File:1 人波の真ん中


 2042年6月30日月曜日。AM 7:44.

 東京メトロ地下鉄丸の内線。



 扉が開くたびに、ほどよく冷えた車内から表情を歪めた人々がしぶしぶ降り、換わりに汗ばんだ人々が我先にと必死の形相で乗り込んでくる。そして、静かな電車内は絶えず人が隙間なく並んだ状態を維持していた。

 嫌でも人が触れ合う中、中年の男が鞄から液晶タブレットを取り出そうと身体をねじる。

 その肘が隣の男の脇腹を小突いた。タブレットを取り出した男は邪魔だといわんばかりに隣の男を睨んだが、そこには顔ではなく第一ボタンのはずされた襟口だった。太くたくましい喉元を伝い視線を上げると、鋭い目が男を見下げていた。


 深く刻まれた眉間の皺と軽く血走った眼が、腹を空かせた機嫌の悪い猛獣さながら男を睨みつける。男は顔から血の気を引かせ慌てて視線をそらした。


 その旋毛つむじを長身の男・三輪蕗二みわふきじはしばらく見つめていたが、湧き上がる欠伸にうながされるように視線をそらした。涙で視界の端が滲む中、目に付いたのは車内の壁に埋め込まれたデジタル広告。愛らしい犬が首を傾げる画像だ。

 それに、眠気を追い払われてしまう。

 市谷いちたにが飼っていた犬種だ。確かシーズーと言っていた。その『モモ』の首輪についていたキーホルダー。本来は中に住所などを書いた紙を入れているカプセル状の迷子札らしいのだが、その中に犯行で使用したインスリンが小さなアンプルに入っていた。警察でもまず調べることもない場所だ。アンプルは大学の薬学部でモモに使用するインスリンバイアルからアンプルに少量ずつ移し替えたものらしい。


 そう、市谷の犯行は非常に手が込んでいて、そして完璧だった。

 犯行前の下準備から犯行後の証拠隠滅まで、実況見分で犯行の一部始終を目の当たりにすれば、鑑識も、検視官のあずまでさえ口をつぐむほどだった。


 市谷が唯一誤算だったのは、芳乃ほうのれんただ一人だろう。


 殺人事件は通常、確実な証拠を集めて逮捕状を取り、手順を踏んで行われる。早くても一週間かかる。それをたった一日でケリをつけてきた。

 奇跡だ。いや違う。≪三人≫……特に芳乃がいてこそ、成り立つ奇跡だ。

 それを手放しで喜んでいいのか、分からない。

 ただ、彼が居なければ、死体は今でも確実に積まれることになったはずだ。

 想像するだけでざわりと鳥肌が立つ。

 だが、全て終わったのだ。

 裁判に必要な調書の提出も昨日終わった。後は朝倉の行く末を静かに見守るだけだ。ぴりぴりと尖る神経を落ち着かせるように、肺一杯に息を吸い、ゆっくりと静かに息を吐く。


 目の前、座席に座る女性が立ち上がった。蕗二が避けると、それに釣られるように人が流れ出す。電車はいつの間にか止まっていた。

 隣を過ぎる女性の細く黒い髪に、水戸みと乃ノ花ののかの姿が被る。はかなくも美しい水戸は、心から市谷を愛し、また市谷も水戸を愛している。

 市谷が拘留こうりゅうされてからも、実の家族よりも熱心に面会に来る水戸の後ろ姿を、何度も見た。彼女は、市谷の裁判に来るだろうか。いや、来るはずだ。隔てる透明な板も、たとえ刑務所の大きな壁でさえ、きっと彼女たちには関係ない。この先も、きっとそうだろう。


 流れ始めた風景に今どこだろうか、と視線をホームへと投げる。徐々にスピードを上げていく窓の外を見ても、目的の駅名が見つからず、首だけを巡らせている。

「蕗二さん、おはようございます」

 突然の声に、巡らせていた視線を声のほうへと向ける。同僚で部下もある坂下竹輔さかしたたけすけなつっこい笑顔を浮かべていた。

「おお、おはよ。全然気づかんかった」

「こっち見たので、てっきり気がついてると思ってました」

「ああ、悪い。今どこだろって考えてた」

「四谷三丁目ですよ」

 薄っすら額に掻いた汗をハンカチで拭う竹輔に、引っかかりを覚える。

「ん? 竹、お前家反対じゃなかったか?」

「実は一昨日から友達のところに泊まりこみでゲームしてました」

「まさか徹夜?」

「それが情けないことに、四時くらいに寝落ちちゃいまして」

「ほぼ徹夜じゃねぇか、元気だな」

「これくらいならまだ大丈夫ですよ」

 カーブに差しかかったのか車体が大きく揺れた。人波に押されるようにつんのめる。

機械的な車掌のアナウンスが、四つ谷駅にまもなく到着すると告げた。ふと、竹輔の視線が荷物棚を掴む蕗二の手を見ているのに気がつく。

「いやぁ、普段から蕗二さん身長あるなぁって思ってましたが、こう改めて思いますね。僕も、あともうちょっと欲しいかも」

「竹くらいが丁度良いんじゃね? 自分で言うのもあれだけど、いろいろ苦労するぞ。ぶっちゃけ高校の時で止まって欲しかったな」

「えっ、まだ伸びてるんですか?」

「いやミリ単位やで? さすがにもう止まりそうだけど」

「うわぁ、うらやましい。その身長分けてくださいよぉ」

「んな事言われても……」

 アナウンスとともにドアが開き、人が入れ替わる。

 が、なかなかドアが閉まらない。

 異変に気が付いた乗客が、「何だ?」と口々に呟き、窓の外に視線を向けている。

と、突然男の怒声が聞こえた。

 人ごみを掻き分け、竹輔とともに車両から飛び出す。

 蕗二たちが乗っていた車両から二つ後ろの車両、その出入り口付近に人だかりができていた。怒声はその向こうから聞こえる。

 首を伸ばすと、人の頭の間、男たちがもみ合いになっていた。スーツの男二人が、ラフな格好の若い男を押さえ込もうとしているように見える。腕や足を振り回し抵抗する若い男の耳元で、≪ブルーマーク≫が青く光を反射し、威嚇いかくした。

「離せ、ぶっ殺すぞ!」

「黙れ犯罪者!」

「おい、あんたら落ち着け」

 野次馬を掻き分け、蕗二は男たちの間に割り込む。しかし、男たちは蕗二など目に入っていないのか、やめようとはしない。顔を赤くし、鼻息荒く興奮している。殴り合いの乱闘になるのも時間の問題だ。

 蕗二は≪ブルーマーク≫に掴みかかる顎髭が生えた三十代くらいの男の腕を掴みあげた。が、「邪魔だ!」と、男が激しく体を振る。

 あっと思ったときには、男の後頭部が顔面に飛んできていた。強烈な衝撃に首が後ろに押し出され、数歩よろめいた。痛みににじんだ視界でさらにみ合う男たちを見た途端、こめかみに青筋が浮き上がる。

「警察だ! それ以上やったら全員しょっ引くぞ!」

 引っ張り出した警察手帳を掲げ、プラットホーム全体に響く蕗二の声に全員が顔を上げた。

 突然現れた警察に、驚いた野次馬はテレビを一時停止したように動きを止めた。静間に帰る中、≪ブルーマーク≫の若者が最初に正気へ戻った。

「おれは関係ない!」

「お巡りさん、こいつ、いきなりあの人に殴りかかったんです!」

 ≪ブルーマーク≫の若者に被せるように、もう一人の眼鏡をかけたスーツの男が後ろを指差した。野次馬の最前列に菊田と同じくらいの初老の男が、尻もちをついて座り込んでいる。その頬が赤くれているところから、≪ブルーマーク≫の男に殴られたことは簡単に推測できた。

「違う! 殴ったのはあいつが……」

「≪ブルーマーク≫が言い訳するな」

「はあ? マーク関係ねぇだろ!」

 再び掴み合いになりそうな男二人を無理やり引き剥がす。

「あんた、殴るのはやりすぎだ」

「いきなり説教かよ。≪マーク≫付きってだけで偏見へんけんか、マジクソだな」

 歯をいて噛み付く若者に、蕗二は眉間に深い溝を作る。

 政府により、犯罪者予備軍に指定された印・≪ブルーマーク≫。

 彼らからすれば、罪を犯していないのにも関わらず、突然レッテルを貼られたようなものだ。さらに≪ブルーマーク≫というだけで警察と対立することがあり、目の敵にしたいのは分かる。

 だが、それは蕗二も同じだ。その色を見るだけで、過去の忌々しい事件が鮮明に脳裏へ蘇る。それを押し殺している手前、あからさまに嫌悪感を剥き出しにされると、無性に腹が立つ。

「蕗二さん!」

 竹輔の声に、はっと顔を動かす。人混みの中、竹輔が険しい顔をしていた。警察手帳を掲げると、人混みが竹輔に道をゆずる。確かな強い足取りで蕗二のもとにやってきたかと思うと、座り込んでいた被害者の初老の男の腕をひねり上げた。

「えっ、おい!」

蕗二は思わず声を上げる。竹輔は蕗二を手で制し、後ろを軽く指差した。

「目撃者がいました、は鉄道警察が保護しています」

視線を向けると、真っ青な顔で座り込んでいる大人しそうなメガネの女子高生の前を、鋭い眼光のパンツスーツの女性が守るように立ち、かたわらで端末を片手に応援を呼んでいるカッターシャツの男がこちらを見据みすえている。

「自分が何やったか、分かりますね」

 竹輔の厳しい声に、男は小刻みに震えながら蚊の鳴くようなかすれた声で呟いた。

「ほ、ほんのちょっとの出来心だったんです、まさか、『こんなこと』になるなんて……」

 初老の男は≪ブルーマーク≫の若者を見て、「いやぁ、まさか≪ブルーマーク≫に止められるなんて」と、薄っすら笑みを浮かべる。それが異様に気持ち悪く、首の後ろが粟立った。

「……ということで、皆さんご同行願えますか?」

 竹輔の静かな声に、スーツの男二人も気まずそうに視線を泳がせる。そして見世物が終わったように野次馬が散っていく。

「くそっ」

 腕が振り払われ、≪ブルーマーク≫の若者がこちらに背を向ける。

「あ、待て」

 駆け出した途端、鼻の中に何かが流れた。慌てて手を顎の下にかざすと、さらりとした液体はてのひらへと落ちた。赤黒い水滴が点々と手のひらを汚す。

 慌てて顔を覆い、≪ブルーマーク≫の若者を探す。が、その姿は人波に飲まれ、もう見えなくなっていた。そうしている間にも、血は流れ続けている。さらに思い出すように、鼻の付け根が脈打ちながら痛み始め、蕗二はたまらず鼻を摘んでうめいた。






 AM 8:08. 四谷警察署。


「もう終わりますからね……はい、これでよし」

 確かめるように触ると、鼻に湿布が張られ、はがれないようにテープで固定してくれたようだ。さらに氷嚢ひょうのうを渡され、鼻に押し当てながら女性警察官に頭を下げる。

「ありがとうございます」

「いえいえ。このあとれたりしたら、病院行って下さいね」

 満足げに救急キットを片付けた女性警察官が席を立つ。それと入れ替わるように竹輔がやってくる。

痴漢あいつ、どうだ?」

「素直に応じてます。勘違いした男性二人については、≪当事者≫がいないですし、被害届が出ない限りは、とりあえず厳重注意になりそうです」

「そっか、あとは生活安全課セイアンに任せるだけでよさそうだな。……はぁ、それにしても。朝っぱらからこれじゃあ、今日はろくな日じゃないな」

「もう忘れましょう。ほら、思い込むとだめって言うし……」

 竹輔が突然背に針金を通したように姿勢を正した。

「ん? どうした?」

 首を傾げると竹輔がそっと後ろを指差す。それをたどるように振り返ると、見知った顔がこちらを見下ろしていた。

「き、菊田さん!」

 飛び上がるように立ち上がり、鼻に当てていた氷嚢を下す腕を、菊田は手で制した。

「当てていなさい。痴漢を捕まえて負傷したって聞いたが?」

「あーいえ、捕まえたのは坂下巡査部長です。これはその、事故と言うか、とばっちりと言うか。ちょっと頭突きらいまして」

「君の身長だと、頭突きは顔の真ん中に来るのか……災難だな。折れてないか?」

「はい、大丈夫です」

 駆け出し時代に一度、右手の小指を折ったことがある。その時、のた打ち回るほど痛かったのを覚えている。鼻の痛みは治まりつつあるところから、恐らく大したことじゃないのだろう。それよりもだ。

「なんで、菊田さんがここに?」

 たとえ負傷したとして、電話をかけてくることはあっても、上司である菊田が直接迎えに来ることはない。だとすれば、見当は付いている。それでも現実逃避に足掻あがく蕗二に、菊田は顎で外を指した。

「大事をとって病院に行けと言いたいが、急ぎの案件だ」

「ほらな、やっぱりろくな日じゃない」

 蕗二はうなり、竹輔はその肩を優しく叩いた。





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