File:9 踏み出したその先




 二日後。7月2日水曜日、PM18:05.



 軽く三回、扉を叩いた。堅く高い音が響く。

 中から男の声で返事があった。扉を横へ滑らせると、真っ白な部屋が現れる。消毒液のにおいと、テレビの音。部屋の片隅に置かれた白いベッドの三分の一が起き上がっている。

 そこに背を預けた青年が、こちらを見て驚きの表情を浮かべていた。

「なんだ、意外と元気そうだな」

 ドアを閉める音に、青年・杜山もりやまは慌てて姿勢を正そうと、腕を動かす。が、腹に力が入ったのか、顔が苦痛に歪んだ。

「あーあ、無理すんな。くつろげよ、お前は怪我人けがにんだろ」

「そんな、たいした怪我じゃないんですよ。刺さった場所がよかったらしくって、上手く行けば十日くらいで退院できるそうなんですけど、やっぱ腹に力は入ると、やばいですね」

 杜山は青い入院着の上から、腹を擦る。

「それはそうと三輪さん、この事件の担当なんですか?」

「いや、これは超個人的なやつだ。見舞いもあるぞ、ほら」

 片手にぶら下げていたものを杜山の足元、可動式のベッドテーブルの上に置いた。杜山は蕗二の顔と置かれた物体を交互に見る。

「え、でかっ、なんですかこれ」

一斗缶いっとかんせんべい。知らん? ほら、入院中の見舞いって言ったら、フルーツとかまんじゅうとかプリンが定番だろ? 塩っけ欲しいだろうなって。味は八種類あるからまあ飽きないだろう。あー、量あるから誰か見舞いに来た奴か、ご家族と分けれるようにジッパー付きビニール袋と乾燥剤も買っといたから使えよ」

 物珍しいのか、缶をしばらく見つめると、何かえきれなくなったのか杜山は突然、声をあげて笑った。

「はははは! 刑事さん、庶民的過ぎッ、イタタタ……」

 杜山は汗を噴き出すと、腹を押さえて前かがみになってしまう。

「お前笑いすぎだろ。傷開くぞ」

「じゃあ笑かさないでくださいよ」

「いや、どこにも笑う要素ねぇだろ」

 不服と眉を寄せていると、杜山が顔を引き締めた。

「ニュース、見ました。犯人捕まえたんですね」

「ああ、捕まったな」

「逮捕したの、三輪さんですよね」

「まさか」

「じゃあ、その顔の傷は?」

「転んだんだよ、あんまり見るな」

 顔どころか全身打ち身と擦り傷だらけだが、言う必要はないだろう。蕗二は瘡蓋かさぶたのできている手を隠すように、ズボンのポケットに手を入れる。


 この事件は『犯罪防止策』の一つとして、模倣犯もほうはん防止に情報を伏せていることがある。

 まずは、サイトの存在。

 新たな類似サイトができないよう存在は伏せられ、サイバー課を中心に会員全員を一斉検挙することに成功した。詳細は知らないが、サイトの会員は三十人以上いたらしい。それだけストーカーがいたと言う事だ。最高に気分が悪い。ちなみにサイトは、片岡によって完全に削除された。

 もう一つは犯行理由。

 おおやけには、ストーカーがエスカレートした結果の犯行としているが、真実はストーカーと実行犯が違う事だ。

 ストーカーは篝火かがりび歩葉あゆはの一人だけだった。店先で会った被害者たちに一方的な行為を寄せストーカーし、殺しを依頼、手に入れたら次のターゲットを探し、ストーカーして殺しを依頼……を繰り返していたと洗いざらい白状した。

 そして殺人の実行犯は、芥子菜からしなハルトたった一人だった。

 犯行時、車は完全な自動運転で後部座席から操作していた。夜であれば車内に誰も乗っていなくても気がつきにくい。もちろん、携帯電話を操作するのに夢中な被害者たちは当然気がつかなかっただろう。被害者を責める声はあったが、無論どんな状態であれ、殺人こそ許されない。そして、犯行理由は篝火かがりびの歪んだ動機を嘲笑あざわらいつつ、人を殺すスリルを楽しみたかった。そのためだけに、代理殺人サイトの運営までしていたと語った。

 そして、最大の隠し事は、捜査についてだ。

 あの時、追跡でぶつけた覆面パトカーは案の定、廃車おしゃかになった。足がしびれるとか耳にタコができるとか、それくらい長々と菊田さんから説教を食らった。もちろん飽きるほどたっぷり二倍の始末書も書かされた。だが、それだけだった。

 警察官である以上、何かやらかした場合は自宅謹慎やら減棒やら、最悪部署を異動させられるなど、何かペナルティがある。だが、そんな話が一つも出てこないのだ。

 さらに、犯人を追ってまだ日も沈まぬ街を爆走し、車を衝突させ、道路上で体当たりをかまし取り押さえるという、馬鹿みたいにド派手な捜査は隠し通せるものではない。野次馬の恰好かっこう餌食えじきになる。発達した情報社会である以上、どう足掻あがいても情報が広がってしまう。なのに、ニュースやSNSを調べても、騒ぎ立てる者が見当たらない。一体どこで何が起こっているのかまったく分からないが、大規模な情報操作が行われているとしか考えられない。

 そして恐らく、柳本警視長が裏で手を引いている。

 まだまだ【特殊殺人対策捜査班】を利用するつもりのようだ。

 思考の海に沈んでいた蕗二の耳が、杜山の声を拾う。それに意識を引き戻された。

「あ、悪い。聞こえなかった」

「野村を、見てませんか?」

 蕗二は目を見張り、首を横に振った。

「いや……来てないのか?」

「来てくれてたようなんですけど、まだ会えてなくて」

 杜山が視線を向けた先には、蕗二の膝ほどの小さな冷蔵庫があった。その上に置かれた花瓶に様々な花が生けられている。そしてその陰に隠れるように、手のひらに収まる小さなかごが置いてあった。そこに飾られているのは、花の開いた小さなチューリップのような黄色と白と紫のシンプルな花。

 杜山はそれを、暖かく優しい眼差しで見つめていた。その顔を見ながら、蕗二は強く拳を握る。そして静かに、壁際に置いてあった丸イスを引き寄せ、腰を下ろす。

「なあ、杜山もりやま

 杜山が花から、蕗二へと視線を移した。そして息を詰まらせる。

 蕗二は眉間に深い皺を寄せ、杜山を睨みつけていた。今にも喉元を食いちぎろうとするような殺意すら感じる。

「なんでかばった」

 蕗二が目を細めると、さらに杜山は顔を強張らせた。

「お前が身をていしてまで、野村を庇う理由は、一体なんだ」

「り、理由って、意味わかんないですよ。だって、目の前で人が襲われて、助けないわけには行かないでしょ」

「いろいろ引っ掛かるんだよ。偶然バイト先で会って、たまたま大学が一緒だったって言ったな? 調べさせてもらったが、お前地元の大学がスポーツ推薦すいせんで内定してたのに、急に辞退して、候補にも挙がってなかった大学を選択したらしいじゃねーか。それでバイト先がたまたま一緒? ふざけるな。なにが偶然だ。お前は野村を追ってきたんだろうが。実害がないだけで、お前も立派なストーカーの一種だよ」

「きゅ、急に何ですか」

「じゃあ、分かりやすく聞いてやる。たかが他人に、命まで差し出す理由はなんだ。お前は六年前の野村の事件を知ってるんだろ。だから、野村の面倒見てんのか?」

「違います!」

 絶叫のような、狭い病室には大きすぎる杜山の声が響く。だが、自身の腹の傷にも響き、堪らず腹を抱えてうずくまった杜山の背を見つめる。

 反響していた声が完全に止んだ頃、杜山がうなるような声を出す。

「いえ、三輪さんの言うとおりです。幼馴染と言っても、高校で離れてからは野村のことを忘れてたくらいでした。でも、あの事件が起こってから、親の間だとかクラスだとか近所とか、いろんな噂が飛んでました。それが、野村が≪ブルーマーク≫になった途端、ぴったり止まったんです。それから何が起こったと思いますか? まるで世界から今までの野村を切り取って、全部なかったみたいに、元々悪い奴だったってみんな言い出した。しかも、野村まで噂どおりの別人になって、なんかおかしいはずなのに、誰もおかしいなんて言わなくて……それがすげぇ嫌で、今までの野村はなんだったんだって…………めちゃくちゃくやしかったんです。悔しくて悔しくて、絶対おれだけは、態度変えてやるもんかって、思ったんです。野村が進む方向と同じになりたくないって、みんな言うから、だからおれはあえて野村と同じ方向を選んだんです」

 杜山の顔が上がる。強い怒りの表情だった。だが、蕗二とにらみ合う眼の奥から、怒りを書き換えるように、悲しみの表情が滲み出した。それを隠すように顔が伏せられる。

「あの時、野村をかばったのは、これ以上野村を傷つけられたくなかったからです。野村はいっぱい傷ついて、いっぱい失った。だから、これ以上何も失って欲しくなかった。野村が生きてくれればそれでいいって。でもあの時、気を失う前に、ほんのちょっとだけ野村の声が聞こえたんです。震えた声で『なんであんたも』って。その時は、意味わかんなかったんですけど、今思えば、目の前でストーカー野郎の死ぬ姿、見せつけられたあいつの気持ち、全然分かってなくて、刑事さんの言う通り、結局おれもあのストーカーと同じ、野村の気持ちを無視して自分の気持ちばっかり押しつけたのかなって…………やっぱ、今まで全部、要らないお節介だったのかなって……」

 自嘲じちょうする杜山を追い詰めるように、蕗二は攻撃的な視線をゆるめなかった。

「ああ、お節介だったろうな。野村は何もかも忘れて、別人として生きる道を選んだのに、トラウマをほじくり回されたわけだ。それに今回はたまたま助かったけど、わずかに場所がずれてたら? 犯人が何度もお前を刺してたら? 車でお前たちをまとめてき殺してたら? ……あの時もしお前が死んでたら、野村はもう一つトラウマを背負う事になるんだぞ」

 蕗二の鋭い言葉に、杜山の入院着を握り締める手が震え、白んでいた。蕗二はうつむいた後頭部を穴が開くほど見つめ、ゆっくりと瞼を下ろした。真っ暗な視界の中、静かに息を吐き出す。体から力を抜き、寄せすぎて痛む眉間を広げる。ゆっくりと拍動する心臓の音に耳を傾けながら、瞼を押し上げる。白いシーツがまぶしい。その光を噛み締め、慎重しんちょうに言葉を吐きだした。

「……でも、お前だけが野村と向き合った。お前だけが見捨てなかった」

 はっと杜山は息をんだ。跳ね上げるように顔を上げた杜山は、信じられないと蕗二を見つめる。それをしっかりと受け止め、強くうなづいた。

 人は流される。大勢の意見に同調して、多い意見は正しい意見としてり込まれ、自分の考えだと錯覚さっかくし、そして事実は簡単にすり替わる。

 だが、杜山は違った。噂に、空気に、曖昧あいまいな言葉にまどわされず、嘘偽うそいつわりの真実を疑い、みんなそろえて目を背けた事実に向き合って、『野村紅葉』という人間を見続けた。

 杜山の行動は、野村を心の奥底に光をもたらした。

「野村がトラウマを克服できるまで、あいつには、お前のお節介が必要だ」

 蕗二の言葉に、杜山の表情を崩した。赤く染まる目の縁一杯に涙を溜め、瞬きよりも早く溢れさせた。あとは壊れた蛇口のように幾筋もの道を作って流れ続ける。歯を食いしばり、肩を震わせ、時折大きく鼻をすする。

「おれ、野村を救えますか?」

 震える声に、蕗二は肩を強めに叩き、しかと頷いて見せた。

「ああ。お前ならできるよ」

 杜山は涙と鼻水とでぐしゃぐしゃの顔で、誇らしげに笑っていた。






 蕗二が廊下に出ると、壁にもたれかかっている人影に目が留まった。

「三輪っち、来るんだったら言ってよね」

 野村が唇を突き出し、上目遣いににらんでくる。蕗二は思わず後頭部をいた。

「あー、悪かった。俺はてっきりお前がいると思ってきたから」

 そこで、あれっと疑問が浮かんだ。

「てか、お前いつからここに」

「三輪っち」

 野村が壁から勢いをつけて離れた。瞬間、手をしびれるほど締めつけられる。反射的に手を引くよりも、痛みに声を上げる間も早く、野村が大きな声をあげた。

「あーむりむりむりむり! 素手は無理、難易度高すぎうえええ吐きそうううう!」

 髪を振り乱し、壁に手を張り付けぜーぜーと息を荒げている様子は、大げさすぎるほどのリアクションだ。が、背中の波打ち方から本気で吐き気を堪えているとわかった。

 蕗二は自分の手を見つめる。わずかに残る痛みと指の赤み、一瞬感じた体温。

「野村、お前」

「わたし!」

 勢いよく顔を上げた野村は、涙目ながら挑むような強い視線でこちらを見る。

「目をらすの、やめるから」

 そう言うと、杜山の病室へと駆け込んでいった。病室から騒ぐ声がする。野村が杜山の傷をつついたのかもしれない。

 蕗二は笑いを堪え、そっと踵を返して白い廊下を歩き出す。


 目をそむけない。人の意見に流されない。

 言葉にすれば簡単そうだが、現実簡単にできるものではない。

 芥子菜からしなハルトはきっと、サイトに集まった意見に同調し、とくに篝火かがりびの強い感情と同化してしまったんだろう。

 二人が抱いた感情は、自分には全く理解できない。だが、あの二人の繋がってしまった感情はぐるぐると、まるで坂を転がるボールのように加速していった。もしも逮捕できなければ、どんどん他人の意見を飲み込み、巨大な塊になって、得体の知れない生物になっていたんだろう。

 だからといって、まったく同調しないのも問題だ。

 自分の思いを押しつけて、相手の気持ちはそっちのけ。

 そう言う意味では、篝火と杜山は同じストーカーだと言える。

 ただ、その結果が人を救うのか、害するのかの違いだ。

 一線先で向き合う、似て非なるもの。

 父もそうだった。

 新聞、テレビ、父の仲間や、あらゆる人から勇敢ゆうかんたたえられた父。

 父に救われたことは、きっと感謝すべきことだ。それは頭でわかっている。

 だが俺は、白い花に埋もれ眠る父につかみかかって、問い詰めたいと思っていた。

 なぜかばった。俺は父に生きていて欲しかったのだ。死んでしまうくらいなら、どんなに無様でも生きていて欲しかったのに、置いて行かれたような、突き放されたような寂しささえも感じるのだ。

 だが杜山の言葉に、なんとなく、父の気持ちを知った気がする。

 父は、俺に生きて欲しかった。己を犠牲にしても、守りたかったのだ。

 だから、死ぬかもしれないとわかってても、俺の目の前、犯人に立ち向かったのだ。

 たとえ何度同じことが起ころうとも、父は俺を庇うのだろう。

 子供のはしゃぐ声がした。

 いつの間にか病院を抜け、病院の隣にある大きな公園へと来ていた。

 広い芝生と青々とした木々の中をただ黙々と進むと、大きな噴水が見えてくる。その縁に腰掛こしかけた少年が見える。

 陽はまだ高い。少年の白いシャツが、薄っすらと汗で湿気て、背に張りついている。

「暑いだろ、一緒に来ればよかったのに」

「いろいろ視えるから、病院は嫌いなんです」

 芳乃ほうのは気だるげに、中身が半分になったペットボトルを片手につぶやいた。

 その隣に腰掛ける。スーツの背に水の冷気があたり、日差しの暑さを和らげてくれた。

「芳乃」

「恨むな、なんて言いません」

 蕗二の言葉をさえぎった芳乃は、ただ真っ直ぐ前を向いている。

「あなたがぼくらの過去を知ったとしても、必ず受け入れる必要はありません。人それぞれ、引きずっている過去があって、簡単に引きがせるものじゃありません。あなたがぼくら≪ブルーマーク≫を嫌うのは、仕方がない感情です。だからもし、その感情に嘘をついて、『答え』を出すのなら、ぼくはこの先も、あなたを信頼しません」

 淡々と放たれる言葉に氷の冷たさはない。そしてどこか、そっと胸を撫で下ろす自分がいた。

 ≪犯罪者予備軍ブルーマーク≫に、なりたくてなったわけじゃない。

 野村のような凄惨せいさんな過去を持つ≪ブルーマーク≫がいることは、悲しくも事実だ。

 だが、俺の父の命を奪ったのもまた≪ブルーマーク≫だ。

 ≪ブルーマーク≫が、父を殺した事実は消えない。許せるわけがない。眼の奥に焼きついた光景は、まだ消えない。あの瞬間から、青い光を憎んで、恨んで、それだけをかてにこの十年間生きてきた。この感情は消えないし、捨てられない。捨てる捨てない、許す許さないとか、そんな簡単な話じゃない。もし、この感情をまるまる捨てろと言われれば、俺は何かを見失ってしまう。

 何かはわからない。でも一度見失えば、もう二度と立てなくなってしまう。そんな気がする。

 だから、この先どうすればいいのか、この感情と≪こいつら≫とどう向き合えばいいのか、まだ答えを出せない。

 そんなことまで、この黒い眼は見抜いている。まったく、末恐ろしい奴だ。

「なあ、お前は」

「資料は、まだ全部読んでませんね?」

「え、ああ、ごめん……野村のとこだけだ」

「まあ、事件の合間でしたし、熟読されても困りましたが。脳みそ筋肉のあなたのことです、全員の分を一気に読んだら簡単にキャパオーバーでしょうし」

「それくらいで越えるか、馬鹿にすんな」

 黒い眼がやっとこちらを向いた。眠たげに目尻が垂れた、どこにでもいそうな少年。

 しかし、目の奥はずっと深く暗い穴が広がっている。

「ぼくのは、面白くないですよ」

「面白い面白くないって、なんだよ。そんなので判断するもんなのか?」

「面白いほうが興味持てますし? それに」

 小さく、芳乃が何かを呟いた。が、突然の子供の声に掻き消された。視線を向けた先で、噴水の周りで水遊びをする子供が噴水に落ちたようだ。助けようかと腰を上げるがそれよりも早く、母親らしき女性が子供を引き上げた。浮き上がらせた腰を置きなおすと、隣で芳乃が立っていた。

「じゃあ、用も済んだので帰ります。お疲れさまでした」

 話は終わったとばかりに向けられる芳乃の背に、蕗二はとっさに声をかける。

「芳乃、今度どっか遊びに行かねぇか? 普通に、仕事なしで」

「お断りします」

「即答かよ」

「じゃあ、全部刑事さんがおごってくれるなら考えます」

「じゃあって、お前ほんと生意気な事しか言えねぇな? どうやったらガキらしいことが言えるようになるんだ?」

 頭を引っ掴んで、そのまま黒い髪を掻き乱してやると、鬱陶うっとうしいと言わんばかりに手を払いけられる。

「うるさいですね、暑いんで触らないでくれますか」

「おうおう、じゃあ冷やしてやるよ」

 噴水に手を突っ込み、手首を返して水を跳ね上げる。反応の遅れた芳乃の顔に直撃し、思わずよっしゃあと拳を握って声をあげた。水をかけられ呆然としていた芳乃は、ゆっくりとした動作でシャツの端で顔をぬぐう。上げられたその表情は恐ろしく不機嫌だった。

 あっやばいと思った瞬間、すばやく腕全体で体の前を隠すが、それを越えて大量の水が頭から被せられる。ぼたぼたと顔を流れる水が視界をふさいだ。犬のように頭を振り、顔を手でぬぐい払った。取り戻した視界に、芳乃は珍しく口の端を吊り上げて笑っていた。手には子供用の小さな赤いバケツ、後ろで芳乃を見上げる水着の子供が立っている。

「お前ッ、卑怯ひきょうだな!」

「最初にやったのは刑事さんでしょ」

「なにを! あっくそバケツ! バケツ反則!」

「無駄に体でかいんですから、ハンデですよハンデ、わっ!」

「へへへへ、大人めんなよ、こちとら技術があんだよ」

 スーツを着た良い大人とひと回りほど年下のなんてお構いなしで。いつもの平静な表情を年相応に崩して。

 お互いずぶ濡れになるまで、さわいでいた。

 跳ね上げた水が、虹色を含んで輝いていた。









 **憫笑するブラインドフラワー** 【了】



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