File:4 異獄



 AM9:00. 警視庁。ミーティングルーム。


 腕時計が時をきざむ。その細い針を見つめながら、物音に耳をませていた。

 遠くから近づいてくるあわただしい足音に、蕗二は顔を上げる。

 二つの足音が扉の前で止まった瞬間、ノックもなしに扉は勢いよく開かれた。

「やほぉ、三輪っち竹っち、おひさぁ! 今回の事件すっごいねぇ? もうぐっちゃぐちゃのでろっでろ!」

 派手なメイクに、だぼっとしたTシャツとショートパンツのラフな野村が目を輝かせて耳を赤くしているその後ろ、片岡が今にも顔が溶けそうなほど汗だくになっていた。

「いやしかし暑い。こんな暑い日に呼び出されるとテンションが下がりそうだ」

「うっそぉ! 藤っち、全然今日熱くないよぉ、雨降ったからちょっとすずしいって」

 野村は今から海にでも行こうと言わんばかりだ。片岡は眼鏡をはずし、ハンカチで顔の汗をゴシゴシと拭うと、眼鏡に汗がついていないか確認し始める。

「いやいや、人には適温というものが存在する。いくら優秀な私でも、今なら文字入力速度を一分四百打鍵だけんに落としても、どこかでタイプミスを犯してしまうだろう」

「うーん、それって速いのぉ?」

 野村は首を傾げる。レンズを照明にかざし、やっと納得したのか眼鏡をかけ直した片岡が、こちらに視線を向けてきた。

「おや、三輪警部補。どうしたんだい? 我々の顔に何か付いているかな?」

「あ、いや、なんだ、もっとピリピリしてるかと思った」

「なぜだね?」

「いや、その……≪ブルーマーク≫について、いろいろほら、議論される時期だし」

 素直に吐けば、野村と片岡が豆鉄砲を食らったはとのように呆然とする。ぱちぱちとまばたきを繰り返したかと思うと突然二人同時に噴き出した。

「おい、なんだよ」

「今緊張しているのは≪マーク≫判定前の人たちだよ。我々のようにすでに判定が下りている者にとっては、別次元の話だ。なにもピリピリする必要はない」

「そうそう! あっ、でもぉ、三輪っちはいつもピリピリしてるから、今日は特にカルシウム取らなきゃだめだよぉ?」

 けらけらと笑う二人に、なんだか拍子抜けする。

 だが、ペースを乱されることが、こんなに助かるとは。

 いつの間にか、警察内に漂う緊張感に飲み込まれ、世間が同じ感覚だと錯覚さっかくした。この『地獄』の空気に飲まれている。

 竹輔も同じらしい、照れたように笑っている。蕗二は肩の力を抜いて、ズボンのポケットに手を突っ込んだところで気がついた。

「そういえば、チビはどうした?」

「なんかぁ、学校行ってるみたい?」

「はあ? あいつ夏休みじゃねぇのか?」

「自由参加型の補講授業だそうだよ。勤勉きんべんでいいじゃないか」

「せっかくの休みなのに、俺なら勉強さぼる……まあ、来るって言ってるならいいか」

 後頭部を掻いた蕗二は、気を取り直すように手を打ち合わせた。

「始めるぞ。今回の事件は、殺人事件と誘拐事件だ。ひとつ、西川にしかわ綾香あやかちゃん四歳の女の子が二週間前、自宅から失踪しっそう。本日遺体となって発見された。そして昨日、彼女の友人である葉山はやま優斗ゆうとくん、同じく四歳男の子が目を離した隙に誘拐された。自宅には『真実は暴かれなければならない』という、脅迫状が届いた。そっちは今、協力者が捜査してくれている。俺たちは、綾香ちゃん殺人事件の捜査を担当する」

 蕗二は部屋の真ん中、会議用の長い白テーブルに両手をつける。天板が白く光り、ホログラムが浮かび上がった。被害者・西川綾香の自宅マンションの立体画像だ。全員が机の周りに集まったところで、蕗二は口を開く。

「状況はこうだ。被害者・西川綾香の失踪時間は深夜。母親が寝た姿を最後に確認していることから、自らの意思で自宅を出ている可能性が高い。そこで事故か他殺か、高所こうしょから転落てんらくし死亡。その後、犯人は何らかの目的を持って廃屋はいおくに放置した」

 蕗二が呼吸を置くと、竹輔が手に持っていた液晶タブレットに視線を移した。

「綾香ちゃんの落下した高さは、約三階相当。被害者の住宅であるマンションも三階建てです。鑑識に調べてもらったところ、屋上から多数の靴裏痕ゲソコンが検出されましたが、屋上には普段から施錠せじょうせず、住民全てが使えるので判別はできませんでした。ただ、手すりの指紋が一部綺麗に拭き取られていたので、証拠隠滅の事実から、現場はここの可能性が高いと推測できます。真下にある駐車場の血痕等も調べてもらいました。しかし、ここ最近続くゲリラ豪雨の影響か、犯人が証拠隠滅をはかったのか、被害者の転落した証拠の採取にはいたっていません。それから、被害者の失踪姿、転落の目撃証言もつかめていません。我々は、犯人の男女すらも推定できていません」

 竹輔が苦しげに言い終わると、片岡が顎をなでながら、鼻息を溜息のように吐いた。

「うむ、なるほど。行き詰まっているね」

「わーお、いつも以上にやばいねぇ」

 大げさに驚いてみせる野村に、蕗二は鋭く問う。

「もうご遺体は見てきたんだよな?」

「うん、もちろん。頭蓋骨内の出血あとから死因は脳挫傷のうざしょう、頭蓋骨のひびの入り方から高所からの転落で間違いないと思うよぉ? それから、女の子は後ろ向きに落ちてると思う」

 真剣な顔をしていた野村だったが、ふと首をねじってうなり始める。

「でも、なーんか引っかかるんだよねぇ」

「引っかかる?」

「もしこれが事故だったらって考えてみたの。小さい子が三階から落ちたら、私たちよりもっと恐いと思うんだよね。だからわーって空中で暴れるはず。それから、子供は体よりも頭の方が重くて、頭のてっぺんから落ちるか、空中でくるくる回るはずなんだけど」

 野村の細い指が、机の上に展開されたホログラムのマンションをくるくると回した。

「でもこの子、綺麗に後頭部のど真ん中が割れてるの。それっておかしくなぁい? なんかぁ、寝た体勢でストーンって真っ直ぐ落ちてるって言うかぁ?」

 ますます首をひねる野村に、蕗二は腕を組んで、眉を寄せた。

「背面から真っ直ぐ……自殺ってことなのか?」

 自殺の場合は、背面で飛ぶことが多い。また自らの意志で飛ぶからか、抵抗せず綺麗に落ちることが多いのだ。だが、野村はすぐに頭を振って否定する。

「それはないかなぁ。飛び降りの場合、絶対目標地点を見てるから、足から着地するし。あとはねぇ、幼稚園くらいのすごくちっちゃい子は、自殺しないの。てゆーか、まず死っていう感覚がないの。死ぬ方法が分からないって言うのもあるんだけどぉ。例えば、両親が死んで周りがお空の上に行ったとか言ったら、空に行きたいって高い所に上って、足を滑らせるみたいな事故ならあるけどぉ?」

「いや、綾香ちゃんのご両親は健在だ」

「うーん。じゃあ、女の子は気を失ってた状態で、犯人は女の子を横抱きにして、こう、ぽいっと投げたんじゃないかな?」

 両腕を胸の前に持ち上げ、子供を抱えるようにする。そして、宙へ放り投げるように腕を振った。しかし、野村は再び腕を組んで首をひねる。

「でも、それじゃあ変だよねぇ? 女の子がいなくなったのは夜中でしょ? 犯人どうやって女の子を部屋から連れ出したわけぇ? 部屋に侵入して連れ出すとして、暴れるし悲鳴は上げるし、お母さん気がつくでしょ? 首を絞められてた可能性もあるけど、まだ頭しか見れてなくて」

 がっかりと頭を下げる野村に、蕗二は眉を寄せる。

「頭しか見てないのか」

「やだなぁ、三輪っち。見てないんじゃなくて、見れなかったのぉ。まず虫をなんとかしないと、どうにもならないって言うかぁ? あれウジムシが一番めんどくさいよねぇ? 体の奥まで入っちゃってるから、殺虫剤で殺しても、一匹一匹体からつまみ出さないと駄目だしー? あ、ねぇねぇ知ってる? チョウチョって、死んだ人の魂運ぶらしいよぉ?」

 博物館の昆虫標本を見ているような、気軽な口調で野村は笑う。

 蕗二は、あの廃屋で見た真っ黒になったご遺体を思い出す。そこに群がる黒い蝶と、波打つ蛆虫を思い出すと、背筋にムカデが這うような感触がして、大きく体が震えた。

 思わずと鳥肌の立つ腕をさする。竹輔も青い顔をして口を押さえた。

 すると、控えめな咳払いと指を弾く音がした。

「君たちの気持ちは分かるが、私からも報告してもいいかな?」

 片岡が授業中、話し込んでいる学生に注意する教師のように言い放つ。蕗二は頷いて先を促すと、片岡は左手の人差し指にめていた黒い幅広はばひろの指輪を抜き取った。机のディスプレイを指先で一回、間を置いて三回叩く。すると画面の端に、白く光る丸い円が現れる。その中に指輪を置くと、浮かんでいたマンションのホログラムに赤い光が追加された。

「この赤い点が、マンションにある防犯カメラだ。玄関とその裏口、エレベーター、それから駐車場入り口のみ。屋上には残念ながら設置されていなかった」

 蕗二は眉を寄せ、四つの赤い点滅を見詰める。

「こんなゆるゆるの警備で、住民は心配じゃないのかよ」

「うーむ、それはどうかな。一階廊下には侵入防止の鉄柵てっさくが付いているから、まず侵入はできない。玄関はもちろんだが、個々のドアは暗証番号式の完全オートロック式だ。鍵穴がないからピッキングはまず不可能。万が一、窓を破ったりドアを壊されたら、センサーが反応して警報が鳴ると同時に、警備会社へ直接知らせる仕組みのようだ。必要最低限の生活圏せいかつけんは、非常に安全と言っても過言ではない。カメラで見張るだけと違って、機能性があるのはとても魅力的だ」

 一人納得するようにうなづく片岡に、竹輔が静かに問う。

「誰か不審人物はいませんでしたか?」

「それがだね、不思議なくらい居ない。これを見たまえ」

 片岡はマンションの裏口にある赤い点滅箇所かしょに触れた。ホログラムがけ、変わりにカメラの映像に切り替わる。

「犯行は二週間前の深夜と言っていたね? だが、どのカメラにも深夜うろついている人の姿は確認できていない。もし犯人が空を飛べるなら話は変わるがね」

「深夜じゃなくて、昼間からひそんでた可能性はどうだ? 住人や宅急便の出入りに便乗してしれっと侵入する。オートロックあるあるだろ?」

 昔からよくある話だ。銀行の貸金庫のように、一人一人認証させるなんて面倒な事はできない。管理人が気づかなければ、侵入できるはずだ。

 だが、片岡は一言で否定した。

「無いね。それも確認したのだが、そんな不届き者は出入りしていなかったよ。悔しいが、私がわかるのはここまでだ」

 珍しく舌打ちをし、画面をにらみつける。だが、蕗二は別の意味で画面を睨んだ。

「いや、これでしぼり込めた」

 まず犯人は、行きりの犯行じゃない。証拠の隠滅いんめつや葉山優斗君を誘拐、脅迫状を送りつけているところから、計画性がある。そして、屋上が開放されていること、監視カメラの位置を十分に知っていること、不法に侵入した形跡がない事。

 だから、導き出される犯人像は、ただひとつ。

「犯人は、このマンションの住人だ」

 部屋が静間に帰る。嫌な結果にたどり着いてしまったと言う気まずさからだ。

「じゃあ、ご両親も犯人候補ですね」

 竹輔は重い溜息をついた。

「ああ、こればっかりはな。父親が≪ブルーマーク≫だってのも引っかかる」

「そういえば、≪マーク情報≫を洗ってませんでしたね。すぐ調べます」

「頼む」

 竹輔はすぐさま、机のディスプレイの端に警察専用の画面を展開し、マーク情報を探し始めた。机から宙に浮き出したホログラムを睨みつけていると、細い溜息が聞えた。

「身の毛がよだつね。我が子を手にかけるなんて、考えたくない話だ」

 うつむいた片岡がもう一度、溜息をつく。画面の光が眼鏡に反射して、表情を隠してしまっている。だが、いつも口の端を吊り上げて笑っている片岡とは、まるで別人のようだ。

「そういえば、片岡さんもお子さんいましたよね?」

 ディスプレイから顔を上げた竹輔に、片岡は素早く反応した。顔を輝かせて、嬉しそうな表情でズボンの後ろポケットに手を回す。

「ああ、まだ小学校に上がったばかりでね」

 取り出したのは、シンプルな革張り財布だ。中から光沢のある厚手の一枚の紙を抜き取り、竹輔へと手渡す。蕗二と野村も後ろから覗き込んだ。どうやら写真のようだ。

 瞬間、三人同時に驚きの声を上げた。

 一人の少女と女性が写っていた。

 小学校の校門だろう、入学式という看板を背に、ふたつくくりをした少女は人懐っこい笑みを浮かべている。頭には黄色いつば広の帽子とピンク色のランドセルを背負っていた。

 その隣、少女と視線を合わせるようにかがんでいる女性は、綺麗にまとめられた毛先を鎖骨に垂らし知的な印象だ。だが、こちらを見る視線は甘く、白いスーツが良く映えている。

「わあーお! お子さんめっちゃかわいい! ママさん美人!」

「お子さんこんな大きかったんですね!」

「嘘やろ! 片岡の子供と奥さんと言われても、絶対信じられへんわぁ」

 まじまじと写真に食い入る。が、突然写真はひったくられてしまった。忽然こつぜんと消した写真を追い視線を向けた先には、写真を胸元に隠して首から上を真っ赤にした片岡が居た。

「そうだとも、妻は聡明そうめいかつ美しいのは私も誇りに思っているし、娘も愛らしく将来絶世の美女になると安易に想像できる。だがそこの男性二人!! 我が妻子を不埒ふらちな目で見ることはこの私が許さああああああん!」

「え? ふ、不埒? 違います違います!」

「うるさああああい! 一盗二卑いちとうにひ三妾四妓五妻さんしょうしごさいと言うじゃないか! 断じて許すわけにいかん! 我が全総力を持って貴様らを日の当たるところから排除してくれる!」

「なんだよその般若心経はんにゃしんきょうみたいなやつ。マジで半分何言ってるかわからねぇ! おいこら何してんだ、とりあえず画面しまえって! わかったわかった機械には触らないから! 絶対誓ってないからまず落ち着け!」

 押さえ込みなだめ、とりあえず写真をしまわせる。それだけのことに、迷い込んだ野生動物を追いかけるくらい体力を使った。軽い息切れを起こす中、片岡もなんとか落ち着いたようだ。

「てか、アナログだな。写真なら、その端末に入れりゃあいいじゃねぇか」

 左人差し指にめ直した黒い指輪を指すと、片岡は顎をさすった。

愚問ぐもんだね。刑事ら諸君しょくんもアナログだと思うよ。この発達した電子社会で、いまだ手書きでメモを取り、紙に印刷した逮捕状を使うだろ?」

 思わず口を閉ざすと、片岡は口の端を持ち上げた。

「データで全て保管すると管理も便利でコンパクトだ。だが、警察が溜め込んでいる事件の記録すべてをデータ化するには、圧倒的時間と人件費がかかってしまう。だからやりたくてもできないのだろう。だが、手書きの書類が消えない理由は他にもある。筆跡鑑定があるように文字ひとつにも個人で癖があり、そっくりそのまま改竄かいざんするのは手間がかかる。データだと、知識さえあれば容易だ。部屋の中から一歩も出ず、改竄も破壊も持ち出しも、一瞬にしてできる。だから、ハッカーは攻守ともに需要があるのだよ。一度戦争になれば、互いの操作端末システムの破壊と奪取は当たり前に行われ、ハッカー個人を直接攻撃することも可能だ。意図せぬ形で、ハッカーの周りを巻き込むこともある。この指輪型端末も余計な個人情報はない。ただの作業用だ。まあ、端末自体が高いからね。破壊されたらふところが痛い。まあ最悪、同じものを買えばいい」

 指輪型端末を指先でなでる片岡の指から、事務的な動きが見える。言葉通り、端末に愛着があるわけではないらしい。

「へぇ、ハッカーって言うからには、端末に依存してると思ってた」

 そうらすと、ずれてもいない眼鏡を中指で押し上げ、片眉をわざと持ち上げた表情を作る。いかにも呆れたと言わんばかりの視線を蕗二に向けた。

「そもそも警部補殿は、ハッカーについて多大ただいなる偏見と致命的な勘違いをしているが、そこはあえて触らないで置こう。君の思考を矯正きょうせいするには、少々骨が折れそうだ」

「さらっと馬鹿にしやがったな」

「馬鹿にはしていないよ、事実を言ったまでだ。それより君たち。今回の事件、早急な解決をしなければならないのだろう?」

 蕗二ははっと腕時計を見る。長針が、約束の時間に迫ろうとしていた。



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