File:3 ある男の憶念
2042年8月29日。AM10:28.
高校野球は大会終盤に差しかかっていた。
液晶端末に今では少し珍しいコード式のイヤフォンを繋ぎ、片耳に装着したままパソコンを操作していた。
資料は西川夫妻の捜査報告書だ。被害者の一人、
東京に来て、この部署に所属されてから約半年。解決してきた中でも、
もし、あと少し早く判定結果がわかっていたら、あの事件は起こらなかったのだろうか?
≪ブルーマーク≫は、犯罪予備軍に付けられる。
蜂がクロと黄色の縞模様で自ら毒を持つと知らせるように、目立つ印。
その役割は、正常に機能しているのか?
いまだ、多くの犠牲者が生まれるのはなぜだ。
目の前で血溜まりに沈んだ父のように、一体何人犠牲になれば……
沸きあがる歓声に意識が戻る。止まっていた指先から画面に視線を移せば、優勝候補の一校、とくに今期期待の投手がストライクを決めたところだった。ツーストライク。バッターが強制交代させられ、残り一人。この選手もアウトになればスリーアウト。攻守交替、試合は三回裏へと進む。
「いいですよ、イヤフォンはずしても」
不意に正面に座ってパソコンを操作していた竹輔が、口を開いた。
「うるさくないか?」
「ちょっと
椅子に座ったまま竹輔は、両手を天上に伸ばして背中をそらせる。
「それに、試合が気になっちゃって。蕗二さん、たまーに声
竹輔が意地悪そうに笑う。イヤフォンを外して両手を挙げた。
「悪かったよ、これからは仲良く観戦しようぜ」
「いえーい! やったぁ!」
竹輔が椅子に座ったまま器用に隣へ移動してくる。部屋のほとんどをダンボールに囲まれたこの場所は、防音にも向いているだろう。イヤフォンを端末から抜き取り、思う存分音量を上げる。歓声と応援歌が部屋を満たしていく。竹輔にも見やすいように画面を移動させ、椅子の背もたれに背中を委ねた。
一回目の空振り。判定はストライク。ヘルメットの下から攻撃的に細められたバッターに、プレッシャーを感じるのか投手は緊張した表情を浮かべる。バッターのそばに座り構える捕手が、身じろぐ。グローブの下から指で合図を送る。それに投手は首を横に振り、頷く。投手と捕手の無言のやり取りに、バッターはバットを強く握りしめる。投手の右足が大きく引かれ、振り被る。白い球が右手から弾丸のように離れる。
バッターがほぼ同時に振り被った。当たる。そう感じた。
バットに球が当たる甲高い音と、荒々しく扉が開く音が重なった。竹輔の身体が驚きに跳ね上がった。蕗二は端末を乱暴に掴み、電源を落とし、画面を机に伏せた。その直後、ダンボールの山から飛び出してきたのは、上司である菊田だった。
鋭い眼が蕗二と竹輔に向けられる。
油断した。部屋の外まで音が漏れていたのかもしれない。勤務中の不摂生を
「緊急案件だ」
菊田の低い声。張り詰めた空気の種類が変わる。
「犯行予告がネットに上がっていた」
「犯行予告?」
菊田は脇に抱えていた液晶型タブレットを指で叩き、蕗二と竹輔に見えるように差し出す。
どこかのサイトの掲示板だろう、世の中の不満不正や政治の愚痴などバラエティ豊かで乱雑な会話の途中、突然乱入した一文は、淡々と事務的に、だが異様だった。
【犯行予告:
2042年8月31日、東京で人を殺します。たくさん殺します。
これを見たみなさん、当日は気をつけて外出してください。
注意喚起はしました。当日死んだら自己責任です】
「なんだこれ」
画面を睨みつける。いたずらにしては悪質だ。画面に指を滑らせ掲示板のやり取りを追うが、書き込んだIDは他に見当たらない。突然現れた一文に、掲示板の住人たちも動揺を隠せていないようだ。
菊田は険しい表情のまま腕を組み、舌打ち交じりに言葉を吐く。
「ああ、よっぽど豚箱に入りたいらしい。ニュースにならないように情報規制をかけているが、SNSで拡散されるのも時間の問題だ。今、サイバー犯罪対策課がIDをたどって犯人を探している」
サイバー犯罪対策課はネット上で発生する犯罪を取り締まる、生活安全課のひとつだ。ネットが普及したことによりネットオークションの
「あの、とても失礼かもしれないですが、菊田係長が【
竹輔の問いに、菊田はわずかに眉尻を下げた。
「ああ。
刑事の第六感だ、と小さく菊田は呟く。捜査は基本、警部である菊田よりも上の階級が指揮官に付く。上司に勘で意見することは、捜査に混乱をきたすと説教必須でもある。だが、多くの刑事はその勘を信じている。とくに経験をつんだ刑事の勘は、警察犬のようにより正確になっていく。
「目立ちたがりだろうとなんだろうと、いらない不安を
怒りを隠そうとしない菊田は、こめかみに青筋を立てた。
『このまま放っておけば、
ふと、
蕗二は作成していた捜査資料を縮小し畳むと、代わりに画面の端に小さく表示していたプログラムを引っ張り出す。
「菊田さん。この男、調べる価値があると思うんですけど」
画面には60代の男が一人映っていた。その顔の横には、生年月日や最近の健康状態などの個人データーから≪リーダーシステム≫の記録まで事細かな情報が淡々と並んでいた。
「誰ですか?」
竹輔が戸惑いの視線を向けてくる。
「ああ、悪い。渡部って言う元刑事から、怪しいって言われて、個人的に監視してた奴だ。もしかしたら、人を殺すかもしれないって」
「まさか……」
竹輔は眉を寄せ、パソコンを覗き込む。その後ろ、菊田が目を細めて視線を蕗二に向けた。逃げるように視線をさ迷わせたのは、菊田の心の内に予想がついたからだ。
渡部と話した内容はもちろん、菊田へ報告した。だが、畦見を個人的に監視することは黙っていた。
謝ることも弁解することもできない。子供のように下唇を噛む蕗二に、菊田は呆れたように小さく溜息をついた。
「わかった。畦見の周辺情報を調べろ。私はこれから対策会議に出る。結果によって、君たちにも捜査に加わってもらうかもしれない。連絡は取れるようにしておいてくれ。それから、ちゃんと結果は報告するように」
蕗二に釘をしっかり打ち込んだ菊田は、タブレットを再び脇に抱えて
「はあ、菊田係長めっちゃ恐かったですね……どうします、蕗二さん? その畦見って人の家に行きますか?」
「いや、先に状況証拠を集める。もし、何もしてないならサイバー課の結果を待てばいい」
蕗二は伏せていた液晶端末を操作し、一人の男の名前をタップする。
黒い画面と呼び出し音が鳴る。画面はすぐに切り替わり、四角い顔の男が映った。
「お久しぶりです、
『お久しぶりぶり、ぶりりんちょっ!』
瞬間、反射的に身体が
「……そこ、ブロッコリー言ってくれへんと、しっくり
『あっれ? おっかしいなぁ、これ結構ウケるんだけど』
口を尖らせて不満げな尾花に「今はちょっと勘弁してください」と頭を下げる。申し訳ない、たぶん県民ギャップだ。もう一つ言うなら、ふだん意識的に押さえている方言で突っ込みたいことが山ほどあるが。
蕗二の反応に尾花は恥ずかしくなったのか、わざとらしい咳払いをして表情を引き締めた。
『で? どうした急に。何かあったのか?』
「ええ、ネットに殺人予告が上がったんです」
尾花が眉間に深い皺を刻む。
『そりゃあ、物騒だな』
「はい。事態によっては、東京都全域の警察官全員に通知が来ると思うんですが、その犯人に心当たりがあります。もし、そいつが動いているなら行動範囲内に動物がらみの事件が起こるはずなんです。ここ一、二週間で、
『動物ねぇ……そうだな、派手な奴はなかったな? うちに来る通報は、猫のうんこがクサイだとか、鳩に餌撒く奴がいるとか、だいたい苦情だし』
尾花は顎を擦りながら脇に置いていたノートパソコンをいじっていたが、あっと声を上げた。名案を思いついたとばかりに目を輝かせる。
『あれだ、アニマルポリスに連絡してみたらどうだ? 俺たちよりよっぽど詳しい』
「アニマルポリス? そんな課があったんですか?」
『んん? ああ、一課は関わりないから、知らなくて当然か。アニマルポリスってのは、動物事件専門の警察みたいなもんだよ。15年前くらいだったか、できた行政機関だ。ペットブームで飼われる動物が増えた上、家族同然の権利ができたからか、動物を巡ってトラブルが増えすぎて、警察じゃ対応しきれなくなったのも現実だけど。おっと、今のはここだけの話だぞ?』
口の端に手のひらを当てて、今更声を潜める。思わず小さく吹き出してしまう。
「尾花さん、ありがとうございます」
『なに、これくらい安いもんだ。逆におれたちが困った時は助けてくれよ?』
「もちろんです、俺で良ければ協力します。ではまた」
『ああ、またな』
通話が切れる。ほぼ同時に、端末が震えた。
詫びの一文とともに住所と小林と言う女性を訪ねるように、と書かれていた。
椅子の背に引っかけていたジャケットを乱暴に掴んで肩に引っかける。
「聞いてたな竹。行くぞ」
「はい!」
武蔵野市。PM11:31.
尾花から送られてきた住所へ車に運ばれてたどり着いたのは、二階建ての施設だ。保護施設も一括しているのだろうか、建物の裏手から犬の鳴き声も聞えてくる。
受付に事情を説明し、待合室で待機する。ふと受付のすぐ脇に、上半分がガラスのドアから猫の姿が見えた。ドアに近づき中を覗き込むと、七匹の猫が部屋でゆったりと思い思いに過ごしていた。
「やっぱり可愛いですねぇ」
隣で同じように覗き込んでいた竹輔が、頬を緩める。一匹の赤茶色の毛色の猫がこちらに気が付いたのか、真っ直ぐ立てた尻尾の先を曲げて、ドアに近寄ってくる。と、目の前で大胆に腹を見せて転がった。期待したように丸い目がこちらを見つめてくる。茶色の毛並みに指を埋めたら、その柔らかさにきっと癒されるだろう。思わず笑ってしまった。
「あれ? こいつ喧嘩したのか、耳の端が千切れてる」
寝転がる猫の耳を指差すと、竹輔があーと間延びした声を上げる。
「違いますよ、蕗二さん。あれは、『さくらねこ』ですよ」
「なんだそのキャラクターみたいな名前」
「
竹輔の代わりに、女性の声が答えた。身体ごと声の主に振り返れば、長い髪を項でまとめた眼鏡の女性が立っていた。
「桜の花びらみたいな耳になるから、さくらねこって言うんです。そして、もう数日したら元いた場所に帰ってもらう地域猫でもあります」
「飼い主を見つけるために、保護してるんじゃないんですか?」
女性は小さく笑って、首を横に振った。
「野良猫とこの子たち地域猫では、役目や待遇が違います。我々の業界では
蕗二の肩の向こうへと視線を向け、手を振った。女性の視線の先で、さっきの茶色い毛色の猫が目を細めて口を上げる。声は聞えないが、鈴の転がるような高い声で甘えているのだろう。
「ただ餌をやって可愛がるのは、半分人間のエゴです。猫だけではなく、野生動物は飼わない分、無責任でいられるんです。たとえ、人の庭にうんこを埋めても、子供を作っても、病気になっても、事故に遭っても、知らない顔ができる。可愛がりたい時にだけ、可愛がれる。まるで、玩具みたいでしょ?」
細い眉毛を寄せ、怒りの表情を浮かべる。それを隠すように、指先で眼鏡を鼻上に押し上げた。
「もし、一度でも餌を上げるなどの手を出すのなら、それは最後まで動物の世話、しつけ、そして、命の責任を持つということです。我々アニマルポリスは、心無い人から動物の権利を守る為に活動しています。猫じゃなくても、すべての動物たちには生きる権利があります。時には厳しく、時には優しく、動物と人間が共存する為なら、いくらでも頑張ります。人の安全と平和の為に活動される、あなたたち警察と同じです」
女性は背筋を伸ばし、真っ直ぐな視線を蕗二に向けた。蕗二は思わず息を呑み、竹輔は呆然と拍手を送った。女性の強い意志を宿した瞳に、圧倒されてしまった。
「恥ずかしながら、私はあなた方を知りませんでした」
「構いません。元はアメリカやイギリスの団体ですし、認知度の低さは我々の活動不足でしょう。それに今、知って頂けたんですから、これから頼って頂ければと思います」
と、女性は手のひらを差し出した。
「改めまして、私が小林です」
「警視庁の三輪と、坂下です。忙しいところお時間ありがとうございます」
差し出された手を握ると、強く握り返される。
「いえ、こちらこそ。尾花さんにはよく協力して頂いています」
小林は猫のいる部屋とは反対の部屋のドアを開け、蕗二と竹輔を招き入れる。保護した動物を引き渡したりするときに説明する部屋なのだろうか、子供部屋のような温かな家具が並び、小さな本棚には犬猫のしつけの本や図鑑などの書籍が豊富に並んでいた。
「お茶を出すのでお待ちください」と席をはずそうとする小林を引き止める。
「少し急ぎの案件なので。ここ最近、動物が巻き込まれた事件はありますか?」
小林は表情を引き締めると、机の脇にあった薄型の据え置きパソコンを起動させた。スリープ状態だったのだろう、すぐに立ち上がったパソコンを操作し、事件簿らしいファイルを開いた。
「そうですね……最近ですと、一ヶ月ほど前から府中市で猫の遺体が捨てられている件が気になっていました。我々も見回りを強化しておりますが、いまだそれらしき人物を特定できていません。また、犬の
小林は蕗二たちに見えやすいように画面を移動させる。
「港区、品川区、目黒区で、庭に繋いでいたワンちゃんや買い物で一時的に繋いでいたワンちゃんが行方不明になっています。届けられているだけで5件です」
小林の指が画面を指差した。行方不明になっているのは小型犬が3匹、中型犬が2匹だ。10キロほどの犬なら、連れ去るとしてもさほど目立たず、抵抗されても苦労はしないだろう。
「一週間前から、突然多くなったようですね」
「猫から犬にターゲットを替えたのか」
獲物が大きくなっている。なら、確実に状況は悪化している。
「そのリスト、頂くことはできますか? またはメモを取っても?」
「ええ、この子達が無事見つかるのであれば、ご協力いたします」
小林は強く頷くと、すぐさま
小林に礼を告げ施設を出る。すぐ隣の駐車場に止めてあった白いセダンに乗り込むと、屋根のない炎天下に晒された車内は、サウナのようだった。自動車のエンジンをかければ、温度を察知したシステムはクーラーを最大出力で稼動させた。熱気を追い出すために窓を半分ほど開く。その間に掻いた汗を袖で拭いながら液晶端末を開き、リストと地図を照らし合わせる。誘拐現場に印をつければ、おのずと犯人の行動範囲が割り出せた。
「畦見の≪リーダーシステム≫でわかってる行動範囲とも一致するな。これで、
クーラーが当たるように風向きを調節していた竹輔が、そっと口を開いた。
「蕗二さん、畦見を
蕗二は軽くネクタイを緩め、襟口からクーラーの風を取り込みながら首を振る。
「任意同行は、あくまで任意だ。断られたらお終いだ。正式な逮捕状を取るには、確実な証拠がない」
「ですよねぇ」
竹輔は座席に背を埋め、ハンカチで大粒の汗を拭いながら大きく息を吐き出した。
「ああ、普通ならな」
蕗二の呟きに、竹輔は勢いよく身を起こした。
竹輔の視線を感じながら、小さく溜息をついた。
「ここまで来たら、やるっきゃないだろ」
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次回更新:10月14日(金)PM18時ごろ更新予定
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