File:7 コキュートス
屋上へと繋がる階段が
「やめろ!」
蕗二の
太陽は頂点を過ぎた。それでも強い光は、
「あんたら、ここで何やってる?」
蕗二の問いに、背を向けていた影が振り返る。ほんの数十分前に会ったばかりの、黒髪の少女だった。
「刑事さん?」
少女は驚きの表情を浮かべる。青い光が、蕗二を
彼女も少女と同様、蕗二の登場に驚きを隠せないらしい。少女と蕗二に視線を交互に向ける。
背後から慌しく階段を駆け上がる足音。息を切らした片岡と
役者はそろった。
そう言わんばかりに、深く息を吸い込む音がした。
蕗二の後ろ、マスクをむしり取った芳乃が天を仰いでいる。深い水底から浮き上がったように顎を上げ、空気を肺一杯に満たしていく。前髪の下、ゆっくりと
「答えてください、
真っ直ぐ氷の眼が見据えている。
「何も。ただ、ちょっとお話したかっただけ」
「問い詰めるの、間違いじゃないですか?」
冷ややかな芳乃の声に、
「まさか、本当に雑談だよ」
「いえ、あなたには聞かなきゃいけない事があるはずです」
冷たい眼が瞬きとともに動き、西川
「綾香ちゃんの死体を廃屋に捨てたのは、あなたですね?」
芳乃の言葉に、一華は血の気を引かせた。
「何言ってるんですか? 私が娘を殺すとでも」
「黙って聞いてください」
反論するために開かれた口を、芳乃が
「あなたは、『あるきっかけ』で眼を覚まし、窓の外、綾香ちゃんの死体を見つけたはずです。普通なら、子供を助けるために救急車でも何でも呼ぶでしょう。ですが、あなたは何をしましたか?」
鋭い氷の刃に似た視線に、一華は暑さとは別の冷や汗を額に浮かべた。
「そうですね。綾香ちゃんをゴミ袋につめて、駐車場に飛び散った血を水で洗い流した。あなたはネットの天気予報で、明け方に雨が降るのを知って、駐車場の一部に不自然に
一華がわずかに唇を動かした。芳乃はその言葉を拾い上げる。
「その問いに、答えましょう。なんで母親のあなたが、綾香ちゃんを助けなかったか」
芳乃は蕗二の隣に並ぶ。芳乃の視線を受け、蕗二は握り締めていた端末の画面を一華へと向ける。
「綾香ちゃんの検死結果です。死体はぐずぐずに腐ってたせいで、わかることは限られていたそうですが、決定的な証拠がありました。それが左腕の骨折です」
液晶端末の一部に親指と人差し指を当て、指で広げる。すると画像が拡大された。画像には、カルテが映されている。
「一ヶ月ほど前、綾香ちゃんは左腕を骨折し、病院に行っていました。あなたは転んでぶつけたと医者に言ったそうですが、骨折箇所は二の腕の付け根です。ここは、腕を掴んで体を強く揺さぶった時にも折れるそうです。受診の時、体の
体の芯まで冷やすような、冷たい視線と言葉に
いや、違う。蕗二の直感がそう告げた直後、一華が笑った。歯を
「まさか、そんな正確に全部当てられるなんて、気持ち悪いガキ。まるで化け物ね」
家畜を
「じゃあ、もうひとつ答えてちょうだい、名探偵さん? 綾香を落とした犯人は私じゃないのは、分かるわよね? それは誰よ。もうわかってるんでしょ?」
芳乃は答えない。突然の沈黙に、蕗二は芳乃へと視線を向け、とっさに歯を食いしばる。
じゃないと、体が震え出しそうだった。氷の眼の奥、絶対零度の
「綾香ちゃんを殺したのは」
芳乃の瞬かない眼が、じれるほどの
「
だが、百日は動じなかった。それどころか、ずっと、同じ笑みを浮かべ続けている。
「ちょっと無理じゃないかな? もしあたしがマンションに侵入したとしても、防犯カメラに映っちゃうでしょ?」
幼い子に話しかけるように、柔らかな声音。表情と合わせれば、無害な少女にしか見えない。しかし、芳乃の眼は冷たく、
「そうですね。だからこそ
「ま、待ってくれ!」
事態が飲み込まないと、片岡の隣、
「綾香は恐がりだ、なのに一人でどうやって家を出て行くんだ!」
問われた芳乃は凍りつく眼で桃輝をなでる。体を跳ねさせ
「綾香ちゃんは、『星くず☆きらり 輝けナイトガールズ!』という、流星をモチーフにしたアニメが好きでしたよね? それを利用したんです。
桃輝は口を開けたまま息を
「小さな子供です。深夜に長く起きることはできません。来るはずもない流星を待っている間に、眠ってしまった綾香ちゃんを屋上から抱え落とした。そして、母親の携帯に電話をかけて死体を確認させた」
芳乃が呼吸を置く。
「そして、動機は綾香ちゃんを救うため」
「そう、それが、あたしの使命」
しなやかに腕を広げて見せる姿は、舞い降りる天使にも見える。
「知ってる? 私たちが生れ落ちる確率は、千四百兆分の
うっとりと自らの体を抱きしめた百日に、蕗二は堪えられず怒声を上げる。
「ふざけんな! 殺す以前に、できることは何でもあっただろうが!」
「いいえ、これしかないの。綾香ちゃんは、もうこの世では幸せになれない。来世に送るのが一番幸せになれる。それと」
百日は一華に視線を送り、弓矢を引くように指を伸ばした。
「あの女を地獄に落とす役目がある。あなたには苦しんでもらわないと、綾香ちゃんの苦しみと
その言葉に蕗二は、はっと息を呑んだ。
「優斗くんを誘拐して、あの脅迫状を書いたのは、お前だったのか」
やっと全てが繋がった。
保育園で働いているということは、綾香ちゃんと友人・葉山優斗くんとも面識があっておかしくない。日々、保育園で築き上げた信頼の元、誘拐という名の散歩に出るのは簡単だ。そして『罪は暴かれなければならない』。あの一文は、葉山優斗くんやその両親にではなく、西川一華に向けたメッセージだったのだ。
優斗くんは、虐待の事実を認めさせるための
蕗二の言葉を、
「さあ、綾香ちゃんのママ、今がチャンスですよ。今ここで、刑事さんにあなたの罪全てを告白してください。そうしたら、優斗くんを助けてもいいですよ? それとも、綾香ちゃんみたいに見殺しにしますか? ああ、でも早くしないと間に合いませんよ?」
くすくすくす。喉奥で百日は笑う。だが、一華は息一つ漏らすものかと唇に歯を立てている。蕗二は焦った。百日の言葉をそのまま受け取れば、優斗くんの命は残りわずか。断罪の天使が引き絞った弓は限界だ。矢がいつ放たれてもおかしくない。優斗くんを救うためには、一華を説得すべきなのか? それとも……
青い光が、蕗二の目の奥を焼いた。
耳の奥底から、こびりついた笑い声が湧き上がる。
『蕗二!』
父の背。赤い血溜まり。響き渡る
右手が引きつる。スーツの下にある、黒い鉄の塊は――。
「蕗二さん」
動きそうな右手が冷たいものに
「落ち着いてください」
こちらを見上げる氷の眼が、蕗二の頭に冷や水をかけた。
蕗二が頷くと、握られていた右手から芳乃の左手が離れる。
「綾香ちゃんのお母さん、その取引に応じなくても大丈夫です」
「優斗くんの居場所は、もうわかっています」
蕗二の背後で物がぶつかる硬い音に、全員の視線を向ける。扉が勢いよく開け放たれ、竹輔が立っていた。蕗二たちには目もくれず、設備機器の集まる場所へと入っていく。
「直接的な嫌がらせは、リスクがあります。それなら時間差で、でも確実に相手を恐怖のどん底に突き落とすには、どうすればいいのか」
関係者以外立ち入り禁止と掲げられた白いフェンス。そこに巻きついた鎖を大型ニッパーで切断し、室外機の間を縫い、駆け抜けていく。
「百日さん、とてもいい性格ですね。恐らく、事態が深刻になるまで、誰も気がつかなかったでしょう」
竹輔がたどり着いたのは貯水槽だ。大きなタンクの側面にとりつけられた
夏とはいえ水に体温を奪われた小さな体は、寒さに震え、青い顔をしていた。
つまり、母親が綾香ちゃんへの虐待の事実を隠し続けるのなら、男の子は解放されない。
そのまま死に絶えた少年が浸かる水を、母親は知らずに使うのだ。死体がやがて腐り、水が濁るまで気がつかぬまま、その水で顔を、食器を、体を洗い、口にする。
そして異変に気がついたときには、もう遅いのだ。
腐敗した匂いを鼻奥で思い出した蕗二が吐き気を覚えた瞬間、鼓膜を突き破る悲鳴が上がった。
「この人殺しを捕まえて!」
「それならあなたも同罪だね?」
目の前で、
蕗二の腕が
芳乃が仰け反るように百日を引き、蕗二は
二人の体は、手摺を飛び越えていた。一歩間違えれば、自分も同じ運命をたどっていたかもしれない。内側から胸板を叩く自分の心臓を撫で下ろすと、
「離して! あの母親を地獄へ落とさなきゃ!」
百日が体を起こそうと手足を振り回していた。ともに倒れた芳乃は、爪を立てられ蹴られても、百日の腰に回したままの腕を緩めず、コンクリートの床に体を張り付かせて、百日を捉え続けた。
「黙りなさいこの殺人鬼!」
いつの間にか、体の上が
「痛ッ! なにすんのよ!」
噛み付かんと吠えかかる一華に、蕗二は眉間に皺を寄せた。
「あんた、綾香ちゃんが嫌いだったのか? 邪魔だったのか? だから虐待したのか?」
その瞬間、一華が蕗二を見たまま固まった。同時に芳乃の眼が見開かれる。違う、と小さく口が動いた。
「あなたは、綾香ちゃんが≪ブルーマーク≫になるのが恐かったんですね」
肩を大きく
「う、嘘だろ一華」
全ての出来事に置いていかれたまま、迷子の子供のように
「そんな、それだけの理由で?」
「あんたに分かるわけないでしょ!?」
一華の絶叫が鼓膜に叩きつけられる。
「あんたが≪ブルーマーク≫になんかなるから、私がどれだけ苦労したか!
声が裏返るほどの絶叫に叩きのめられ、桃輝は膝から崩れ落ちた。尻もりをついて、呆然と崩れ落ちていく理想を見つめていた。
蕗二は手負いの獣のように息を荒げる一華を、ただ見下ろすしかなかった。
一華から吐かれた言葉たちが、
何かが動く気配。それに顔を上げると、片岡が手荒く桃輝の腕を掴み上げるところだった。力の抜けた、桃輝の片腕と
片岡の表情は
ふと氷の眼と視線が合った。首が横に振られる。蕗二は一華の腕を離し、一歩距離を置いた。
「来ないで」
一華が言う。だが片岡は歩みを止めない。
「来ないで」
もう一度、今度は大きい声だ。だが、片岡はもう一華のすぐ目の前に立っていた。
眼鏡の奥から、全ての感情を押し殺した眼で一華を見下ろしていた。そして、片岡の膝が折られ、一華の前に片膝をついて。
「来ないで!」
一華の喉から絶叫が吐き出され、腕が振り上げられた。蕗二があっと口を開ける。
肉を打つ高い音、遅れて眼鏡が音を立てて転がった。
それでも、視線は一華から外れなかった。
「
桃輝が肩を震わせ、一華が息を詰まらせる。
「望んでいなかった、なんて言ってくれるな?
一切
「ひとつ教えておこう。私は、犯罪防止策が導入された直後から≪ブルーマーク≫の判定を受けている。君よりも、将来子供が≪ブルーマーク≫になる確率は高い。だが、私には一般人の妻がいる。そして、まだ小学生になったばかりの、愛しい娘がいる。その両耳には、ピアスの穴さえ開いていない」
片岡が溜息に似た鼻息を、長く吐き出す。その眼に、先ほどまでの冷酷さはなかった。
「綾香ちゃんはいくつだ? たったの四歳だったろう。まだ≪マーク≫が付くかどうかなんて、分からないじゃないか。たとえ、≪マーク≫が付いたとしても、親は
片岡の叫びに、一華は頬を張られたように目を見開いていた。
全ての言葉を理解した一華の顔は、一人の子をもつ母親の顔だった。
「ああ、ああああ」
顔を覆って
「一華、ごめん。おれ、一華がそんな、ひどいことを言われてたなんて、全然知らなかった……ごめん、ごめんな。一人にしてごめんな」
「私こそ、ごめんなさい……ごめんなさい! 綾香ごめん、ごめんなさい!」
一華が桃輝に抱きついた。二人の
蕗二が深く息を吐き出した。竹輔と優斗くんの姿は見えない。
やっと終わった。もう一度深く肺から空気を押し出した。
「いますぐ、それを離してください」
短く冷たい声に、蕗二はすぐさま体に緊張を走らせた。声の先、いつの間にか拘束を
「何でとめるの。あたしは天へと帰る、邪魔しないで」
殺意を剥きだす百日を、氷の眼が瞬きもせず見つめていた。
「あなたがそこまで決意する、理由は何ですか?」
百日が息を詰まらせた。氷の眼が百日の耳、青い光へと向く。
「≪それ≫が付いたのは、半年前ですね?」
芳乃の冷えた声に促されるように、百日は
「何回も何回も、警察にも相談所にも言った」
「なのに、全然取り合ってくれなくて。あたしが、≪ブルーマーク≫だから……そんな理由で、誰も相手にしてくれなかった。こんな、こんなピアス一つで!」
苦痛に耐えるその顔は、今にも泣きそうだった。だが、その目から一滴も涙は浮かんでこない。
「綾香ちゃんに、辛くないの? って聞いたことがあるの。そしたら綾香ちゃん、『お母さんが好きだって言ったの。大好きだって。綾香が悪いの、だから誰にも言わないで』って。だから、少しでも辛くないように、そばにいた。でも、綾香ちゃんが腕を骨折した時、もうだめだって思った。あの人は、綾香ちゃんをいつか殺してしまう。お母さんに殺されるなんて、そんな最悪な事、あって良いわけない。綾香ちゃんに絶望なんてして欲しくなくて…………でも、全部間違ってた。あたしが、綾香ちゃんの未来を奪っちゃったんだ」
深く息を吐き出す。
「今日、全てを終わらせる気だったんですね」
「うん、でも、もういい。もう、疲れたよ……」
純白の羽が折れた天使は、ただの少女の形をした肉の塊になろうとしていた。
「あなたには生きる価値がないと、言ってほしいですか」
冷たく、無感情な声。
「そう言ったら、あなたは死ぬんですか?」
「ふざけるな」
芳乃が百日の
「死は
「刑務所を出たら、虐待された子達を救う、あらゆる知識を全て身に着けてください。そしてもう一度、綾香ちゃんのような子を、救ってください。絶対になってください。それが、あなたにできる、唯一の
百日は息を吸う。息を吹き返すように、
そして、くしゃりと顔を
「ひどいね、芳乃くん」
百日が倒れこむ。その体を、芳乃は強く抱き止める。
額が、芳乃の肩へと押し当てられた。震える体と、漏れる
氷の眼は、凍った眼を溶かすように何度か瞬き、そして静かに
天使はいつかまた、晴天の空を舞うことを祈って。
**花盗人とオキザリス**【了】
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