File:5.5 ある刑事はすべてを思い出す




「ナイフを離せ」

 拳銃を突きつけたまま、低い声を出す。しかし、ナイフを持つ手から力が抜ける様子も、怯える素振りもない。ただ目深に被ったフードの奥、畦見聖人あぜみきよとは口の端を吊り上げて蕗二を見ている。

「畦見、お前、自分が何をしたかわかってんだろうな?」

 腹底から搾り出す声は、猛獣の唸り声そのものだった。

「もちろん。人殺しだよ」

 畦見はあっけらかんと答えた。

「だってさ、平和すぎるから。ちょっと刺激あったほうが良いでしょ? テレビのニュースだってほら、殺人事件があったほうが視聴者盛り上がるじゃん? 犯人はどうとか、探偵ごっこしちゃってさ。でも、他人事だから楽しんじゃって、ちょっとムカつくから、皆もたまーには命のありがたみって奴を感じたほうが良いと思って? 俺、めっちゃ優しいでしょ?」

 無邪気に歯を剥いてニカリと笑う。その笑顔に、目の端が痙攣けいれんするのを感じた。

「お前、それ本気で言ってんのか?」

 畦見は笑顔のまま首を傾げる。

「復讐、じゃ、ないのか?」

 思わず声が詰まる。畦見は蕗二の言葉を理解できないのか、ますます首を傾げていたが、ようやく噛み砕くことができたらしい。納得といった表情を浮かべる。

「あれだよね? 復讐とか聞いちゃうあたり、あのクソ親父がゲロったってこと? 自分が悪いことなーんにも認めない奴が? うっそだぁ、全然信じられないんだけど、もしかしてこれのせい?」

 被っていたフードの中に手を入れ、耳を引っかける。指先で弾いているのか、青い光が小刻みに光りを反射した。蕗二が眩しさに目を細めると、「な訳ないか?」とピアスから指を外した。

「残念ながら、そのクソ親父から聞いた。間違いない」

「マジで!? うわすげぇ、どうやったの? 教えてよ警察さん! ん? てゆーか、警察だよねお兄さん? 刑事さんって呼ぶべき?」

 蕗二の返答にはしゃいだかと思えば、突然表情を落ち着かせたり、ころころとせわしない。まるで子供のように無邪気だ。しかし、手に持ったナイフやパーカーに飛び散った血飛沫ちしぶきが違和感を生んで、ますます混乱を招く。

 拳銃を構えた時点から、畦見がするだろう反応を考えていた。拳銃を向けた蕗二を認識した畦見は、逆上すると思っていた。両親からもらうことのできなかった愛情や深い恨みを晴らすため、怒りに身を任せ、この世への怒りを、人への八つ当たりだと喚き散らして、癇癪かんしゃくを起こした野獣のようにむちゃくちゃに暴れるものだと思っていた。

 だが、違った。畦見は何かが違う。

 薄気味の悪い感情が背筋をなぞり、鳥肌が皮膚を波立たせた。それを振り払うように、蕗二は足を踏みしめなおし、ぶれかける拳銃の焦点を正した。

「警察だってわかってんなら、さっさとナイフ捨てろ。撃つぞ」

「ん? いいよ?」

 突然、畦見が腕から力を抜いた。指からナイフが離れそうになった直後、突然畦見が半身を捻った。腕は大きく振られ、あっという間もなく畦見の手からナイフが離れた。畦見の後ろには、いつの間にか逃げていたはずの人々がこちらの様子を恐る恐る見ていたのだ。高速で縦回転したナイフは中年の男の胸に突き刺さった。男が呆然としたまま、二三歩後ろに後ずさると膝から崩れるように倒れる。やっとそこで自分たちの危機を再び察したのか、半狂乱の悲鳴とともに蜘蛛の子を散らすように人々が逃げ始める。

「やったね! めいちゅー」

 手を叩いて体を跳ねさせて喜ぶ畦見の間合いに蕗二は踏み込んだ。左手で畦見のえりを捉え、そのまま畦見の足の間に踏み込んだ右足を引っかけ引き倒そうとした。

 が、悪寒が背筋を走り、脊髄せきずい反射のように飛び退いた。目の前を銀色の尾が下から上へと駆け上がる。

「おっしぃーな!」

 畦見の跳ねるような声にさらに後退し、拳銃を目の前に構えなおす。底面グリップエンドを支える左手に違和感を覚え、ちらりと見れば、手首に赤い線が走っている。視線を戻せば、畦見はさっきとは違うナイフを手に持っていた。

 耳元で血の気の引く音が聞こえる。目を離した手首からは液体が流れ皮膚の表面を伝い流れる感覚。あの一瞬、少しでも身を引くのが遅かったら、手首に深く刃が入っていたはずだ。

 手首の傷がわずかなかゆみと引きつるような鋭い痛みを訴え始め、堪らず舌打ちをする。睨みつければ、畦見は笑顔のまま、ナイフを挑発するように振って見せた。

「あっは! ナイフが一本なわけないじゃーん! てゆーか、撃てないのに、撃つとか言っちゃダメでしょ?」

 畦見の言葉に、蕗二は喉に空気を詰まらせた。一瞬よぎった言葉を飲み込んだのを、畦見は容赦なく言葉としてつむぎ出す。

「あいつら馬鹿だよねぇ? そんな近くに居たら危ないのに。ぜーたい楽しんでるよ? 俺がナイフ投げなかったら、今頃刑事さんに撃て撃てって野次やじ飛んでたと思うんだけど、どう思う?」

 反論はできなかった。蕗二はすぐにでも畦見を撃つことはできた。だが、畦見の後ろに、逃げていたはずの人々がじわりじわりと集まってきていることには気が付いていた。だから、撃てなかった。畦見との距離は3メートルも離れていない。今手に構えている拳銃には、最低限まで威力を落とした弾丸が込められているが、銃であることに変わりはない。最悪畦見の体を貫通かんつうして後ろにいる一般人に当たる可能性は十分あったうえ、当たり所が悪ければ死にいたらしめることができる。こちらが撃てない状況であることも知っていて、こいつは行動した。

 奥歯を割れんばかりに噛み締めて、悪態あくたいを付きそうになる口を止めるその様子に、畦見は目と口を三日月のように細めた。

「ねぇ、刑事さん。俺は復讐なんてしないよ? ただ、親父がやったことって、何の意味があるのかなって……考えたことあるんだ。ぶっちゃけさ、俺が死んでも、他の女と子供作れば、また子供できるし、俺ってただの暇つぶしなのかなって? でね、街を歩くとさ、少子化とかなんとか日本人口が減ってるとか言うけど、人間っていっぱいいるじゃん? だったら、ちょっとくらい殺しても良いじゃないのかなぁって。目障りだし、ぼんやり生きてるような奴も居るし、死にたいとか、なんか世界変わんないかなぁとか夢見ちゃう人も居るし? じゃあ、叶えてあげようかなって。ほら、警察も仕事できるし、テレビも喜ぶでしょ? あっは! 俺の存在意義もできるじゃん? めっちゃウィンウィンじゃない?」

 楽しげに、どこかうっとりするような笑みに、蕗二は腰が引けそうになるのを、必死で押さえつける。

 だが拳銃を構える手が震えていた。警察になって頭のおかしな人間を見てきて、ほとんど素手で制圧してきたはずなのに、今両手の中に人を殺せる武器を持っているはずなのに、本当にこの人間を殺せるのか分からなくなった。

 こいつは、たぶん楽しんでいる。存在意義のようなことを口走っているが、たぶん違う。ただ命を狩る事が楽しいのだ。子供が特に意味もなく、虫を踏みつけて殺したり、バラバラに解体するのと変わらない。遊びの延長戦。犬も猫も人もそう、大差ない。

 狂っている。狂っている。こいつは本当に化け物だ。

 恐怖がこちらを飲み込もうと手を伸ばしている。言い表せない本能的な命の危機。

 逃げてしまえ、こんな奴なんかほっといて逃げれば良い、誰かが何とかしてくれる。

 頭がガンガンと警告を鳴らし、逃げろ逃げろと追い立てる。

 それでも、水に浸した紙切れのような意地と警察としての使命感のようなものだけで、本能に抗っていた。

「そうそう思い出した。俺さぁ、11年前の事件、参考にしたんだよね。ほら、大阪であった無差別通り魔事件だよ、お兄さん知ってる?」

「え?」

 突然、問いかけられた疑問に、「耳を塞げ!」と叫ぶ本能に従うには遅すぎた。恐怖が手足を掴んだまま、離そうとしない。ただただ、暴風雨にさらされる木々のように、畦見の言葉が体に叩きつけられる。


「その事件、たしか6人死んだんだけど、なんと! その犯人、捕まった後、自殺しちゃってさ?」


傑作けっさくだよねぇ。遺族号泣しちゃって! どこの番組に替えても、ニュースがそればっかりやるんだよ」


「死んじゃったヒトの家族に蝿みたいにたかって、かわいそーかわいそーってさ! あっは! 楽しんでるの、丸分かり! どうせ他人事なんだから、面白いし楽しいに決まってるよね? あは、あははははははははははははは!」


 畦見の声が、建物に反響して頭上に降り注ぐ。豪雨を浴びたように、ぐっしょりと全身が濡れ、肌から染み込んだ雨は大きな雫となって、ポチャンと音を立てて腹底に落ちた。

 その瞬間、頭の中に響いていた声も、恐怖の手も、何も感じなくなった。

 感覚が麻痺してしまった。いや違う、逆だ。今まで夢をみていたのかもしれないと錯覚するほど、薄っすら曇っていたガラスを油脂までしっかり落とし鏡のように磨き上げたような、色や影まで世界がはっきりと見える。そして皮膚を一枚はいだような、爪の先まで神経が研ぎ澄まされる感覚。

 まるで最後の一枚が欠けていたパズルのピースがまったように、しっくりと来る。

「ふっ」

 口の端が引きつった。口元を押さえれば、口の端が持ち上がっている。吐いた息は笑い声になっていた。一度口から出てしまえば、咳をするのと変わらない、笑いが押し出され止まらなくなる。こんな状況なのに、手を叩いて笑いたくなった。腹を抱えて地面を転がりまわらないだけ、まだ自分を制御している。

 畦見は意味が分からないと、こちらを見ている。それもそうだ、俺だって犯人が突然狂ったように笑い出したら気持ち悪いと思うよ。でもな、笑うしかないんだ。

「ああ、マジかよ」

 そうだ、『これ』だったんだ。『全部』思い出した。

「よーく、知ってる事件だ。畦見、三輪みわって名乗ればわかるか? 俺は、あの時死んだ、刑事の息子だよ」

 丁寧に、警察手帳まで出してやる。フードの奥で目を細めた畦見は、手帳の文字を読んだのだろう。蕗二と写真を見比べると、興奮したように顔を赤くした。

「マジかよ超傑作ちょうけっさく! 死んだ警官の子供!? マジで!?」

「マジだよ、傑作だろ?」

「すっげぇ! 何これ因縁の対決って的な? そういえば、お兄さんの顔見覚えあるわぁ! お前のお母さん、カメラ向けられたらめっちゃ泣いてて嫌がって……」

 畦見の後ろ、店のガラスが大きな音を立てて粉々に砕け散る。畦見は自らの左耳を押さえた。ゆっくりと手を離すと、てのひらに血がついている。耳の端から血がにじんでいるのだ。畦見が上げた視線の先、右手だけで構えた拳銃の銃口から、薄っすら白い煙が吐き出されている。

「ああ、悪い悪い。笑いすぎて外したわ」

 悪びれもなく、空笑いとともに言葉を吐き捨てる。

 今、蕗二の目の前には、記憶が鮮明に再生されている。

 あのクソ野郎は、大勢の人を傷つけ、命を奪い、俺の親父を目の前で殺したくせに、勝手に一人で死にやがったんだった。なぜあんな事をしたのか、理由も何もわからぬまま、のこされたのは両手に抱えられるほど小さなつぼに入った父の骨。

「11年前の事件、参考にしたんだったら分かるよな? この後、被害者に何が待ってるか」

 連日見たくもない事件の概要がいようを一から何度も何度も説明され、あれこれ芸能人やらニュースキャスターが推理小説さながらあーだこーだ推測し、ネットは死んだ父を税金の無駄遣いだとののしり、根掘り葉掘り調べられ、家の前や学校にマスコミがいて、無機質なカメラのレンズを向けられた。

 嫌がれば嫌がるほど、喜んでいるように見え、いつになったらこの地獄が終わるのか。外でバットを握ることはできず、一緒に部活をしていた学校の連中も、どうするべきなのか戸惑っているような気がした。すれ違う見知らぬ人も、時々見る近所の人も、哀れみと面白半分の目を向けているような気がした。昼夜問わず、外ではマスコミがハイエナのように息を潜め、または獲物を狙うライオンのように徘徊はいかいしている。

 カーテンを閉め切った部屋、明かりをつけるのも忘れ、部屋の隅でブランケットを頭から被ってじっと暗闇を見つめていた。隣の部屋では父の骨を抱きかかえ、母が一人泣き続けている。一緒に泣けばよかったんだろう。やめてくれ、もう泣くなと母に声を上げればよかったのかもしれない。だが、今まで見たこともないほど母が目をらして、聞いたこともない慟哭どうこくを上げ泣く姿にどうすればいいか、十七歳の自分には到底分からず、手本になる父はもうこの世にはいなくて、結局何もできず、無力な自分への罰のように、ただただ闇の中、母の嗚咽おえつを骨の芯まで染み込むほど、聞き続けていた。

 そして、俺はバットを持つのをやめた。

 かつて砂埃を舞い上げて疾走したマウンドに、近づきもしなかった。

 涙は流す前に枯れた。押さえ込んだ悲しみや辛い事実に硬い蓋をすれば、残った怒りだけが生きる道を指ししるした。

 刑事になれ。そして≪ブルーマーク≫を許すなと。

「まあ、確かに。警察やってたら、頭おかしい人間も居るし、警察ってだけで因縁つけられたこともあるし、危ないって言っても野次馬が集まってきて勝手に危険な目に遭って、何してんだとか思ったよ。周りを見れば、ぼんやり生きてる人間や流されてる人間だって居る。死にたいと思いながら生きてる奴だって居る。だけど、生きたいと思った人だって居る、夢に向かって進んでた人も居る、幸せを掴んだ人だって居る! なのに、お前何様だ? なんで勝手にてめぇの物差しで計って、人の人生を決めてるんだ? 神様のつもりなのか? 自分のことカッコイイとでも思ってるんだろ? 何がウィンウィンだ! ふざけんな! てめぇの自己満足のために、人を巻き込みやがって!」

 喉が裂けんばかりに怒声を上げ、拳銃の焦点を畦見の額の真ん中に向ける。

「お前に生きてる価値なんかねぇよ! 今ここで、死んでびろ!」

「やってみろよ! あんたの正義で、俺をさばいて見せろ!」

 畦見の声に目の前が真っ赤になる。手に力が入り、握りこむように引き金を引いた。鼓膜が破れそうなほどの、大きな爆発音。腕に走る衝撃。一瞬目の前に漂う白い煙と、焦げた火薬の匂い。

 畦見が膝を折り、崩れ落ちる。

 だが直感は、違うと告げていた。

 俺が引き金を引くより早く、先に畦見は足が撃ち抜かれ、『はずさせた』のだ。

 その証拠に、うずくまった畦見は右足のふくらはぎを押さえ、うめいている。

「蕗二さん!」

 頬を殴りつけるような怒声に視線を向ける。青い顔をした竹輔が、拳銃を構えていた。両手で構えられた黒い拳銃。銃口は真っ直ぐこちらを向いている。

「銃を降ろしてください!」

 青い顔をしたまま、吠える竹輔。その後ろで、氷の眼でこちらをにら芳乃ほうのが立っていた。

 体が震えた。怒りを押さえつけた反動だ。

 何で分からない。こいつは今ココで殺すべきだ。更生こうせいの余地なんてない。反省なんてするわけがない。11年前のように、自殺なんて絶対に許せない。

 理由も告げず、償いもせず、罪もない人を殺しておきながら、受けるべく非難や受けるべき罰から死んで逃げることなど許せるわけがない。

 なら殺してやる。殺してやる。殺してやる!


「そうか、あんたも同じか」


 耳元で笑い声が聞こえた。青い光が視界の端をかすめる。腹に氷を押し当てられたような冷たさの直後、真っ赤に焼かれた鉄を押し当てられたような強烈な熱さと、感じたこともない激しい痛みに、喉から声が割れるほどの絶叫を吐き出した。畦見の手が腹に押し当てられている。そこから痛みが湧き出している。畦見の手を掴み、体を引き剥がそうともがくが、もがけばもがくほど腹の痛みが増すばかりで、上手く体に力が入らない。首に腕が巻きついて体を引くこともできない。痛みで浮き出す汗と涙で視界が濁り、爪を立てるので精一杯だ。

「刑事さん、あれでしょ? 憎い相手が殺せなくて、どうすれば良いのかわかんないんだ? 俺も一緒。あのクソ親父をぐっちゃぐちゃになるまで殺したくてたまらないのに、なんでかねぇ、殺せないんだ。変だよね、もう頭おかしくなりそうなのに」

 畦見の声が耳の穴へとじ込まれる。反論しようと口を開ければ、荒い息とともに唸り声が出るばかり。

「でも、刑事さんはいいよなぁ、大切なものがあるんだから。仲間とか、心配してくれる人がいるって、ほーんと、うらやましすぎて……目障りだから、死んでくれよ」

 突き飛ばされ、腹から痛みが引いた。畦見の脇で血が滴るナイフの刃が構えられ、鋭く突き出される。その軌道が胸に向かっていると頭が認識するよりも先に右足が振り上がり、畦見のすねを蹴りつける。ちょうど竹輔が打ち抜いた箇所だ。痛みに畦見の体が傾いたその一瞬、ナイフを持つ手を掴み、同時に畦見の脇に腕を差し入れ、背負うように体を掬い上げ、回転と畦見の体重を利用してそのまま地面に叩きつけた。待っていたとばかりに複数の手が四方から伸びてきて、畦見を押さえつける。捜査14班の三人だ。一人が首根っこから肩を抑え、一人が両足に乗り上げ、もう一人は蕗二が抑えた反対側の手を捻り上げる。蕗二は畦見の手首を内側に捻り、ナイフを奪った。血塗れのナイフを遠くに放り、捜査員とともに両手首を交差させるように捻りあげれば、関節が固定され、自分では立ち上がることはできない。肩を膝で抑えていた捜査員が、手錠を取り出しながら耳の無線へと手を当てる。

「犯人確保! 犯人確保おおおお!」

 無線に怒声が流れる。だが、それが聞こえなかった。そこで、蕗二は右耳にめていたはずの小型無線が外れていることに気が付いた。遠からず近からず、パトカーと消防車、救急車のサイレンが入り混じっている。

「三輪蕗二」

 足元から聞こえる声に視線を向けると、畦見が組み敷かれたままこちらを見上げて笑っていた。

「忘れないでよ。俺とお前は同類だ」

「いや違う。お前は殺人鬼で、俺は警察だ」

 他に武器を隠し持ってないか検査が終わったらしい。足と肩を固定していた捜査員が畦見を引き起こす。引きられるようにしながら、俺から目を離そうとしなかった。捜査員たちの間から見えた畦見の口は動く。いつか分かるよ、そう聞こえた気がした。

「三輪さん」

 名前を呼ばれ首を捻ると、足を抑えていた捜査員が、なぜか蕗二の肩を掴んでいた。

「とりあえず座ってください。怪我してます」

 そう言われた瞬間、まるで膝裏を押されたように体が沈みこむ。体が言うことを利かず、とっさに踏ん張ろうと力を入れたはずの膝が笑い、足がからまった。

「蕗二さん!」

 竹輔の悲鳴とともに背中を支えられるが、重心を大きく崩した体は重かったらしい、踏鞴たたらを踏んで尻餅をついた。倒れた衝撃しょうげきが体中に響いて、肩を支える手を振り払って、そのままアスファルトの上に寝そべる。痛みに押さえた腹が濡れている。なんでだ? 確認するように手を持ち上げれば、左手は赤黒く濡れていた。ペンキに手を突っ込んだみたいにべっとりとしたたるほど。

 あれ? 俺、刺されたのか?

「至急至急、捜査14班より本部。捜査員一名負傷、応援願う!」

「蕗二さん! 大丈夫です、すぐ、すぐ救急車に運びますから!」

 いつの間にかかたわらで膝をついていた竹輔が上着を脱いで雑に丸め、蕗二の手をどける代わりに押し当てる。捜査で使う使い捨てのゴム手袋を芳乃にめさせ、布を押さえているように指示し、素早く立ち上がると、捜査員とともに走り出した。

「刑事さん。体勢はきつくないですか?」

 こちらを覗きこむ芳乃の眼は、氷の冷たさを感じない。芳乃の後ろ、白く丸い月がこちらを覗きこんでいた。オレンジが薄れ、薄紫色の空が高く感じるのは、地面に寝そべっているからだろうか。

「芳乃こそ、大丈夫か? 怪我はないんか?」

「坂下さんが居たので、大丈夫です」

「そっか、それならええわ」

 周りを見渡せば、消防と警察、救急隊員などが走り回り、倒れた人々の救助や状況の確認が始まっていた。緊迫した現場に見覚えがある。あの時は、俺が膝をついていて、かたわらには父が倒れていた。

 怒りと困惑、冷たくなる父の体。早く助けてくれと叫んだ気がする。だが、今こうしてみると、皆必死で救助に当たっていた。言われなくてもわかっている。何もできず、ただ叫ぶ自分は本当に馬鹿で無力で、幼かったんだなと思う。それに比べ、かたわらで傷口を押さえる少年は、逃げずにいる。

「お前、偉いな。俺が同い年ぐらいの時、半泣きやったのに」

「偉くなんか、ないです。頭が真っ白で、なにも、できません」

「そりゃあ、頭真っ白になるやろ。普通に恐いで? 目の前で人が巻き込まれるんやから……ほんまごめんな」

 息を押し出すとともに言葉を吐けば、黒い眼がこちらを睨みつける。

「なんで謝るんですか、やめてください」

 しぼり出すような芳乃のうなりに、口を閉じる。芳乃の顔に血の気はない。死体とか現場を見て、メンバーの中でも特に血の気を引かせる姿はよく覚えている。数時間前、竹輔と話し合って、最悪の事態のときは芳乃の避難を優先するように決めたはずだ。竹輔が無理やり芳乃を連れ回すとは考えられない。それなら、芳乃は自分でこの凄惨せいさんな現場に残ると決めたのか。下唇を噛み締め、垂れている目尻を吊り上げている。混乱する思考をどうにか動かそうとしているらしい、時折音もなく口が動いている。

「なあ芳乃、あれやあれ。えーっと、銃しまうベルト、外せへんか?」

 手持ち無沙汰では、焦りが積もるだろう。芳乃の押さえる布を代わるように押さえると、芳乃の手が飛びつくように、ショルダーホルスターを観察しはじめる。装着したこともないだろう装備だ、外す手順を教えようと口を開く前に、芳乃はバックルを緩め、焦ったようにホルスターを体からむしり取る。さらに、ズボンからベルトまで乱暴に引き抜いた。

「痛い痛い痛いッ、もうちょっと優しくしてくれへんか?」

 茶化すように文句を言うが、体勢が楽になる。忘れていたが、手錠やら携帯式警棒やらの装備が挟まっていて、背中が仰け反っていたらしい。肺一杯に空気を取り込むと、腹に鋭い痛みを感じる。だが、畦見と掴み合いになったときよりも痛みはマシだ。興奮して痛みに鈍くなっているのかもしれない。

 痛みが出ないぎりぎりの深さで息をしながら首を動かし、再び傷口を押さえる芳乃の手を見ようとするが、体を動かすと傷に響く。だが、竹輔の上着が吸いきれなかったんだろう、腰から尻あたりに濡れた感覚がすることを考えると、出血が多いなと他人事で思う。

 ぼんやりと月を見つめていると、慌しい足音が近づいてくる。視線だけを向けると、竹輔と白いヘルメットにマスク、青い上着を羽織った女性が走り寄って来た。女性はほとんど滑り込むようにかたわらにひざまづくと、左手首をつかまれる。脈を取ろうとしているらしい、手袋越しに手首から肘の柔らかい内側をなでられる感覚がくすぐったい。笑いを堪えていると肩を叩かれ、視線を合わせるように促された。

「お名前は分かりますね」

「三輪、ふきじです、けいじです」

「刑事さんですね、頑張りましたね」

 俺の右手首に何か巻いた。視線を向ければ、値札のような紙が巻かれていた。名前や性別などが書かれた紙の端には黒赤黄緑のラインが見える。そして、黄色と緑のラインがまとめて引き千切られた。竹輔の息を呑む音がする。

「赤か、輸液全開するぞ」

 いつの間にか、もう一人女性と同じ恰好かっこうをした男が女性の反対側に膝をついていた。

「刃物により正中より左腹部刺創しそう、CRT遅延、頻脈ひんみゃく……あなた足上げて!」

 女性の声に竹輔が機敏な動作で足元に移動すると、膝下を持ち上げられる。芳乃に代わり、女性が傷口を請け負う。血で重たくなった服をどけ、傷口を見てすぐさま隣に置いていたクーラーボックスのようなものを開き、青い布と銀色のはさみのような器具を数本取り出した。

「開腹止血する、担架たんかこっち急いで!」

 なぜか慌しくなってきた。そんなにまずい状態なのだろうか。

「……あの、俺そんなにやばいですか? あれ? そっか、俺さっきまであのバカと、やりあって、刺されたと思うんですけど。必死すぎて、なんやろ、全然覚えてへん……」

 頭がぼんやりして考えがまとまらない。なのに、なんだか落ち着かず、意味もなく言葉をらす。男性は「大丈夫ですよ、助けますから」と早口に告げながら、腕に繋がった点滴の袋を持ち上げる。

 腹に心臓がもうひとつ生えたように、脈打っている。傷口は熱いのに、体は冷えていく気がする。ふと目が回っているように頭が揺れた。急激な眠気にまぶたが重くなる。

「刑事さん!」

「蕗二さん、蕗二さん! 寝るな!」

 答えなければ頬を一発叩かれるんじゃないかと思うほどの怒声に、重い瞼をこじ開けて、なんとか開いた右目でみれば、激しい剣幕けんまくの表情を浮かべる竹輔に思わず笑う。

「竹、お前、顔恐いぞ」

 普段怒らないやつが怒ると恐いなと、そんな軽口をきいたはずだが、言葉は口の中にとどまった。さっきまではしゃべってないと不安で仕方なかったはずなのに、気だるさが上回って言葉を発するのが億劫おっくうで仕方がない。額や首筋から流れる汗が冷たい。汗を拭おうと持ち上げた手が上手く上がらない。指先はひどくしびれている。氷水に手をしばらく浸したような、感覚が鈍く遠い。

 寒いな。

 その声は自分が呟いたのか、どうだったのか。

 そんなこともわからないまま、部屋の電気を消すように、目の前が真っ暗になった。





















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