File:5 憤獄



 AM10:58. 中野署、第三会議室。


 慌しく駆け込むと、すでに尾花おばな萩原はぎわらが着席していた。

「遅れて申し訳ありません」

 尾花たちと向かい合うように着席した蕗二と竹輔は、早速報告に入ろうとする。

 だが、けわしい顔をした尾花が手で制した。

「先に報告させてくれ。事態が大きく動いた。誘拐された葉山優斗くんについて、中野署一課の連中が≪レッドマーク≫を引っ張ってきた」

「≪レッドマーク≫!?」

 蕗二は動揺のあまり立ち上がってしまい、竹輔は椅子ごとひっくり返りかけた。

 ≪レッドマーク≫。

 犯罪者予備軍の≪ブルーマーク≫とは違い、何かしら罪を犯した人間の総称だ。特徴は赤いサージカルステンレスのフープピアス。≪ブルーマーク≫よりも行動制限が厳しく、行動が二十四時間監視される。ほぼ人権はない。だが、長く問題だった窃盗や強姦などの常習犯による再犯率は、現在0%だと発表されている。

 その証拠に、≪レッドマーク≫を緊急逮捕するような事件に当たったことがなかった。

 だから、なおさら驚いたのだ。

 尾花が大きな溜息をつき、パイプイスの背もたれに体を預けた。

「優斗くんが行方不明になった現場付近、複数の≪リーダーシステム≫と≪レッドマーク≫のGPSを洗ったから間違いない。しかも、前科マエが児童への強制猥褻わいせつ。ほぼ犯人クロでいいだろう。あとは、吐かせるまでだな」

 尾花と萩原が安堵あんどしたように笑う。その様子を蕗二と竹輔は気まずげに見て、顔を見合わせた。萩原が怪訝けげんそうに視線を向けてくる。

「どうしましたか?」

 蕗二は咳払いし、固いパイプ椅子に座り直した。

「綾香ちゃんの誘拐および殺害の犯人は、マンション内にいるはずです」

 萩原が目をいた。再び険しい表情になった尾花が蕗二を見据みすえる。

根拠こんきょは?」

「綾香ちゃん失踪推定時刻は深夜。マンションの防犯カメラをチェックしたところ、外部からの侵入者はいません。もし運よく防犯カメラに映ってなかったとしても、児童への猥褻前科のある≪レッドマーク≫が失踪直後に周りをうろついていたのなら、まっさきに容疑をかけられているはず。なのに、今更引っ張ってくると言うのは少々おかしいと思いませんか?」

 尾花がぐっと口をつぐんだ。その隣で萩原が冷汗を流し始める。

「じゃ、じゃあ、引っ張ってきた≪レッドマーク≫は何者なんですか?」

「それが分かれば苦労しねぇだろ」

 尾花が盛大に溜息をついてけ反った。肩に圧し掛かるような空気に呼吸が苦しい。

 誰もが沈黙する中、ひかえめなノック音が空気を震わせた。失礼しますという女性の声が響き、ドアが開いた。制服の女性警官だ。何か報告しようと口を開いたが、空気の重さからか、慌てて閉めようとした女性を尾花が引き止めた。

「どうした? 急ぎか?」

「三輪警部補に、芳乃ほうのれんと言う少年が、尋ねてきていますが」

 左手首の腕時計を見る。予想よりも早いな。蕗二は時計から「誰だそれ?」と首を傾げる尾花に視線を移す。

「あー、尾花さん。申し訳ないですが、どこか部屋をお借りしても?」

「なんだ、けち臭い。ここに呼んだらいいじゃないか?」

 尾花の言葉に、思わず顔を引きつらせてしまう。

「すみません。ちょっと、事件とは別の関係者で……」

 【特殊殺人対策捜査班】をどうやって誤魔化せばいいか悩むときがある。

 帳場には参加せず、単独行動で行動し、派手に動き回っても、巧妙な情報操作まで行われている極秘部署。

 新宿署のたちという刑事にずいぶんな言われようをしたが、もしかしたら知らない間に敵を多く作っているかもしれない。なんたって自分が汗水たらして捜査しているのに突然横から正体不明の部署に事件を解決されるなんて、冗談じゃない。文句を言おうにも、部署については場所も所属者の詳細さえ明かされず、上から厳重な口封じをされていれば、なおさらだろう。

 頭が痛いと眉間に皺を寄せていると、尾花の後ろで萩原の顔が青褪あおざめた。にらんでないぞ、と誤魔化すように眉間をつまむ。

 さて、どうしようか。蕗二の重い頭が回転を始める前に、尾花が「よっこらせ」と言う掛け声とともに背もたれから体勢を戻した。

桜木さくらぎくん、たしか第四会議室が開いてたよね? そっちに通してやってくれるか?」

 桜木と呼ばれた女性は敬礼すると、静かにドアを閉めた。ほっとしたのもつかの間、尾花が気味の悪い笑みを浮かべる。

「本庁と所轄しょかつじゃ、情報の掴み方が違うのかもしれないが、やけに捜査の手が早いじゃないか? こんな人手がないってのに。調べてみりゃあ、二人そろって警察の所属データにろくな情報がない。警察庁か公安かと思ったが、そういう訳でもなさそうだし。まあ、おれも警察を長くやってるもんでな、百歩ゆずって物わかりの良いふりをしなきゃいけない時もあるさ。ここはひとつ、深く突っ込まない代わりと言っちゃあなんだが、おじさんの質問に答えてくれないか?」

 今度はこちらが息を詰める番だった。これはまずい。交渉に見せかけたおどしだ。隣の竹輔が真っ青になる気配を感じながら、こぶしを固めて身構える。

 尾花が身を乗り出した。

「君は、ユキの息子だろ」

 突然の言葉に、蕗二は目を見開いた。

「父をご存じなんですか!」

 その返答に、やっぱりそうかと尾花は一人頷いて納得する。

「知ってるも何も、菊田と同期だって言ったろ。それに、あいつとユキは『ひがし赤鬼あかおに西にし青鬼あおおに』って名コンビだったんだ。知らない方がおかしい。なるほどな、あの菊田が可愛がるわけだよ。ユキの怒った顔にそっくりだもんな。背格好も似てるし、いや何ですぐ思い出せなかったか……おれもとしだな」

 やれやれとため息をつく尾花に、話が分からないと萩原が戸惑いの視線を向ける。対し、竹輔が息を潜めて蕗二の様子をうかがうが、蕗二は身を乗り出さないように体を制御するので手一杯だった。

 刑事になって、菊田以外から父の話を聞いたことがなかったのだ。いや、時々菊田に近い年齢の刑事から、あわれみの視線を受けることはあった。事件の事もあって、もしかしたら触れないようにされていたのかもしれない。

 胸元のシャツを握り込んで、自分の知らない父親への戸惑いと好奇心に揺れる心を押さえつける。強く握りすぎた手の中で布がきしむ音がした。今は事件が優先だ。

「事件が終わったら、ゆっくり聞かせていただけませんか?」

 蕗二の言葉に、尾花は記憶の海から戻ってきたらしい。照れを隠すようにはにかんだ。

「ああもちろん。終わったら飲みに行こうや坊主ぼうず

「はい、お願いします」

 頭を下げれば、尾花が「どっこらしょ」っと声を上げて立ち上がる。

「んじゃ、おれたちは帳場ちょうばの様子見てくるから。そいつらと話が終わったら、声かけてくれよ。第四会議室は、ここを出て右の奥だ」







 第三会議室を出て、事務所を横目に建物の奥へと進む。トイレの看板を過ぎさらに奥、埃のかかった第四会議室の室名札が見えた。丸いノブを時計回りに回し、ドアを押し込む。

「待たせた……ん?」

 蕗二はドアを開けた体勢のまま、固まった。

 会議室は三角コーンや掃除用具などが押し込まれた半分物置のような部屋だった。資料室の片隅にある【特殊殺人対策捜査班】よりも狭い。その雑然ざつぜんとした部屋の真ん中、急ごしらえで設置したのだろう、折りたたみ式の長テーブルとパイプ椅子が設置されているが、椅子に座るのも一苦労ひとくろうなそこに、窮屈きゅうくつそうに片岡と野村、そして手前に芳乃ほうのが座っていた。

 蕗二が固まったのは、それもある。だが、一番は芳乃が原因だった。

「お前、あれ? も、もしかして」

 芳乃の顔下半分が、白いマスクに覆われていた。さらに、拳をそこに当てると、けほけほと咳き込む。

「風邪ですけど、なにか?」

「はああああああ? お前風邪引くのか! つか熱はねぇのか?」

 蕗二の声に芳乃はこめかみを押さえ、マスクと前髪の間から睨みつけてくる。

「いちいちうるさいですね、あったら来ませんよ。刑事さんだって高熱が出たら、体くらい動かなくなるんじゃないですか?」

「知らねぇよ! インフルエンザすらかかったことねぇわ!」

「そうでしたね、馬鹿は風邪引かないんでしたね、すっかり忘れてました」

「ほんまお前! 風邪引いてるくせにまったく口が減らへんな! 風邪なら風邪らしくシオらしくしてろや!」

「だいたいあなたが始めから黙ってくれてればっ、けほげほッ」

「おい無理すんな!」

「だから誰のせいだとげほごほッおえ」

「わあもう! 二人とも離れてください! 野村さんも片岡さんも止めてくださいよ!」

 竹輔が間に分け入り二人を引きがす様子を、片岡と野村はカフェの端でお茶をしながら、通りがかった犬のじゃれあいを見ているように、くすくすにやにやと笑っている。

「いやだってぇ、うちの名物だよねぇ?」

「そうだとも。喧嘩するほど仲がイイと言うじゃないか」

「「誰がこいつなんかと!」」

 蕗二と芳乃の声が見事に被さったが、声を張りすぎた芳乃が盛大に咳きこんだ。隣の片岡が背をさすると、芳乃はそのまま机に突っ伏した。竹輔に脇腹を小突かれ、蕗二が気まずげにパイプ椅子に座る。

「事件のことは、片岡さんと野村さんから聞きました。で、誰をたらいいんですか?」

 机に突っ伏したままの芳乃に視線を合わせ、蕗二は膝に肘をついた。

「呼び出しといてなんだが、今日は帰った方がいい」

 たんからんだ咳をすると、芳乃が体を起こした。その顔を見て、やはりと思う。

 芳乃は意思とは関係なく、人の心が視えると言っていた。だからなのか、普段はなるべく人と目を合わせないように、わずかに焦点しょうてんをずらしている。しかし、さきほどから首から上に視線を上げようとしない。体のコントロールが上手くできていないのだろう。

 あの眼は、芳乃自身に負担をかける。とくに氷の眼を使った後、ぼんやりしたり、疲労らしきものをにじませていたのは知っていた。だが、野村の一件で倒れかかっている。体の不調に加えて、支障ししょうがあると聞いた以上、今日は無理をさせるべきではないはずだ。

 それがたとえ、切り札だとしても。

「二回」

 はっきりした声。突然顔の前に拳を突き出されて跳ね起きる。芳乃は拳から人差し指と中指を立てた。

「ここまで来て帰るのも正直しゃくです。ただし、二回。それ以上視ることはできません」

 手をマスクに当て軽く咳き込んだ芳乃は、手の甲でまぶたさする。垂れた目尻のせいで、眠気を我慢する仕草にも似ていた。

 二回。二回だけ? いや、二回も? そもそも、芳乃はいつも何回まで視れるんだ?

 蕗二の思考をさえぎるように、ノック音が狭い部屋に反響する。

 竹輔が立ち上がりかけたのを制し、代わりに立ち上がる。ゆっくりとドアノブをひねり、引き開けた。細く開けた隙間、すぐ目の前に萩原はぎわらが立っていた。どうしたと蕗二が疑問を口にするよりも早く、萩原は抑えた声で告げる。

「急かしてすみません。≪レッドマーク≫の件ですが、少しめているようで。尾花さんが今、様子を見に行っています。もしお話が終わっていれば、聴取ちょうしゅに参加しませんか?」

 蕗二は眉間をつまんだ。今聴取されている≪レッドマーク≫が犯人なら、綾香ちゃん殺人事件と優斗くん誘拐事件は同時解決で万々歳だ。が、そうなると、こちらが手に入れた情報は一体何を指すんだ? まだ何か見落としてないか? 

 部屋を振り返る。四人の視線が刺さる。高まった緊張感に無意識に唾を飲み込んだ。

「聴取を見に行く、ついて来てくれ」







「だから、僕は違う!」

 机に拳を叩きつけたのは、作業服を着た男だった。

「通っただけで犯人扱いされるなら、どうやって無実証明したらいいんですか! こんなの理不尽通り越して冤罪えんざいですよ!」

 唾を吐き散らす勢いで目の前の刑事を威嚇いかくする。その耳元で、男の怒りを表すように赤いフープピアスが強く光った。刑事はこめかみに青筋を立てながら、手元の液晶タブレットを男に突きつけた。

「生体反応に興奮状態が出てるんだよ。男の子見たときにそのチンコが反応したんじゃないのか!」

「反応くらいするでしょうが! そういうあんただって、好みの女の子見て全く興奮しないって言い切れるんですか! さとり開いてるんですか!? インポなんですか!?」

「……何かすごい言い争いだな」

 蕗二の呟きは、取調室にいる人には聞えない。取調室の隣、透視鏡マジックミラーはさんだ部屋から、刑事が仕込んだピンマイクが拾う音に、全員耳を傾けていた。

「そりゃ必死だろうよ。嘘でもまことでも」

 蕗二の隣、尾花が呆れた表情で見ている。

「しかし、このままでは平行線を辿る一方ですね」

 萩原が尾花と同じ表情で透視鏡の向こうを覗く。蕗二は手元の液晶タブレットに視線を落とした。

 作業服の男、≪レッドマーク≫は金魚かねうお草太そうたと言う。もともと≪ブルーマーク≫だったが三年前、ショッピングモールで女児をトイレに連れ込み、下腹部を触った強制猥褻罪きょうせいわいせつざいで逮捕。裁判の結果、執行猶予しっこうゆうよ付きで釈放しゃくほう。同時に≪レッドマーク≫の強制装着をされている。

 それからは矯正きょうせいプログラムに毎回必ず参加し、特に警察が出動するような不審ふしんな行動はしていないと記録されている。

「私が見る限り、特に嘘をついているようには見えないがね?」

「えーそうかなぁ。わたしは必死すぎて怪しい気がするけどぉ」

 片岡と野村があれこれ意見を言いあっている。と、ついに金魚と刑事に立ち上がり、机を挟んで戦闘態勢を取っている。どっちかが手を出すのも時間の問題だ。

「どうするんですか」

 芳乃の平坦へいたんな声に、蕗二は深く溜息をついた。

「お前は待ってろ、俺が行く」

 意外と言わんばかりに、芳乃の眉が上がった。

「こっちはお前らと組む前から刑事やってんだ、たまには見てろ」

 蕗二はピンマイクをスーツの内側に装着し、部屋を出た。すぐ隣、取調室の硬い鉄のドアをノックする。間を置いて、取調べをしていた刑事が顔を覗かせた。

「十分だけ貸してくれ」

 眉を寄せた刑事と互いを探るように睨み合う。三回目の深い呼吸をした後、刑事はしぶしぶと言ったように溜息をつく。「十分だけだぞ」そう言って部屋を出て行った。刑事に心の中で礼を言い、部屋に入る。

 透視鏡マジックミラー越しに見た金魚かねうおが、机を挟んだ向こう側に立っていた。腰に巻きつけられた拘束縄のせいか、罠にかかった野生動物のようだ。肩を怒らせ、威嚇いかくさながらこちらを睨んでいる。蕗二はその正面に座り、背筋を伸ばし軽く頭を下げた。

「初めまして、刑事一課の三輪と申します」

 名刺代わりに警察手帳を見せる。

「お疲れでしょうが、うちも仕事なので。もう少しだけ付き合っていただけませんか? まあ、とりあえず座ったらどうでしょうか?」

 うながせば、こちらから視線を外さないまま、ゆっくりと金魚はパイプ椅子に座った。

「誰が来ても、何度でも言いますが、僕は関係ありません」

 金魚が鋭い目で睨みつけてくる。蕗二は腕を組んで、天井を仰ぐ。うーんと声に出して低い声で呻いた。警戒心を強めた金魚だったが、姿勢を戻した蕗二は脱力し、背もたれに体重をかけた。

「ところで、昼飯はもう食べましたか?」

「は?」

 金魚が眉間に深い皺を刻む。蕗二は気にする様子もなく、軽く腹を擦った。

「俺はまだなんですよ。燃費が悪すぎてこの時間になったらお腹すいちゃって。金魚さんは仕事、体使うんでしょ? だったら余計ちゃうかなって。カツ丼とか牛丼とか昼飯の一つでも差し入れたいところやねんけど、自白誘導になるとかで出されへんねん。コーヒーとかジュースもあかんけど、水かお茶はええんやって。ちょっと変やろ? というか、お茶あります? おかわり持ってきますけど?」

 あっけらかんと会話する蕗二を、息を潜めて見つめていた金魚が、恐る恐る口を開いた。

「腹は、すいてません」

「そっか、よかった。いや緊張でしてるんかもな。そりゃそうやろな、金魚かねうおさんちゃんとプログラムも来てるし、まじめに仕事してるんやって? それやのに、いきなり警察に呼び出されるとか嫌やろ。まあ、慣れてる言われても困るんやけど」

 頭を掻きながら困ったように笑みを浮かべる。金魚は少し呆れたように蕗二を見る。

「刑事さん、それ素ですか?」

 指摘された蕗二は、何を言われたのかと首を傾げ、はっと口を押さえた。

「あかんわ。あ、ちゃう、あああ違う! ……いや実は、大阪から来たばっかで。標準語に慣れようと思うんですけど、やっぱしゃべりにくくて。すみませんです」

 机に額をつけて頭を下げた蕗二に、金魚は小さく溜息をついた。

「いいよ、あんたそっちの話し方のほうが似合う」

「ほんまか! いやー調子でんかってん。助かるわ、ホンマありがとぉ」

 満面の笑みを浮かべると、顔の前で右手を立ててびる。それからちらりと透視鏡を横目で見ると、机に肘を突いて前かがみになる。再び警戒する金魚に、口の端に手を当てた蕗二は囁いた。

「ここだけの話、どう思う?」

「何がですか?」

「いや、身内が口出すのも悩むんやけど、最初から犯人やって決めつけんのは、ちょっと違うと思うねん。こっちの連中は、どついてなんぼ言うんやけど、正直あんま性に合わんのですわ」

 蕗二は体を起こし、思い出すように宙へと視線を投げる。

「実は、親戚に≪ブルーマーク≫の子供がおるんです。こいつがもう生意気なまいきで、会ったら毎回毎回げぇって顔しやるんですよ。俺が刑事だって知ってるから、余計やろなぁとは思うんですけどね」

 ふと頭の片隅に、芳乃の横顔が浮かぶ。

「まあ、そのチビ悪い奴じゃないんですよ。もし俺が刑事じゃなかったら、仲良くなれたんかなって時々思うんです。どうしても、こんな仕事してると≪マーク≫付いてても付いてなくても、全員疑わなあかん。けどなあ、俺は正直あんたを犯人やと思えへんねん。俺はあんたを信じたいねん。信じさせてくれへんか?」

 蕗二のぶれない視線を受け止めた金魚は、じっと蕗二を見つめていた。やがてゆっくりと瞬き、目を伏せた。

「本当に、違うんです。僕は見かけただけです」

「見かけた?」

 金魚は小さく頷いた。

「はい。確か昨日、仕事終わりだったので、たぶん五時半くらいです。家に帰る途中、コンビニに立ち寄ろうとして、そしたら男の子が一人で歩いてたんです。可愛いとは思いましたけど、それより周りに親らしき人はいなくて、変だな、危ないなと思って、僕が声をかけるより先に、誰かに呼ばれて走っていきました。それ以上はわかりません」

 光景を思い出しているのか、金魚の視線が揺れている。

「男の子を呼んだのは、誰やったか覚えてへんか?」

「若い女性の声でした。姿は見てません」

「その帰りに寄ったコンビニ、どこか教えてくれへん?」

 蕗二が液晶端末を取り出し、地図を開いて金魚に差し出す。金魚は地図を覗き込み、指先で地図を縮小する。目的の場所に指を動かし、地図を拡大していく。そして、一つのコンビニを指差した。

「ここです。こっちに走っていったと思います」

 金魚が指差したのは、コンビニの裏側。そこは少し狭い道になっているようだった。蕗二はコンビニを登録し、スラックスにしまう。

「分かった。もっぺんよう調べたらわかるはずや、絶対無実を証明したるからな」

 蕗二は金魚の肩を二度叩き、立ち上がる。取調室を出ようとドアノブに手をかけたところで、金魚の立ち上がる気配がした。

「あの、刑事さん」

 振り返ると、真っ直ぐこちらを見る金魚と目が合った。

「お名前を」

「三輪、三輪蕗二や」

「三輪さん。犯人、見つかるように祈ってます」

「おーきに」

 今度は自然と出た笑みを浮かべた。

 部屋を出て、後ろで扉が閉まった途端、取調室の隣にいた尾花たちが出てきた。さきほど交代した刑事もいる。蕗二はドアから離れ、壁にもたれて腕を組んだ。

「あいつはシロです。嘘じゃ、あんな具体的な話はできない」

 蕗二の言葉に、小さく落胆の声が上がる。

「捜査は振り出しだな」

 尾花と萩原が重い溜息を吐き出す。だが、蕗二はすぐさま首を振る。

「いえ、マンションの住人、および綾香ちゃんのご両親を捜査してみます。竹、綾香ちゃんの父親の≪マーク情報≫はどうなった?」

「運送会社に勤務していて、遠方えんぽうに移動することが多いようで」

「ああ確か、綾香ちゃん行方不明になったとき、名古屋に行ってたとか言ってたな。その事実の確認をやってくれ。片岡、このコンビニ周辺の≪リーダーシステム≫と防犯カメラを洗い直してくれないか? 野村、もう一回あずまさんのところに行って、ご遺体を見てきてくれ。さっきよりはマシになってるだろうし、何か分かったら連絡頼む。芳乃、お前は」

 芳乃へと視線を移したところで、蕗二は眉を寄せた。

「何やってんだ?」

 芳乃は背負っていたバックから何かを取り出していた。よく見ると、馴染み深いメジャーの板チョコだった。それと一緒に何かカラフルな棒状のものを持っている。芳乃は紙のパックと銀紙を豪快ごうかいに破り開けると、棒状の何かの端を千切った。ああ、スティックシュガーかと思っていると、板チョコの上に中身をぶちまけた。そう、ぶちまけた。さらさらした真っ白な砂糖が、チョコレート板の大きな凹凸を埋めていく。山になった砂糖を指で均等きんとうにならすと、なんの躊躇ためらいもなくもぐもぐと、美味しそうに食べ始めた。

「お前、絶対味覚おかしいやろ」

 どん引きとは、まさにこの事である。仰け反った蕗二を、芳乃は不機嫌に睨んだ。

「うるさいですね、燃料みたいなものですよ」

 先ほどより口を大きく開け、白くコーティングされた板チョコを頬張る。着々と食べ進める芳乃を見ているだけで胸焼けがしてきた。同意を求めて周りを見ると、一様に蕗二と似たような表情をしていた。

 そうこうしている内に、芳乃は全て完食し終わる。最後に持参していたのだろうペットボトルの水を二口飲んで、マスクをしなおすと声を整えるように軽く咳をする。

「では、行きましょう。そして、とっとと帰りましょう」



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