File:1 ある上司の憶説



 2042年8月24日日曜日。PM14:15.



 地響きのような歓声が建物を包んだ。

 さらに盛り上げるように、鳴り響く管楽器の音。応援歌が波のように腹底まで響いてくる。

 本来、関西の甲子園でしか見ることのできない高校野球は、オーグメンティッド・リアリティ、通称ARによって、他の球場でも観戦できるように実現した。空間に映像を投影することによって、テレビでは味わえないその場にいるような臨場感を求め、人々は東京ドームへとやってきている。

 試合は、初戦。

 先攻は毎年甲子園へと出場する強豪校、後攻は三年ぶりに甲子園出場の念願を果たした高校だ。

 9回後攻ツーアウト。4対3。強豪校が守れば勝ち、念願校は一塁と二塁の選手を帰せば、勝ち。

 応援は最高潮に達する。誰もが、球を投げる投手とバットを構える打者へと集中する。

 甲高い打撃音。わっと膨らむ歓声。白いボールが高く打ち上がる。二塁の選手と一塁の選手が走る。ボールはなかなか落ちてこない。二塁の選手が猛スピードで三塁の白い四角形のキャンバスを横切った。一塁の選手も後を追うように速度を上げる。やっと、ボールが落ちてきた。ボールが土に触れる。跳ね上がる直前に、外野手が拾い上げた。大きく振り被り、鞭のように腕がしなった。反動で帽子が吹き飛ぶ。真っ直ぐ直線を描く軌道。目的はホーム、捕手の手の中。三塁を踏み越えた選手がすぐそこに迫っている。ボールが待てないと捕手の手が伸びる。選手が飛び込むように地面を蹴る。土埃が舞う。会場全体が息を止めた。

 薄っすらと見えたのは、ホームベースにしがみ付いた選手と背中に球を押し付ける捕手。

「アウトオオオオオ!」

 審判の絶叫。悲鳴のような歓声。空を舞う帽子やタオル。高らかになる校歌。

 まるで訓練されたように選手たちが縦2列に整列する。

 右側、先頭に立つ小柄な選手がうつむいた。試合の最後、ホームベースに飛び込みアウトになった選手だ。

 校歌が終わった途端、帽子をむしり取り、後ろへと走り出す。向かったのは応援してくれていた家族やクラスメイトの座る観客席。直角に腰を折り、深く深く頭を下げた。泣いているのは、一目でわかった。

 それを見た瞬間、観客席にいた三輪蕗二みわふきじは身震いした。

 最後の失点、自分を責めずにはいられないだろう。

 無意識に、昔の自分を重ねてしまう。高く打ち上げたボールが捕らえられ、起死回生の選手が刺された瞬間、受け止めきれず、まるでテレビの前に座る観客のような気分になった。相手チームの校歌が流れ、すすり泣く仲間。責められない不気味さ、自分を責めることしかできず、後悔だけが残った。

 あの後、父が事件に巻き込まれ、グラウンドの土を踏まなくなった。いや、踏めなくなった。

 もしかしたら、あの夏に、俺は『何か』を置いてきてしまったのだろうか。

 何を、だろうか。霧の中を見つめるように、漠然ばくぜんとしすぎてわからない。

 右隣人が立ち上がる気配。足を引っ込めると、隣人はすみませんと目の前を横切った。

 グラウンドに視線を向ければ、選手たちの映像は途切れ、次の試合の日付と時間が大きく浮かんでいた。

 次回の試合は録画予約していたはずだ。決勝戦の最終日は、もちろん仕事だ。何事もなければ、【あそこ】で生中継を観戦しようか。なんせ二人しかいないのだ。相棒の坂下竹輔さかしたたけすけは、おそらく許してくれるだろう。不真面目だな、と小さく自分を笑う。

 人混みがまばらになってきたところで、ゆっくりと立ち上がる。すると、見計らったようにポケットの中で液晶端末が震えた。振動の長さから電話のようだ。素早く引っ張り出し画面を確認すれば、表示された名前に驚いた。座席の列から抜け出し、階段を上りながら画面をスライドする。画面に映し出されたのは、やはり見慣れた上司で間違いなかった。

「はい、三輪です。お疲れ様です」

『オフ中にすまない。出かけていたか、後で折り返してくれるか?』

 菊田は蕗二の背後を覗くように、首を伸ばす。蕗二は足早に通路を進みながら、首を小さく振る。

「いえ、大丈夫です。少しだけ移動します」

 人を避け、ゲートを出る。一階へと降りる階段の踊り場の端を陣取った。目線の高さに端末を持ち上がる。

「お待たせしました。事件ヤマなら、すぐタクシー拾いますが?」

『あー、いやいや。緊急といえばそうなんだが、今すぐじゃない。どうしても君に頼みたいことがあって、先に伝えたかった。メールだと長すぎてな、まとめられなかった。すまない』

 後ろめたいのだろうか。菊田はいつも以上に遠まわしな言葉を選んでいる。だが、嘘をついているようではない。よく見れば、菊田は紺色のポロシャツ姿だ。自分もそうだが、スーツ姿を見慣れているせいで、休日の父親らしい私服を見たのは初めてだった。物珍しく菊田を見ていたせいで、眉間に皺が寄っていたらしい。『本当に事件じゃないから、大丈夫だ』と菊田は慌てて付け加え、取り乱した自分を叱るように大きく咳払いをした。

渡部わたべという奴がいてな。もう刑事は引退したんだが、急に昔の事件をほじくり出してきた』

 刑事を長く続けていると、様々な事件に遭遇する。その中で迷宮おくら入り、つまり未解決事件などがあれば、定年を迎え、刑事を引退してもなお事件が頭の片隅に引っかかり続けることになる。現役の刑事と酒をかわせば、当然話題になるだろう。さほど珍しいことではない。

「その人が、菊田さんに頼んだんですか?」

『いや、俺にではなく、元いた警察署に乗り込んできたらしい。あいつは昔から破天荒だからな……』

 大きな溜息とともに、菊田は頭をこね回すように後頭部を掻く。菊田がここまで困った様子を見せるのは、あまり見た記憶がない。

「つまり、誰かがその元刑事の話を聞かないといけないってことですか?」

『そうだ。しかも、なるべく話が通じそうなのを連れて来いってのことだ』

「それで、うちの部署ですか?」

 どうせ暇だろうと、押し付けられたのだろう。溜息をつきかけ、菊田が横に首を振る。

『すまない、私から提案した。渡部の適任は、蕗二君、君がいいだろう』

 吐き出しそびれた溜息を飲み込み、眉尻を指先で掻く。

「俺が適任、ですか?」

『ああ、素直に思ったまま、奴と話してくれ』

 素直に思ったまま? 逆に難しいな。

 蕗二は首を左右に捻りながら考える。だが、考えたところで渡部と言う男を知らないのだから、あまり意味はないだろう。

「いつお会いすれば?」

『急だが、明日会う約束を取り付けた。少し遅い時間だ、渡部との話が終わったら直帰してくれて構わない。住所と、待ち合わせ時間はその端末に送っておくから、確認してくれ』

「了解しました」

 電話を切りかけ、ふと重要な事を聞き忘れていた。声を上げて、菊田を引き止める。

「すいません、菊田さん。ちなみに、その渡部って人がほじくり出した事件ヤマ、どんなものですか?」

 菊田が眉を寄せる。鋭くなった空気に、蕗二は背筋を伸ばした。

『正当防衛による殺人だ』

 蕗二は眉間に深い皺を刻んだ。




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