File:6 刑事になったある男の追憶






 目を開けると、赤い絨毯じゅうたんが敷かれていた。

 瞬くにつれ、鮮明になる赤。

 見渡す限り、一面を真っ赤な花が覆っている。

 膝辺りまである、赤く細いリボンにカールをつけて、幾重いくえにも重ねたような花。

 川辺で見たことがある。たしか、彼岸花だ。

 赤は好きじゃない。いろいろと思い出す。

 ……色々とはなんだろうか? そういえば、自分はなぜ、こんなところにいるんだろうか。

 考えてみるが、もやがかかったように思い出せない。

 左手がいつの間にか左腹をさすっていた。軽く服をめくるが、特に怪我をしているわけではない。

 見渡す限り花で覆い尽くされ、誰一人として気配はない。夜なのだろうか、月や星は無く、空は墨で塗りつぶされたように真っ黒だ。なのに、赤い花だけがはっきりと見える。

 立ち止まっているのも落ち着かず、当てもなく歩いてみる。

 花びらを散らさないようにゆっくり分けながら進むと、花たちはからかうように膝をくすぐる。風が吹いているわけでもないのに、彼岸花が揺れている。わずかに聞こえる花たちの擦れ合う音が子供のささやき声に似ている。不気味ではない。無邪気で楽しげで、歓迎されている気がした。赤色は嫌いだが、このまま赤い花に埋もれてしまってもいいんじゃないか。それが当たり前のような気がした。

 何かおかしい、そう頭の端をかすめた思考は、すぐに掻き消えてしまう。

 何も思い出せない、何も分からない、心配事もない、背負うものもない。なんだか身軽だった。もしかしたら、今まですごく疲れていたのかもしれない。

 膝をくすぐっていたはずの花が腿をなで始めている。

 花が笑う。笑う。楽しげに。子供の頃に戻ったように、遊ぼうよ。

 誘われるまま駆け出そうとした瞬間、後ろに手を引かれる。子供につかまれたような感覚。

 振り返れば、白い花びらが小指に絡まっていた。

 同じ彼岸花なのに白いそれは、振り払ってしまえば簡単に取れるだろう。なのに、それができなかった。

 立ち止まり、指先で慎重に絡まる花びらを解く。

 心配するように、名残惜しげに花びらが指を撫でて離れる。

 すると突然、今までいなかったはずの人の気配を感じた。

 弾かれるように顔を上げる。

 離れた場所に人影が見える。腰を赤い花に埋もれさせた男が見える。

 見覚えのある背。

 見上げる背。

 もう、見ることのできない背。

「父さん」

 口から言葉が零れた。離れた男には聞こえないほど小さな呟きだった。だが、背中がゆっくりと振り返る。

 そして、こちらを見て目を丸く見開いた。

「蕗二」

 低い声になつかしいと感じる。もう忘れかけていた、父の声。

 彼岸花を掻き分け駆け寄る。引き止めるように足に花が絡んでも、無理やり足を進める。

 近づけば近づくほど、間違いじゃないことが分かる。

 何度瞬いても、腕を伸ばせば届く距離まで近づいても、懐かしい父の姿は消えなかった。

 だが、触れば消えてしまう気がして、手を伸ばすことはできなかった。もどかしさから、スラックスをつかんでしまう。何を言えばいいのか迷い、陸に上がった魚のように口を動かしていると、父は堪えきれなくなったのか突然腹を抱えて笑い始めた。

「なんや蕗二、でかくなったわりに、ちーとも変わってへんな?」

 大型犬を撫でるように頭を掴まれ手荒く撫でられる。懐かしい、立ったまま自分の頭を撫でることのできる人は、父以外いなかった。そして気付く。今、俺の身長は父よりも高かったはずだ。父が俺を見下ろしている事は、あり得ない。そう、全ては妄想だ。わかっている。わかっているはずなのに、甘んじて受け入れる自分がいた。

「なあ、親父……俺は、死んだんやろか?」

「さあ、夢かも知らへんで?」

 大きな手が離れる。伏せていた顔を上げれば、父が眉尻を下げて笑った。

「まあ、せっかく来たんや。ちょっと歩かへんか?」

 そう言って蕗二の返事も聞かずに歩き出してしまった。ちょうど股下あたりに頭をもたげる彼岸花は時々足に絡んで、行く手を阻もうとする。咲き乱れる彼岸花の間を、難なく歩く父に追いつくまで苦労した。

 やっと追いつき、肩を並べる。いつも見上げていた父の顔を目の端で盗み見る。遺影に使われているのは、警察官の証明写真だ。一文字に唇を結び、真っ直ぐ前を見つめる写真の中とは違い、隣で歩く父はまるで別人だった。緩く弧を描く口元と警戒心もなくゆったり大股で歩いている。そうだ、刑事ではなく『父親』としての父は、母の尻に敷かれ、酔いつぶれて菊田に介抱されて家にたどり着いたり、近所の犬に吠えられて飛び上がったり、刑事と言ってもあまり信じてもらえなさそうなおだややかな人だった。だが、最後に犯人と渡り合った時の表情は、数々の凶悪犯と対峙たいじしてきた一人の刑事のものだった。

「親父は、刑事やってて、恐くなかったんか?」

 言葉を漏らした途端、肩を強く突かれ体がよろける。文句を言ってやろうかと睨みつけると、父は子供のように口を尖らせていた。

「辛気臭いなぁ、普通それ聞くか? こういう時は、こう、懐かしい話とかするもんちゃうんか?」

 不機嫌をあらわに胸の前で腕を組んで、眉間に皺を寄せられる。突かれた肩を撫でながら、問いかけておいて不躾ぶしつけだったと気が付いた。

「そ、それもそうやな……」

 話題を探していると、父は大きく口を開けて豪快に笑った。「冗談や」ともう一度肩を拳で突かれる。

「お前も刑事になったんやったら、わかるやろ? そんなん恐いに決まってるやん。いつだってそうや、恐かった。相手のほうが強い武器持ってた時とか、『あ、死んだ』とか思ったこと何べんもあるで? でも、おれが助けな誰が助けんねん。警察やからこそ助けた命も、守った命もある。ちゃうか?」

 二度も小突いた肩を撫で、労わるように軽く叩く。

「だから、お前を守れてよかった。今も思ってんねん。もしあの時、蕗二が死んでたら、俺は死ぬほど後悔したはずや。高校を卒業してへん、成人式も迎えられへん、この先俺よりもずーと未来があるはずの息子が死んだ未来なんて、見たくなかった」

 肩を叩いていた手が止まる。肩を包むように指が添えられる。

「辛かったな、お前に我慢ばーかりさせて。旅行もあんまり行けへんかったし、野球の試合もほとんど観に行けへんかった。母ちゃんも、お前に任せてもうたし、ほんま……いい父ちゃんやなかった」

「そんなこと……!」

 肩に触れる父の手を掴む。振り払われると思ったのか、すがるように肩に指が食い込んだ。その大きな手は小さく震えていた。

「確かにそうや。旅行もすっぽかされたし、野球の試合に来てくれたのは、たったの三回だけや。親父が死んでからお袋はずっと泣いてて、ほんまどうしたらええんやって、思った」

 正直、旅行の予定を突然キャンセルされ、家を飛び出した父の背に怒りを感じたり、野球の試合に家族総出で応援に来ている仲間を横目に、いない父の姿を探す寂しさを感じたこともあった。だが、刑事になってわかった事がある。捜査が長引き、徹夜を強いられた時、被害者遺族と対面した時、突然呼び出され休日が丸々つぶれた時。きっと父も申し訳なさや怒り、やるせなさを抱えていたんだろうなと、身に沁みて感じた。だから、今、父の気持ちが手に取るようにわかった。

 父は恐かったんだ。父親らしいことができず、大切な時にそばにいられなかった自分を、死んだ今も責め続けている。自分がした行動に間違いがなかったのか、何度も反芻はんすうしては、後悔ばかりして。

 あの時、人混みに紛れた俺をすぐに捜さなかったのは、人々の安全を確保し、警察なかまに異常事態を的確に知らせていたからだろう。そして、凶器を向けられた俺の前に飛び出せば、命を落とすことはわかっていたはずなのに、父は躊躇ためらいもしなかった。

 馬鹿だとののしれるくらいに真っ直ぐで、誰よりも勇敢ゆうかんな人。

「俺はあんたが父親でよかった」

 正面から目を見つめ、はっきりと言葉にする。肩を掴んでいた手を外し、握り締める。強く、この言葉が嘘偽りではないと、伝わるように。

 父は呆然とこちらを見ていたが、小さく息を吐くと震えそうになる口を結んで頷いた。

「そうか、よかった……」

 零すように呟いた言葉とともに、目頭を押さえる父に、なんだか照れくさくて鼻を擦れば、父も同じ仕草をしていた。

 硬く手を握り合い、どちらからともなく笑い出す。

 それを打ち消すように、彼岸花が大きな音を立てた。赤い絨毯が揺れ動き、荒れた海原のように波打っている。花同士が擦れ合う音は、先ほどと違い低く呻く声にも聞こえる。

 父は目を細め、花を見つめる。突然張り詰めた空気に父を見上げ答えを求めれば、安心しろと強く手を握られる。そしてゆっくりと手を解き、蕗二の背後を指差した。

「蕗二、あそこに川が見えるやろ?」

 父の指をたどり振り返る。だが、川らしきものは見つからない。

「あそこに向かって、真っ直ぐ走れ。何が聞こえても、絶対に振り返ったらあかん」

「親父、川なんて」

「だから、振り返ったらあかんって」

 後頭部に回された手が首を固定して、前を向かされる。

 もう一度目を凝らすが、やはり川は全く見えない。永遠と、真っ赤の絨毯が広がっている。

 花の色は、あの日父が沈んだ血の色に似ていた。漠然とした恐ろしさと、どうしようもない不安をあおるように足に触れる彼岸花の感触が、無数の手が張り付いているように感じて後ずさる。

「蕗二」

 後ろから腕が伸び、肩を抱かれる。

「なあ蕗二、お前は我慢しすぎや。いっぱい一人で抱え込むんやろ? たまには預けなあかんで? 濁った目じゃ、何も見えなくなる」

 落ち着けと、ゆっくりとしたリズムで肩が叩かれる。

「泣いてもええ、口汚くわめいてもええ、どんなに無様でも、生きるんやで。そんで、前を向くんや。立ち止まらずに進めば、どんな苦しい状況でも、きっと変えられる。自分の人生は、自分で決めるもんなんやで? そんでな、今度会うときは、そんな不安な顔見せんといてな? 人生にもう後悔はないって、目いっぱい笑って、報告してくれ」

「おやじ……」

「さあ、行け。走るんや!」

 背中を力強く押される。その勢いに乗って、走り出す。

「行くな、帰って来い!!」と後ろから悲痛な声で父が叫ぶ。だが、何があっても振り返るなと言う言葉を信じて、足を前に動かし続けた。

 彼岸花が絡んでも、花びらが散っても、ただひたすら前に

 走る。

 走る。

 走る。

 父の悲鳴が投げつけられる中、真っ直ぐ落ち着いた声が耳に届いた。


「またな、蕗二」


 遠ざかる父の声。胸を絞めつけられたように痛んだ。

 嫌だ、離れたくない。今すぐ振り返ってしまいたい。

 今離れたら、今度会うのはずっと先だ。もしかしたら、もう会えないかもしれない。

 あの日突然失った父ともう一度、話したかった。

 いっぱい話したいことがある。

 いっぱい伝えたいことがある。

 ごめんと伝えていない。

 ありがとうと伝えていない。

 ああ、ああ、ああ、なんでこんなに後悔ばかり。

 目が熱い。溶けてなくなりそうだ。涙が止まらなくて、瞬きすればするほど、溢れて頬を伝って顎から絶え間なく流れ続ける。鼻から息を吸おうとすれば、栓をしたように息が詰まる。もうすすれないほど、鼻水で詰まっていた。込み上げる嗚咽おえつを飲み込んで、引きつる喉から無理やり息を吐いた。

 行かなければならない。

 行かなければ、戻らなければ。

 一体どこに? 戻れば、この先に苦しみしかないと分かるのに?

 ああ、そうだよ。わかってる。

 それでも、行け。行くんだ。

 お前には、やるべきことがある。

 俺にしかできないこともある。

 待っている人が居る。

 だから、行け。行くんだ。

 前を向け!

 足を取られ、宙に体が放り出される。

 突然、目の前の彼岸花が途切れ、切り取られたように川に変わっていた。

 悲鳴を上げる間もなく、頭から川に落ちる。

 水面に叩きつけられ、激しい水音と泡とともに体が沈む。

 川の流れは穏やかなのに、暗く冷たく、そして苦しかった。

 水面を目指して腕や足を振り回しても、なぜか体は沈んでいく。

 水圧で胸を圧迫され息を吐き出してしまい、大量の泡が目の前を登っていく。

 揺らぐ水面は、もう遥か頭上に遠のいてしまっていた。

 これ以上空気を失っては堪らない。両手で口を押さえて、体を丸める。

 うつむいた視線の先、遠い水底に何か光る点が見えた。

 白く強い光。

 小指の先ほどの小さな光は、瞬き間に大きく広がり、次の瞬間には飲み込まれていた。

 目の底を焼く強烈なまぶしさに目を閉じようとして、もうすでにまぶたが閉じていることに気が付いた。

 どういうことだ。

 瞼に力を入れると、のりでくっつけられたようにまつげが引っ張られる。無理やり開ければ、またしても強い光が飛び込んできた。網膜を焼く痛みに涙がにじむ。

 少しずつ涙越しに光りを取り込み、徐々に眼を慣らしていけば、目の前に白い天井とカーテンレールが見えた。

 どうやら仰向けに寝ているらしい。周りは白いカーテンで覆われ、目隠しをされている。左に顔を傾ければ、波打つカーテンの向こうに人が通る気配がする。

 反対側に視線を向けると、窓を背に竹輔が座っていた。気持ちが良いほど晴れ渡った空に、涼しい風と暖かな太陽の光りで居心地が良いのだろう、竹輔は器用に座ったまま眠っている。ベッドに寝そべっているせいで必然的に下から覗きこんでいると、気のせいか竹輔は少し痩せたような気がする。あれだけの事件だ、自分が倒れていた分の処理までしたはずだ。疲れていてもおかしくない、起こすのも悪いだろう。顔を戻すと、なにか口元に当たるものがあり、手を持ち上げようとして腕に痛みが走る。正確には関節だ。古い機械を久々に動かしたように関節と言う関節が悲鳴を上げる。筋肉も強張っているらしい、筋肉痛に似た気だるさがある。体の動きを確かめるように、ゆっくりと体を動かしていると竹輔が身じろいだ。

「蕗二、さん?」

 夢から覚めたばかりの子供のように、わずかに開けた瞼の隙間からこちらを見る。そのままもう一度寝るかと思っていたが、目が合った途端、竹輔は椅子を倒さんばかりの勢いで立ち上がった。乱暴に目を擦り、こちらを穴が開くほど覗きこんでくる。

「なんや、なんか顔についてるか?」

 片眉を上げれば、竹輔は突然脱力したように座り込んだ。うつむいた耳が真っ赤になり、鼻をすする音が聞える。

「よかった、蕗二さん、よかった……」

 シャツの袖で目元を押さえ、嗚咽おえつを漏らし始めた。蕗二は痛みを堪え、点滴の管が繋がる腕を伸ばし、呼吸を引きつらせる竹輔の背に拳を落とす。

「泣きすぎや。もっと喜んでくれへんと、もっかい倒れるで?」

「それは、困ります」

 顔を上げた竹輔は涙と鼻水にまみれていた。それをハンカチとティッシュで拭い取っている間に、蕗二はやっと動くようになってきた手で顔についていた物を触る。口を覆う硬いゴムのような物を引っ張れば、耳に引っ掛け固定されている。首を振り、乱雑に剥ぎ取れば、正体は酸素マスクだった。体にはよく分からないが、赤や黄色のケーブルが着けられ、ベットの周りにある脈拍を測る装置などに繋がっているようだ。倒れていたとはいえ、大げさな装備だ。マスクを枕元に放り出し、凝り固まった体を解すように腕を伸ばせば、肩の関節が気持ちのいい音を立てる。

「竹、俺どれくらい寝てたん?」

「ニシュウカンです」

 竹輔の言った言葉が上手く頭に入らなかった。

「にしゅうか……え、待てよ、俺が倒れて2週間? えーっと、じゃあ今日何月何日?」

「9月14日です。傷が深くて、全身の血を入れ替えるくらいすごく出血していて、一回心臓が止まったんですよ? 大手術して、一命は取り留めましたが、お医者さんからは、いつ目覚めるかわからないと言われていました」

 間抜けな顔をしているのは分かっているが、思わず口を開けたままにしてしまう。胸元まできっちりとかかっていた薄手の布団をまくる。服は捜査の時に着ていたものではなく、青い服を着ていた。腰に縫い付けられた紐で洋服の前を止める、病院の検査の時に着る簡易式の服だ。左腹に手を当てれば、傷を覆うフィルムの滑らかな感触がする。

 気を失う直前、救命士が慌てていたのを思い出す。あの後、瀕死ひんしだったと考えれば、この体に感じる倦怠感けんたいかんにも説明が付く。

 竹輔が不意に立ち上がった。そして、腰を深く折って頭頂部を向けてきた。

「すみませんでした」

「何のことだよ」

「その……僕が撃ったから、蕗二さんが刺される結果になってしまったんです。本当に申し訳ありませんでした」

 きしむ体を引き上げ、上半身を起こし、竹輔の後頭部を見下ろす。

「理由を、聞いても良いか?」

 喉を使っていなかったせいか、低くかすれた声が出てしまい、竹輔の肩が跳ねた。

「あー、違う違う。責めてるんじゃないんだ、ただ、なんでなんやろって」

 顔を上げないまま、竹輔は小さく呟く。

「蕗二さんに、撃って欲しくなかった……それだけです」

 竹輔の言葉に、心臓が引きるような痛みを感じた。

「俺が、畦見を殺すと、思ったのか?」

「思いました」

「んな、アホな……」

 無理やり溜息をつくと、竹輔は頭を下げたままベッド脇にある棚を開けた。その中に仕舞われていた紙袋を引き出し、中から何かを取り出した。見覚えのある黒いベルト。

「ガンホルスター……」

 認めたくないとばかりに視線を泳がせたことには気がついてないらしい。竹輔はそのまま言葉を続ける。

「警察の規定では、私物のガンホルスターを所持・装着できます。でも、刑事は滅多に拳銃を所持することはないのに、蕗二さんはずっと着けていました。それは、まるでいつでも銃が撃てるようにと、準備しているように思えて……いつか、こんなことが起きるんじゃないかって、思っていました」

 竹輔に一つ黙っていることがある。拳銃は、【特殊殺人対策捜査班】として出動する時は常に携帯していた。菊田から渡された≪あいつら≫への発砲許可状は、竹輔に見せずにずっとスーツの胸内ポケットにしまったまま。もし最悪の事態を迎えたら、俺が手を下す気でいた。竹輔は優しすぎる。拳銃を抜くことさえ、躊躇ためらうに違いないと思っていた。だが、結果は全く違った。

 蕗二は布団を握る自分の右手から、竹輔の後頭部へと視線を移した。

「そんで、あれか、俺が止まらんかったら、撃つつもりやってんな……」

「はい。本当に、すみませんでした」

 いつまでも顔をあげない竹輔に、蕗二はわざとらしく溜息をつく。ベッドの上に投げ出していた足を動かして竹輔の前に座りなおし、点滴スタンドを引き寄せる。

「竹、顔上げろ。で、歯食いしばれ」

 指の関節を鳴らし、調子を確かめるように左手に拳を打ちつける。竹輔を睨みつけると右腕を引き、大きく振り被る。竹輔は目をつぶり、体を強張らせた。

 蕗二は竹輔の左頬に向かって腕を振り下ろす。が、当たる直前で急ブレーキをかける。止まった拳を開き、指全体が頬に当たるように手を振りぬく。音は派手だが、一番痛くない張り手の方法だ。予想していた衝撃とは全く違うことに戸惑ったのか、竹輔は目をつぶったまま眉を寄せたり片眉だけを上げたりと表情を忙しく変える。そして、恐る恐る片目を開ける竹輔に、笑いかけた。

「これで終わり。な?」

 目を見開き、戸惑うように瞳を揺らしていた竹輔の肩を叩く。

「止めてくれて、ありがとう」

 俺はあの時、畦見を殺す気だった。

 竹輔が先に足を撃ち抜かなければ、弾丸が畦見の頭を直撃していただろう。

 あのまま、畦見を撃ち殺していたら、俺はどうなってたんだろうか。

 畦見の死体を目の前に、どういった感情が湧くのだろうか。

 後悔だろうか、達成感だろうか、それとも……

『忘れないでよ。俺とお前は同類だ』

 畦見の言葉を思い出して、背筋が冷えた。

 それを振り払うために竹輔にじゃれついて、肩を拳で突こうとすれば手のひらで受け止められる。困ったような照れたような、眉尻を下げて竹輔は笑った。

「駄目ですよ。病み上がりなんですから、大人しくしてください」

「んなヤワじゃねぇよ」

 そう言いつつも枕に頭を沈め直し、ベッドに体を預けると、途端に眠気がやってきて欠伸を漏らした。小さく笑った竹輔は、布団を蕗二の胸元まで引き上げる。

「看護士さん、呼んできます。寝ててくださいよ! みんな心配してたんですから」

 手だけで返事すれば、部屋を出て行く気配。小走りに離れていく足音を聞きながら、甲子園が終わってるなと、ぼんやり思う。

 瞼裏を見つめながら、心臓に手を当てる。

 規則的に手のひらを押し返す鼓動。手のひらに伝わる自分の体温。

 生きている。

 父と会った夢は、夢ではなくあの世だったのだろうか。

『またな、蕗二』

 低く優しい声が鼓膜を揺らした。

「生きてる……」

 言葉にすれば、嬉しさと悲しさが入り混じり、胸の奥から込み上げる。

 静かに息を吐き出せば、目の端から一筋涙が零れ落ち、シーツへとみ込んだ。






【Consider6 追葬に捧げるリコリス~了~】




  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る