File:9 踏み出したその先
二日後。7月2日水曜日、PM18:05.
軽く三回、扉を叩いた。堅く高い音が響く。
中から男の声で返事があった。扉を横へ滑らせると、真っ白な部屋が現れる。消毒液の
そこに背を預けた青年が、こちらを見て驚きの表情を浮かべていた。
「なんだ、意外と元気そうだな」
ドアを閉める音に、青年・
「あーあ、無理すんな。くつろげよ、お前は
「そんな、たいした怪我じゃないんですよ。刺さった場所がよかったらしくって、上手く行けば十日くらいで退院できるそうなんですけど、やっぱ腹に力は入ると、やばいですね」
杜山は青い入院着の上から、腹を擦る。
「それはそうと三輪さん、この事件の担当なんですか?」
「いや、これは超個人的なやつだ。見舞いもあるぞ、ほら」
片手にぶら下げていたものを杜山の足元、可動式のベッドテーブルの上に置いた。杜山は蕗二の顔と置かれた物体を交互に見る。
「え、でかっ、なんですかこれ」
「
物珍しいのか、缶をしばらく見つめると、何か
「はははは! 刑事さん、庶民的過ぎッ、イタタタ……」
杜山は汗を噴き出すと、腹を押さえて前かがみになってしまう。
「お前笑いすぎだろ。傷開くぞ」
「じゃあ笑かさないでくださいよ」
「いや、どこにも笑う要素ねぇだろ」
不服と眉を寄せていると、杜山が顔を引き締めた。
「ニュース、見ました。犯人捕まえたんですね」
「ああ、捕まったな」
「逮捕したの、三輪さんですよね」
「まさか」
「じゃあ、その顔の傷は?」
「転んだんだよ、あんまり見るな」
顔どころか全身打ち身と擦り傷だらけだが、言う必要はないだろう。蕗二は
この事件は『犯罪防止策』の一つとして、
まずは、サイトの存在。
新たな類似サイトができないよう存在は伏せられ、サイバー課を中心に会員全員を一斉検挙することに成功した。詳細は知らないが、サイトの会員は三十人以上いたらしい。それだけストーカーがいたと言う事だ。最高に気分が悪い。ちなみにサイトは、片岡によって完全に削除された。
もう一つは犯行理由。
ストーカーは
そして殺人の実行犯は、
犯行時、車は完全な自動運転で後部座席から操作していた。夜であれば車内に誰も乗っていなくても気がつきにくい。もちろん、携帯電話を操作するのに夢中な被害者たちは当然気がつかなかっただろう。被害者を責める声はあったが、無論どんな状態であれ、殺人こそ許されない。そして、犯行理由は
そして、最大の隠し事は、捜査についてだ。
あの時、追跡でぶつけた覆面パトカーは案の定、
警察官である以上、何かやらかした場合は自宅謹慎やら減棒やら、最悪部署を異動させられるなど、何かペナルティがある。だが、そんな話が一つも出てこないのだ。
さらに、犯人を追ってまだ日も沈まぬ街を爆走し、車を衝突させ、道路上で体当たりをかまし取り押さえるという、馬鹿みたいにド派手な捜査は隠し通せるものではない。野次馬の
そして恐らく、柳本警視長が裏で手を引いている。
まだまだ【特殊殺人対策捜査班】を利用するつもりのようだ。
思考の海に沈んでいた蕗二の耳が、杜山の声を拾う。それに意識を引き戻された。
「あ、悪い。聞こえなかった」
「野村を、見てませんか?」
蕗二は目を見張り、首を横に振った。
「いや……来てないのか?」
「来てくれてたようなんですけど、まだ会えてなくて」
杜山が視線を向けた先には、蕗二の膝ほどの小さな冷蔵庫があった。その上に置かれた花瓶に様々な花が生けられている。そしてその陰に隠れるように、手のひらに収まる小さなかごが置いてあった。そこに飾られているのは、花の開いた小さなチューリップのような黄色と白と紫のシンプルな花。
杜山はそれを、暖かく優しい眼差しで見つめていた。その顔を見ながら、蕗二は強く拳を握る。そして静かに、壁際に置いてあった丸イスを引き寄せ、腰を下ろす。
「なあ、
杜山が花から、蕗二へと視線を移した。そして息を詰まらせる。
蕗二は眉間に深い皺を寄せ、杜山を睨みつけていた。今にも喉元を食いちぎろうとするような殺意すら感じる。
「なんで
蕗二が目を細めると、さらに杜山は顔を強張らせた。
「お前が身を
「り、理由って、意味わかんないですよ。だって、目の前で人が襲われて、助けないわけには行かないでしょ」
「いろいろ引っ掛かるんだよ。偶然バイト先で会って、たまたま大学が一緒だったって言ったな? 調べさせてもらったが、お前地元の大学がスポーツ
「きゅ、急に何ですか」
「じゃあ、分かりやすく聞いてやる。たかが他人に、命まで差し出す理由はなんだ。お前は六年前の野村の事件を知ってるんだろ。だから、野村の面倒見てんのか?」
「違います!」
絶叫のような、狭い病室には大きすぎる杜山の声が響く。だが、自身の腹の傷にも響き、堪らず腹を抱えて
反響していた声が完全に止んだ頃、杜山が
「いえ、三輪さんの言うとおりです。幼馴染と言っても、高校で離れてからは野村のことを忘れてたくらいでした。でも、あの事件が起こってから、親の間だとかクラスだとか近所とか、いろんな噂が飛んでました。それが、野村が≪ブルーマーク≫になった途端、ぴったり止まったんです。それから何が起こったと思いますか? まるで世界から今までの野村を切り取って、全部なかったみたいに、元々悪い奴だったってみんな言い出した。しかも、野村まで噂どおりの別人になって、なんかおかしいはずなのに、誰もおかしいなんて言わなくて……それがすげぇ嫌で、今までの野村はなんだったんだって…………めちゃくちゃ
杜山の顔が上がる。強い怒りの表情だった。だが、蕗二と
「あの時、野村を
「ああ、お節介だったろうな。野村は何もかも忘れて、別人として生きる道を選んだのに、トラウマをほじくり回されたわけだ。それに今回はたまたま助かったけど、わずかに場所がずれてたら? 犯人が何度もお前を刺してたら? 車でお前たちをまとめて
蕗二の鋭い言葉に、杜山の入院着を握り締める手が震え、白んでいた。蕗二は
「……でも、お前だけが野村と向き合った。お前だけが見捨てなかった」
はっと杜山は息を
人は流される。大勢の意見に同調して、多い意見は正しい意見として
だが、杜山は違った。噂に、空気に、
杜山の行動は、野村を心の奥底に光をもたらした。
「野村がトラウマを克服できるまで、あいつには、お前のお節介が必要だ」
蕗二の言葉に、杜山の表情を崩した。赤く染まる目の縁一杯に涙を溜め、瞬きよりも早く溢れさせた。あとは壊れた蛇口のように幾筋もの道を作って流れ続ける。歯を食いしばり、肩を震わせ、時折大きく鼻を
「おれ、野村を救えますか?」
震える声に、蕗二は肩を強めに叩き、しかと頷いて見せた。
「ああ。お前ならできるよ」
杜山は涙と鼻水とでぐしゃぐしゃの顔で、誇らしげに笑っていた。
蕗二が廊下に出ると、壁にもたれかかっている人影に目が留まった。
「三輪っち、来るんだったら言ってよね」
野村が唇を突き出し、上目遣いに
「あー、悪かった。俺はてっきりお前がいると思ってきたから」
そこで、あれっと疑問が浮かんだ。
「てか、お前いつからここに」
「三輪っち」
野村が壁から勢いをつけて離れた。瞬間、手を
「あーむりむりむりむり! 素手は無理、難易度高すぎうえええ吐きそうううう!」
髪を振り乱し、壁に手を張り付けぜーぜーと息を荒げている様子は、大げさすぎるほどのリアクションだ。が、背中の波打ち方から本気で吐き気を堪えているとわかった。
蕗二は自分の手を見つめる。わずかに残る痛みと指の赤み、一瞬感じた体温。
「野村、お前」
「わたし!」
勢いよく顔を上げた野村は、涙目ながら挑むような強い視線でこちらを見る。
「目を
そう言うと、杜山の病室へと駆け込んでいった。病室から騒ぐ声がする。野村が杜山の傷を
蕗二は笑いを堪え、そっと踵を返して白い廊下を歩き出す。
目を
言葉にすれば簡単そうだが、現実簡単にできるものではない。
二人が抱いた感情は、自分には全く理解できない。だが、あの二人の繋がってしまった感情はぐるぐると、まるで坂を転がるボールのように加速していった。もしも逮捕できなければ、どんどん他人の意見を飲み込み、巨大な塊になって、得体の知れない生物になっていたんだろう。
だからといって、まったく同調しないのも問題だ。
自分の思いを押しつけて、相手の気持ちはそっちのけ。
そう言う意味では、篝火と杜山は同じストーカーだと言える。
ただ、その結果が人を救うのか、害するのかの違いだ。
一線先で向き合う、似て非なるもの。
父もそうだった。
新聞、テレビ、父の仲間や、あらゆる人から
父に救われたことは、きっと感謝すべきことだ。それは頭でわかっている。
だが俺は、白い花に埋もれ眠る父に
なぜ
だが杜山の言葉に、なんとなく、父の気持ちを知った気がする。
父は、俺に生きて欲しかった。己を犠牲にしても、守りたかったのだ。
だから、死ぬかもしれないとわかってても、俺の目の前、犯人に立ち向かったのだ。
たとえ何度同じことが起ころうとも、父は俺を庇うのだろう。
子供のはしゃぐ声がした。
いつの間にか病院を抜け、病院の隣にある大きな公園へと来ていた。
広い芝生と青々とした木々の中をただ黙々と進むと、大きな噴水が見えてくる。その縁に
陽はまだ高い。少年の白いシャツが、薄っすらと汗で湿気て、背に張りついている。
「暑いだろ、一緒に来ればよかったのに」
「いろいろ視えるから、病院は嫌いなんです」
その隣に腰掛ける。スーツの背に水の冷気があたり、日差しの暑さを和らげてくれた。
「芳乃」
「恨むな、なんて言いません」
蕗二の言葉を
「あなたがぼくらの過去を知ったとしても、必ず受け入れる必要はありません。人それぞれ、引きずっている過去があって、簡単に引き
淡々と放たれる言葉に氷の冷たさはない。そしてどこか、そっと胸を撫で下ろす自分がいた。
≪
野村のような
だが、俺の父の命を奪ったのもまた≪ブルーマーク≫だ。
≪ブルーマーク≫が、父を殺した事実は消えない。許せるわけがない。眼の奥に焼きついた光景は、まだ消えない。あの瞬間から、青い光を憎んで、恨んで、それだけを
何かはわからない。でも一度見失えば、もう二度と立てなくなってしまう。そんな気がする。
だから、この先どうすればいいのか、この感情と≪こいつら≫とどう向き合えばいいのか、まだ答えを出せない。
そんなことまで、この黒い眼は見抜いている。まったく、末恐ろしい奴だ。
「なあ、お前は」
「資料は、まだ全部読んでませんね?」
「え、ああ、ごめん……野村のとこだけだ」
「まあ、事件の合間でしたし、熟読されても困りましたが。脳みそ筋肉のあなたのことです、全員の分を一気に読んだら簡単にキャパオーバーでしょうし」
「それくらいで越えるか、馬鹿にすんな」
黒い眼がやっとこちらを向いた。眠たげに目尻が垂れた、どこにでもいそうな少年。
しかし、目の奥はずっと深く暗い穴が広がっている。
「ぼくのは、面白くないですよ」
「面白い面白くないって、なんだよ。そんなので判断するもんなのか?」
「面白いほうが興味持てますし? それに」
小さく、芳乃が何かを呟いた。が、突然の子供の声に掻き消された。視線を向けた先で、噴水の周りで水遊びをする子供が噴水に落ちたようだ。助けようかと腰を上げるがそれよりも早く、母親らしき女性が子供を引き上げた。浮き上がらせた腰を置きなおすと、隣で芳乃が立っていた。
「じゃあ、用も済んだので帰ります。お疲れさまでした」
話は終わったとばかりに向けられる芳乃の背に、蕗二はとっさに声をかける。
「芳乃、今度どっか遊びに行かねぇか? 普通に、仕事なしで」
「お断りします」
「即答かよ」
「じゃあ、全部刑事さんが
「じゃあって、お前ほんと生意気な事しか言えねぇな? どうやったらガキらしいことが言えるようになるんだ?」
頭を引っ掴んで、そのまま黒い髪を掻き乱してやると、
「うるさいですね、暑いんで触らないでくれますか」
「おうおう、じゃあ冷やしてやるよ」
噴水に手を突っ込み、手首を返して水を跳ね上げる。反応の遅れた芳乃の顔に直撃し、思わずよっしゃあと拳を握って声をあげた。水をかけられ呆然としていた芳乃は、ゆっくりとした動作でシャツの端で顔を
あっやばいと思った瞬間、すばやく腕全体で体の前を隠すが、それを越えて大量の水が頭から被せられる。ぼたぼたと顔を流れる水が視界を
「お前ッ、
「最初にやったのは刑事さんでしょ」
「なにを! あっくそバケツ! バケツ反則!」
「無駄に体でかいんですから、ハンデですよハンデ、わっ!」
「へへへへ、大人
スーツを着た良い大人とひと回りほど年下のなんてお構いなしで。いつもの平静な表情を年相応に崩して。
お互いずぶ濡れになるまで、
跳ね上げた水が、虹色を含んで輝いていた。
**憫笑するブラインドフラワー** 【了】
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Insanity is waiting you.
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