File:6 愛獄





 PM13:13。

 蕗二ふきじは白いセダンを路肩に車を止め、運転席から建物を見上げた。

 被害者・西川綾香の住宅だ。


 蕗二たちは本庁で西川夫妻に会う予定だった。

 だが、直前で東検視官から連絡が入り、西川夫妻は自宅に帰ったと報告があったのだ。

 理由は単純。ご遺体の洗浄作業が、予想以上に進まなかったのだ。

 ご両親の精神状態をかんがみて、一時帰宅していただいたそうだ。


 助手席で液晶端末を見つめている竹輔を横目に、気配の薄い後部座席に意識を向ける。バックミラー越しに見えた芳乃ほうのは鑑識の服に身を包み、首をすくめて自分の体を抱えるように腕を組んでいる。マスクと、少し伸びた気がする前髪に遮られて表情は見えないが、規則的に上下する胸部を見る限り、眠っているようだ。

 肩を突かれ視線を向けると、助手席に座る竹輔が端末を向けてきた。その内容を読み、静かに頷く。蕗二は体を捻り、後部座席を振り返る。

 芳乃は目を開けていた。二度咳き込むと、帽子を目深に被った。

 ドアを開ける。陽炎の向こうに、蝉の声が聞えた。








 潜り抜けた玄関ホールに、なぜか数名集まっていた。管理人らしき初老の男性、品のよさげな中年の女性三人、落ち着きのない男女五人の視線が一斉にこちらを向いた。

 それに違和感を覚えつつ、竹輔が初老の男性に、蕗二は女性たちに話しかけた。

「大変失礼します、警視庁のものですが、少しお話いいですか? 皆さんは、何かの集まりで?」

 軽く警察手帳を見せると、三人の内、首に薄いスカーフを巻いた女性が恥ずかしそうに口を開く。

「何か事件があったようなので、様子をちょっと……」

 つまり、ここにいる人々は野次馬らしい。つい数時間前に鑑識が出入りしていたのだから、当然といえば当然か。

「西川ご夫妻は、ご存知でしょうか?」

「綾香ちゃんが行方不明って話よね?」

「ええ」

 蕗二の頷きに、眼鏡の女性が隣のスカーフの女性をつついた。

「ほら、やっぱり。こうなったでしょ」

「やっぱりとは?」

 蕗二が声を抑えて耳を傾けると、つられるように眼鏡の女性が声を潜めた。

「旦那さんよ、犯人。旦那さん、ほら、あれでしょ? 犯罪者になる≪あれ≫じゃないの。たまーに夜中、奥さんと喧嘩してるし、いつか何か起きると思った」

「奥様かわいそうよね、あんな犯罪者と結婚なんて」

 スカーフの女性が憂鬱ゆううつげに溜息をついた。その反対側で、ワンピースの女性が怒ったように胸の前で腕を組むと鼻息を荒くする。

「絶対でき婚よ。ほとんど家にいないんでしょ? 早く別れなさいって言ってるんだけどね、あんな男といたら、子供はグレるわ」

「では、奥さんが何か愚痴を言われたり?」

「いえ、何も言わないの。ホント良い奥さんよ」

 顔を見合わせて頷き合う女性たちを見ながら、蕗二は冷静に情報を整理していた。

 事件は他人からより身内から危害を受けることの方が圧倒的に多い。誘拐や殺人が起こったとき、真っ先に身内を疑うのも、刑事の初歩だ。そして今真っ先に疑うべきなのは、犯罪者予備軍ブルーマークの父親と言うことになる。

 だが、真っ青になっていた父親の顔は、≪ブルーマーク≫のそれではなかった。たとえ気の迷いで、娘に手をかけたとしても、何日も正気でいられるような感じではない。

 だが、人間は嘘をつく。

 それはよく知っている。【特殊殺人対策捜査班】に異動してきて、特に何度も見た。もしあれが演技だったら。腹底にどろりとしたものが蠢いた。

「あの、どうされましたか?」

 背後からかけられた声に、蕗二は素早く振り返る。少女が二人、こちらを見上げていた。

 夏物のセーラー服の二人は、蕗二に驚いたのか怯えたのか、その両方か、顔が強張っている。小麦色に焼けたボブカットの少女と、色の白い艶々とした黒髪を高く結い上げた少女だった。蕗二は癖で少女二人を観察していたが、黒髪の少女に眼が止まっていた。髪が結い上げられさらされた耳元に、青い光が怯えるように暗く光っている。

「菜々美ちゃんおかえり」

「あら、くれないちゃんも」

「刑事さんが、綾香ちゃんの事件で来てくれてるんだって」

 三人の女性の言葉に、紅と呼ばれた黒髪の少女が反応する。

「刑事?」

 紅は、ぽつりと呟いた。そして、何か歯車が噛み合ったかのように目を見開くと、突然蕗二に詰め寄った。

「綾香ちゃん、見つかったんですか!?」

 あまりの勢いに、蕗二は軽く仰け反ってしまった。

「ちょっと紅!」

 菜々美と呼ばれた少女に腕を引かれ、紅は我に返ったらしい。一瞬にして首から上を赤くした。

「す、すいません! その、保育園でアルバイトをしていて、綾香ちゃんとはよく遊んでていたので!」

 何度も頭を下げる紅を宥め、蕗二は膝を曲げ、体を屈めた。

「大変申し訳ないですが、捜査については、詳しいことは言えない状況でして」

「じゃあせめて、綾香ちゃんが見つかったのか、教えてくれませんか?」

 意思の強い視線に、蕗二は短く答えた。

「見つかりました」

 蕗二の声の裏を察したのだろう、紅は悲しげに目を伏せる。はく、っと薄く口を開いた。何か言葉を発するための動きだ。だが躊躇ためらうように、下唇を噛む。蕗二が続きを促そうとすると、紅は視線を蕗二の後ろへ移した。そして、何かを見つけたらしい、目を見開いた。

「芳乃くん?」

 首を後ろへと捻ると、いつの間にか蕗二の陰に隠れていた芳乃が肩を跳ねさせた。息を潜めていた反動なのか、派手に咳き込んでいる。

「なんだ、知り合いだったのか」

「いえ、別に」

 気まずげに帽子のつばを握っている芳乃の代わり、紅が答える。

「社会見学で、保育園に来てくれたんです。今度は警察の社会見学なんだ? 大変だね、芳乃くんの高校」

「そうですね、かなり面倒です。なので、とっとと終わらせてきます。それでは」

 一方的に話を切り、芳乃は足早に玄関ホールの奥へと進んでいった。竹輔に目配せする。丁度ホールにいる全員の聴取が終わったらしい。蕗二は女性三人と少女二人に礼を言い、芳乃の後を追う。先に階段を上がってしまったかと思ったが、芳乃は不貞腐れた様子で階段の影に立っていた。

「お前が保育園ねぇ?」

 口の端を持ち上げて笑えば、芳乃の垂れた目が吊り上がった。

「違います。全員強制参加で、どこかの保育園か介護施設に行かないといけなかっただけです」

「お前、めっちゃ子供に振り回されそうだな」

 両手を子供に繋がれて、左右に引っ張り回される姿が簡単に想像できてしまう。思わず笑うと、蹴りが飛んできた。軽く避け、その勢いのまま階段をリズムよく上がる。テンポよく上ったせいか、目的の三階に思っていたよりも早く着いた。

「それにしても、静かですね」

 竹輔がぽつりと呟く。そう、玄関ホールを抜けてから、誰一人ともすれ違わない。空き家が多いのかと思ったが、気配は十分にある。マンションのような集合住宅では、隣人トラブルが多くなりがちだ。少し神経質そうな人も多いのかも知れない。だが、かなり薄気味悪い。マンション全体が、こちらをうかがっている。あまり足音を立てないように、廊下の一番奥の角部屋へと進む。ドアの前に立ち、部屋番号と西川とローマ字で書かれた木製のプレートを確認する。竹輔がインターフォンに指を置く。

 ピンポーンと高い音が二回鳴る。返事はない。竹輔と車の中で確認した≪リーダーシステム≫のとおりなら、≪ブルーマーク≫はここから動いていない。居留守を決め込むつもりだろうか。竹輔がインターフォンに指を置いた。

『どちら様ですか』

 ボタンを押し込む直前、女性の声が聞えた。母親の西川一華にしかわいちかだろう。

「警視庁の坂下です。少しお話したいことがありまして」

『今日は帰っていただけませんか』

 静かな声だ。だが、はっきりとした拒絶を感じた。竹輔は食い下がる。

「大変ショックな事だとは承知しております。ですが、綾香ちゃんのためにも、そして次の被害者が出る前に、どうかご協力いただけませんか?」

『やめてください』

 震える声に、竹輔が声を詰まらせた。

『娘を失って、しかも見せられる状態じゃないって、私達どうすればいいんですか? 死んだことだって受け入れたくないのに、ちょっとはこっちのこと考えてくれませんか?』

 深い悲しみと怒りが混じった声に、線香の匂いが呼び起こされる。蕗二は血が滲むほど拳を握り締めた。

「それについては、こちらの不手際で、その……」

『不手際どころか、犯人もまだ見つけられてないんじゃ』

「犯人は確かに見つかっていません!」

 蕗二の声に驚いた竹輔を避け、インターフォンの横に手を付いた。

「証拠も消され、犯人だと思っていた人物は全く関係ありませんでした。これが現状です。でも俺たちがここで諦めたら、次の犠牲者どころか、綾香ちゃんもあなた方ご両親も、誰も救えないんです! だからどうか、ご協力お願いします!」

 腰を折り、深く頭を下げる。もはや懇願だった。同僚が見たら笑うだろう。だが、それでも構わない。大切な家族を失った悲しみを、俺は知っている。

 沈黙の気配と芳乃の咳の音に混じり、鍵の開く音がする。そっと顔を上げると、ドアが開いていた。顔だけ覗かせた一華いちかが、こちらを確認するとドアを大きく開いた。

「どうぞ」

 そう言って、すぐに中へ引っ込んでしまった。戸惑いながら短い挨拶とともに玄関をくぐる。背後でドアが閉まると、一華いちかは溜息をついた。不服げな表情で、ついて来るように促される。奥へと進むと、よく整えられたリビングにたどり着く。テレビの前、大きなソファに項垂うなだれるように座っていた西川桃輝にしかわとうきが立ち上がった。

「お話とは、なんでしょうか?」

 たった数時間前に顔を合わせた時より落ち着いているようにも見えるが、手が震えている。蕗二は挨拶もそこそこに、キッチンに向かおうとする一華を引き止め、向かいに座るように促した。隣に竹輔、芳乃と座ったところで、蕗二は本題を切り出した。

「綾香ちゃんが巻き込まれたこの事件ですが、殺人事件であることが確定しました」

 桃輝とうきが息を詰まらせる。隣で一華いちかが顔を覆ってうつむいた。

「状況を少しうかがいましたら、綾香ちゃんは一人で出て行けるようなお子さんではなかったと。なら、犯人は綾香ちゃんが自分から家を出るよう動機を用意したか、または何か綾香ちゃんなりの目的があって外に出て巻き込まれたか、どちらかだと思っています。友達など、関わりのあった人物について心当たりがあれば、教えて頂けませんか?」

 蕗二の言葉に、桃輝とうきは眉を困らせた。

「おれ、じゃなくてぼくは、仕事があってあまり家にいなくて、一華ならわかるだろ?」

 桃輝に問われ、一華は赤くなった目元を指先でぬぐった。

「綾香の友達ですよね? 保育園くらいで、夜中に遊ぶような友達を知りません。近所付き合いも広くないので、綾香が夜中に一人で出かけるとは思いません」

「今わかる範囲で構いませんので、お友達のお名前だとか覚えていますか?」

「少しお待ちください」

 一華が席を立った。ちらりと横目で芳乃を見る。帽子の下から時々、咳をしながらピントを合わせるように目を細めている。ただそれだけだ。

「お待たせしました」

 一華は分厚い手帳を机の上に広げてみせる。後ろの罫線が引かれたメモスペースに、几帳面な字で名前と住所が書かれていた。書かれている名前は五人。その中に、葉山優斗くんの名前を見つける。竹輔が「お借りします」と手帳の中を隅々までチェックし始めると同時に、蕗二は体を前のめりにした。

「このお友達の中で、兄弟がおられる方はいますか?」

「菊池さんと、野原さんに確か上のご兄弟がいた気がします。ただ、綾香と遊んでもらったことはなかったはずです」

「この中で、よく遊んでいたご家族はおられますか?」

「そうですね、葉山さんの息子さんとは、よく遊んでいました。そういえば刑事さん、葉山さんなんですが、昨日から連絡が取れなくて。何かあったんですか?」

 蕗二は冷や汗をかいた。誘拐事件はどこまで内密にできるかで被害者の生存率は大きく変わる。女性の勘は鋭いし、口伝いに情報も広がりやすい。竹輔のめくる手帳へと視線を送りながら、どうやり過ごそうかと言い訳を考える。

「すみません。ひとつ、質問してもいいですか」

 突然、芳乃が手を上げた。一華いちかの視線がれた。ナイスだ芳乃。蕗二は内心胸を撫で下ろした。だが次の瞬間、芳乃の言葉にド肝を抜かれる。

「綾香ちゃんのこと、好きでしたか?」

 あまりにも率直な質問だ。西川夫妻もきょとんと目をしばたかせている。だが、帽子の下から覗く黒い眼は、深い虚穴へと変わっていた。芳乃は二人を視ている。

「当たり前じゃないですか。親ばかって言われても構いません、うちの綾香は可愛いです。だろ、一華?」

「ええ、初めて授かった子ですから。余計です」

「そうですか」

 そう言って、芳乃は一際大きな咳をした。途端、電子音が鳴り響いた。その場の全員が自分の端末に意識を向ける中、一華いちかがポケットから液晶端末を取り出した。画面を一瞥いちべつすると、すぐに電源を落として再びポケットにしまいこんだ。蕗二の視線に答えるように、「すいません、母から電話で」と、はにかんだ。

「どうぞ出てください。何かあったのかもしれないので」

 蕗二が促すと、一華は申し訳なさそうにリビングから退出する。その背を見送り、目の端で芳乃を捉える。芳乃は帽子を深く被り、うつむいている。役目は終わったと言わんばかりだ。蕗二はポケットから白い手袋を取り出した。

「綾香ちゃんのお部屋を見せていただいても?」

「あ、はいどうぞ」

 桃輝とうきに案内され、リビングのすぐ隣、綾香ちゃんの部屋のドアを開ける。女の子が好きそうなピンクを基調とした家具が多い部屋は、子供の部屋にしてはよく片付いていた。

 鞄の中身や棚の中を探し、誰かと繋がるような物がないかと探す。

 引き出した収納ボックスに、不思議なものを見つける。棒の先端に丸いカプセルがついている。どこを触ってしまったのか、丸いカプセルの中に星空が広がった。『やみよをてらせ、いんせきのごとく! いけぇ、めておくらぁーしゅ!!』というアニメ声とともにカプセルの中がきらきらと光った。

「うおっ、なんやこれ」

 思わず声を漏らすと、竹輔が間延びした声を上げた。

「あー! それ流行りの子供向け番組ですよ、『星くず☆きらり 輝けナイトガールズ!』ってやつ」

「そうなのか? てか、なんでそんなの知ってんだ?」

「朝のニュース番組の前になんとなく観てたら、習慣で観ちゃうんですよ。こう、続きが絶妙に気になっちゃって。最近CMも多いですし、コラボグッズも見かけるんで、流行はやってると思いますよ」

「すげぇな、流行はやりって」

 おもちゃを元の場所に戻し、改めて探していると、竹輔が桃輝に向き直った。蕗二は手を動かしながら耳を傾ける。

「奥さんから嫌がらせのような、変な事が起こったとか、聞いたことはありませんでしたか?」

「いや、たぶんないと思います……」

「そうですよね、いきなり言われても思い出せないと思います。もし何か思い出したら、こちらの番号までご連絡いただけますか?」

 竹輔は手帳を千切って電話番号を書き、桃輝に手渡した。蕗二は軽く咳払いする。

「アルバムと手帳だけ申し訳ないですがお借りしても?」

「はい、それくらいなら全然構いません」

 リビングに戻ると、芳乃の姿はなかった。

「ご協力ありがとうございました」

 蕗二が頭を下げると、桃輝が背筋を伸ばした。

「当たり前です。刑事さん、必ず綾香のかたきを取ってください! お願いします!」

 桃輝が勢いよく頭を下げる。その後頭部に蕗二は静かに、だが力強く声を落とした。

「必ず」

 もう一度、竹輔とともに桃輝に頭を下げ、玄関のドアを開ける。芳乃がドアの脇に立っていた。蕗二たちが出てくるのを待っていたらしい。後ろでドアが閉まり、鍵をかける音がする。

「どうだった?」

 声を潜めて問う。だが、芳乃は首を横に振った。

「少し、黙っててくれませんか?」

 冷たい声だ。うつむいたまま、表情は見えない。そのまま、咳を抑えるために口元に拳を当て、廊下を引き戻り始める。その後ろをついていきながら、隣に並んだ竹輔と歩調を合わせる。

「白か黒か、どう思う?」

 竹輔は眉尻を下げ、小さく首を左右に揺らす。

「正直わかりません。ただ、玄関ホールでの聞き込みで、父親を見かけること自体少ないそうです。ですが、近くの公園で一緒に遊んでいる姿を見たり、買い物に出かけたりされるのを見かけることはあるようで、溺愛に近いそうです」

「だけど働いてると、正直そんなもんだよな」

 労働基準法が何度も改正され、30年前などに比べると休みやすくなったらしい。だが、実際そう簡単にはいかない職業も多い。自分の父親も、家にいるほうが少なかった。と言っても、刑事を例に挙げるのは論外かもしれないが。

 ふと、玄関ホールで聞いた女性の言葉がよぎる。

「夫婦喧嘩が聞えるって話があったが、それはどうだ?」

「ああ、そういえば。どちらか片方と綾香ちゃんが出かけることはあっても、夫婦そろってはあまりないようでした」

「まさかだけど、綾香ちゃんの取り合いになってたとか?」

「離婚とかですかね? 親権の取り合いで揉めに揉めて、その……」

「いいえ、あの二人は綾香ちゃんを愛しています」

 芳乃の小さな呟きが聞こえた。

「ついでに、離婚の話も視えませんでした。ですが、根本がすれ違っています」

 吐き捨てられたその言葉を、頭が理解した時にはすでに、小さな背は階段を下りていた。慌ててその背を追い、肩を捕まえる。

「何が視えた」

 芳乃はこちらを振り向かない。肩を掴んだ手に力を入れると、振り払われる。触るなと言わんばかりに段差を二段降りると、けほりと咳をする。帽子を取り、頭が振られ、埋もれていた青い光がこちらを見た。

「視たくないものです」

 コツ、っと踵が音を立てる。蕗二の踵が段差にぶつかったらしい。青い光の向こう、芳乃の眼が細められていた。何度も見てきた絶対零度の冷たさとは、なにか違った。たとえるのなら、冷たく透き通る氷の表面を、氷の結晶で覆ったような不透明さを感じる。

 一体なんだ? 何の感情を隠してる?

 その言葉は凍りついたまま、喉から出ることはなかった。口の中で転がしているうちに、芳乃が階段を下りていってしまった。

「蕗二さん?」

 竹輔の声に、忘れていた呼吸を取り戻す。喉を擦っていると、ジャケットのポケットの中、液晶端末が震えた。まるでタイミングを見計らったようだ。

『やあ、頼まれていた解析かいせきが終わったよ』

 珍しくカメラを切っているらしい通話画面は真っ暗だ。弾むような片岡の声だけが鮮明だ。

『金魚草太の件だが、一つも嘘偽りはなさそうだ。証言したとおり、コンビニの監視カメラに、金魚草太の姿があった。また、レッドマークのGPSも寄り道せず、真っ直ぐ帰宅していることを示しているよ』

 電話を聞きながら玄関を抜け、止めてあった車へと近づく。すでに芳乃がたどり着いていたが、ロックを解除しても乗ろうとしなかった。ただ車にもたれ、足元に視線を落としている。

 蕗二は運転席に乗り込み、電話をスピーカーモードへと切り替え、助手席の竹輔にも聞えるようにする。

「身内を責めたくないが、凡ミスすぎるだろ」

『まあ、焦るだろうね。資料を覗いたが、脅迫状を印刷したコピー機の持ち主を、まだ特定できないようだ。私も調べてみたが、コピー機自体は旧式のものだが、なんせ販売数が多い。もうひとつ、インク購入履歴など今時、インターネットで転売していることも多い。そう易々とはたどり着けないだろう』

 また行き詰まりか。蕗二は座席に深く腰掛け、溜息をついた。

「そういえば、誘拐された葉山優斗くんが走って行ったらしいけど」

『安心したまえ、もちろん調査済みだ。葉山優斗くんが走っていったのは、住宅街。だいたい、今君たちがいるマンションの方向と言っても過言ではないね』

「防犯カメラから、失踪ポイントを割り出せたりしないか?」

『ああ、そうだね。その前に』

 すぐ真横、窓ガラスを叩かれる。

『「来てしまったよ」』

「うお!」

 思わず飛び上がり、ただでさえ低い天井に頭を打ちつけた。

「痛ッ、びっくりした……いるならいるって言えよ!」

『「その反応が見たかったんだよ。わざわざ通話カメラを切った甲斐があるってもんだ」』

「お前の考えてることが、マジで分からねぇ」

 端末の通話を切り、後部座席のロックを外す。すぐさま片岡が滑り込んできた。

「つーか、何で来たんだよ」

 振り返り、楽しげに笑っている片岡を睨みつける。

「いいじゃないか。私も【チーム】の一員だろう?」

 さも当然といわんばかりに首を傾げられ、これ以上は埒が明かないと知らされる。

「あー、わかったよ。好きにしろ。で、失踪ポイントはどうだって?」

「失踪ポイント、と言うと少し大げさだが、カメラから映らなくなったポイントはある。今、A.R.R.O.W.アローに監視カメラの死角計算をしてもらっているところだ」

「それって、犯人は監視カメラの死角を縫って、葉山優斗くんを誘拐したってことですよね? しかも脅迫状を送りつけて着た割に、金銭要求などの具体的な指示もない。一体、犯人は何を考えているんでしょう?」

 竹輔が額を押さえてうつむいた。蕗二は唸りながら天井を見上げた。

 グレーの天井内貼りを見つめていると、頭の片隅に疑問が引っかかった。それに従い、画面を指先でスライドする。バックヤードで動いていた≪ブルーマーク≫検索画面を開き、文字を入力し、検索を指先でタップする。

 検索中に変わった文字は、蕗二が座りなおしている間に消えていた。

 氏名、西川桃輝。年齢は31歳。マーク指定理由は『警戒心の薄さ。他人の言葉を疑わず、信用し過ぎる為、無意識のうちに犯罪に手を染めている可能性がある。また純粋ゆえ他人の人格に幻想を抱き、理想を押し付ける傾向にある。』ということだった。

 理由に一瞬首を傾げるが、同時にその疑問は頭から転がり腑へと落ちる。

 11年前施行された『犯罪防止策』。文字通り、事前に犯罪を防ぐ為の政策だ。犯罪をしうる可能性が高い人物に≪ブルーマーク≫を、罪を犯した人物には≪レッドマーク≫を目印として装着させる。

 理由がなければ、どちらも付くことはない。

 蕗二は指輪型端末を操作していた片岡を見る。その両耳に光る青いフープピアスを見て、ふと疑問が浮かんだ。

「片岡。≪ブルーマーク≫がつく時って、どうなるんだ?」

 蕗二の言葉に、片岡が宙に浮かぶ画面を見たまま、動きを止めた。焦れるほど、ゆっくりと蕗二に視線を向けると、展開していた画面を閉じた。

「家に、スーツの男たちが三人来たよ。『判定の結果、貴方は≪マーク≫人物に指定されました』って、丁寧に通知書を渡されてね。最初は、性質の悪い冗談だと思ったさ。それを承諾しょうだくすると、車に乗せられて目隠しをされて、どこへ連れて行かれるんだ」

 片岡は腕を組んで、指先で眼鏡を押し上げた。その分厚いレンズの奥、視線はどこか遠くに向けられている。記憶を探すように、ゆらゆらと視線は揺れる。

「もう十年位前の話だからね、どんな場所だったかははっきりと思い出せないんだ。だが、目隠しを外された先は、窓もない真っ白な壁の大きな部屋だったよ。イスと机が並んでいた。そこには何人いたかな、ざっくり50人くらいだと思う。全員で≪ブルーマーク≫についての説明を受けたよ。一時間くらい。それが終わったら、一人一人呼び出されるんだ。私は早めに呼ばれた気がする。呼ばれて大きな部屋を出たら、これまた真っ白な部屋で、真ん中にぽつんと革張りの、ああそうだ、動きを拘束するような、少し物騒な黒いイスが置いてあった。白衣だか手術着だか着た何人かに囲まれて、座らされたらあっという間、気がついたら≪マーク≫が両耳についてたよ。あとは、除菌消毒ジェルと説明書とともに家に帰される。こんな感じかな?」

 片岡が肩をすくめてみせる。気がつけば、蕗二は自分の耳に触れていた。

 耳の穴を囲むように軟骨で作られた皺をたどり、柔らかな耳たぶ。薄く、端のほうは少し厚みがあった。指先で摘んでみるが感覚は鈍い。

 そういえば、じっくりと自分の耳を触ったのは初めてだ。ましてや、他人に触られたこともない。

 もちろん、ピアスの穴さえ開けたことがない。

 その柔らかい皮膚を突き破り、冷たく固い、金属が通される。

 青い光に触れた気がして、指先がかじかんだように痺れた。耳に触れていた自分の指が冷えていく。死を恐れるような、漠然ばくぜんとした不気味な不安感に息を詰まらせた。

 片岡の口調のせいか、あまり深刻に聞こえない。いろいろ、端折った部分や曖昧なところもあるかもしれない。だが、それは現実起きたことで、今も起きていることで。窓もない白い部屋に片岡も野村も、そして芳乃でさえ、その場にいたのだ。

「悪かった……」

 蕗二が息に混じらせて呟いた。片岡の首が横に振られる。

「君が謝る必要はない。知らなくて当然だろう。それに、私は≪ブルーマーク≫が付いたことで、むしろ、『私は普通にならなくて良いのだ』と、すっきりした」

 口の端を持ち上げた片岡は、今にも鼻歌を歌い出しそうな機嫌のよさを滲ませている。

「そういうもんなのか?」

「そう言うものだよ」

 再び指輪型端末を操作し始めた片岡から、沈黙している竹輔へと視線を移す。

 俯いていた竹輔は、姿勢を戻していた。手元の液晶端末を見つめている。蕗二の視線に気がついたのか、顔を上げて画面をこちらに向けてきた。ニュースの記事のようだ。

「菊田係長の方、鎮圧したらしいですよ」

「そうか、怪我人は?」

 竹輔は指先で画面をスライドしながら、小さく首を振った。

「何人か出ているようですけど、詳細はわかりませんね……」

「菊田さん、無事だと良いけどな」

「ええ、本当に。あっ」

「どうした!」

「今日、流星群の日だったなあって」

 起こした体を、シートに沈め直して大げさに溜息をつく。

「なんだよ、びっくりさせやがって。流星がどうした?」

「ペルセウス座流星群知りませんか? 毎年、この時期に見れるんです。今年は確か月も細めだから、それなりに見えるんじゃないかって。ほら見て下さい! 去年のですけど、めっちゃ綺麗でしょ」

「おお、こんなはっきり見えるんだな」

 向けられた画面は動画だ。深い紫色の星空を横切る白い光りが幾筋も見える。

 それに、なぜか引っ掛かりを覚えた。それは既視感に近いものだ。頭の中で、閉じていた扉が、蝶番が不快な音を立てて開いていく。

 ふと背後から遠く、片岡の声が聞えた。

「警部補。防犯カメラの死角で、唯一繋がるルートが一つあるのだが、そのルートの先に、このマンションがあるのだが……」

 言葉を遮るように、蕗二は片岡へと手のひらを付きつける。

 訪れた沈黙の中、瞼を下ろした。

 開かれた扉の中、広々とした会議室が現れていた。机の上には、この事件に関する資料が山積みになっている。その間をすり抜け、真正面。大きな黒板の前に立つ。

 濃い緑色の表面に、白いチョークで文字を書きこんでいく。カツカツと、黒板にあたるチョークの先が出す音は、何か思い出せと急かすようだった。

 流星、アニメ番組。

 被害者、西川綾香。腐乱死体。死因:転落死。

 被害者の友達・葉山優斗くん行方不明。

 不審者の出入りなし。指紋などの犯人の証拠なし。

 父親が≪ブルーマーク≫。犯人最有力候補。

 そこで手が止まった。蕗二は文字を睨みつける。その文字にバツ印を重ねて書いた。その下に、書き直すように文字を並べる。

 アリバイあり。綾香ちゃんを溺愛。家にはあまりいない。

 蕗二はそこで文字を止め、今度は犯人の証拠なし、の隣から矢印を伸ばしそこに、犯人はマンションの住人、住人の証言:夜中に言い争う声、と書き足した。さらに行方不明の隣に、文字を書き足す。

 脅迫状・罪は暴かれなければならない。

 もうひとつ、蕗二は腕を上げ、腐乱死体の文字を丸で囲んだ。その上に、文字を書き込んでいく。

 犯行は深夜。目撃者なし。死体遺棄の場所・廃屋。隠す気がない?

 チョークは見る見るなくなり、文字は乱雑に書き殴られ、白い文字が黒板を埋めていく。

 被害者の綾香ちゃん、怖がり。事件の日、自分から出て行った。なぜ? 目的は? 脅迫状の意味は? そもそも犯人の動機は何だ?

 爪が黒板を引っ掻いた。はっと、大きく息を吸いこむ。

「綾香ちゃんのお母さん、どこ行った?」

 口から疑問が飛び出した。だがその答えは、直感的にわかっている。気がつけば、蕗二の体は車外へ飛び出した。視線を向けた先、芳乃がマンションの中へと滑り込むのが見えた。すぐさま追う。後ろから、慌てて竹輔と片岡が追いかけてくる。

 ガラス戸をくぐり抜けた瞬間、電子音とともにCollingの文字が浮かんだ。すぐに応答のボタンに触れた。電話の向こうは野村だった。

「三輪っち今どこ! 大変な事がわかったんだけど! 今、東さんにカルテ検索してもらってるんだけど、もしかしたら犯人は……」

 切羽詰った野村の声に、予感は的中したのだと確信する。

「わかった。カルテ確認できたら、至急メールくれ。今から犯人を問い詰める」

 蕗二は階段を駆け上がった。





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