File:1 辺獄
2042年8月13日木曜日。AM 6:15.
新宿区西新宿アパート五階。
小さな液晶型リモコンの上、テレビと書かれた赤い丸の部分をタップすれば、壁際の液晶画面が点灯する。
天気予報を横目に、薄切りのハムを五枚フライパンで
薄っすら焼き目をつけたら、炊き立てのご飯をどんぶりへよそい、もみのりをふりかけ、その上にハムを並べる。さらにまだ熱いフライパンの上に卵を二つ割り落とす。じゅっと音を立て白身が白くなる。大きなスプーンで水を一杯垂らし、蓋をして三十秒、半熟の状態でハムの上に乗せ、刻みねぎを散らした。フリーズドライの即席味噌汁にお湯を注げば、味噌の優しい臭いが鼻をくすぐった。
コップと麦茶を二リットルペットボトルごと机に置けば、三輪蕗二の朝食が整った。
「いただきます」
軽く手を合わせ、半熟卵の上に
美味い。体が喜ぶように頷いた。あっという間になくなった口に、今度は味噌汁を流し込む。優しく鼻から抜ける、どこか
ふとニュースに視線を戻す。
あまり代わり映えのしない内容のニュースばかりだが、それに蕗二は眉間を寄せる。
「今日くらいは、大人しくしてくれよ……」
自分で呟いた言葉にぞっとした。
もうすぐ、最大のイベント日が来る。
2031年から施行された『犯罪防止策』。
≪犯罪者予備軍≫を検出するため、半年に一度、各都道府県で一斉に『マーク診断テスト』が行われる。内容は個々への問診と、心理テストのような質問、約五百項目にチェックを入れていくものだ。『マーク診断テスト』は、すべての日本国民が受けなければならない。政治家だろうとホームレスだろうと例外はない。もちろん、警察である蕗二も受けている。出産や海外への出張など事情があれば、日程をずらすことはできるが、テストを受けなければ、
そしてこの時期、
一時的に犯罪率が上がるのだ。
もし≪犯罪者予備軍≫になれば、手厚い社会保障を受けられる。だが、もう普通の生活には戻れない。刃物など危険物購入の制限や立ち入り制限を受ける地区もある。事件が起こったときは、警察が自宅へやってくるなど、いろいろ厄介ごとが増えるのだ。また、少なからず偏見の目にも
だから、最後の『一般人』の生活を楽しもうとする人々が現れる。
昼夜問わず酒に溺れ、ロケット花火を打ったりとお祭り騒ぎで遊ぶ
明日もし世界が終わるとしたら、こんな感じなのだろう。
110番通報は通常の二倍に増え、全国の警察官全員が休む間もなく駆けずり回り、見回りの強化や交通整備、≪マーク付き≫の行動監視などで
特にマーク判定日前の一週間は、警察内では『地獄の七日間』と言われていた。
この七日間の一つに、部署を超えて救援に行く例外的な特徴もある。
いわゆる【暇な部署】の蕗二もスーツではなく青い警察服を着こんで、昨日は公園で大音量の音楽を鳴らして踊る集団の男女を厳重注意し、空き巣強盗犯を追って走り、ホイッスルと誘導灯を持って交通整理をしたりなどなど。あらゆるところの救援に向かった。
そして今日は、『地獄の七日間』の五日目だ。
ニュースは占いコーナーに差しかかった。どんぶりの中身をさらい終え、腹が満たされた余韻を味わいながら、ゆっくりと味噌汁を
と、机の上で真っ黒く沈黙していた液晶端末が鋭い電子音とともに強く震え、大きな音を立てた。画面に表示されていたのは、見知った上司の名前だ。口の中に残っていたものを喉奥へと落とし、指を画面の上に滑らせる。珍しく画面は真っ暗で、通話が繋がっていることを示す文字だけが表示されていた。端末を耳に押し当てると、ざわざわと人ごみの中にいるような雑音が聞こえる。
「おはようございます、菊田さん」
『おはよう蕗二君。すまないが、今すぐ
液晶端末をスピーカーモードに切り替え、机の上に置く。空になった食器たちを、水の張った洗い
ニュース速報という大きな見出しとともに、ニュースキャスターが映し出される。
国会議事堂前だろうか、ざっくり百人は超えるだろう老若男女が集まっている。『マーク制度廃止』『NO人権侵害』『朝霧総理辞職しろ』など、色とりどりの横断幕や立て札を掲げ、掛け声とともに「犯罪防止法反対」と叫んでいる。警備課の警察官がゲートを張り、ポリカーボネート製の透明な盾を持って国会議事堂前の道路を
「今速報入ったんですけど、ここに向かえば良いですか?」
『いや違う。君は
靴下、インナー、ワイシャツ、スラックスと手早く身に着けていく。
「中野ですか? すいません、思い当たる事件がないんですが」
蕗二が所属する【特殊殺人対策捜査班】は、殺人事件の中でも、連続殺人犯を何よりも早く解決する極秘部署だ。最初の現場に臨場することはないはずだ。
そう、普段なら。
『いや、今回は
菊田は淡々と言葉を並べるのを横耳に、ショルダー型のガンホルスターに腕を通し、腰のベルトに繋げ固定していく。
『
「次から次へと……今年は特に酷いですね」
舌打ち混じりに呟くと、菊田はまったくだ、と大げさに溜息をついた。
『ハロウィンとワールドカップがいっぺんに来たくらいだ。このままじゃ過労死するぞ』
「いえ、この一週間は警察全員、ある程度覚悟していると思います」
『勘弁してくれ。君は真面目と言うか、
と、画面の向こう、遠くから菊田の名前を呼ぶ声が聞こえた。
『おっと、そろそろ指揮に戻らないと』
「菊田さん、もしかして国会議事堂前にいるんですか?」
『ああ、バレてしまったか。すまない、今回は力になれそうもない』
ガンホルスターを締め終え、上から隠すようにジャケットを羽織る。液晶端末を手に取ると、手の中で一度だけ短く震えた。
『今メールで、臨場場所を送った。後は頼むぞ、三輪班長』
返事を待たず、通話は切れた。端末をジャケットのポケットに押し込む。テレビの電源を落とせば、部屋は静かになった。自分の吐く息の音が、はっきりと聞こえる。
足早にリビングを抜け、玄関に腰を下す。革靴に足を突っ込み、かかとで二度床を叩き、紐をきつめに縛る。立ち上がると、胸が押さえられたような
妙に緊張する。久々の初動捜査だからだろうか。しかも、菊田の助けは借りられない。一人で全て判断しなければならない。胸をなで、深く息を吐く。
電気を消した薄暗い部屋から、勢いをつけて一歩踏み出した。
ドアを押し開ければ、蝉の声がわんと
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