられない。

 いやまさか、どういう事だ。

 山下との会話、状況から推測できることはただひとつ。

 小松は……

「殺人の、重要参考人として、話がしたいって言っとんねん」

 山下の後ろにいたマスクの刑事が、ちらりと蕗二の背後を見た。その視線をたどり、後ろを振り返る。いつの間にか、ドアの陰から出てきたツヅミの姿が目に入った。戸惑いを隠せず、蕗二を見つめ返してくる。

 こういう時、なんて言えばいいんだろうか。

 大丈夫だ心配ない、仕事の話だ。

 そう言ったが、声が引きつってかすれてしまう。

「署まで一緒に来てくれるな?」

 山下の声に、蕗二はただ頷くしかなかった。






  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る