File:2 ある元刑事の億説
2042年8月25日。東京・
新宿から電車を乗り継いで、一時間もかからず目的の町にたどり着いた。
改札を抜けた先は、鳥が
握ったままの液晶端末を時々見ながら、菊田から送られてきた住所までの道を散歩のように歩く。
多摩川が近いからなのか緑は多く、目立った高層マンションはひとつもない。いや、正直に言おう。時代に取り残されたような町だ。だが、居心地は悪くない。初めて訪れたはずなのに、まるで幼い頃に住んでいたような
二車線の道路を横断し、右に曲がる。公園を過ぎて、左に曲がれば住宅が多く並んでいた。少し入り組んだ道に沿って、平屋の家がいくつか並んでいる。
端末を見ながら脚を進める。そして、目的のポインターと現在地を示すポインターが重なった。画面から顔を上げ、左に首を捻れば、伸び放題の生垣に埋もれるように一軒の家があった。
半開きの鉄の門から、そっと中を
スーツに乱れがないかざっと確認し、襟を引いて気合を入れる。引き戸型のガラス戸の隣、壁に取り付けられたボタンがある。真ん中に音符がついていて、ちょうど指に馴染むようにへこんでいる。押せばピン、離せばポーンと鳴る。
インターフォンの音は、家の中でよく響きそうな高音だ。だが、人の気配がない。もう一度呼び鈴を押そうかと、ボタンに指を添えたところで、ガラス戸に人影が揺らいだ。
蕗二が二歩下がると、ガラガラと立て付けの悪い音を立ててガラス戸がスライドする。
老いた猟犬のような男だ。鋭い眼光は、喉元を噛み千切ろうと探っている気さえする。なかなかのプレッシャーだ。並みの人間ではストレスで胃を痛めるだろう。
蕗二は背筋を伸ばし、頭を下げる。
「初めまして、警視庁の三輪蕗二と申します」
「菊田から聞いてる、入れ」
男が身体を横に避けた。お邪魔しますと玄関を
靴を脱ぎ、玄関のすぐ脇にあった
座れと顎で指され、「失礼します」と座布団に膝を付く。男はもうひとつの襖の向こうへと行ってしまった。が、男はすぐに湯飲みを二つ持って現れた。どうやら襖の向こうに、台所があるらしい。
無言の男は、よく見ると左足を引き
目の前に湯飲みが置かれ、蕗二の向かいに男が座った。
「お前、階級は?」
「はい、警部補です」
男は無遠慮に顔を視線で舐める。
「その歳でか? へぇ、キャリアか」
「いえ、交番上がりです。階級にこだわりはありません」
「またまた、ここで
「いえ、謙遜ではありません」
蕗二は姿勢を崩さぬまま、はっきりと告げる。男は机に肘をつけると、顔を寄せてきた。
「じゃあ、質問を変えよう。なんで警察になった?」
鋭い眼が銃口のように黒く光っている。それを額に突きつけて、掠れた低い声が問う。
「規律や規則だらけで
男の言葉は、まるで鏡のようだ。警察になって思っている以上に甘くない世界だと知った、青い制服を着た若い自分。そして、何度も暗い目をした自分に言った答えは――。
「私が、刑事になったのは、復讐です。あの日、突然理不尽に奪われた日常を、これ以上奪われないためです」
猛獣の唸り声に似た、腹底からの声だった。とっさに口を押さえる。が、落とした言葉は男に拾われてしまっている。それを証明するように、男はヤニで黄ばんだ歯を剥き、迫力のある笑みを浮かべていた。
「そうかい、へぇー? なかなか生意気だ」
男の手が伸びる。襟を掴まれることを覚悟し、身を固めた。が、手は目の前で止まった。
「図体がでかいだけの
筋張った手を握ると、強く握り返された。
なるほど、この『試験』を突破するのは難しい。自分の意思や信念をずっと持ち続けるのは、簡単な事じゃない。理想が現実によって打ち砕かれた時、いつか忘れてしまうものだ。
握手を終え、蕗二は背を伸ばした。
「では、渡部さん。もったいぶるのは嫌いなので、率直に
「3年前。ある男が、ある一軒の家へ
「脳出血?」
渡部は拳で頭を叩いてみせる。
「家主に取り押さえられた時に、頭を打ったらしい」
「運の悪い奴ですね」
「まあ、自業自得って話だった」
「だった?」
蕗二が首を傾げると同時に、ピンポーンと呼び鈴が鳴る。
「おっ、おいでなすった。ちょっと待ってろ」
渡部が立ち上がる。
ガラス戸がスライドする音、渡部と男の声。そして複数の足音が近づいてくる。
対照的な二人だ。包帯の男は無機質な機械に似た雰囲気を持っているが、眼鏡の男は綿毛のような柔らかな印象の男だった。蕗二が立ち上がると、渡部が手のひらを向けた。
「こいつは三輪、警視庁の現役
蕗二は慌てて頭を下げる。すると包帯の男は慣れた様子で、スーツの内側から銀色の薄い箱を取り出し、そこから一枚の紙を差し出してきた。手触りのいい、シンプルな名刺だ。
「心理カウンセラーの
その後ろで、眼鏡の男が自分の胸元やズボンのポケット、持っていた鞄の中を探している。が、諦めたらしい、顔に対して大きな眼鏡の奥で、眠たげな眼が笑う。
「ちょっと名刺を忘れてきまして、申し訳ないんですが……えーっと初めまして、加藤と申します。バーナード動物病院に勤めています、獣医です」
「カウンセラーに、獣医?」
多田羅と加藤の顔を交互に見る。事件には関係なさそうな二人に、全く見当がつかない。戸惑いが隠せないでいると、脇腹を小突かれる。
「自己紹介が済んだなら座れ」
渡部が湯飲みを両手に持ち、顎で机を指した。いつの間にか座布団が二つ足されている。渡部の隣に移動し、多田羅と加藤に向かい合う。緊張した面持ちの加藤の隣、多田羅は渡部に視線を向けた。
「さっそくですが、本題に入ってもよろしいでしょうか?」
渡部が深く頷くと、多田羅は蕗二にも視線を送り、乱れてもいない姿勢を正すと、持っていた鞄からファイリングされた紙の束を取り出した。
「ではまず、こちらをお返し致します」
その題名には、『
「まさか、捜査資料をパクったんですか!」
「ちとばかり昔の
渡部は多田羅からファイルをひったくると、蕗二から隠すように座布団の下へと仕舞いこんだ。
気にも留めない様子の多田羅に、蕗二は眉間に皺を寄せる。
「多田羅さん、貴方はカウンセラーって言ってませんでしたか? なのに、なぜ捜査資料を見る必要があるんですか?」
多田羅はその答えを予想していたようだ。動揺する様子もなく、口を開く。
「はい。私はカウンセラーですが、一般の方ではなく犯罪者へのカウンセリングを行っています。そして、同時に
プロファイリングの言葉に、蕗二ははっと息を飲んだ。
「もしかして、≪マークの判定≫に関わってるのか?」
多田羅はゆっくりと首を横に振った。
「残念ながら、直接的な関わりはありません。ですが、我々カウンセラーが科学捜査研究所に提出しているデータがありますので、それが≪マーク判定≫に反映されている可能性は十分にあります」
多田羅は湯飲みに口を付けると、わざとらしく笑みを浮かべた。
「三輪さん、私に興味を持っていただけたのは大変嬉しいですが、今回はお待ちかねだった方がいるので、先に進んでもよろしいですか?」
手のひらで隣を差される。首を捻れば、苛立ちを隠そうともしない渡部がこちらを睨んでいた。
口の端を引きつらせ、短く謝る。その様子を、多田羅が薄く笑った。そして、湯飲みを音も立てず置くと、指を机の上で組んだ。
「では、改めまして。まず、刑事であるお二人ならご存知のはずですが、家主と泥棒が遭遇した場合、パニック状態に
「居直り強盗ですね?」
蕗二の言葉に、多田羅は頷く。
「そして、今回ご依頼を受けた事件も、そのひとつです。泥棒に入った男は、家主がいた場合、脅すつもりだったか、初めから殺すつもりだったのか、ナイフを所持していました。しかし、ここでひとつ疑問が生じました。泥棒、しかもナイフを持った犯罪者と遭遇した家主は、どうするのか」
渡部と蕗二の表情に、多田羅は答えを予想していたらしい。一呼吸置いて、話を繋ぐ。
「人間を含め、すべての動物はストレスを感じた際、瞬間的に【ファイト・オア・フライト レスポンス】の選択を行います。これは、【闘うか逃げるか反応】と呼びます。おそらく、お二人は警察で訓練したゆえに
多田羅は手を動かし、頭から胸を手のひらで差す。
「泥棒の体正面、つまり頭部なら顔面、腕や肩に
多田羅は頭頂部を見えるように首を傾けると、旋毛からやや後ろに指を突き立てる。
「泥棒は後頭部に打撲痕がありました。家主が取り押さえ際、致命傷になるほど頭を打ちつける可能性も十分ありますし、泥棒の運動神経があまり良くなかったのかもしれませんが、やや一方的な攻撃を受けたように感じました」
蕗二は寄せすぎて痛み出した眉間を摘んで考える。
自分が泥棒になったように考える。そっと忍び込んだ家。薄暗い家の中、音を立てないように、慎重に進む。物音。思わず身体が飛び跳ねる。ドアが開く音。いないと思っていた家主がこちらを見ていた。ナイフをかざすが、家主は
そこで、あれ? っと我に返る。取り押さえられる泥棒と、取り押さえる家主を見下ろし、蕗二は腕を組んでおかしいと呟いた。
「なんで、泥棒は後頭部を打ち付けてるんだ? 逃げて、取り押さえられるなら、前に倒れる。ぶつけるなら額とか、こう、前のほうじゃないか?」
答えを求めて渡部に問えば、意地が悪そうに片頬を上げた。
「そう。最初の初動捜査で、家主の証言で『襲われて揉み合いになった。突き飛ばした時に、泥棒が置物に頭をぶつけて倒れた』ってな? 真実を確かめるために、泥棒に聴取する予定だったが、聴取する間もなくポックリだ。まともな証言は得られなかった。けど、多田羅先生の分析を聞いてぴんと来た。家主は初めから強盗を殺すつもりだった。ナイフを持ってた泥棒が逃げたのは、家主が置物を持って襲ってきたからだよ。で、ぶん殴ったんだ。これは、事故なんかじゃねぇんだ。家主の正当防衛に偽装した殺人計画だったんだよ」
「ちょっと待ってください! もし計画していたとして、そのタイミングで泥棒がやってくるのは、運が悪すぎじゃないですか?」
蕗二が声を張り上げると、渡部は大げさな溜息を付き、後ろに手をついて天井を見る。
「それがな。その泥棒、家主の同僚なんだわ」
「はあ?」
間抜けに口をあけた蕗二を横目に、渡部は反動をつけて体勢を戻し、机に肘を突いた。
「家主は宝くじが当たったかでなんかで、かなりの大金が手に入ったらしい。それをうっかり同僚にゲロっちまった。同僚さん、ちと金に困ってたらしい。でも、貸してもらえるはずはなく、何を思ったのか、そいつの家に盗みに入った。けど、家主はわざとそいつに金の話をして、泥棒に入るように仕向けたんだ。どうだ、あり得るだろ?」
「金銭的に困っていたなら、あり得なくはないですけど……てか、泥棒が家主と面識があるなら、早く言って下さいよ」
堪らず頭を掻き
また『犯罪防止策』が施行されてから、劇的に減った犯罪の一つでもある。
蕗二はお茶に口を付ける。すっかり
「その同僚の、
「いんや、漂白剤ぶち撒いたくらい真っ白だ。反対に、家主が
蕗二が机に拳を叩きつける。傾いた湯飲みを、とっさに加藤が支えた。
「だったらなぜ、その時に疑わなかったんですか」
机に叩きつけた拳からじわりと痛みが這い上がる。だが、それよりも渡部の言葉に全神経が向いている。
「まず最初に疑うべきは、家主だったはずです。
腹底から吐き出す声に、加藤は縮み上がり、多田羅は身体の強張りを隠せずにいる。唯一、渡部だけが蕗二の
「オレも含めて、捜査に当たった全員が、その≪
蕗二は押し黙る。
≪ブルーマーク≫は≪レッドマーク≫と違い、犯罪者予備軍にマークするものだ。多少の誤差もある。救済処置として、≪矯正プログラム≫を受講し、犯罪に手を染めることなく、判定テストに15年間なにも問題がなければ≪ブルーマーク≫は解除されるのだ。それほど、家主は≪正常≫だったのだ。疑われにくい理由にも納得がいく。
「じゃあ、なぜ今なんですか?」
蕗二の言葉に、バツが悪そうに渡部が蕗二の後ろ、荒れた庭へと視線を向けた。
「その家主……
左足の脛を擦り、渡部は溜息をつく。
「んで、昔の住所に行ってみたら、もぬけの殻。近所に聞き込みをやってみたら、ここ最近、公園で動物が死んでるのがたびたび発見されててな。まさかと思って、多田羅先生に相談したって訳だ。先にチラッと結果を聞いてたもんで、こっちの話を真剣に聞いてくれそうな刑事を寄越せって頼んだんだ」
湯飲みを傾け、音を立てて啜る渡部に蕗二は小さく溜息をついた。
そういうことだったのか。だったら、やばそうな奴がいるって、もっと率直に言えばいいんじゃないのか。いや、たぶん終わった事件をほじくり返すのは、担当した刑事達にとって良い話ではない。
菊田の疲れた顔を思い出し、思わず小さな声で「お疲れ様です」と呟いた。
「んで、多田羅先生。猫の解剖はどうだ?」
コン。っと、渡部の湯飲みの底が机に当たる。多田羅はゆっくりと瞬き、渡部に視線を向けた。
「残念ながら、私はあくまでカウンセラーです。外傷所見は、私では判別できない為、今回獣医の手をお借りしました」
視線を向けられ、お茶をちびちびと飲んでいた加藤は、はっと背筋を伸ばした。
「うちの院長、野生動物の保護にも
加藤は鞄を探り、A4サイズの液晶タブレットを取り出す。システムを起動させている間に、多田羅が蕗二にそっと問いかける。
「三輪さん、過去に動物虐待の現場に
「いえ、今のところありません」
「それは、とても幸運ですね。何度見ても、気持ちのいいものではありません」
多田羅が目を細め笑った。加藤がタブレットをテーブルの中央に置く。画面には、白く浮かぶ骨のレントゲン写真が映っていた。
「多田羅先生から依頼を受けて、検査したネコちゃん……あっ!」
しまったと、顔面に平手打ちをするように勢いよく口を手で覆う。秘密を漏らした学生のように、耳まで真っ赤にする加藤に、落ち着けとジェシュチャーする。
「えーっと、いいですよいつも通りで。ネコちゃんの方が、その、ほら、癒されるし?」
「すみません、つい癖で……」
加藤はわざとらしく咳をすると、指先で眼鏡を鼻上まで持ち上げた。
「
スライドされ、次々と変わるレントゲン写真は、どれも頭に
「動物への虐待のうち、昆虫を殺す、犬猫を投げる、叩くなどは未成年がやりがちな一過性のもので、年齢を重ねるうちに終息します。が、二十歳を超えても動物虐待が収まらない、むしろ増加する場合、その人物は暴行事件や殺人などの犯罪に
多田羅が強い視線を渡部と蕗二に向けた。
蕗二は湯飲みを引っつかみ、一気に
「その、
「ああ、正当防衛とは言え、人を殺しちまったんだ。猶予として3年、≪ブルーマーク≫の解除が見送られてる」
「なら、ギリギリまだ≪マーク≫が付いている。追うのは簡単です。しばらく監視しましょう」
「頼むぞ。オレは、オレの心配が当たらなきゃ、それでいい」
「これ以上、ひどいことが起こらなければ良いんですけど……」
「起こさせない為に、今日はここに集まったんです。きっと防げるでしょう」
「おう、そうだな。多田羅先生、加藤先生、それに三輪、今日はありがとな」
誰ともなく立ち上がり、多田羅と加藤を玄関まで送り届ける。家の前には、シルバーの車が止まっていた。車のキーを取り出したのは加藤だ。しかし、はっとズボンのポケットを押さえるとこちらに頭を下げて背を向けた。端末を片耳にあてている。相手は彼の上司、院長のようだ。
「三輪さん」
澄んだ声に鼓膜を叩かれ、視線を向ける。多田羅が真っ直ぐこちらを見つめていた。
「もし、何か悩みがあるなら相談に乗りますよ」
突然何だ? 蕗二が片眉を上げると、多田羅が耳打つように声を潜めた。
「≪ブルーマーク≫に、強い殺意をお持ちではないですか?」
首を掴まれたように、息を詰まらせる。なぜ勘付かれたのか。無意識に殺意を放ってしまったのかは、もう思い出せない。いや、気がついたのは多田羅がカウンセラーだからだ。彼らは多くの人間を見ている。わずかな変化を拾い上げるなんて、身に染み付いているのだろう。
蕗二の緊張が伝わったのか、多田羅は柔らかく微笑んだ。
「殺意は悪いものではありません。誰にでも、沸き起こる感情の一つです。ただ、溜め込んで良い物でもないのです。もし、吐き出す場所がなければ、いつでも聞かせて下さい。そのために、私はいます」
多田羅の指が、ゆっくりと子供の頭を撫でるような温かい動きで首の包帯をなぞる。
「まだ、大丈夫です」
「無理はせずに、あなたのタイミングで構いません」
多田羅は微笑むと、頭を下げた。加藤の電話が終わったらしい。
二人が乗り込んだ車の、赤いテールランプを見送り、渡部にも礼を告げ、生垣の外へと出た。
温かい風に、夜の冷たさが混じり始めている。どこから運んできたのか、風は百合の花独特の重く胃にもたれるような甘い香りを纏っていた。その香りを振り払うように、足早に道を引き返した。
白く浮かび始めた左半分が欠けた月が、蕗二をぼんやりと見下ろしていた。
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