File:2 冒頭のトップバッター



 



 突然の吐き気で眼が覚める。

 何か柔らかいものが胸を圧迫していて苦しい。胸元を擦りながら、目の前の光景をぼんやりと意味もなく観察する。

 どこか見たことのある天井と明かりの消えた照明器具に、蕗二は首を傾げた。

 ここはどこだ。ついさっきまで居酒屋で飲んでいたはずだ。いつの間に寝たんだ? いや違う、記憶が途中で途切れているんだ。

 頭の下には柔らかい感触、体にかけられた薄い毛布、平べったい敷布団の上に寝かされているらしい。

 頭を枕から持ち上げた途端、頭蓋骨に音が響くような頭痛がした。

 うっ、と呻き声を上げてしまう。

 いずるように敷き布団から抜け出し、ふらつく体を無理やり立たせる。込み上げそうになる吐き気に耐え、畳を踏みしめながら、目の前のふすまを開ける。と、マグカップを片手に持った母・ツヅミと対面した。おはよう、と言ったはずだが声はかすれ、語尾だけしか発音できなかった。それでも聞き取ったらしいツヅミがおはようと返事が返される。が、張られてもいないはずのツヅミの声が、頭に響いて額を押さえる。頭蓋骨を直接叩かれているような痛みに呻くと、ツヅミは露骨に呆れた表情を浮かべた。

「アホみたいに飲むからやん。あんた、半分おぶられて帰ってきたの覚えてるー?」

「いや……全然覚えてない」

 蚊の鳴くような小さな声で呟いた蕗二は、額を押さえたまま寝ていた部屋を見返した。部屋はリビングのすぐ隣、普段はツヅミが寝起きする部屋だ。蕗二の部屋は玄関からすぐの部屋のはずだが。蕗二の頭に浮かんだ疑問は、すぐに解消された。

「あんた吐くとか何とか言うから、吐き倒しても被害少なさそうな部屋に放り込んでもらったんやで? あとで奈須くんと椋村くんにお礼言うときや」

 ツヅミは猫を追い払うように手を振った。蕗二は呻きながら洗面所に向かう。

 壁に手をつきながらたどり着いた洗面所で、着ていた昨日のままの服を脱ぎ捨て、風呂場に入る。開ききっていない目を凝らし、様々なボトルが乱立している中から、シャンプーのポンプを一回プッシュする。とろりとした液体を髪に塗りつけ、水を足しながら指を立てて手早く泡立て、今度はボディソープのポンプを二回プッシュする。体で泡立て、ついでに顔も洗い、手探りで蛇口を探り当て、シャワーを全開にする。頭から一気に洗い流し、ついでに口の中までゆすげば、頭痛が和らいだ気がした。浴室に飛び散らせた泡をシャワーで流し、水を滴らせたまま浴室を出る。手短なタオルで顔を拭って、ふと顔を上げると半目の自分がこちらを見つめていた。洗面台の鏡に映っていたのは、疲れたように重く垂れ下がった瞼に充血した白目、老けて見える顔。どう見ても、「昨日飲んでいました」と書いてある。それを掻き消すように顔と頭を乱暴に拭き、下着を履いて、電動髭剃りを顔に当てながら、もう片方の手で体を拭き上げる。顔を撫でて、剃り残しがないことだけを確認して洗面所を出る。洗面所の隣のトイレの前を通り過ぎ、さらに隣、昨日は本来寝るはずだった自分の部屋へと入る。昨日のうちにスーツ一式だけハンガーに吊るしおいて正解だったようだ。チャックを開けっ放しだったボストンバッグからアンダーシャツと無地のカッターシャツと黒い靴下を取り出し、手早く身に着ける。あらかじめベルトを通してあった黒いスラックスを履いて、バックルを締め、黒いネクタイと黒いジャケットを袖に引っかけて、リビングへと戻った。食事を終えたらしいツヅミは、ソファに座ってテレビを眺めながらマグカップに口を付けていた。中身はコーヒーだろう。嗅ぎなれた香ばしいコーヒーの匂いがする。ソファの背もたれにジャケットとネクタイを引っかけ、寝ていた部屋に戻って敷布団を手際よく畳み、押入れに押し込んだ。再びリビングに戻ると、ツヅミがこちらに振り返り、ソファの後ろにある四人がけのテーブルを指差した。

「蕗二、朝ごはん机の上置いてるで? で、出発は9時な?」

 天気予報が流れているテレビのすみの小さな数字を見れば、8:03と並んでいる。

 まだほんのりと湿気ている頭を掻く。頭痛は寝起きよりも落ち着いているが、くすぶっていてすっきりとしない。

「酔い覚まし、何が効くんやろ」

 半分独り言を呟けば、ツヅミは間髪入れずに言葉を返す。

「何なら全種類うたらえんちゃう? あ、頭痛治らんなら、痛み止めあるけど?」

「全種類は飲んだらお腹ちゃぷちゃぷになるやん。薬は欲しい」

「やと思って、朝ごはんと一緒に置いといたで」

 食卓の上には朝御飯として、蕗二の手でも大きいと感じるおにぎりがふたつ、ラップに包まれて置いてあった。わざわざ握ってくれたらしい。その隣に青と白の有名メーカーの痛み止めの箱と、水の入ったガラスのコップまで置いてあった。

「あんがと、いただきます」

 席に着き、おにぎりをひとつ手に取る。ラップを剥いて、一口かじる。二日酔いをしているが、食欲はほとんど通常通りらしい。一つ目は胃が求めるまま五口で食べ終わり、二つ目は味わうようにゆっくりと咀嚼そしゃくしながら、ニュースを見ているツヅミに話しかける。

「なあ、お袋。次の法事って来年?」

 ツヅミはよっこらしょと掛け声とともに立ち上がった。蕗二の脇を通り過ぎながら、溜息交じりに蕗二の問いに答える。

「そうそう、来年。十三回忌やね」

 トイレに行くかと思いきや、台所に入って行った。水が流れる音からして、カップを洗っているのだろう。その水音に混ぜるように、母の声が聞こえた。

「まあ、親戚は呼んでもんやろうから、準備もせんでええし楽やわぁ」

 感情が何も入っていないような口調だ。いや、きれすぎて、もはやどうでも良いのだろう。それもそうだ。三回忌を迎えてから、連絡しても親戚は何かと理由をつけて、命日どころか法事さえも来なくなった。理由は偶然三回忌の時、親戚同士が小声で話していた所を聞いてしまった。父子ふしともに警察であったことが嫌なのだと言っていた。警察である以上、身上調査しんじょうちょうさはされている。それがどうやら原因のようだ。いつどこで警察と関わったかは知らないが、自分たちに警察の監視の眼が張り付くとでも思っているらしい。こっちとしては年に一回会うかどうかの親戚の犯罪歴に興味はないし、まず交通事故にしろ何にしろ、犯罪をした個人が悪いはずだ。そもそも2042年現在、『犯罪防止策』が施行されているこの世の中、ほとんどプライバシーなんて存在しないのに、警察だからと過剰反応するのもお門違いだ。

 苛立ちをぶつけるようにおにぎりを口いっぱいに押し込み、口を動かしながら立ち上がる。ソファにかけたままだったネクタイを取り、シャツの襟を立てて首に引っかける。鏡を見ずとも結べるほど慣れた手順でネクタイを締め、襟を戻し、ジャケットを羽織ったところで、口の中が空になった。痛み止めを二錠取り出し、口の中に放り込んで水で一気に流し込む。ラップとコップと薬の箱を持って、母が作業する台所を覗き込むと待っていたとばかりに、手の中のものを取られた。

「お供え物、これとこれとこれな? はい、持った持ったぁ!」

 代わりに持たされたのは、小ぶりな黄色と白の菊の花束と、中身の詰まったビニール袋だった。中身を覗けば、果物やビールの缶、酒のあてになりそうなお菓子などが入っていた。

「いっつも思うねんけど、こんなにいる?」

 蕗二は眉を寄せるが、ツヅミは聞いていないのか聞こえていないのか、「邪魔やから早よ下行って」と追い払われてしまった。押し付けられた荷物を抱え、玄関を出る。五階建てマンションの五階から駐車場まで降りる。車の後部座席に荷物を置いて、運転席に乗ろうとするが、案の定ツヅミに怒られ、昨日と同じく助手席に収まった。

 あらかじめセットされていたのだろう、車はすぐに自動運転で走り出した。

「今のうちに数珠じゅず渡してとくわ」

 運転席と助手席の間に置いてあった鞄から、黒い数珠を取り出して、無造作に蕗二に渡してきた。片手で受け取ると、数珠は少し冷たかった。美しく精密な丸い珠の表面をみつめていると、「あんたが持つと、なんでも小さく見えるわ」と楽しげな母の声が聞こえた。

 そんな他愛もない会話をしているうちに、二階建ての横に長い白い建物が見えてくる。その駐車場に入った車は、難なくバックで駐車して見せた。

 荷物を抱え、建物に入る。

 白い大理石の床や壁に、オレンジ色の照明で温かな光に包まれた空間に、線香独特の香りが漂っている。懐かしいような、どこか切ない感情を刺激される。

 建物の奥へと進むと、壁に花や鳥の描かれた黒いドアが幾つも並ぶスペースへとたどり着く。ドアの隣には液晶画面が嵌まっていて、お参り中の文字が表示されている。その文字を横目に進んでいくと、何も表示されていない場所があった。そこで立ち止まったツヅミがIDカードを壁の液晶パネルにかざした。準備中と言う文字が浮かんで一分。ドアが静かに開いた。部屋の中は、大の大人が10人入っても肩をぶつけ合わなくて済むような空間が広がり、部屋の奥には白檀びゃくだんの仏壇が待っていた。

 昔は一家に必ず仏間や先祖代々から続くという墓があったらしいが、今ではほとんど見かけないし、蕗二の家にもない。人口の減少と言うのは生まれる数が減っているだけではなく、亡くなる人の数が年々増えているという意味だ。生まれる人よりも死ぬ人が多い現実、墓石を立てることや仏壇の管理ができない親族が増え、代わりに屋内墓地ができた。建物は全て納骨堂となっていて、IDをかざせば宗派にあわせた仏壇と、個人の遺骨が目の前に現れる。17回忌までは建物で法事や法要を行うことができ、それを過ぎれば建物の外、ハナミズキが咲き乱れる合葬墓がっそうぼに移される。父も、あと五年経てばハナミズキの根元で眠るのだ。

 ツヅミと蕗二が部屋に入ると、ドアは独りでに閉まる。慣れた様子でツヅミは仏壇前に歩みを進め、仏壇の下にある引き出しから線香と蝋燭ろうそく、ライター、敷紙を取り出す。蝋燭ろうそくに火をつけ、お供え物を並べていると、後ろでドアが開いた。

 黒い法衣に首から下がり藤の刺繍がほどこされた紫色の輪袈裟わげさを下げた老齢の男だ。「お久しぶりです」とこちらに手を合わせて、深く頭を下げた。僧侶は仏壇に向き合い、同じくお辞儀をすると仏壇の前で何か手を動かし始めた。背中で見えないが、蝋燭で線香を炙っているのだろうか、やがて線香の匂いと共に白い煙が細い帯状になって宙へと舞い上がる。

 お椀型の真鍮製しんちゅうせいのお鈴が叩かれた。遠くまで響くような高く澄んだ音が空気を振るわせ、音が鳴り止む前に、僧侶は経を唱え始める。高く低く、音が重なって聞こえる不思議な音程に耳を傾けながら、数珠を挟んで手を合わせ、目をつぶる。

 時間としては十五分ほどでお経が終わり、お布施の受け渡しを見ていると、僧侶の顔が上がった。細い眼が蕗二を見て、さらに細められる。

「息子さま、雰囲気が変わられましたかな?」

 蕗二が片眉を上げれば、僧侶はゆっくりと言葉を紡ぐ。

「いつもお会いした時は、めーいっぱい引き絞られた弓のような、張り詰めた空気をまとわれていましたが、今は雪解けの春を待つ植物のようです」

 ずいぶんと遠まわしな言葉で、真意が汲み取れずに戸惑っていると、ツヅミが冗談っぽく笑った。

「そうそう! この子ったら、つい最近死にかけた所で、ホンマお父さんから一発ぶん殴ってもらいたいくらいですよ」

 背中を思いっきり叩かれた。痛む背中に顔をしかめれば、僧侶は優しく微笑んだ。

「そうですね、今生きておられるということは、まだ死ぬべきではないということです。何か、貴方にしかできないことがあるはずなのです」

 ふと、瞼裏に父の姿が浮かんだ。川の向こう側、腰を彼岸花に埋もれさせ、こちらに向かってゆったりと手を振る。「またな、蕗二」と低くも優しい声。

 ぐっと込み上げて来るものがあり、慌てて踵を返す。

「ちょっと! あんた何処行くん?」

「酔い覚まし買ってくる。すぐ戻るから」

 振り返らず、足早に部屋を出る。建物を出て、足を動かしながら目尻を擦れば、わずかに濡れていた。そういえば、父が死んだあの日から、まともに泣いたことがなかった。


 父を殺した犯人は、自らから命を立ってしまった。なぜあんな事をしたのか、なぜ父が死ななければいけなかったのか、もう、誰も知ることはできない。あまりのショックで、犯人が死んだことも記憶に蓋をしてしまった。そして、今もあの事件の、あの瞬間が心に刺さったまま、ずっと抱え続けている。

 心理カウンセラーの多田羅には、トラウマなのだとはっきり指摘され、どこか居心地の悪い気分になった。隠し事がばれた子供の気分だ。

 なんとなく、トラウマと言われても認められない自分がいる。

 この苦しみを、一人抱えて生きていかなければいけない。

 泣くことも、弱音を吐くことも、なぜかできなかった。いや、我慢しないといけないと思った。母を守らなければと、父の無念を晴らさなければと、自分の感情がよく分からないまま、ここまで来てしまった。

 『刑事さんは、なぜ刑事を目指したんですか?』

 芳乃の、静かな声が聞こえた気がした。

 足を止める。いつの間にか、コンビニの前にたどり着いていた。

 スラックスのポケットに突っ込んでいた液晶端末を起動させ、画面に並ぶアイコンのひとつをタップする。

 全自動型になったコンビニには、専用アプリと電子マネーがあれば入店できるシステムだ。商品棚から酔い覚ましの小瓶を手に取り、そのままコンビニの二重扉を通り抜ければ、液晶端末に清算完了のメールが届く。スラックスのポケットで端末が震える感覚を尻目に、小瓶のキャップを捻れば、小気味良こきみいい音と共にキャップがはずれた。小瓶の中身を一気に飲み干す。栄養ドリンクに似た薬味臭さは美味しいとは言えないが、効きそうな雰囲気はある。小瓶を逆さまにして最後の一滴まで飲み干し、ゴミ箱に放り込む。

 突然、サイレンの音が聞こえた。聞き慣れたパトカーの緊急走行の音だ。音の方へと首を向ける間もなく、赤いパトランプが目の前を駆け抜けた。

 いつの間にか、右手がスーツの左胸を撫でていた。手のひらの下、スーツの内ポケットには警察手帳が入っている。

 東京で事件があれば、少々首を突っ込んでも許されるかもしれないが、ここは大阪で完全な管轄外かんかつがいだ。しかも、療養に来ているのに、自分から厄介ごとに足を踏み入れる必要はない。それに、回復に専念しろと言った菊田やこころよく送り出してくれた竹輔に悪いだろう。

 胸から手を離し、名残惜しげにパトカーが走り去った方向に視線を投げる。

 と、向かいから歩いてくる一人の男に目が止まる。帽子を深く被っているが、背格好に見覚えがあった。

「と……」

 名前を呼びかけ、咄嗟とっさに口をつぐんだ。昨日の会話を思い出す。彼はいまや、名の知れた人物だ。不用意に名前を呼んで注目を集めてはいけない。名前を呼ばない代わりに腕をあげて大きく振ってみる。すると、彼・栩木とちぎはこちらに気がついたようで、小走りで駆け寄ってきた。

「よお、三輪。……なんや? マフィアみたいな恰好して」

「お前こそ有名人やねんから、そんな軽装でウロウロしてたらやばいんちゃうか?」

 栩木の全身に視線を走らせる。お洒落なわけでも、姿を隠そうとしているわけでもなく、どこにでも居そうな、いたって普通の服装だ。蕗二の言葉に面食らったように、瞬きを繰り返していた栩木は喉奥を見せるように笑うと、顔の前で手を振った。

「ちゃうちゃう、逆や逆。グラサンとか、マスクしたら逆に怪しまれるねん。知らん顔して堂々としとったら、これが意外と気がつかれへんもんやで? それに、嫁さんにお遣い頼まれたくらいで、タクシー使うとか経済的ちゃうやん?」

 栩木が右手に持っていたエコバッグというやつだろう、花柄の鞄を持ち上げて見せた。

「うっわ、お前の口から経済的とか聞けるとは思わなんかったわぁ。買い食いの割り勘の計算もできんかった、数学のテスト一桁のお前が?」

 失笑を堪えると、栩木は顔を真っ赤に染めた。

「言うなアホ! 俺の唯一の黒歴史やねんから!」

 栩木はこちらに手を伸ばしてくると、首に腕を絡め、スリーパーホールドをかけてくる。昔チームにいた時から、照れると仕掛けてくる栩木の癖だ。といっても、押さえられる圧迫感はあるものの、気道も頚動脈も塞がれていないから苦しくはない。首の下に回っている腕を叩けば、簡単に腕が外された。

 乱れた首元を整えていると、またしてもパトカーが横切っていった。今度はサイレンは鳴らさず、ランプだけを点灯させていた。しかし、鑑識のワゴン車も一緒だった。

「向こう、何かあったんやろうか?」

 思わず漏れ出た言葉に、栩木は首を傾げた。

「ん? ああ、なんかパトカーよう見かける気がするな? 大きい音はせんかったから、事故やないと思うけど、なんかいややな……」

 栩木が不安げにズボンのポケットに手を突っ込んで、体を揺すった。

 蕗二も真似するようにポケットに手を入れた。そのタイミングを見計らったように、手の先で液晶端末が震えた。画面を見ればツヅミからだ。液晶端末の上に小さく表示された時間は、あれからもう一時間も経っていることをはっきりと示していた。せっかちなツヅミにしては待ってくれた方だろう。

「すまん栩木、引き止めて悪かった。もう戻るわ」

 短く断ってから踵を返し、電話を繋ぐ。遅いだの早く帰って来いだの小言が端末の向こうから一方的に言われる。ひたすら謝っていると、肩を叩かれる。手で今は無理だと伝えるが、気配は背後から離れない。

「気ぃつけろ、特に奈須なすには……」

 栩木の低い声が鼓膜を震わせた。弾かれるように振り返れば、栩木の姿はどこにもなかった。






 散々小言を言われ、挙句買い物の荷物持ちとして狩り出された。

 普段ツヅミひとりでは持てる荷物の限界があり、五階と駐車場まで往復する手間を一気に省けるのは分かるのだが、レトルト食品やトイレットペーパーなど一人暮らしにしては買い込みすぎだろう荷物の量だ。さらに、高いところへの荷物の収納やら掃除やらと忙しかった。

 夕飯を食べ、風呂に入れば日付を超える数分前の時間になっていた。風呂上りでタオルを被ったまま、バラエティ番組を眺めていたが、昼間のパトカーの件が気になって液晶端末を触る。インターネットを検索すれば、さすが情報社会と言うべきか、さっそくニュースとして上がっていた。

 ある焼き鳥店で、店長が事故死していたらしい。

 そういえばあの焼き鳥屋、店員が誰もいなかった。

 と言う事は、あのメンバーのうちの誰かが焼き鳥屋をやっていたって事か。

 背後に突然、誰かが立った。

 勢い良く振り返る。だが誰も居ない。

 ツヅミはもう隣の部屋で眠っている。

 鳥肌が肌の上を駆け上がり、冷や汗が湧く。心霊現象の類には興味もないし、今まで幽霊を見たり感じたことはない。虫の知らせとでも言うのか。気のせいだったとしても、気味が悪すぎる。

 塩でも撒くか、なんて一人笑ってみる。

 ピンポーン。

 突然鳴り響いた電子音に、体が跳ね上がった。

 ドアの向こうを見つめれば、もう一度チャイムが鳴った。聞き間違いではないようだ。その証拠に隣の部屋で寝ていたツヅミが起きてきた。

「何なん? こんな時間に……」

 噛み殺しきれていないあくびをひとつして、玄関を睨みつける。その様子から宅配の類などではないと判断した。蕗二は頭にかけていたタオルを左腕に巻きつけ立ち上がる。

「お袋、ちょっと待っとき。俺が出たる」

 深夜に尋ねてくるような輩にはろくな奴はいない。お袋が普段一人と言うこともあり、押し込み強盗や強引な勧誘、強姦など可能性のある犯罪を考え始めればキリはない。

 リビングと廊下を遮るドアをスライドさせる。廊下の先は真っ直ぐ玄関につながっている。

 人が入ることを知らせるように玄関の明かりをつけると、急かすようにもう一度チャイムが鳴った。ドアの覗き窓から外を見れば、小柄な女性が立っていた。

 見覚えのない女性だ。年齢は蕗二より若そうに見える。蕗二は眉間に皺を寄せる。こんな時間に女性一人? 一人はおとりで他は物陰に隠れてドアが開くのを待つ複数犯と言う場合もあるが、ドアが開くのを待つ姿に悪意は感じられない。浮かんだ疑問を抱いたまま、念のためチェーンは付けたままドアを開ける。

 ドアの隙間から外を覗くと、蕗二に驚いたのか、緊張した面持ちで女性が「すいません」とか細い声を出した。

「こんばんは?」

 首を傾げつつ挨拶をすれば、女性は引きった表情のまま、深く頭を下げられる。

「夜分遅くにすみません。初めまして、翔平しょうへいの……二葉ふたばの妻です。三輪蕗二さんのお宅で間違いないでしょうか?」

 蕗二は一度ドアを閉め、チェーンを外し、二葉の妻を名乗る女性を招きいれた。

 ドアの隙間からでは見えなかったが、二葉の妻は化粧もせず、服装も寝巻きのような軽装に上着を羽織っただけの姿だった。慌ててやってきたように見える。

「どう、されましたか?」

 職業病と言うべきなのか、職務質問のように問いかけそうになり、慌てて取りつくろったせいで、うわずった声が出てしまった。幸い、二葉の妻には気が付かれなかったようで、素直に答えてくれた。

「翔平の携帯に、メールが入ってて……」

 二葉の妻は鞄の中から液晶端末を取り出した。操作する様子から、どうやら液晶端末にはロックがかかってないらしい。細い指が二、三度画面の上を滑り、画面を差し出される。一言断って、端末を受け取った。

 開かれていたのはメール画面だ。送信された時刻は昨日の深夜3時。顔文字はおろか、絵文字も何もない。ただ一言『三輪蕗二に聞け』と言う短いメッセージと自宅住所が送られてきている。画面をスライドして、メール本文から送り主の名前に視線を移す。そこで蕗二は息を詰めた。

「誰これ?」

 いつのまにか隣にやってきていたツヅミが画面を覗き込み、怪訝けげんそうに眉を寄せる。理由は簡単だ。送り主の名前は「なすび」と書かれている。知らない人が見れば、ふざけているようにしか見えないが、蕗二だからそこ知っていた。

「なすびは、……高校野球部のキャプテンのあだ名だ」

 ツヅミが驚きの声を上げた。そう、母・ツヅミさえも知るはずもない。奈須と茄子をかけた、このふざけのあだ名は、チーム内のごく限られたメンバーしか使わなかったのだ。誰から送られてきたか判断しにくい状況で、蕗二の名前を指定してきた。明らかに、何かが起こっている。

 不安と苛立ちに眉間に深い皺を刻んだ。が、ツヅミに二の腕を叩かれ、はっと顔を上げれば、二葉の妻が不安げにこちらを見上げていた。『お前はけもあって顔が恐いから嫌でも威圧的になる。一般人はびびったら言いたい事も言えなくなるんだ。だからまずは相手を恐がらせないこと。声は高めに優しく、なるべく穏やかにな』。交番時代、先輩に言われた言葉を思い出した。眉間の皺を摘んで揉み解しつつ、気付かれないようにそっと息を吐いて、端末を握り潰さんばかりの手から力を抜く。自分の手を腿に滑らせ、体を屈めてゆっくりと問いかける。

「二葉に……旦那さんに何があったんですか?」

 二葉の妻は、口を開いた。が、声は出ず、陸に打ち上げられた魚のように口を動かすだけだった。それに驚いたのは妻本人で、驚いたように口元を押さえた。なんとか声を絞り出したのか、かすれた声が耳に届く。

「主人は……」

 妻の声が途切れた。何かを我慢するように口元を押さえる白い手が震えている。じっと待てば、限界を超えたのだろう、増水した川が決壊するように彼女の両目から涙が溢れた。

「主人は、殺されました!」

 顔を覆い、二葉の妻は泣き崩れた。






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