File:5.5 氷下の闇



 駆けつけた病院、「走らないで!」と叫ぶ看護士の声を背に窓口を突っ切った。

 緊急外来と書かれた案内板の矢印の指す角を曲がろうとした丁度その時、蕗二たちの目の前をストレッチャーが走ってゆく。その上で横たわる男の顔に、見覚えがあった。

杜山もりやま!」

 蕗二の声を振り切るように、ストレッチャーはスモークガラスの自動ドアの向こうへと消えていった。赤いランプがつき『緊急処置中』という白い文字が浮かぶ。

「じゃあ、野村は……」

 思わずこぼれた言葉に、耳の奥で血の引く音がした。

 なぜ、俺はあの二人を引き止めなかった。

 あの時学校へは行かさず、帰らせなければ。

 いや、もっと何かできたんじゃないのか……

 後悔が波のように押し寄せ、おぼれかける。それを引き上げたのは、竹輔の悲鳴だった。

「蕗二さん!」

 はじかれたように振り返る。そこに自分の足で立つ野村の姿があった。

「野村、無事だったのか!」

 駆け寄る蕗二たちに気がついていないらしい。ふらふらと覚束おぼつかない足取りで歩いてくる。

 今にも倒れそうで支えようと腕に触れた瞬間、野村はカッと目を見開いた。

「触らないで!」

 声が割れるほど甲高い悲鳴を上げ、野村は膝から崩れ落ちた。みずからの体を抱きしめ、ガタガタと異様に身体を震わせている。慌てて駆け寄ってきた緊急隊員らしき男性に警察手帳を突きつけた。

「何があった!」

「車から降りてきた男に突然、この女性が襲われたらしくて、先ほどの男性がかばって……」

「野村……彼女に怪我は?」

「それが、ひどく触られるのを嫌がって……」

 隊員の話を聞いている間にも、野村の症状は悪くなっていく。やめて、お願い、触らないで、と何度も何度も狂ったように繰り返しつぶやいている。

「おい野村!」

 蕗二の声を遮るように野村はさらに悲鳴を上げた。口元を押さえ、嘔吐えずくように背中が波打つ。その背を見つめながら、蕗二は動揺を隠せないでいた。背に触れなだめることも、声をかけ落ち着かせることもできない。だからと放っておけば、治まるような気配もしない。一体どうすればいい。どうすれば……

「どいてください」

 強く肩を引かれる。芳乃が蕗二の体を押しのけ、野村の前にかがみこむ。

「野村さん、ぼくを見て」

 芳乃の声にも野村は拒絶を示した。髪を振り乱し、耳をふさいでさらに呼吸を荒くする。

 今にも死ぬんじゃないかと思うくらいあえぎ、それでも上手く呼吸ができないのか、ぼろぼろと涙を流した。もう目の焦点しょうてんすら合わない。芳乃は何かを覚悟したように唇を噛み締めた。鋭く息を吸い、肺から一気に息を押し出すと口を固く結び、目は見開いたまま、鼻をつまんだ。黒い眼が端から凍りつく瞬間が見えた気がした。純度の高い氷が、まるでレンズのように野村を覗き込み続ける。

「野村紅葉!」

 芳乃の声が、空気を強く震わせた。廊下を反響する声に全ての音はなぎ払われ、切り取られたような静寂せいじゃくが訪れる。

 揺れていた野村の視線が止まった。ゆっくりと、見開かれた氷の眼に吸い寄せられる。

「『ソレ』は今じゃない。ここはあの部屋じゃない。ここにアイツはいない。君は助かった。助かったんだ。大丈夫、もう大丈夫だから」

 芳乃のささやくような声にうながされ、野村の呼吸は徐々に落ち着いていく。野村は夢からめたようにまばたきを繰り返した。

「れ、蓮くん……?」

 掠(かす)れたか細い声に、芳乃は小さく頷いた。

「怪我はないですか。痛いところは、ありますか?」

「……たぶん、ない……」

「念のため、診察を受けてください。立てますね?」

 芳乃が見本のようにゆっくりと立ち上がる。野村は子供のようにうなづき、ふらつきながらも立ち上がる。様子を見ていた緊急隊員が近づいても、落ち着いた様子だ。

「彼女にはなるべく触らず、できれば女性だけで手当てをしてください」

 芳乃が冷たい声で言う。冷気に押され、救急隊員は頷き、女性隊員と看護師が野村を処置室へと誘導すると、野村はふらつきながらも、しっかりとした足取りだ。

 後ろ姿が無事処置室の扉をくぐったところで、蕗二は胸を撫で下ろす。が、目の端で揺れるものを捕らえた。芳乃が両手で目を覆い、頭から落ちるように体を傾かせている。

「芳乃!」

 とっさに差し出した腕に体がぶつかる。意識はあるようで、かろうじて踏ん張っているようだが、膝は震え限界を訴えていた。支えたシャツ越しの体はうっすら汗で湿り、氷でできたように冷たい。

 芳乃は人の心を視た後、頭を押さえるような仕草を取っていた。さっきも、恐らく野村の心を視たのだろう。だが、様子が違いすぎる。篝火かがりびに続いて、野村を視たからか。

 もしかして、視たものに引きずられているのか?

 蕗二の考えを否定するように、芳乃は首を振った。しかし言葉はなく、何かに耐えるように歯を食いしばり、うめき声を上げるばかりだ。騒ぎを聞きつけたのか、女性の看護士が駆け寄ってきた。しかし、芳乃は構うなと言わんばかりにさらに首を振った。

「おい一体何なんだよ!」

 思わず声を荒げると、芳乃は声を絞り出した。

「こんかいの事件、野村さんは……関わらない方が、いいと、おもいます……」

「何言ってんだよ。あの状態じゃ、捜査に関わるも何も……」

「あなたは、野村さんが捜査に関われるかどうかで判断するんですか」

 蕗二は強い力で喉を掴まれたように言葉を失った。息も絶え絶えで、冷や汗をにじませているにも関わらず、指の間から覗く芳乃の眼だけが別物だった。

 極寒の地にある、氷の張った湖の上に立たされているようだ。分厚い氷の下から、深い闇がこちらを見ている。 

 今にも氷を突き破り、闇が手を伸ばしてくるんじゃないかと恐怖に襲われる。

「いつまで、……目をそらすつもりですか」

 声は冷たい刃に変わり、蕗二の胸に突き立てられた。鎖骨さこつの真ん中から肋骨ろっこつの終わりまでを一直線に切り裂き、冷たい手が傷口を広げる。

 全ては錯覚だ。なのに、感じる指の冷たさに体は震え、悲鳴が喉に引っかかる。差し込まれる指は肺をかき分け、心臓に触れるとゆっくりと指が沈められる。口を開けても息ができず、舌がしびれる。このまま気絶させてくれと望んでも、氷の眼は許さない。心臓に沈められた指が、そのまた奥の『何か』をえぐり出そうとしている。

 やめろ! 頭の奥で叫ぶ声がした。

「あなたには≪視なきゃいけないもの≫が、あったはずです」

 冷たい声と共に、引きずり出されたものが眼下にさらされた。瞬間、後頭部を殴られたような衝撃が走った。芳乃に胸を押され、よろめく。反動で後ろへと動いた足は止まらず、そのまま病院を飛び出した。





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