File:01 Castling





 救急車のサイレンと、パトカーのサイレンが混じって聞こえる。

 日が落ちつつある屋上は、じきに黄色いテープで封鎖されるだろう。

 腕を上げ、背筋を伸ばす。鈍く肩が痛んだ。意識すると首も腰も痛い気がする。

 そういえば、つい二ヶ月前の事件、逃走する芥子菜からしなハルトに体当たりして全身あざだらけになった傷が、やっと治ったばっかりだったと言うのに。

 盛大に溜息を吐くと、不意に声をかけられる。

「大丈夫かね?」

 片岡だ。眼鏡をかけていないせいか、目を細めて蕗二を見ている。

「お前こそ、大丈夫か?」

 左頬が赤らんでいる。あとでれるかもしれない。

 蕗二がハンカチを差し出すと、やんわり断られる。ポケットにハンカチをじ込みながら屋上を見回し、片隅に転がる片岡の眼鏡を拾い上げる。さいわい、割れていないようだ。

「世間とは、残酷だな。改めて思い知らされたよ」

 脇から伸びた手に、眼鏡が取られる。だが、片岡は眼鏡をかけず、手の中でもてあそぶ。

「私は、妻と駆け落ちした」

 片岡は淡々と無機質な声で続ける。

「私の両親も、彼女の両親も認めてくれなかった。私が≪ブルーマーク≫だったからだ。しかし、妻は構わないと言ってくれた。私をネットヲタクや変人、≪ブルーマーク≫と言うわくではなく、片岡かたおか藤哉ふじやとして認めて、愛してくれた。私も彼女を愛し、二人で合意の上で子供をさずかった。幸せだった。ところがどうだ、子供ができた途端、周りが冷たい眼をし始めた。化け物を生んだと言わんばかりだった」

 片岡は静かに息を吐いた。

「三十年前……私が生まれる少し前に、子供の教育方針を巡って政府が迷走した時期があってね。聞いたことはあるだろ? ゆとり世代と言う奴だ。君のご両親は恐らく、ゆとり世代または脱ゆとり世代に当たるだろう。政策は暗礁あんしょうに乗り上げ、結局打ち切りになった。政府は誰も口にしなかったが、その世代は失敗作同然だった。世間から長らくゆとり世代と言われ、何かにつけてこれだからゆとり世代はと差別もされたそうだ。だが実際、法律などを決めたのは大人で、被害を受けるのは次の世代、いつも子供だ」

 片岡は目を合わせないまま、スラックスの後ろポケットから財布を取り出し、あの写真を取り出した。

「恐ろしかった。妻が、私のせいで何か言われていないか、無性むしょうに不安になったのだ。妻は何も言わない。聞いても、いつも大丈夫と微笑ほほえんでくれる。それがもし、嘘だったら? いつか、娘にも同じ印がついてしまったら、妻はどう思うだろうかと。駆け落ちしたことを後悔しているんじゃないかと、そんな不安から離婚してしまった。私から、距離を置いてしまった。妻子が十分暮らせて行ける資金だけを毎月こっそり送っている」

 片岡の指先がそっと、微笑む妻と娘の輪郭りんかくでる。

卑怯ひきょうだと笑ってくれて構わない。私は、実際逃げている。なぜ、行事ごとに父が来ないのかと、娘がからかわれる可能性だっておおいにあるのだ。娘もそうだ。小学校に上がれば、幼稚園よりも子供はを意識し、集団性と差別性を持つようになる。もし、私が≪ブルーマーク≫だと知った周りの同級生に、娘はひどい扱いを受けるかもしれない。もし、娘が私や妻をうらんだりしたら。もし、生まれてこなければとなげいたら。もし、あの子に≪マーク≫が付いたら、……私はどうすればいいのか。一層いっそうの事、私もろとも、この手で殺してしまう方がいいかもしれない」

 片岡の目に鋭い光が宿る。抜き身の刃に似たそれに、見覚えがあった。

「だが、百日ももくさくれないの言葉で気がついた。親に殺される子供の悲しみは、一生感じる絶望の中でも一際ひときわ絶望的だろう。それだけは、絶対に味わって欲しくない」

 静かに息を吐き、殺意の込められた光は、まぶたの下へと仕舞われた。

「なあ」

 片岡の肩を強くつかんだ。

「奥さんだけじゃなくて、子供からも話は聞いてやったか」

 片岡が戸惑いの視線を向けてくる。

「俺は結婚してないし、子供もいないから、あんたの悩みを理解しきれないと思う。でも、子供の立場から言ってもいいなら、親父がどんな理由でも、いないのはちょっとさびしい。俺の親父は刑事だった。仕事ばっかりで、試合とか運動会とか、あんまり来てくれなかった。周りは両親ともに来てるのに、なんで俺の両親はそろってくれないのかって、仕事で忙しいのは頭で分かってるけど、やっぱり寂しかった。あんたの子供、まだ小学生に上がったばっかりだったよな。難しい話は分からないかもしれない。けど、勝手にいなくなったんだったら、悲しいし、寂しいと思う。だから、一回だけでもいいから、聞いてやってくれよ。たとえ、≪ブルーマーク≫だろうと何であろうと、あんたは唯一の父親なんだ。だから、勝手に決めるなよ」

『どうしてくれるの! どう責任とってくれるの!』

 あの時、西川一華が吐き捨てた言葉は、まるで呪いのようだった。

 結婚したことを、出会ったことを、そしてみずからが生まれてきたことを、何もかも全て、無かった事にして否定された気がした。

 あの瞬間、自分が異物めいた存在のような、感じたことのない恐怖感にぞっとした。

 そして、片岡の言葉は、西川夫妻や俺に言ってるんじゃない。≪ブルーマーク≫である片岡自身に向けて言っているのだ。

 これは懺悔ざんげだ。悩んで悩んで、一人でもがき苦しんでいる。

 事実、≪ブルーマーク≫への偏見へんけんは強い。世間の風当たりも厳しい。

 市谷いちたにや野村も差別に苦しんでいた。

 でも反対に、水戸みと杜山もりやまのように理解しようと、寄り添おうとしてくれる人もいる。

 片岡の奥さんと子供はどう思っているんだろうか。

 あの写真が、あのレンズに向けている笑顔が、答えじゃないのだろうか。

 蕗二は強く掴んでいた肩を優しく叩き、びる。

 そんな蕗二を片岡は目を見開いて見ていたが、小さく笑うとやわらかな視線で受け止める。

「なんだが、君に言われると、奇妙な感じだ。だが、そうだな。妻と子供と……ちゃんと向き合って話さなければいけないな」

 眼鏡をかけた片岡は深く深呼吸をする。そして、眼鏡を指で押し上げた。

「ありがとう、三輪警部補」

 そこには、よく見慣れた片岡がいた。

「そうと決まれば、さっそくディナーを予約しなければ、バラの花束も必要だな」

「お、おう?」

「分かっていないね、妻とは別れてしまったんだ。もう一度、初めから告白をし直さなければいけないだろ。振られたらなぐめてくれるかい?」

「振られたらな。なんかお前なら大丈夫そうだと思うけど」

「うーむ、成功したら、そうだな。君を家に招待しよう! 私の妻と娘は可愛いぞ。あ、いや止めておこう。君が過ちを犯してしまうかもしれない……」

「いきなり惚気のろけんな! つか、なんで俺が寝取る前提やねん、どつき回すぞ!」

「待て、名案を思いついた。生実況して、幸せをおすそ分けしてあげよう」

「なにが名案じゃボケ! はよ帰れ!」

 ひぐらしの鳴く空に、片岡の楽し気な笑い声が響いた。





 エントランスを潜り抜けると、目の前に多くのパトカーが集まっていた。

 赤色灯せきしょくとうがチラつく中、蕗二はマンションを見上げる。

 わずかに夕暮れの気配が混じり始めた、まだ青い空を背に、無機質なマンションが佇んでいる。

 見られている。異物を排除せんと、こちらを見ている。

 これがマンションにただよう、異様な空気の正体だろう。

 もし、誰かが西川一華いちかに救いの言葉をかけていたなら、今回の悲劇は始まらなかった。

 人間は強くない。だかられるのだろうか。

 群れて大きくなれば、同じ方向を向くようになる。そこからはみ出せば、排除される。

 排除して排他して排外して、そこに残るのは、一体なんだ?

 顔を上げる。走り回る刑事や鑑識の間、竹輔が手を振って呼んでいる。

「お疲れ様です。葉山優斗くんは救急先の病院で、命に別状なしと報告が来ました」

「そうか、よかった」

「蕗二さんこそ、どこか怪我してないですか?」

たいしたもんじゃない。こんなん、湿布しっぷでも貼ってりゃあすぐ治る」

 具合を見るように腕を回しながら、周りを見渡す。

「そういえばあいつ、芳乃は?」

「送るって言ったんですけど、目を離した隙にいなくなってて……」

「……竹、ちょっといいか」

 止めたままの覆面パトカーに乗り込み、シートベルトを締める。ハンドル脇のスタートボタンを押し込み、エンジンを起動させた。助手席の竹輔がシートベルトを装着するのを横目に、起動したナビを操作し、登録してある警視庁への道のりを選択する。車は静かに、路上を滑り出した。

「なあ、竹。お前、≪あいつら≫の資料は読んだか?」

「はい。全部目を通しています」

 蕗二は両手の中で動くハンドルを見つめながら、口を開く。

「芳乃のあれ、どう思った?」

 竹輔の視線が、横面に突き刺さる。

「どう、とは?」

「芳乃の、≪ブルーマーク≫の理由」

 二ヶ月前の芥子菜からしなの事件の後、蕗二は野村、片岡、そして芳乃の≪ブルーマーク≫情報に向き合った。そして、一つの疑問が強く残っていた。

「空白じゃなかったか?」

 蕗二の言葉に、竹輔は大きく息をむ。しばらくの沈黙の後、大きな溜息をついた。

「ぶっちゃけ、階級別で見られないパターンだと思ってました」

「いいや、あれは間違いない。芳乃だけ、手が加えられてた」

 眉間に深く皺を刻み、ハンドルを睨みつける蕗二の言葉を、竹輔はみ取った。

「僕らに見られたら、まずい理由ってことですか?」

「≪ブルーマーク≫の判定が下りてる以上、今更隠す必要なんてないだろ」

 『犯罪防止策』は、犯罪を未然に防ぐ目的で作られた政策だ。

 何か犯罪者になりうる要素がなければ、≪ブルーマーク≫が付くことはない。

 芳乃の氷の眼を思い出す。

 あの氷の奥でうごめいた、得体の知れないもの。

 あれは……。

「いや、あり得ない……」

 吐き出した言葉は、なぜか懇願こんがんのように聞こえた。












 頭が痛い。

 叩かれているような、められているような、その両方か。

 何がどう痛いかも、わからないくらいだ。

 ふらつく足が階段につまづく。そのまま、段差に座り込んだ。

 立てた膝の上に頭を乗せ、深く呼吸を繰り返す。波が引くように頭の痛みが引いていく。

 すると突然、甲高い音が鳴った。

 振り返ると、階段の上にモニュメントが立っていた。金と銀のパイプがからまりあった時計塔とけいとう。夕日を受けてまぶしいほど輝くそれの、古めかしいカラクリが音を立てて、起動していた。金の時計板がひっくり返り、ぜんまいで動く金色の子供が楽器を弾いている。

 オルゴールとハープの混ざり合った神秘的な音色。

 通りがかった人々も周りで待ち合わせをしている人々も、心地よさげに耳を傾けている。

 その中で一人、芳乃ほうのうつむき歯を食いしばった。

 耳を塞ぐため持ち上げた両手は、胸の奥から込み上げてきた咳にはばまれる。

 胸が痙攣けいれんするように、咳は止まらない。肋骨ろっこつが強風にあおられた枝のようにきしみを上げる。

 喉に細かな針が刺さっている気がする。頭が脈を打つように痛んでいる。口の中が乾いて、わずかに血の味がした。

 酸素が足りない。マスクを外してあえぐ。

 まるで、打ち上げられた魚のようだ。

 平然と目の前を歩いていく人を見ながら、一人おぼれている。

「だから嫌なんだ」

 芳乃は顔をゆがめ、両手に顔をうずめた。

 手のひらに押しつけた眼が、溶け落ちるんじゃないかと思うほど熱かった。

「Can I help you?」

 すぐ隣で声がした。指の間から視線を向けると、スーツの男が座っていた。

 色の濃い眼鏡がこちらをのぞきこんでいる。

 芳乃は顔を上げ、断りの言葉を舌に乗せる。口を開いて吐き出す前に、さえぎるように大きな手がひたいに押し当てられた。その手は、振りほどくにはしいほど、心地の良い冷たさで優しく添えられていた。

「Hey, you! Have you any fever? Let`s take you to the hospital!」(ちょっと君!熱があるじゃないか?病院に行こう!)

 男は耳にめこんでいる小型機械を叩いた。芳乃はすぐさま首を振り、左人差し指に嵌められた、指輪型端末を覆うように男の手をつかんだ。

「thank you. but I`m OK. Please I want you to leave me alone.」(ありがとう、でも大丈夫です。そっとしといてください)

 そこまで言葉を紡いだ芳乃は、黒い眼を細める。光をさえぎる濃いガラスに、眉を潜める少年が映っていた。

「失礼ですが、あなた日本語しゃべれませんか?」

 すると、男は目の前で手を叩かれたように驚いた。

 たっぷり三秒固まった男は、突然仰け反って軽快に笑う。

「いやいや、悪かった。日本人はね、英語を話すと挙動不審になるって聞くから、試しただけなんだ。君はそんな事なかったが」

 犬を撫でるように手を伸ばされる。芳乃は男を、今度は避けた。空ぶった手を不思議そうに見る男を、芳乃は不快感を込めてにらんだ。

「病人をからかうなんて、失礼ですね」

「それは謝るよ。悪かった。話しかけた最初の理由は、本当に君の体調を心配してなんだよ。私は医療にたずさわっていたこともあってね。放っておけない性分しょうぶんなんだ」

 男が色の濃い眼鏡を取った。

 引き寄せられるように男の眼を見る。

 初めて見る色だった。

 磨き上げられた鋼鉄のような灰色の虹彩こうさいまばたくたびに表面がきらきらと青や緑の粒が混じりこむ。

「原因は、風邪だけではないね?」

 芳乃は体を凍りつかせる。首を絞められた気がする。無理やり息を吸い込んで、驚いた肺が強く咳を吐き出す。体を折って、込み上げて止まらない咳を両手で受け止める。

「恐がらなくていい。視てごらん。そしたら、君と私の接点がわかる」

 大きな手が背をさする。それに促されるように、恐る恐る視線を上げた芳乃は、黒い眼で男を視る。

 白い百合ゆりのロゴ、ガラス張りの部屋、重厚な机の上に置かれた黒いふだ、金色の文字でCEOと書かれている。

「ジブリールの、社長?」

「Correct!」(正解!)

 嬉しそうに指を鳴らす。眼の下に薄っすらと入る皺から、歳を重ねているようだが、行動は芳乃と同年齢のようだ。演技なのか素なのか、判断できない。

 芳乃は咳を押し留めるように、喉奥で空気をき止める。黒い眼の縁に氷が張り始める。

 だが、突き刺すような頭痛に襲われて、咳とともに息を吐き出した。芳乃は頭を抱えて、目をつぶる。男は心配そうに、芳乃の背に手を回す。

「本当にとても具合が悪そうだ、家まで送っていくよ?」

「遠慮させて頂きます」

 男から距離を取るように芳乃が立ち上がると、追うように男も立ち上がった。

 モデルのように足が長く、背が高い。あの刑事と同じくらいだろうか。芳乃は頭の片隅に三輪蕗二の姿を思い浮かべていると、気が付けば目の前に名刺が差し出されていた。

「じゃあ、送るのはやめるから、これだけでも受け取って?」

 痛む頭は深く考えずに名刺を受け取る。さらりと手触りがいい。百合のロゴの下、英語でつづられた名前を視線でなぞる。思い浮かべた芳乃の疑問は、すぐさま答えられた。

「君の戸惑いは分かるよ。私もね、を持つ人に会ったのは初めてだ」

 灰色の目の下を、長い指が叩く。

「きっと同じ悩みを持っている。私の方が生きている時間だけ知恵を貸せるだろう。君の相談に乗りたいし、私が知らない君の知恵も貸してほしい」

 指が名刺のPhoneの横に並ぶ数字をなぞる。

「気が向いたらで構わない、いつでも掛けてきてくれ」

「考えておきます」

 芳乃は声が震えないよう、そう答えることで精一杯だった。

 男の視線を振り払うように、足早に人混みの中へとまぎれ込む。

 その小さな背を、男は見つめていた。

 男の口元が弧を描く。灰色の眼が夕日を取り込んで、血のように赤く染まった。

「It`s time to play the game.」

 男の低く冷たい声は、喧騒けんそうに掻き消され、誰の耳にも届かなかった。


 昼を飲み込み、闇夜が訪れる。

 暗闇を恐れるように、街は煌煌こうこうと光り始める。

 太陽に代わり君臨する青白い月が、目を細め、街を見下ろしていた。











 *********************************

 Thank you for reading to my story.Was it interesting?

 Please also read the next story. It's more interesting.

 Let's meet again soon. Next madness is waiting for you.

(私の話を読んでくれてありがとう。面白かったかな?

 次の話も、ぜひ読んでほしい。もっと面白いから。

 それじゃあ、また会おう。次の狂気が、あなたを待っている)

 


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