File:5 甘い楽園の片隅

 


 AM 10:46. 警視庁・取調室。


 鉄のドアを開けると、篝火かがりび歩葉あゆはは約一時間前に会った時とほぼ変わらない、頭をだらりと下げた姿勢のままだった。

「よお、腹は決まってないようだな?」

 蕗二が正面に座ると、わずかに篝火の顔が上げられた。

「これが最後の質問だ。俺たちに黙ってることはないか?」

 蕗二と目を合わせた篝火は、ゆっくりと首をかたむける。

「協力者がいるんだろ? 誰かに人殺しを頼んで、殺した証拠を送らせる……違うか?」

 その問いに篝火はさらに首を傾けた。顔にかかる髪が皮膚の上を滑り落ちる。そこから覗く口元が、歯茎はぐきをむき出しに笑っていた。

「刑事さん、現実ではありえないことも、時には起きるんだよ?」

 肩を揺らし喉奥で笑う篝火に、蕗二は飛びかかる寸前の猛獣のように身を屈める。

 が、不意に体の力を抜き、イスの背もたれに体を預けた。唐突な態度の変化に、篝火は首を反対側に傾ける。

「俺はな、超能力とか超常現象ちょうじょうげんしょうには興味ないし、オカルトなんかこれっぽっちも信じちゃいない。けど最近な、実在するって知ったんだ」

 鉄の扉がノックされた。蕗二の返事に細く開いたドアの隙間、するりと芳乃ほうのが滑り込む。

 垂れた目尻になで肩のせいで、ひどく気だるげだ。どこをどう見ても刑事ではない少年に、篝火は興味深げな視線を送る。

「だあれ?」

 全身をめるように観察する視線に見向きもせず、脇に抱えていたタブレット端末を机の上に置いた。画面には一つのサイトが開かれている。真っ黒な背景に、目にみるほど真っ赤なりんごが一つ浮かんでいた。その下に会員IDとパスワードを打ち込む場所があるだけのシンプルなものだ。そこでやっと、芳乃は眠たげな視線を篝火に向けた。

「このサイトを知ってますね?」

「うーん……知ってるような? 知らないような?」

「アクセスしてもらえますか?」

「えっちなサイトかもよ? きみ興味ある? オナニー教えてあげようか?」

 前髪の間、下品に細められた目が芳乃を見つめる。蕗二のこめかみに青筋が浮き立った。

 その隣、芳乃は黒い目を静かに篝火かがりびへ向け続けている。

 そして、薄く口を開いたかと思えば、盛大な溜息をついた。

「刑事さん、一発殴って吐かせましょう。その方が早いですよ」

「馬鹿言え、警察は暴言暴力反対組織なんだよ」

「思いっきり拳を握りながら言われても、説得力に欠けますけど」

 ぐうとうなる蕗二に、芳乃はもう一度長く溜息をつく。そして口から深く息を吸い込んだ。

 肺一杯に吸い込んだ空気を逃がさないように唇を固く結ぶと、そのまま鼻をつんで目をつぶった。その姿は潜水するようにも見える。

「何? 何か臭う?」

「すぐに分かる」

 蕗二の声に答えるように、芳乃の指が鼻から外れた。水中から浮き上がるように顔を天に向け、大きく息をする。ゆっくりとまぶたが開くと、もうそこには気だるげな少年はいない。

 おだやかで波紋はもんひとつないみずうみのようだが、触れれば最後、一瞬にして真っ白に凍りつかせる絶対零度の眼。それが今、篝火をとらえた。

「質問です。あなたは、なぜ彼女たちを殺そうと思ったんですか?」

 芳乃は篝火を見下ろす。まばたきすらも許さない眼が瞳の奥を覗きこんだ。

「そう、そんなに女の人が嫌いですか?」

 静かに吐き出される言葉が、室温を下げていく。篝火の顔色が青褪あおざめる。

「こっぴどく振られましたもんね? 顔がキモイ、金づる、あー、いい財布にされてたんですか。まあ、そうでしょうね。女は金でどうにでもなるとか思ってると、相手にも態度が滲んでしまうからバレますよ。ペットじゃないんですから、えさをやったからなつくってもんじゃない」

 篝火は酸欠を起こした魚のようにあえいだ。

「え、あ、なんで……」

「あなたが幽体離脱して人を殺すように、ぼくは人の頭の中をのぞけるんです」

「そんなの無理だ、ありえない」

「ありえない? あなたの方がよっぽどあり得ない」

 喉元に氷の刃を突きつけるように、冷たい声が鋭さを増していく。

「あなたは女性から愛されて当然だと思っている。女性たちがあなたに笑顔を向けるのは、ただの客だからですし、トラブル防止に愛想笑あいそうわらいしているだけです。あなたに特別笑いかけているわけでも、あなたが好きだから笑いかけている訳でもありません。笑うだけなら、ぼくでもできますよ。そんなお世辞せじも分からないですか」

 わざとらしく口角を上げて見せる芳乃の眼は、一切笑っていない。

「まあ、自分が特別と思い込むのは、楽しいですよね? 人と違う事を言う自分はカッコいい。他人の知らない話をする自分は世界から理解されなくて当然だ。そう、神様にでもなった気分でしょう。でも全部嘘だ」

 芳乃は後ろ手を組んで、篝火を上から覗き込む。

「嘘で固めて作ったって、本当のあなたは、何もないし何もできない。親にすがりついて、一人で立てもしないくせにえらぶって、認められないのは世間のせいにして、何も変える努力もせず、役立たずで、ちっぽけな、ひとかけらも生きてる価値もない人間のクズだ」

「ああああああああああああああ!」

 血を吐く勢いで叫びを上げた篝火かがりびは、頭を抱えて机に突っ伏した。

「や、やめろ! 頼むやめてくれ! もう覗かないでくれ! お願いします許してぇ!」

「じゃあ。サイトを開いてください」

 芳乃の指先が液晶タブレットの画面を叩いて催促さいそくする。涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔で篝火は、飛びつくように液晶タブレットを掴み、震える手で画面の会員IDとパスワードを打ち込んだ。パスワードが打ち込まれた途端、りんごは画面の下へと落下していった。そして真っ黒な画面は美しい緑の庭園へと姿を変え、『アダムとイヴのうたげ』という題名のサイトが開かれた。

 蕗二のズボンのポケットの中、液晶端末が小さく震えた。引っ張り出すと、ロック画面に通知内容が表示されている。片岡から「Congrats!」と送られていた。横目でそれを確認した芳乃は、目を伏せると後ろに下がった。役目は終えたとばかりに壁にもたれかかる。

 嗚咽おえつを漏らし震える篝火かがりびをなだめるように、蕗二はゆっくりと口を開く。

「このサイトで知り合ったやつらとは、直接会ったことは?」

「し、知らない。会ったこともない……」

「一度も? じゃあお前、実行犯でも何でもないな」

「ぼぼぼぼくは、ただ、依頼しただけだ。彼女たちが、ほ、欲しかったから。≪青いの≫が近づいたって相手にされない。誰かのになるくらいなら、殺したほうがいい……」

 独占欲と嫉妬しっとが混じってどろりと耳障みみざわりな声に、怒りを通り越して言葉も出ない。

 救いようもないとは、このことだ。

「こんなサイトで妄想もうそう膨らませるくらいなら、まずその鬱陶うっとうしい前髪切っちまえ」

 蕗二が吐き捨てると篝火は机に頭を打ちつけ、そのまま幼い子供のように、ただただ声をあげて泣き始めた。

「これで、後は片岡が実行犯の居所をつかむはず……」

 やっと実行犯まで辿たどり着ける。だが間に合うのか。被害はすでに五件だ。しかも犯行の間隔が早い。次の犯行が起きるまで、おそらくもう一刻の猶予ゆうよもない。実行犯が分かって次に何をすればいい、どうすれば犯人をいち早く捕まえられる。ありったけの思考を働かせ、最善策を導き出そうとする。眉間に力が入っているのか、頭の奥が鈍く痛んだ。

「蕗二さん!」

 突如とつじょドアが勢いよく開き、竹輔が転がり込んだ。息を切らしているのに、血の気の引いた真っ青の顔で、液晶端末を差し出す。

「事件が、また起きました! 今回の被害者は、野村のむら紅葉もみじさんです!」




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