File:2 悪獄




 AM 7:01. 中野区。


 昨夜降った雨のなごりで、空気がじっとりと湿気しっけている。

 サウナの中を歩いているような蒸し暑さだ。菊田からのメールを頼りに、たえず流れる汗を拭いながら辿りついたのは住宅街。一際ひときわ野次馬で賑わう一角へと迷わず進む。野次馬と規制線をくぐり抜け、やっと見えたのは森だった。

 都会の中に突然現れた森に、蕗二は暑さで頭がおかしくなったのかと考える。だが、近寄ってみても景色は変わらない。よく見れば、森への入り口前には、レンガと黒い鉄柵の門がある。その奥へと目を凝らせば、木の合間から白い家も見えた。

 と言うことは、森に見えるこの木々は、家の一部と言うことだ。どんな金持ちが住んでるんだ。蕗二は溜息とともに門を潜り抜けた。

 進んで五歩で木陰こかげに入る。空気がひやりとしたものに変わった。滝のように流れていた汗が止まる。ありがたいが、なんだか気味が悪い。

 鑑識の制服を来た男女と入れ違いで森の奥へと進んでいくと、家の全容が見えてきた。ブルーシートに囲まれたその家は、しっかりとした平屋の建物だった。しかし、どうやらもう人は住んでいないらしい。白い漆喰の壁につたい、窓ガラスは曇っている。

 ひらり。目の端を動くものがあった。黒い蝶だ。背が少し青い気がする。蝶に誘われ向けた視線の先、視線を止めた。名前は知らないが見栄えのいい樹木。青々とした枝葉を伸ばすその根元に屈んでいる背に、見覚えがあった。

「おはよ、竹」

「あ、おはようございます、蕗二さん」

 同僚であり部下の坂下竹輔だ。木陰の下、暑さとは別の汗をかき、うつむいていた。気分はあまりよくないらしい。蕗二は枝を避け、隣にかがみこむ。

「何か買ってきたろか?」

「いえ、このままで」

 竹輔は口元をハンカチで押さえ、深く溜息をついた。蕗二は肩越しに振り返り、ブルーシートで覆われた玄関を睨みつける。意識して深めに呼吸をすれば、草葉の青い匂いと湿気た土の匂いとは別の、生理的に受けつけがたい匂いがする。ここまで臭うと言うことは、中は相当まずいことになっている。

「ホトケさんは確認したか?」

「すみません、詳しくは……」

「ええって、謝んな。わかったから休んどけ」

「でも」

「でもちゃう!」

 竹輔の鼻先に指を突きつける。

「立たれへんくせに何うとんねん! 来てもええけど、あれやで、俺が吐いたらお前、もらいゲロしたら絶対あかんからな!」

「あー、それはちょっと自信ないですね」

「せやろ、だったら待っとき」

 指をもう一度突きつけ、念を押して立ち上がると、竹輔が心配げにこちらを見上げる。

「蕗二さん、無理はしないでください」

「何やねん急に」

「方言出てますよ、めちゃくちゃ動揺してるじゃないですか」

「言うなアホ! 人がカッコつけてんねんから黙っとけ!」

 ゆでだこ以上に顔を真っ赤にして怒鳴った蕗二は、とっとと背を向け玄関に向かう。

 無遠慮に近づく蕗二に気がついたのか、玄関先で何か話し合っている鑑識がこちらを向いた。マスクで半分覆われていてわかりにくいが、全員顔色が悪い。

「お疲れ様です。もう入ってもいいですか?」

「換気しているので、もう少し待ったほうが、いいと思います」

 鑑識の女性が言う。蕗二は開け放たれている玄関に顔を向けた。薄暗い玄関の向こう、恐らくリビングだろう。そこから鼻奥を刺す臭いが強く漂っていた。呼吸するごとに、胸元が気持ち悪さを訴えてくる。

「いえ、大丈夫です。なんせ気が短いもんで。足場は確保してありますよね?」

 蕗二の言葉に、鑑識は心配そうな表情を浮かべながら青いゴム手袋と靴を覆うビニールを差し出した。蕗二は手早く身につけ、足元のビニール製の足場・歩行帯ほこうたい辿たどる。玄関を抜け、廊下を歩きながら、わかってる、大丈夫だ、そう言い聞かせる。じゃないと強くなっていく悪臭に気がやられそうになる。ここまで酷いのは久々だ。すれ違う鑑識と挨拶を交わし廊下の終わり、リビングへと足を踏み入れる。家具のない、広いリビングの一角に鑑識が集まっている。なんとなく感じる甘い匂いと、目にみる刺激臭に頭が締めつけられ、痛みが走る。浅く口で呼吸しながら、挨拶もそこそこに、ゆっくり近寄った。

 蕗二に気がついた鑑識が体を避け、『それ』が視界に入ってきた。

 瞬間、頭が理解するのを拒絶する。

 蝶がいた。黒い蝶。五、六匹が『何か』に集まっている。『それ』が一体何なのか、よく分からなかった。薄っすら白い埃の積もるフローリングに、不自然な黒いシミ。黒いインクの水溜まりにも見える。一歩踏み込む。蝶が驚いて舞い上がった。より見えやすくなったシミを見下げる。黒い水溜りの中心は、少し盛り上がっている気がする。特に中心あたりは黒のような緑のような、なにかやわらかな形のものがあるらしい。その水溜りの中、わずかに見える布。黒いシミの色が移り、ほとんど元の色も分からなかったその服の色は、薄いピンク色で……

 咄嗟とっさに口元を押さえる。だが、悲鳴は喉に張りついて出ることはなかった。

 遺体だ。しかも子供。

 真夏の湿気と温度によって、腐敗が進んでしまったのだ。腐り溶け出した体はねっとりとした液体になり、黒い水溜りになってしまっている。その中に、わずかに残る赤茶色の腐った肉と、つややかな黒髪が混じり合って沈んでいた。その液体を、蝶が長い管状の口を伸ばして吸っている。羽を上下させている姿は花に群れる姿そのもので、違和感とともに感覚が麻痺する。蝶の黒さと腐肉ふにくのせいで、ところどころ見える骨が異様に白く映え、目の奥を焼く。その表面が細波さざなみを打っていることに気がついた。錯覚さっかくかと目をらすと、米粒よりもやや大きい、ころころとした蛆虫うじむしい回っていた。はえの軽い羽音がすぐ耳元をかすめた気がして、全身鳥肌が立つ。

 直視することは、もうできなかった。

 震えそうな体を無理やり動かし、遺体に向かって両手を合わせて目を閉じる。少し俯(うつむ)くだけで、喉の奥から吐き気がせり上がりそうになり、奥歯が割れるほど噛み締め、口の中に溢れる唾液で押し戻した。

「あら、吐かないの?」

 よく通る声に、はっと顔を上げる。遺体のかたわら、青地に黄色い裏地の制服に身を包んだ鑑識たちともう一人、喪服のような黒いスーツに身を包んだ女性が立っていた。

法医昆虫学ほういこんちゅうがくによると、タテハチョウ科の蝶は死体や糞尿に群れるらしい。蝶がいるだけで、なかなか幻想的でしょう?」

 そう言って、あずま検視官は蕗二に不敵な笑みを向ける。東は場をなごまそうとしたのかもしれないが、この状況では「そうですね」と返事するのが精一杯だった。東は蕗二の様子を見ていたが、つまらなさそうに腕を組んだ。

「変死と聞いてね、直々じきじきに出ることになった。このご遺体は六歳以下の子供、パーツ的には女の子だと思うけど」

「死後、どれくらい経ってますか」

「夏だしね、まあ二週間前後ってところ」

「死因は、他殺ですよね」

 蕗二の問いに、東は首を捻りながら横に振る。

「それがね……奇妙な事に、転落死みたいね。それも三階くらいの高所こうしょから」

「転落死?」

 ひらひら蝶がはためく中、天井をあおぐ。もちろん穴はない。高さはやや高いが、二メートルくらいだろう。背の高い蕗二なら手が届く範囲だ。どう考えても、この部屋に転落できる場所はない。蕗二が眉を寄せると、つられるように東も眉間に皺を刻んだ。

「奇妙でしょ? もし誰かに殴られていれば、頭蓋骨の陥没かんぼつ範囲が小さく、深くなるはず。でもこの子の陥没は浅いけど広い。子供の頭蓋骨はまだ柔らかいから、大人と違って骨が砕けて刺さるようなことがない代わりに、脳を頭蓋骨に打ちる。開けてみなきゃわからないけど、恐らく死因は脳挫傷のうざしょうね」

 東の頭の中には、腐乱前の少女の遺体の状況が描かれているのだろう。

 蕗二は目の端で少女の遺体を盗み見る。意識すれば、なんとなく形が見えてきた。仰向けかうつ伏せかはわからない。だが、手は体の横にした直立不動で、蕗二に足を向けられているようだ。

 ふと視線をフローリングへと走らせる。床の埃は少女から庭へと繋がる大窓まで、真っ直ぐ綺麗に払われている。足跡を拭き取ったのだろう。跡をたどって大窓へと近づき、屈みこむ。窓は開け放たれていた。その曇ったガラスにひびが入っている。窓を閉めてみると、鍵の上部に小指ほどの穴が開いていた。

 有名な手段で、ドライバーで窓を割ると同時に鍵を開ける窃盗犯の常套じょうとう手段だ。

 なぜここなのだ。蕗二は顎をつかんで考える。

 犯人はわざわざ廃屋を探して、鍵を開けて侵入し、ここへ遺体を置いた。手間がかかりすぎている。もし本当に遺体を隠そうと考えるのなら、普通ばれないことを前提にする。たとえば埋めるとかは、誰でも思いつきやすいだろう。大人ではないから、穴を掘るのもさほど苦労しない。もしくはゴミ袋に詰めるか、山にでも捨てるか、最悪解体してしまうか。だが、遺体に手が加えられている気配はない。

 まるで、遺体を見つけてもらうことが、目的のように。

 蕗二がうなっていると、空気が動く気配がした。続いて足音が近づいてくる。振り返ると、顔の四角い初老の男がリビングに入ってくるところだった。

「はいはいお疲れー。ちょっと遺体ホトケさん見せてくれよー」

 鑑識が道を開け、男が遺体を覗く。黒いシミに顔をしかめたかと思うと、途端に眉尻を下げ、南無阿弥陀仏と念仏を唱えながら手を合わせた。もう一つ、足音が聞こえる。慌てた様子でひょろりとしたモヤシのような男が、何度も頭を下げながらやってきた。悪臭に表情を強張こわばらせながら、顔の四角い男の隣へと止まる。そして驚いたように目を見開いた。放心しているかと思ったら、突然白い顔になり、うぐっ、と口元を押さえた。

「無理するな、ハギ。いっぺんすっきりして来い」

 顔の四角い男が立てた親指で後ろを指差す。直後、もやし男は一目散に外へと駆け出した。残った顔の四角い男は、けわしい顔の東と呆然ぼうぜんとする蕗二に頭を下げた。

「すみません。あいつ子供が生まれたばっかで」

「それは災難ね。でもちょうど良いわ、来たところ悪いけど、一度出てくれる? こっちもいい加減ご遺体を運びたいから」

 猫でも追い払うような仕草で、蕗二と顔の四角い男は家の外へと追い立てられた。

 蒸し暑い外に出ても、まだ腐敗臭がまとわりついている気がして、身震いとともに頭を強めに振る。誤魔化すように視線をめぐらせると、先ほど竹輔がいた場所にうずくまるモヤシ男の後ろ姿と、その背をさする竹輔を見つけた。

「おーい、大丈夫かハギ。吐くなら全部吐けよ」

 顔の四角い男は近寄ると、竹輔は入れ替わるように立ち上がる。力強く背をさすられながら、モヤシ男はうなづいている。

「竹、ありがとな。あれは吐くわ」

「ええ、しばらく蝶を見ると吐き気がしそうです」

 竹輔は困ったように笑って、ハンカチで汗をぬぐう。そして表情を引き締めた。

「東さんは、なんて言ってましたか」

「ホトケさんは転落死らしい。死後約二週間、恐らく女の子」

「転落死ですか? この家の屋根からとか?」

「いや、高さが足らない。三階くらいらしい。ホトケさんが、この家の住人って言うのも、あんまり考えられねぇな。家は一年以上放置されているはずだ」

「では、犯人はこの家が空き家だと知っている可能性があるってことですよね? とりあえず周辺と元持ち主について地取りですね」

「ああ、女の子の身元みもとが判明次第そっちも」

「ちょいちょい! こっちも混ぜてくれないか?」

 顔の四角い男が、かがんだままひらひらと手を振った。突然話をさえぎられ、蕗二と竹輔は顔を見合わせる。

「自己紹介が遅れたな。中野署生活安全課の尾花おばなだ。これは萩原はぎわら

 背中を叩かれたモヤシ男・萩原が申し訳なさそうに挨拶してくる。

「本庁一課の三輪です」

「同じく坂下です。よろしくお願いします」

 軽い会釈えしゃくをすると、尾花がなぜかじっと顔を見つめてくる。

「何かついてますか?」

 ひげり残しか。もしかしてご飯つぶがついてるとか、それはちょっと恥ずかしい。

 口の端やら顎をさすっていると、違う違うと尾花を手を振った。

「見た事ある顔だなと思って。君とは捜査かなんか、どっかで会ったか?」

「いえ、恐らく初対面かと」

「そうかすまんな。最近じゃ、若い子の顔がみんな全部同じに見えるくらいジジイになっちまって、はあー困った困ったコマドリ姉妹しまい、なーんちゃってぇ」

 おどけた様子で舌を出す尾花に、竹輔とともに半歩下がる。

「尾花さん、そのギャグは若い子に通じないって、あれほど言ってるのに……」

 と、萩原から冷静に突っ込まれ、尾花はしょんぼりと肩を落とした。場を和ませようとせっかくボケてくれたようだが、申し訳ない。

「そういえば、君たちは本庁の方でしたよね。あちらも大変だと聞いてますが」

 体調が整ったらしい萩原が立ち上がった。

「係長から直接、こちらの事件ヤマに参加するように言われているので、大丈夫です」

 すると尾花がなにか引っかかったらしい、片眉を上げて指を立てた。

「その係長って、誰だ?」

「菊田係長です」

 その瞬間、尾花がげっと声を出して表情を引きつらせた。

「菊田……って、菊田きくた忠臣ただおみか?」

 うなづいてみせると、尾花は盛大な溜息をついて、あわれみの目を向けてきた。

「お前たち苦労するだろう。忠臣ただおみの野郎とは同期だが、あいつ昔からすぐキレるからな」

「え? いえ、頭が上がらないほどお世話になっています」

「世辞は要らないぞ。あいつのあだ名知ってるか? ひがし赤鬼あかおにだぞ、キレたらすーぐ人を投げるし、こんな顔して真っ赤になって怒るだろう?」

 尾花は人差し指を立てて、口の両端に立てて見せる。きばに見立てているようだ。

 腕を組んで蕗二は考えてみる。菊田と父親は、相棒だったことは知っている。だが、互いにプライベートは分けていたのか、テレビのニュースで肩を並べている場面や、酔った父親を送り届けてくれた時にちらりと見た程度で、面と向かって接したのは父親の葬式の時だった。それから何度か顔を合わせていたが、尾花から聞くような顔を見たことがない。

 いや、一度だけあるか。この前の四月、【特殊殺人対策捜査班】へ配属させられた時、見事にぶん投げられた。あれでまだじょくちと言うことか。

 菊田の顔を思い出していると、菊田との会話を思い出した。

「尾花さん。中野署、昨日から帳場ちょうばが立ったって聞いてますが」

 すると尾花は視線を泳がせ、気まずそうに後頭部をで上げる。

「うーん、ちょっとややこしいんだが。中野署は二つ大きな事件抱えているんだ。ひとつが知っての通り、昨日立ったばかりの帳場で、もうひとつが二週間前から帳場が立っている件。おれらが来たのは、その二週間前の帳場がらみでな。四歳の女の子が家からいなくなったってんで、必死に探してたんだよ。で、子供らしい遺体が見つかったって聞いて、来てみたら……」

 尾花の歯切れの悪い言葉に、再び吐き気を思い出した萩原がうめいた。竹輔が居心地悪そうに身じろぐのにつられ、蕗二は腕を組む。

「まだ、その子だと確定してません」

「まあ、そうなんだが。ただ、殺されたってんなら、話が変わる」

 蕗二が眉を寄せる。尾花は膝に手をついて掛け声とともに立ち上がった。スラックスのポケットに手を突っ込むと、け反るように空を見上げる。まぶしいのか、目を細めて小刻みにまばたきを繰り返した。

「昨日、立った帳場は男児誘拐事件だ。親御おやごさんが血相変えて飛び込んできた。しかも脅迫状が自宅に届いててな。困ったことに、二週間前からさがしてる女の子と誘拐された男の子は、同じ保育園に通っている。しかも友達だそうだ。偶然にしては、ちょっとできすぎてる気がしないか?」

 溜息交じりの声に、竹輔が息を詰まらせ、蕗二は手のひらに爪を立てた。

 つまり、遺体となった女の子と誘拐された男の子は、同一犯による犯行の可能性がある。

 そして、誘拐事件は生存率を一刻も争う時間との勝負になる。

「最速解決必須……皮肉かよ」

 鋭く舌打つ。上がり始めた太陽が、嘲笑あざわらうようにこちらを照りつけた。

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